第七章 ~『薬房での説得』~
《蘭芳視点》
託児館から帰宅した蘭芳は、薬房を訪れていた。後宮の一角に位置し、周囲の静寂と調和するように佇んでいる建物に足を踏み入れると、薬草や漢方薬の香りが鼻腔を擽る。甘くもあり、苦くもある独特の香りに、蘭芳は顔をしかめた。
「この匂い、いつも慣れないわ……」
小さく呟きながら、蘭芳は薬房の奥へと足を進める。すると薬草を一つ一つ確認しながら、丁寧に扱う玉蓮の姿があった。玉蓮は蘭芳の気配に気づき、ゆっくりと振り向く。
「よく来てくれたわね、蘭芳」
「玉蓮さんの呼び出しであれば、どこへでも参ります」
「そう……」
玉蓮の口元は固く結ばれており、目も笑っていない。緊張に包まれながら、玉蓮が言葉を発するのを待つ。
「静かでしょう。人払いしておいたから薬房には私達以外に誰もいないの」
玉蓮の言う通り、薬房は喧騒から隔絶されていた。緊迫した空気が増していく。
「呼び出したのは他でもない。春燕のことよ」
それだけで用件を察する。託児館での関係を知られたのだ。弁明するために口を開こうとすると、玉蓮はそれを制する。
「誤魔化さなくてもいいわ。信頼できる筋から情報が届いているから……でも、どうして春燕と仲良くしようと思ったのかは教えて」
「それは、子猫の世話をするようになりまして……」
「猫?」
「はい、託児館で一緒に飼っている子猫なんですが、春燕を含めた奉仕者で協力していて――」
「蘭芳!」
弁明を一喝する声が薬房に反響する。直属の部下である蘭芳でさえ初めてみる玉蓮の激怒だった。
「あなたが春燕と仲が良いことは分かったわ。でも、それが後宮から追い出すことを諦める理由にはならない。違うかしら?」
「そ、それは……」
玉蓮の強い視線に気圧される。だが蘭芳は退かなかった。立ち向かう決意を固めて、まっすぐに見据える。
「あの、春燕を追放するのを止めませんか?」
蘭芳は勇気を振り絞って言い放つ。だが期待とは裏腹に、玉蓮の目はゾッとするほどに冷たい光を宿した。
「どういう意味かしら?」
「春燕は人望もありますし、非常に優秀です。病があったとしても、それ以上に彼女は玉蓮様の評判を上げるのに一役買ってくれるはずです。どうか、ご再考を!」
蘭芳は必死に願う。だが玉蓮は少しも動じずに問い返した。
「私に逆らうの?」
「それは……」
「犬でも恩は忘れない。あなたもきっと覚えているわよね。私がいなければ、窃盗の罪で牢獄行きだったことを」
重い言葉が蘭芳の心に突き刺さる。彼女は目を伏せ、静かに当時のことを思い出す。
蘭芳はかつて上級女官の侍女をしていた。働けない母のために、実家に仕送りをしなければならなかった彼女は、生活に窮していた。
そんなある日、出来心で上司の宝石を盗んでしまったのだ。罪はすぐに発覚し、投獄を覚悟したが、そうはならなかった。
当時、先輩だった玉蓮が上司に許しを乞うてくれたのだ。被害が取り下げられたことで、証拠不十分となり、蘭芳は釈放された。さらに二度と罪を犯さぬようにと、貧困に苦しんでいる彼女の給金を増やしてくれた。
あの時、玉蓮が助けてくれなければ今の蘭芳はいない。家族も露頭に迷っていただろう。
「私は玉蓮さんの忠実な部下ですから。あなたが求めるなら、春燕を後宮から追放してみせます」
「それでこそ私の部下だわ」
蘭芳は馬鹿ではない。玉蓮に便利な手駒として利用されていると理解していた。
だがそれでも救われた事実は揺るがない。蘭芳は鬼になる覚悟を決める。その心中には複雑な感情が渦巻いていたが、玉蓮への恩義に報いたいという想いが最も輝いていたのだった。




