第六章 ~『天翔の悩み』~
琳華は机に向かいながら、集中力を切らさずに書類に目を通していく。筆をしっかりと握り、訂正すべき箇所を書き直していく。
慣れた手つきで仕事を進めていると、職場の扉が静かに開かれる。顔を上げ、扉の方に目を向けると、春燕が小さな包みを手に持ちながら、息を切らしていた。
「遅れてしまい、ご迷惑をおかけしました」
「薬を受け取りに行っていたのなら謝る理由はありませんよ」
「琳華さん……心遣いありがとうございます」
春燕は包みをそっと机の上に置くと、その中から小瓶を丁寧に取り出す。きらきらと輝く透明な液体を見つめた後、決意を込めて一気に飲み干し、眉をしかめた。
「苦そうですね……」
琳華が心配そうに訊ねると、春燕は軽く首を横に振る。
「味は僅かに苦味がある程度ですよ。ですが財布には苦しくて……」
「それほどに高価なのですか?」
「下級女官の給料でも全然足りません。幸い、家族が援助してくれているおかげで払えていますが……私のために迷惑を掛けていると思うと心苦しくて……」
春燕は申し訳なさを含みながらも、感謝するように言葉を続ける。
「だから私、家族のことを皇后様以上に尊敬しているんです」
姉の玉蓮とは不仲でも、他の家族とは親密なのだろう。琳華がそう解釈していると、鐘の音が響く。澄んだ音色が心地よく広がっていった。
「時間が過ぎるのは早いですね」
音の正体は正午の十分前を知らせる予鈴であり、正午になれば再び本鈴が鳴る。琳華は立ち上がると、机の上に広がっていた書物を丁寧に整理していく。
「混雑する前に、私は昼食へ行きますね」
「では私が琳華さんの業務を引き継ぎます」
「良いのですか?」
「私も文書管理課の一員ですから」
「ではお願いしますね」
頼りになる後輩に感謝しながら、琳華は仕事内容を伝える。春燕は机の前に腰掛けると、教わった通りに文書に目を通していく。
(任せてもよさそうですね)
安心した琳華は職場を後にすると、静かな環境を求めて東食堂へと向かう。
辿り着いた食堂には木製のテーブルと椅子が整然と並んでおり、壁には季節の花々が描かれた絵画が飾られている。
窓から差し込む柔らかな陽光が室内を照らし、窓辺には観葉植物の鉢植えが並んでいる。そこから漂う木々の香りも心地よかった。
食堂では宮女たちの姿はまばらで、空席も目立つ。麻花という揚げ菓子が販売されていた時の行列が嘘のようだった。
まずはカウンターに向かい、日替わりメニューである青椒肉絲を受け取る。皿の上には鮮やかなタケノコとピーマン、そして薄切りにされた牛肉が彩り豊かに盛り付けられていた。
濃厚なソースが具材に絡み、艶やかな光沢を放っている。琳華は美味しそうな匂いを感じながら、窓際の席へと向かう。
テーブルに腰掛けた琳華は、さっそく一口目をゆっくりと口に運ぶ。
最初に感じたのは、牛肉の柔らかさとその中に詰まった旨味だった。噛むごとに肉汁が溢れ、口の中に広がっていく。その後、ピーマンのほのかな苦味や、タケノコの食感が続いていく。
(この料理が無料なのですから、中級女官の特権に感謝ですね)
琳華は昼食を堪能し、空腹を満たしていく。その時、軽やかな足音が近づいてくるのに気づく。顔を上げると、トレイを手にした天翔が微笑んでいた。
「ここ、いいかな?」
「もちろんです。どうぞ」
席を勧めると、天翔は静かに腰掛ける。彼の手に握られたトレイにも、日替わり定食の青椒肉絲が乗っていた。
「天翔様も食堂を利用するのですね」
「滅多にしないよ。なにせ目立つから」
天翔の美しい容姿は本人の意思と関係なく周囲の注目を集めてしまう。事実、食堂内の宮女たちは天翔をチラチラと一瞥しながら、黄色い声をあげていた。
「でも今日は特別だ。琳華と話をしたかったからね」
二人は静かに食事を楽しみながら、自然な会話を始める。天翔の話は興味深く、琳華は耳を傾けながら自分の意見を述べていく。二人の間に流れる和やかな雰囲気が、食堂の静けさと相まって心地よい空間を作り出していた。
「ところで貴妃についての話は聞いたかい?」
「それが本題ですね」
「琳華の意見を聞きたくてね。聞かせてもらえないかな?」
夜になれば庭園で会えるにも関わらず、昼の食堂に足を運んだのには、なにか目的があるはずだと察していた。翠玲にも伝えた話を天翔にも説明すると、彼は興味深げに頷いた。
「皇帝が新しい妃を求めたのは、個人としての魅力に惹かれたからか……ただあの人が異性を好きになったりする姿を想像できないな」
琳華もそれに関しては同意見だった。噂で伝え聞く皇帝は感情よりも理性を優先する印象があったからだ。
「天翔様はどのように考えていますか?」
「あの人の行動は必ず国家の利益と結びついている。きっと貴妃を選んだのも国のためだ」
「なら皇帝陛下は国のために貴妃様個人の能力を求めたのでしょうね」
優秀な人材を確保するために貴妃を迎え入れた。そう考えれば理屈が成り立つ。だがそれを聞いた天翔の表情は苦々しいものへと変化する。
「世継ぎのせいかもね……」
「世継ぎ、ですか?」
「貴妃を迎え入れた理由さ。皇子が結婚しないから、貴妃に次代の後継者を求めたんだ。そのために優秀な人物を選んだのだとすると筋が通る」
環境や運などにも左右されるが、両親からの遺伝も子供の優秀さを決める一因にはなる。才能を引き継がせるための母体として優秀な貴妃を選んだとする説は、国を優先する皇帝ならばやりかねないという納得感があった。
「天翔様は貴妃様をよく思っていないのですか?」
彼の言葉の節々から、貴妃を迎え入れたことに対する嫌悪が滲んでいた。その真意を問うような質問に、天翔は首を横に振る。
「会ったこともない人だからね。貴妃個人に特別な嫌悪はないよ」
「それではなぜ?」
「青臭いと笑われるかもしれないけど、僕は一人の女性だけを愛するべきという価値観でね。皇帝の隣に皇后以外の誰かが立つのを許せなかったんだ……」
「笑ったりしませんよ。むしろそれは天翔様の美徳の一つだと思いますから」
天翔が誠実な人だからこそ、琳華は友人になったのだ。そう伝えると、彼の顔に照れくさそうな笑みが浮かぶ。
「ただ相手は皇帝です。皇后様でも立場的に説得は難しいでしょうね」
他の女を妃として迎え入れるのを止めて欲しいと、皇后からは伝えられない。特にその婚姻が国家にとって益を生むならば尚更だ。
「もし解決できる人がいるとすると、引きこもりだと噂の皇子くらいでしょうね」
「どういうことだい?」
「父親が別の女性と結婚するのに反対するのは自然ですから。それに皇子が結婚しないことで世継ぎが心配になり、貴妃を迎える結論に至ったのなら、交渉も容易です。なにせ皇子が結婚すると約束さえすれば、世継ぎの心配をする必要はなくなるのですから」
「なるほど」
琳華の意見に天翔の瞳が輝く。解決の糸口を発見した彼はトレイを手に持って、立ち上がる。
「琳華のおかげで光明が見えたよ。君にはいつも救われるね」
「お力になれたようで良かったです」
天翔は名残惜しさを残しつつも、食堂を去っていく。少しは役に立てたかもしれないとの喜びが、琳華の口元に笑みを残すのだった。




