プロローグ:白き城壁、黒鉄(くろがね)の古道具
時:1908年(明治41年)、10月18日
場所:横浜沖
その日東京湾の入り口に現れたのは、艦隊というよりは「移動する国家」だった。
アメリカ合衆国海軍、大西洋艦隊。
通称「グレート・ホワイト・フリート」
戦艦十六隻。その全ての船体が、平和の使者を装う眩いばかりの白に塗り上げられ、煙突は黄土色に輝いている。
煙突から吐き出される黒煙でさえ、その圧倒的な量ゆえに、空を征服する旗印のように見えた。
それは軍事パレードなどという生易しいものではない。アメリカという新興の帝国が、その有り余る国力と工業生産力を、極東の小国に見せつけるための暴力的なデモンストレーションだった。
その旗艦「コネチカット」の艦橋に、一人の若き日本人候補生が立っていた。
東郷一成。十九歳。
今年、米国海軍兵学校を卒業したばかりの彼は、セオドア・ルーズベルト合衆国大統領の特命により、この歴史的な世界一周航海への同乗を許されていた。
(……ようやく、日本か)
一成は手すりを握りしめた。その掌には、冷や汗が滲んでいた。
彼は知っていたからだ。
この白い艦隊の砲門が、日本領海に入る直前まで、実弾を装填し、即応体制にあったことを。
「ヘイ、トーゴー。双眼鏡を貸してくれないか」
声をかけてきたのは、アナポリスの同期であり、この航海で一成の監視役も兼ねていたターナー少尉だった。彼は笑っていたが、その目は笑っていなかった。
「……ジャップの“卑劣な奇襲”には気をつけろって、砲術長がピリピリしててな。旅順、ポートアーサーの二の舞はごめんだ、とさ」
旅順口攻撃。宣戦布告前の夜襲。
日本人が誇るその戦果は、アメリカ人の目には「卑怯な不意打ち」と映っていた。特に、西海岸のサンフランシスコを出港した際に浴びせられた、市民からの排日感情剥き出しの罵声は、まだ一成の耳にこびりついていた。
『ジャップを海へ叩き込め』
『黄色い猿に、白人の鉄槌を』
一成は針のむしろのような空気の中で、太平洋を渡ってきたのだ。
彼は無言で双眼鏡を渡した。
「……おっ、見えたぞ。出迎えの艦隊だ」
朝霧が晴れ、水平線の向こうから、日本海軍連合艦隊の威容が姿を現した。
その瞬間、ターナーがぷっ、と吹き出した。
「おい見ろよ、トーゴー。……あれは博物館のパレードか?」
一成は唇を噛み締め、前方を見据えた。
そこにいたのは、確かに「博物館」だった。
最新鋭の薩摩型戦艦こそ先頭に立っているものの、その後ろに続くのは、日露戦争で傷ついた旧式艦、さらには日清戦争時代の骨董品のような巡洋艦、そして鹵獲したロシアの戦艦を急いで塗り直しただけの、ちぐはぐな艦影の群れ。
塗装こそ綺麗だが、黒煙は不揃いに空を汚している。
整然と規格化され、純白に輝くアメリカの十六隻の戦艦群に対し、日本の艦隊は、まるで「ありあわせの古道具」を必死にかき集めて並べた、貧しい露店のようだった。
「……見てられないな」
別の士官が嘲笑気味に囁くのが聞こえた。
「あんなボロ船でバルチック艦隊を沈めたなんて、信じられるか? ……まぐれか、あるいはロシア人がよほどの無能だったんだな」
一成の胸に、焼き付くような屈辱が広がった。
だが同時に、冷徹な計算機のような理性が、その屈辱を事実として分解していく。
(……これが現実か)
一成の胸に屈辱と、そして冷徹な理解が広がる。
日本はロシアに勝った。だが、それはギリギリの辛勝だった。国庫は空っぽで、建艦競争になどついていける体力はない。
対してアメリカは、この巨大な艦隊を世界一周させるためだけに、一国の国家予算に匹敵する石炭と物資を、平然と浪費している。
精神論ではない。大和魂ではない。
ここにあるのは、埋めようのない「数字」の絶壁だ。
「……父上」
一成の視線の先、日本の旗艦「三笠」の艦橋に、豆粒のような人影が見えた。
東郷平八郎。日露の英雄。軍神。そして、自分の父。
その背中は、この貧しい艦隊を背負って立つには、あまりにも小さく見えた。
⸻
時:同日 午後
場所:東京・芝離宮
上陸したアメリカ艦隊の将兵を待っていたのは、狂乱とも言える大歓迎だった。
通りを埋め尽くす日の丸と星条旗。軍楽隊が歌う『星条旗よ永遠なれ』。芸者、花火、宴会。
日本政府は対米感情の悪化を食い止めるため、国庫の底をさらってこの「おもてなし」を演出していた。
その喧騒から離れた、離宮の一室。
そこに、二人の「東郷」が対座していた。
父、東郷平八郎大将。
息子、東郷一成。
親子が顔を合わせるのは、数年ぶりのことだった。だが、そこに抱擁も涙もない。あるのは、上官と部下のような、張り詰めた空気だけだった。
「……久しいな、一成。アメリカの艦は、どうであった」
その問いに、一成は即答できなかった。
「立派でした」「強そうでした」
そんな子供じみた言葉では、あの怪物を表現できない。
彼は、意を決して言った。
「……父上。あちらの艦は、鉄と火薬で動いているのではありませんでした」
「ほう。では何で動いておる」
「カネです。……尽きることのない、黄金の奔流です」
一成は窓の外、東京湾に停泊する白い艦隊の方角を指さした。
「彼らは、あの艦隊を『戦うため』に造ったのではありません。『捨てるため』に造ったのです」
「捨てる、だと?」
平八郎の眉がピクリと動いた。
「はい。彼らは、あの艦隊が世界を一周して帰国すれば、すぐにまた新しい、より強大な艦隊を作り始めるでしょう。あの十六隻の戦艦は、彼らにとってはただの『使い捨ての消耗品』に過ぎないのです」
一成の声に、熱がこもる。
「日本海軍は、一隻の艦を血の滲む思いで買い、それを神のように崇め、磨き上げて何年も使おうとします。
しかし彼らは、次から次へと新しい艦を産み出し、古い艦を惜しげもなく捨てる。
……父上。彼らは戦争などしなくても勝てるのです。あの圧倒的な『消費』と『生産』のサイクル、そしてそれが成り立つ『制度』を見せつけるだけで、相手の心を折り、従わせることができる」
「日本が大砲の撃ち方や、精神力を磨いている間に……彼らは『戦わずして勝つための制度』を作り上げていました」
室内には、重苦しい沈黙が流れた。
日露の戦争を「精神力」と「武運」で勝ち抜いた老英雄は、じっと息子の顔を見つめていた。
アナポリスで敵の学問を学び、敵の飯を食い、そして敵の強さを骨の髄まで知って帰ってきた息子。その顔は、もはや単なる侍の顔ではなかった。
「……そうか。お前には、それが見えたか」
平八郎は、思考を自らの艦隊――継ぎ接ぎだらけの黒鉄の艦隊へと移した。
「……わしは、日本海でロシアに勝った。だが、このアメリカという国。……大砲の数でも、船の大きさでもない。お前の言う通り、国そのものの『制度』が違う」
老提督は、息子の肩に重い手を置いた。
「一成。お前はこの航海が終われば、国籍条項によりアメリカ海軍を追われる身だ。日本へ戻り、帝国海軍に入り直すことになる」
「はい」
「……ならば、持ち帰れ。
わしにはもう、大砲の撃ち方しか教えられん。だがお前なら……この貧しい国に、新しい武器をもたらすことができるかもしれん」
一成は、深く頭を下げた。
その背中に、白い艦隊の威容と、黒い艦隊の悲哀が重くのしかかっていた。
(……大砲ではない。精神論でもない)
若き東郷一成は、横浜の海に誓った。
(次にこの白い艦隊と対峙する時、私は決して「古道具」で戦いはしない。
奴らが最も得意とする土俵――「カネ」と「制度」という戦場で、必ずやその鼻を明かしてみせる)
これが、全ての始まりだった。
軍神の息子が、ただの一軍人であることを捨て、「経済」という名の冷たい剣を握ることを決意した、運命の日であった。
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