赤い涙
時:1929年(昭和四年)、秋
場所:上海・ソビエト連邦領事館、地下室
地下室の空気は、安いタバコ(マホルカ)の煙と、ウォッカ、そして絶望で淀んでいた。裸電球が、壁に貼られたスターリン書記長の冷たい肖像画を、不気味に照らし出している。
領事を兼務するコミンテルンの情報将校、イワン・ベールジンは、机の上に並べられた二つの報告書の束を前に、三日三晩、眠れずにいた。その瞳は血走り、唯物史観で鍛え上げられたはずの彼の頭脳は、完全にショート寸前だった。
一方の報告書は、モスクワから届いたものだった。
『第一次五カ年計画、順調に進捗セリ』
その輝かしい見出しとは裏腹に、その頁をめくるたびに、血と涙の匂いがした。
「クラーク(富農)撲滅運動、成功裡に終了。穀物調達量、前年比150%を達成」
――ベールジンの脳裏には、ウクライナの黒土地帯から送られてきた、部下の悲痛な報告が蘇る。「同志ベールジン、村には種籾すら残っておりません。人々は木の皮を食い、そして自分の子供を…」
「穀物輸出、目標達成。工業化のための貴重な外貨を獲得」
――彼の机の上には、ロンドンのフィナンシャル・タイムズが置かれていた。その紙面には、過剰生産で値下がりする小麦の国際価格を示す、絶望的なグラフが描かれている。
モスクワの経済学者たちは、輸出量を倍にすれば、外貨も倍になると信じていた。だが、現実は非情だった。彼らが市場に穀物を放出すればするほど、価格はさらに下落していく。
「農業集団化、人民の熱狂的支持を得て拡大中」
――報告書の片隅に、小さな文字で記された数字。「家畜頭数、前年比40%減」。農民たちは、集団化で家畜を奪われるくらいならと、自らの手で牛や馬を屠殺し、その肉を食っていた。
プロパガンダと、現実。
ノルマ達成の報告と、その裏にある、飢餓と死。
ベールジンは、この矛盾を「革命のための必要悪」だと、自分に言い聞かせようとした。だが、もう限界だった。彼はウォッカの瓶を掴むと、それをラッパ飲みした。アルコールが、焼けるように喉を通り過ぎていく。
その時だった。
もう一方の、日本の海軍に関する報告書の束の中から、一枚の写真が滑り落ちた。
それは、日本の新聞から切り抜かれたものだった。
『帝国海軍、納税困難な在軍経験のある国民を、国家功労者への報恩として支援。戦艦「長門」、親善訪問先の神戸港にて「納税相談会」を開催』
写真には、巨大な戦艦の威容を背景に、海軍の制服を着た男たちが、頭を下げる日本の農夫や漁師らしき人々の話を、熱心に聞いている姿が写っていた。その農夫たちの顔には、安堵と、そして感謝の色が浮かんでいた。
「……………何だ、これは」
ベールジンは、その写真を拾い上げた。
何かのプロパガンダか? だがその隣の記事を読み進めるうちに、彼の呼吸は次第に荒くなっていった。
「海軍、国民の“過去の国家への貢献”を与信とし、納税を建て替え」
「その原資は、米国市場で売却した『長期債』とすると海軍発表。外貨準備高、過去最高を記録へ」
「政府、海軍の“貢献”を承認。見返りに、国債購入を要請か」
ベールジンは、わなわなと震え始めた。
それは怒りではなかった。
理解不能な現象を前にした、純粋な戦慄だった。
彼は、かつて部下にこう報告させた。
『日本の海軍は、我々の“砕氷船”である』と。
資本主義の分厚い氷を、その奇妙な紙切れで砕いてくれる、と。
(……違う。全く、違う……!)
彼は、地下室の壁に貼られたアジア地図の前に、よろめきながら立った。
我々ソビエト連邦は、何をしている?
農民から、未来の種である穀物を奪い、それを暴落する市場で叩き売り、わずかな外貨を得ている。その過程で、我々は人民の憎悪を買い、国土を疲弊させ、そして何百万人もの同胞を餓死させようとしている。我々は、未来を食い潰して、現在を生きているのだ。
それに引き換え、日本の海軍は何をしている?
彼らは国民の「過去の貢献」という、目に見えない、しかし無限に存在する資源を掘り起こしている。
それを「制度債」という名の信用に変え、敵国であるはずのアメリカの市場で、本物の金塊に変えている。
そしてその金塊で、国民の最も重い義務である「納税」を肩代わりし、国民からの絶対的な「忠誠」を勝ち取っている。
彼らは過去を掘り起こして、未来を創造しているのだ。
収奪ではない。創造だ。
強制ではない。救済だ。
憎悪ではなく、感謝だ。
「……ありえん」
ベールジンの唇から、血の気の失せた声が漏れた。
「こんな……こんな弁証法が、あってたまるか……!」
彼はレーニンも、マルクスも、誰も教えてくれなかった、恐るべき真実を目の当たりにしていた。
資本主義を打倒するための革命は、必ずしも血を流す必要はないのだ、と。
国家が、国民の「義務」と「貢献」の最大の「買い手」となり、その信用を独占すれば。
ブルジョアジー(財閥や銀行)は、その新しい信用の流れの中で、自然と干上がっていく。
東郷一成がやっていること。
それは、暴力革命ではない。
それは、「信用革命」だ。
そして何よりベールジンを絶望させたのは、その「信用」の源泉が、あまりにも皮肉なものであったことだ。
彼は、別の報告書をひったくった。それは、満州にいる関東軍の動向を探っていた部下からのものだった。
『……海軍、陸軍に対し『北方戦略準備基金』を供出。陸軍、これを受け入れ。関東軍の過激な動き、沈静化』
「……………っ!!」
ベールジンはその一文を読んだ瞬間、持っていたウォッカの瓶を、床に叩きつけた。ガラスの砕ける音が、地下室に虚しく響き渡る。
我々が五カ年計画で、ドイツやアメリカから工作機械を買うために、人民を餓死させている、まさにその同じ瞬間に。
日本の陸軍は、その最大の仮想敵国である我々ソビエト連邦と戦うための準備資金を、あろうことか、最大のライバルであるはずの海軍から、恵んでもらっているというのか。
そしてその資金の源泉は、我々が血眼になって求めている「外貨」そのもの。
東郷一成。
あのバルチック艦隊を殲滅した男の息子。
奴は、我々ソビエト連邦を敵とすら見なしていないのだ。
奴にとって我々は、自らの「制度」という壮大なゲーム盤の上で、陸軍という駒を動かすための、ただの「口実」に過ぎない。
「……同志スターリン」
ベールジンは、壁の肖像画に向かって、震える声で語りかけた。
「……我々は、とんでもない怪物と、隣り合わせになってしまったようです。……奴は、我々のように人民からパンを奪いはしない。……奴は、人民にパンを与えながら、その魂を、根こそぎ奪っていく……」
彼の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
それは、ウォッカのせいではなかった。
自らが信じてきた革命の理想が、遥か東方の島国で、全く別の、そして遥かに洗練された形で実現されつつあるという、救いようのない事実を前にした、一人の革命家の絶望の涙であった。
彼は、モスクワに電報を打った。
もはや「砕氷船」などという、生易しい言葉は使えなかった。
『……目標ヲ変更セヨ。我々ノ当面ノ敵ハ、ロンドンニ非ズ、ニューヨークニ非ズ。……東京ニ巣食ウ“思想”ソノモノナリ。……繰リ返ス。コレハ、新しい種類ノ戦争デアル…』
その電文が、クレムリンの机の上でどのような運命を辿ったのか。
それを、ベールジンはまだ知らなかった。
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