第七章 ~『玉蓮の背景』~
事件を解決してから数日後の夕暮れ時、琳華は一日の仕事を終えて、ゆっくりと廊下を歩いていた。
空は茜色に染まり、窓から差し込む夕陽が廊下を柔らかく照らしている。そんな中、琳華の目に人影が映った。光と影が織りなすシルエットは、どこか優雅な落ち着きを感じさせる佇まいであり、琳華はその姿に見覚えがあった。もう少し近づいてみると、その正体が天翔であると気づく。
「天翔様!」
琳華が声を弾ませながら呼びかけると、天翔はゆっくりと振り返る。その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「実は君を待っていたんだ」
「私をですか?」
琳華はその目的をすぐに察する。
「事件についてお聞きしたのですね?」
「無事に解決したと僕の耳にも届いたよ。さすがは琳華だ」
天翔は少し真剣な顔つきに変わり、事件の全貌を思い返すように言葉を続ける。
「蘭芳がどうなったかは既に知っているかな?」
「一週間の謹慎だと聞いています」
「被害が人間ではなく、猫だからね。騒ぎを起こした罰としては妥当なのだろうね」
医官たちが多忙を理由に治療を断るほどだ。猫の存在が軽視されていると知ってはいたが、予想以上に軽い罰に複雑な心境だった。
「ただ後宮は女性の多い職場だ。猫を好む者も多い。蘭芳の評判は大きく悪化したし、女官に昇格する芽は潰れただろうね」
それが最大の罰になる。出世欲の強かった蘭芳にとって、大きな痛手となったのは間違いない。
「ただ今回の事件で最も得をしたのは玉蓮だったね。猫を救い、春燕の冤罪を晴らした功績は大きい。過ちを犯したのが部下の蘭芳だとしても、その罪を暴く手伝いをしたと、むしろ評価を高めているほどだ。宮女たちの間では彼女の話題でもちきりだよ」
「狙い通りの結果になったようで安心しました」
「もしかして噂を流したのは君かい?」
「玉蓮様との約束でしたから」
子猫を治療する代わりに、玉蓮の評判を高める。その約束を果たすため、託児館の女官たちは、玉蓮を事件解決の英雄として広めたのだ。噂は宮中を駆け巡り、その名声は大きく高まることとなった。
「謎を解いたのは君なのにね」
「私は名声を得ることに興味がありませんから」
「だが……」
「私は大切な人たちから評価されれば、それだけで満足ですので」
琳華は穏やかな声で言い切る。その声は静かでありながらも、しっかりとした信念が込められていた。
「ただ、一つだけ心残りがあります。蘭芳様の動機についてです」
「春燕を嫌っていたからではないと?」
「私にはそう思えないのです。もし評判を落とすのが目的だったなら、子猫を傷つける以外にも方法はあったはずですから」
わざわざ猫を巻き込む必然性が見当たらないからこそ、琳華は釈然としない気持ちを抱えていた。
「毒を使うことに意味があったとしたらどうだろうか?」
「それは……ありえますね……」
毒の利用を動機とした場合、人間に試す前の実験などがすぐには思いつく。ただそれでは春燕を罠に嵌める理由にならない。
もっと別の観点から動機を探っていると、頭の中に一つの閃きが浮かぶ。
「まさか……」
「答えに辿り着いたのかい?」
「今回の事件、最も得をしたのは玉蓮様です。そのために行動したとすれば、事件の全貌が浮かんできました」
「聞かせてもらえるかな?」
「もちろんです」
頭の中で自らの推理を整理すると、琳華は静かに口を開いた。
「蘭芳様が盛った毒は子猫が命を落とすほどの量ではありませんでした。確実に命を奪うなら、もっと量を増やせたはずなのにです」
「なるほど。玉蓮の手柄にするためには、死なれては困るからか。つまり蘭芳が犯行に及んだ本当の動機は……」
「玉蓮様の評判を高めるためです」
貴妃の側近に選ばれるためには、高い評判が必要になる。そのために玉蓮は蘭芳を利用したのだ。
この推理に証拠はないが、琳華は確信に近しい自信があった。これが真実だとするのなら、玉蓮が琳華の頼みに対して協力的だったことにも説明がつくからだ。
「琳華さんの推理、きっと当たっていますよ」
ふいに声を掛けられる。振り向くと、そこには春燕が立っていた。彼女の顔からはいつもの小動物のような愛らしさが消えている。
「姉さんの名前が出ていたので、盗み聞きしちゃいました。その上で断言できます。あの人なら蘭芳さんを意のままに操れるはずです」
春燕は淡々と語る。その内容に琳華と天翔は耳を傾ける。
「実は、姉さんは桂華さんの部下だったことがあるんです。その際に、人心掌握の術を叩き込またそうで……」
「あの桂華様からですか……」
桃梨を意のままに操り、宝物殿の品を横領させていたことを思い出す。操り人形のように人をコントロールする術を玉蓮も教わっているのだとすると、蘭芳が指示に従ったことにも納得できた。
「だから姉さんが命令すれば、可愛がっていた子猫を犠牲にさせることや、罪を背負わせることも強制できたはずです」
琳華の胸に冷たい感覚が広がっていく。相手の感情を巧妙に操り、忠誠や依存を生み出す力に戦慄を覚えたのだ。
だが琳華は決して怖じけてはいない。心には静かな決意を沸き上がらせ、毅然とした態度を貫くのだった。




