第06話 西上作戦開始
「皆の者、善光寺平からここまでの道中、ご苦労であった」
上杉輝虎との会談から二週間と三日。
二万五千の武田軍は三河の松平家を攻める為、南信濃の天竜峡に集結。兵士達が朝食を済ませ次第、三河へ向けた第一陣の出発をいよいよ控えていた。
大まかな作戦会議は昨夜の内に重臣達を集めて済ませており、あとは意識統一の出陣式を残すだけ。
今、本陣として借りた古寺の仏堂前の広場に足軽大将以上の者達が集い、仏堂軒下の階段上に立つ俺の言葉を百数十人が今か今かと待っていた。
「それも善光寺平から諏訪までの道を真田幸隆が、諏訪からここまでの道を馬場信春が整備してくれたおかげだ」
だが、その前に真田幸隆と馬場信春の二人を褒めなければならない。
善光寺平から道中、全部隊が丸二日の完全休養を諏訪で挟んでいながら、ここまでの道のりをたった二週間程度の日数で踏破が出来たのは二人の功績が大きい。
なにしろ、戦国時代の道は酷い。
他勢力から侵略を受けた際にその侵攻速度を抑えるという大義名分の下、より使い易くしようとする拡張はおろか、メンテナンスすらも放棄されている。
甲斐と信濃でまともと言える道は諏訪と甲府を結ぶ一本のみ。
それ以外の道は雑草達がニョキニョキ、スクスクと育ち放題。雨が降ったら水溜まりや泥濘があちこちに出来て、雨量によっては道が小川と化して、山野の道など稀に倒木が道を塞いでいる有り様。
しかし、善光寺平からこの天竜峡までの道中は実に快適だった。
前回、タイムスリップしたばかりの俺が生島足島神社から諏訪まで帰ってきた時とは大違い。
あの時は一日に行軍が他愛もない理由で何度も渋滞して苛立ちを覚えたが、今回の行軍では渋滞らしい渋滞が一度も無かった。
「いえいえ、滅相も御座いません」
「はい、我等は大殿の指示に従ったのみ」
だが、すぐ目の前の最前列に並んで立つ真田幸隆と馬場信春は労いを受け取ろうとしない。
驚いた顔を揃って見合わせた後、真田幸隆が首を左右に振れば、馬場信春も首を左右に振って謙遜した。
「例え、そうだとしても感謝する。
褒美を信繁に預けてある。あとで受け取っておいてくれ」
「あ、有難き幸せ!」
「も、勿体無い御言葉に御座います!」
それならとその場に片膝を突く。
まだ二人より目線は少し高いが、それぞれに眼差しをしっかりと向けると、真田幸隆と馬場信春は身体をビクッと震わせて後ずさり、頭を深々と垂れながらもようやく労いを受け取ってくれた。
その様子に重臣達が息を飲み、つい先程の真田幸隆と馬場信春の様に顔を見合わせる。
そんな重臣達の反応に戸惑い、それ以外の者達がざわざわとざわめき、厳かに静まり返っていた雰囲気が一転。浮ついた雰囲気が広がってゆく。
どうして、ただ功績を労っただけでこんな騒ぎになってしまうのか。
それは義信以前の、晴信とその父『信虎』の二代に渡る武田家の支配体制に理由が有る。
信虎は類稀な戦上手で内乱状態にあった甲斐を見事統一。
大きなカリスマ性を発揮する一方、諫言する家臣をその場で切り捨てる様な暴君でもあった為、武田家はこの時期から当主一強の独裁体制が確立。
その父を追放して、家督を継いだ晴信は暴君とは縁遠い存在だったが、あまりにも優秀過ぎた。
当主一強の中央集権が優秀であるが故に上手く作用し過ぎて、晴信が武田家の内政を一手に担う事となり、家臣達は晴信の指示に唯々諾々と従うのが当たり前になった。
しかし、軍事面はそうもいかない。
晴信は武田軍の総大将。討たれたら全てが終わりの存在の為、作戦の立案は出来ても最前線においそれと出向けず、戦いの趨勢は家臣頼み。
その結果、晴信は家臣を軍事面で褒める事は有っても、内政面で褒める事は滅多に無かったらしい。
それも優秀である故に自分が出来るのだから他人も出来るのが当然という意識が少なからず有り、求める成果も大きかった為、逆に叱責の方が圧倒的に多かったというのが信繁さんの言だ。
これでは駄目だ。明らかに間違っている。
その証拠が目の前に有る。武田家は軍事面での活躍を望める猛将と呼べる家臣は多いが、内政面での活躍を望める能吏と呼べる家臣は少ないを通り越して存在しない。
もっとも、晴信が内政面を何でもかんでも考えて行い、優秀な文官が育つ環境がそもそも整っていなかったのだからどうしようもない。
世の中、叱られた悔しさをやる気に変えるタフな者も居るが、それは稀な例であって、大抵の人は褒めなかったらやる気は出ず、やる気が出なかったら能力は伸びない筈も無い。
事実、晴信が亡くなった途端、武田家の内政はあらゆる面で一気にがたついた。
それを立て直そうと躍起になった結果が義信の過労死だ。今の武田家が晴信統治時代の様に強い武田家のままでいられるのは義信が内政面を凡人にも解り易い分業制を行った功績が大きい。
だからこそ、この場に上から下まで全ての家臣が集まっている今が知らしめる絶好のチャンスだった。
武田家は変わったと。内政面でも成果をちゃんと出したら、褒められれもすれば、出世や褒美を得られるのだと。
ご存知の通り、武田家の今後の目標は上洛である。
上杉家との同盟が成り、上杉輝虎が東国同盟に強い興味を示している今、北と南と東に憂いは無い。足利幕府の再興を旗印に西へ、西へと武威を示して進む。
こうなると甲斐と信濃は完全な後方基地となるが、その内政に従事する者達に腐って貰っては困るのだ。
言うまでもなく、戦争は莫大の費用がかかる。甲斐と信濃が安定した収益を上げていなければ、前線はあっという間に干上がってしまう。
武田家において、内政官は戦働きが出来ない閑職。
その根付いたイメージを上洛前に取り除いておく必要がどうしても有った。
「さてさて……。今日、国境をいよいよ越えて、三河へと入る訳だが……。
ここまでの道中、道が楽になった分、余裕が出てきたらしいな。こんな事を兵達が話しているのを耳にした」
浮ついた雰囲気を消す為に立ち上がり、腕を組みながら場を一睨み。
晴信の威光は未だ健在。右から左へと、左から右へと見渡せば、場はピタリと静まり返った。
ちなみに、善光寺平から天竜峡までの道の整備計画を立てたのは義信の葬式があった前日。
つまり、上杉家との同盟や善光寺平を御料地として帝に献上する案に絡んだ計画だが、やはりと言うべきか、当初は大きな反発が重臣達からあった。
特に善光寺平を御料地として帝に献上する案は武田家が滅亡する歴史を知っており、一年前の時点で舵を大きく切り替えなかったら同じ道を歩みかねないと知っている信繁さんと勘助さんですらそうだった。
今の時代に生きる者達にとって、土地こそが力の源。
多くの血を流して得た土地を手放すなんて以ての外という意見が揃って列んだ。
だが、俺は現代の資本主義の中で育った人間である。
土地が無くても米は買える事を知っているし、善光寺平を失っても痛くないほどの金山を武田家が数多に所有しているのを知っている。
そのとんでもないゴールドラッシュぶりを知った時、驚愕すると共にこう思わざるを得なかった。
何故、晴信は豊富な金をどんぶり勘定な外交策ばかりにばら撒き、商人を誘致するなどの経済政策を行わなかったのか。
それを行ってさえいたら、甲斐と信濃は山間地故の石高の少なさなど問題にならない今より確実に豊かな土地になっていただろうと。
要するに価値観の違いだ。
信繁さんの話によると、金儲けは下賤な行為であり、武士として恥ずべきものという価値観も有るらしいから尚更だろう。
前述にも有るが、道に対する価値観も同様。道は全ての基本である。
国を豊かにしようと考えるなら、商人達が行き交いしやすい様に交通の便を真っ先に良くしなければならない。
だから、俺は不満を示す重臣達を前にこう説いた。
大きな石高が潜在的に見込めてもそれが安定して得られず、紛争の種になっている土地など持っていても無意味どころか、害悪でしかない。
だったら、善光寺平を帝に献上して、上杉家との緩衝地にする事で安全を買った方が断然に良い。朝廷の覚えは今以上に目出度くなり、武田家の名は天下に知れ渡る。
それに無宗派の善光寺はあらゆる仏教の聖地。
善光寺平が御料地となれば、何かと騒がしい都からの避難先の一つとして、公家達が訪れる様になる。
そうなったら、公家達を目当てにした商人達も訪れる様になり、その道中に金が落ち、甲斐と信濃は自然と豊かになってゆく。
その為にも道を整備しなければならない。
より商人達が都から、駿河から、相模から、越後から訪れる様になりさえしたら、善光寺平で得る筈だった米なんて簡単に買える様になると。
「善光寺までわざわざ行ったと思ったら、今度は三河。
北へ、南へ、どちらへ行こうが勝手だけどさ。大殿様は本当に戦う気があるのかね?
それに三河は手を結んでいる殿様の土地で乱取りが駄目なんだろ?
まあ、お偉いさん達はそれでも褒美を貰えるから良いけど……。儂等は張り合いが無いと言うか、命を張る価値が有るのかね? ……とな」
但し、その効果が目に見えて実感が出来る様になるまで十年、二十年の長い時間がかかる。
重臣達は晴信の威光の前に一応の納得はしたが、即効性が無い為に懐疑的であり、それが顕著なのが例によって甲州閥である。
彼等の卑怯なところは俺に対して文句を言わず、俺に対する不満を勝頼の名に変えて言い広めて、その同意を得ようとしている点に尽きる。
「何たる事! 兄上、その者達の顔を憶えていますでしょうか?
もし、憶えているなら、この私が今すぐにでも斬ってみせましょう!」
「まあまあ、そう猛るな」
「ですが!」
それに関して『知っているんだぞ』と釘を刺すと、一歩後ろの左隣に立つ信繁さんから怒鳴り声があがった。
勿論、これは予め打ち合わせていた怒ったフリだが、普段は温厚な信繁さんが怒気を珍しく発しただけに効果は覿面に現れた。
「むしろ、儂は安心した。上杉との戦いに肩透かしを喰らっていながら、そんな軽口が叩けるくらい士気を保っている事にな。
それに彼等の言い分は解らないでもない。
田植えが済んですぐに駆り出され、稲刈りが始まる前に帰れると思いきや、そうでもない。
それこそ、冬を他国で越す可能性が出てきたのだから、これで愚痴が出てこなかったらおかしい。その見返りを求めるのが当然の事だ」
しかし、残念ながら顔を青ざめたり、俯かせているのは小物ばかり。
義信の時もそうだったが、その声の大きさから中心人物になっているのは重臣の誰かに間違いないのだが、さすがに尻尾をそう簡単に現さない。
「だから、儂は宣言しよう。安心しろと……。
そして、ここから先は……。勝頼、お前の出番だ」
もっとも、今は上洛第一歩の大事な時。不和を無駄に招くのは避けたい。
今回の釘刺しはここで止めておき、苦笑を漏らしながら右隣に立つ勝頼の肩を叩くと共に右後ろ斜めへ退いて勝頼の背後に立つ。
「えっ!? わ、私がですか?」
「無論だ。武田の当主はお前であって、儂はお前の後見人に過ぎん。
上杉輝虎は儂の因縁。お前では足りない部分がどうしても有って出張ったが、ここから先は当主たるお前の出番だ」
勝頼は自分の出番が有るとは思っていなかったらしい。
目をギョッと見開かせた顔を勢い良く振り向かせた後、俺に聞こえるほどの音をゴクリと立てて生唾を飲み込んだ。
「わ、解りました。で、では……。」
その様子に大丈夫かなと心配するが、それは杞憂だった。
勝頼が目の前に居並ぶ者達をグルリと見渡すと、その目には力強さが、その横顔には凛々しさが宿った。
晴信の子供だけあって、顔は俺に似ているが、俺が十代だった頃とは大違い。比較にならない頼もしさを立ち姿に感じる。
あと足りないのは場数を踏んだ経験と自信か。
今はまだ俺の顔色を何かと伺い、俺の背中に隠れたがる感が拭えないが、心配は要らない。
この俺でさえ、一端の支配者面を演じられているのだから、あと三年もしたら立派な武田家当主へと成長しているに違いない。
「諸将に伝える! 今川殿を助けて、三河を攻めるのは事実だが……。
これは天下を欺く策! 我等が攻めるは南に非ず、西に有り! 敵は美濃、斉藤家だ!」
ここまで来たら上洛を果たすまで肩の荷は下ろせないが、俺の前途はきっと明るい。
勝頼が激を勇ましく飛ばす横で腕を組みながら堪えきれない笑みを零しながらウンウンと頷いた。




