第八章 ~『挑発と心配』~
桂華の宿舎を後にした琳華は、陽光に照らされた廊下を歩いていた。太陽はまだ高く、窓から差し込む光が床に広がっている。琳華の影は長く伸びており、その先には見知った顔が待っていた。
「玉蓮様……」
「ふふ、琳華も役目を与えられたようね」
「ここで待っていたということは、あなたもですね」
「ええ、そうよ。私は侍宴役に選ばれたの」
玉蓮は自信に満ちた声で、役目を誇らしげに語る。
「侍宴役は貴妃様と一緒に食事をして、話し相手になるの。最も距離が近づく、まさに花形の役職よ。あなたが評判を高めてくれたからこそ、私は選ばれたの」
「望む役目に付けたのなら、それは何よりです」
琳華の声に動揺の色は見えない。玉蓮が手に入れた役職の重さを認めつつも、羨ましいとは感じていなかったからだ。
だが玉蓮はその反応が不満なのか、挑発するような笑みを浮かべる。
「あなたは毒見役でしょう?」
「知っていたのですね」
「ライバルの情報収集を怠るわけにはいかないもの」
玉蓮の声には余裕があった。後宮での権力争いにおいて自分が一歩リードしていると主張しているかのようだったが、出世に興味のない琳華の反応は薄い。それがさらに玉蓮を苛立たせた。
「ふん、随分と余裕だけど、毒見役の危険を理解しているのかしら」
「私が毒殺されるかもしれないと?」
「貴妃様に敵意を持つ者は多いわ。特に皇后一派は行動力もある。もし食事に毒が盛られていたら、あなた、死んじゃうかもね」
玉蓮は軽く肩をすくめて、冷酷な言葉を投げかける。だが琳華は一歩も退くことなく、鋭い視線で見返した。
「皇后様は毒を盛るような愚か者ではありません。あの人なら正々堂々と戦うでしょうから……それに私が毒で倒れたら、玉蓮様も困るのでは?」
「私が?」
「危険な毒は薬房で管理されており、調合できる人材も限られています。玉蓮様も真っ先に容疑者として疑われることになりますよ」
「ふん、減らず口の耐えない女ね」
表情に悔しさを浮かべながら、それを隠すように玉蓮は背を向ける。
「どちらにしても、出世競争は私が一歩先へ進んだわ。側近の地位は必ず手に入れてみせるから」
「どうぞ、ご自由に」
「ふん、負け惜しみを」
玉蓮は冷たい笑みを浮かべたまま、その場を後にする。足音が次第に遠ざかっていくのを聞きながら、琳華はその緊張感から解放されるように、背中を壁に預けて一息つく。
空を見上げると、透き通るような青空が広がり、雲がゆったりと流れていた、その姿は自由そのもので、胸の中に少しの余裕を生んでくれる。
穏やかな時間を過ごす琳華。そんな彼女の元に足音が近づいてくる。視線を向けると、現れたのは天翔だった。
「天翔様がどうしてここに?」
「君が毒見役に選ばれたと聞いたから心配でね」
「耳が早いですね」
「一部の者たちの間では、誰がどの役割を与えられたかが既に噂として広まっているからね」
貴妃を歓迎するための宴席は、側近を選ぶための重要なイベントだ。注目されているからこそ、話の広がりも早かった。
「もし君が望むなら、僕の方で手を回して、役目を回避させることもできる。遠慮なく頼ってほしい」
天翔の優しげな声には琳華を守りたいという想いが強く表れていた。だが彼女はその提案にゆっくりと首を横に振る。
「ご厚意は嬉しいのですが、毒見役は誰かがやらなければならない仕事です。与えられた役目ですし、頑張ってみるつもりですから」
「そうか……君は本当に強い人だね」
琳華の瞳から覚悟を感じ取ったのか、天翔は柔らか笑みを浮かべる。琳華も安心させるために微笑みを返した。
「それに、もし毒が入っていたとしても、訓練次第で食べる前に判別できるそうですから。心配ご無用です」
毒見役は嗅覚と味覚の訓練を行う。匂いを覚え、味の微細な違いを読み取り、毒の有無を見分けられるようになれば、十分な安全を確保できる。
「宴席までには立派な毒見役になってみせます」
「琳華ならきっと一流になれそうだね」
「それは買いかぶりすぎですよ。ただ称賛はありがたく受け取っておきますね」
笑みを零す琳華は、少しだけ気持ちが軽くなっていた。天翔の励ましが、自分にとって大きな支えであると改めて気付かされる。
「宴席が終わったら、一緒に街に遊びに行こう。ご褒美も兼ねてね」
「いいですね。楽しみにしています」
昼下がりの穏やかな光が差し込み、重苦しい空気が次第に和らいでいく。琳華は天翔と一緒に過ごす時間を心待ちにしつつ、これから待ち受ける宴席に向けて気を引き締めていくのだった。




