第０２話　猿回し

「さて、随分と待たせてしまったな」

　まだ朝靄が立つ早朝、出陣式を前に朝食中だった俺を訪ねてきた者が居る。

　昼夜を問わずに走り、よっぽど急いできたのだろう。髷は乱れて、その姿は薄汚れており、会うだけ会った後は俺が出陣式に出ている間にまずは腹ごしらえと旅の道中の垢を落して貰おうと、朝食と風呂を済ませて待って貰っていた。

「い、いえいえ！　め、滅相も御座いません！

　こ、こちらこそ、朝飯と風呂まで頂いて感謝に絶えません！」

　しかし、中座前の再会した当初の気さくさは何処へやら。

　客は待って貰っていた寺の奥座敷の上座に俺が腰を下ろしても顔を上げようとしないばかりか、更に額を畳に押し付けて顔を上げようとしない。

　正直、話し辛くて仕方が無いが、今日は何かと予定が押している。

　このまま話を進めようかと思った矢先、士気の高さが災いした外の騒がしさが寺の敷地を囲う塀を越えて届き、その話し合いに不向きな五月蝿さに眉を顰めて、縁側に控えているだろう小姓に開け放っている障子戸を閉める様に指示しようと思った次の瞬間だった。

「むっ！？　ちと騒がしいな。おい……。」

「そ、それでしたら、拙者が！」

　来客が勢い良く跳ね起き、そのまま障子戸の位置までバックジャンプ。

　右の障子戸を閉めながら左の障子戸の元へ行き、左の障子戸を閉めると、再び座っていた下座へジャンピング土下座。

「ぷっ！？　くっくっくっ……。

　と、藤吉郎殿、悪いな。くっくっ……。きゃ、客にその様な真似をさせて……。」

　この間、たったの一呼吸。その機敏な姿は正に『猿』と言うしか無くて堪らず吹き出す。

　来客『木下藤吉郎』殿が跳ね起きた瞬間、すわ何事かと焦った左隣後ろに控えている小姓が俺に太刀の持ち手を差し出しながら片膝を立てて固まっている様子が笑いを更に誘う。

　たまらず気分を落ち着ける為、腹を抑えている右手とは反対の左手で床の茶碗を取る。

　飲み易くさせた温めの白湯をゴクゴクと喉を鳴らしながら飲み干して、大きく深呼吸。話を中座する前まで戻す。

　その話とは他でもない。藤吉郎殿は信長からの使者であり、武田軍が尾張東の三河へ攻め入る噂を聞きつけての同盟の申し込みだ。

「では、儂も出陣まで時間があまり無い。結論だけを言おう。

　三河平定後、尾張には攻め入らない。これは約束をしよう。

　儂も無駄な戦いは避けたいし、領内を通過させてくれ、その滞在費まで負担してくれるとまで言ってくれるなら断れん」

「あ、ありがとう御座います！」

　この即決力と即実行力はさすがと感心するしかない。

　こちらから三河攻めの噂を大々的に広めたとは言えども、こうも早く同盟、或いは停戦の使者を送ってくるとは思ってもみなかった。

　なにしろ、信長以上に危機感を抱いて、使者を真っ先に送ってきて良い筈の松平元康の使者はまだ到着していない。

　上杉輝虎との会談が二週間前。藤吉郎殿が尾張からここまで駆け付けた距離と時間を加味したら、この早さは驚異的と言うべきだ。

　まず間違いなく、重臣達と協議を行った上での行動では無い。

　恐らく、信長は噂を出先で聞き付けて、その場で即決。お供に連れていた藤吉郎を使者として送り出したのだろう。

　その証拠に藤吉郎殿の姿は旅装でもなければ、外交使者として相応しい礼服でもない。

　只の普段着である上に信長の書状を所持しておらず、信長の使者の証として所持していたのは織田木瓜の家紋が入った脇差しのみ。

　そもそも、まだ清州城の台所奉行でしかない藤吉郎殿では外交使者としては勿論の事、俺と会うには格が圧倒的に足りなさ過ぎる。

　実際、来訪が朝早かった事もあって、最初は陣中の様子を外から伺っていた不審者として捕らえられれおり、俺と顔見知りという一点だけで藤吉郎殿を送ってきた辺りに信長の焦りを物語っている。

「次に織田家の市姫と勝頼の婚姻。これも望むところだ。

　実を言うと、勝頼の相手を探してはいたのだが、去年から何かと忙しくてな。渡りに船とはこの事だ」

「お、おおっ！　そ、それは正に良縁！　と、当家と武田家の一助を担えて、拙者も光栄です！」

「だが、今川家との仲を取り持って欲しい。これは駄目だ。

　どうしてもと言うのなら、市姫の輿入れが済んでからにしろ。

　それと松平の助命は論外だ。

　以前、上洛した際、世話になったから話は聞いてやったし、儂に益があるものは応じてやったが、それ以上を応じる義理は無い」

　それと失礼かも知れないが、今回の一件で衝撃の事実が判明した。

　俺が知る歴史において、信長が有名であるが故に悲劇の女性として知られる『お市の方』が実はなんと勝頼の一歳年下だったのである。

　勝頼とお市の方、歴史に登場する時期が大きく離れている為か。

　俺は藤吉殿からお市の方の年齡を聞くまで勝頼よりもずっと年上だと勘違いしていた。

　その為、勝頼とお市の方の婚姻を申し込まれた際、思わず怒鳴ってしまった。

　何が悲しくて、うちの大事な勝頼と年増を結婚させなければならないのか。信長は武田を舐めているのか。その喧嘩、喜んで買ってやるぞと。

　今、思い出しただけでも恥ずかしくなる勘違い。

　諏訪にただ引き篭もっていたら良かった頃と違って、これから中央へ進出するに従い、俺が知る歴史の戦国時代の有名人と会う機会が多くなり、こういった勝手な勘違いが他にも出てくるだろうから今後は気を付けなければならない。

「た、確かにご尤も！　

　の、信長様には市姫様の輿入れを急ぐ様にお伝えします！　そ、それでは拙者はこれにて！」

　それはさておき、こうして喋っている間も藤吉郎殿は頭を下げっぱなしだったが、返事を伝えきった途端。

　顔を上げたと思ったら、その上げた顔をすぐに深々と下げての一礼。顔を再び上げながら立ち上がり、その上げた顔をすぐに深々と下げての一礼をした後、右足を下げながらの回れ右をして、背中を向けた。

「まあ、待て……。そう急ぐ事もあるまい。

　時間が無いとは言ったが、お主と話す時間くらいは有る。もう一度、そこへ座れ」

　この間、たったの一呼吸。きびきびとした流れる様な動作で奥座敷を出ていこうとする藤吉郎殿を笑って止める。

　それを合図に奥座敷外の縁側に控えていた小姓が立ち上がり、藤吉郎殿の行く手に立ちふさがる影を障子戸に映らせて、腰の刀に手を伸ばして構える。

「や、やっぱり……。お、おらは殺されるんですか？」

「お主、あの信長が気にいるだけあって、本当に敏いな。農民の生まれというのが信じられん」

「うっううっ……。尾張国愛知郡中村郷中中村、弥右衛門の子です。

　姓は持っていません。木下の姓は頭陀寺城主の松下様から頂きました。ううっ……。

　正真正銘、農民の子です。だから、許して下さい……。うううっ……。おら、まだ死にたくはありません」

　障子戸を開けようと右手を伸ばしかけていた藤吉郎殿の動きがピタリと止まる。

　一呼吸の間を置き、藤吉郎殿は眉を『ハ』の字にさせた情けない半泣き顔を振り向かせると、その場に崩れ落ちて蹲りながら嗚咽を零し始めた。

　そう、藤吉郎殿の様子がおかしかった理由は本人が今漏らした通り。

　勝頼も出陣式で言っていたが、奇襲とは敵に接近をいかに気づかれないかが最大のキモである。

　だから、結論から先に言うと、藤吉郎殿は運が悪かった。

　俺の元へ訪れるのが、昨日か、明日だったら問題は無かったが今日は駄目だ。

　障子戸を閉めていても聞こえてしまう士気の高さから探るまでもなく武田軍の狙いが実は三河に非ず、美濃に自ずと解ってしまう。

　しかも、藤吉郎殿は信長と関わりが深い。

　ここから急いで走りさえしたら、清州城は三日もかからない。

　信長が尾張の支配者として、全警戒心を三河へ向けるのが当然の今、その警戒を少しでも美濃へ向けたとしたら、勘の良い美濃の誰かが武田軍の奇襲に気づくかも知れない。

　特に美濃は豊臣秀吉の前半生を支えた戦国一の軍師として名高い『竹中半兵衛』が居る。今はまだ元服したばかりの年齡だった記憶が有るが、その存在を考えたら警戒は幾ら重ねても足りない。

　勝頼が奇襲ルートの踏破目標に設定した日数は五日。

　たった一日、たった二日と侮ってはいけない。今回の美濃攻めは絶対に成功させなければならないのだから。

　だったら、どうしたら良いのか。

　藤吉郎殿を口封じに殺してしまうのが手っ取り早い。

　藤吉郎殿は正式な外交使者では無い。

　信長からの正式な外交使者は後日に訪れるだろうし、今の藤吉郎殿の身分ならその命を奪ったとしても問題は無い。

　信長は藤吉郎殿の死を惜しみ、私的に文句を言ってくるだろうが、公的な責任追及はしてこない筈だ。俺が悪かったと謝罪するだけで済む。

「くっくっ……。安心しろ。その大した役者ぶりに免じて殺しはせんよ」

　だが、俺が知る歴史において、豊臣秀吉は農民から関白まで成り上がった人物。

　立身出世の代名詞とも言える人物をこんな所で簡単に殺して良いのかという葛藤が有った。

　そして、それ以上の理由がこれ。

　命の保証をした途端、藤吉郎殿は伏せていた顔を勢い良く跳ね上げて、満面の笑顔。嘘泣きを明らかにした。

「真ですかっ！？」

「但し、儂と一週間ほど行動を共にして貰うがな」

「お安い御用です！　信長様に叱られそうですが、それくらい何でも御座いません！」

「ほう？　それなら、頼み事をもう一つだけ聞いてもらおうか？」

「何なりと！　この木下藤吉郎にお任せを！」

　この調子の良さ。

　何処から演技だったのかは知らないが、その戦国一と称された人たらしは伊達では無い。

　戦国時代を生き抜いてゆく上で甘い考えかも知れない。

　しかし、俺達は既に出会い、友誼をそれなりに深めて、俺は木下藤吉郎という男に好感を持ってしまっていた。

　信長から申し込まれた勝頼とお市の方の婚姻に伴う同盟を受け入れたのも似た理由である。

　それが徳川家康と名を後に変えて、戦国時代に終止符を打つ筈だった松平元康との扱いに明暗を分けさせた。

　だが、個人的な友誼だけで調子に乗って貰っても困る。

　武田家の元当主たる威厳を示す為、歴史を知るが故に知っていて当たり前の情報を藤吉郎殿に明かして迫る。

「では、木下殿は尾張国海東郡に根付きながらも美濃に肩入れする蜂須賀衆の当主『蜂須賀正勝』と懇意の仲だと聞く」

「な、何故、それを……。し、知っておられるのですか？」

「んっ！？　今、それが重要な事なのか？　お主にわざわざ話さなければならない事なのか？」

「か、畏まりました！　こ、この木下藤吉郎、蜂須賀正勝を信玄様のお味方をする様に必ず説き伏せてみせます！」

　たちまち藤吉郎殿は顔を青ざめさせると、俺がこの奥座敷へ訪れた時の様に慌てて平伏した。

　その身体をブルブルと震わせる姿もまた演技かも知れないが、本来なら現時点で自分しか知り得ない筈の情報を俺が知っている事実に戸惑い、伏せた顔を下で驚異と脅威の両方を抱いているに違いない。

「うんうん……。一を聞いて、十を知る。実に頼もしい奴だ」

　久々の未来知識を用いた『オレツエー』のたまらない高揚感に肩を震わせる笑みが自然と溢れてきた。