第05話 その時、歴史は動いた
「お待ちを! 和を結ぶのに異存は有りませぬ!
なれど、上洛に関しては……。そのお誘いは……。私は……。」
「関東か?」
長尾景虎が山内上杉家の養子となり、名前を上杉輝虎と変えたのが今年の三月。
その目的は関東管領に就き、関東に覇を唱えつつある相模の北条家を打倒する大義名分を得る為である。
そこまでに至った発端を説明すると長くなるので省くが、そう言った理由から上杉輝虎が上洛の誘いを断るのは最初から解っていた。
「そうです! 私は関東管領! 関東に平穏を導く役目が有ります!」
それ故、淡々とした拒否が返ってくると俺は考えていた。
だが、この半ば怒鳴る様な叫びを聞く限り、本音が別にあるのは明らか。
思わず笑みが零れそうになるのを堪えて、溜息を深々と漏らしながら差し出していた右手を下ろす。
恐らく、上杉家の家督と関東管領の官位を得る実績作りの為だったのだろう。
去年、上杉輝虎は三国峠を遂に越えて、北条家が支配権を広めていた上野へと攻め入り、諸城をあれよあれよと攻略。武田家が所有する国峰城を除き、上野一国をわずか半年で支配下に収めている。
その上、三国峠が雪深くなる前に春日山城へ帰還する際、上杉輝虎は檄文を飛ばしている。
来年になったら、関東管領の名の下に北条家誅伐の挙兵を行う。関東の諸大名は毘沙門天の旗の元へ集えと。
当然、軍神の異名に恥じぬ侵略ぶりを味わった北条家は焦った。
山内上杉家の様な実力を持たない関東管領の檄文なら鼻で笑い捨てれたが、上杉輝虎の檄文となったら話は大きく変わってくる。
関東を支配する一強になりつつあった北条家を恐れていた関東の諸大名が勝ち馬に乗ろうと挙兵して、上杉輝虎と共に本拠地の小田原城まで攻めてくるのは目に見えていた。
すぐさま北条家は上杉輝虎に対しての共闘を願う使者を諏訪へ送ってきた。
武田家の忍者が上杉輝虎の檄文に関する情報を掴んでから、たったの三日後だった事実と様々なタイムラグを考えると、その焦りっぷりが良く解る。
しかし、この会談に向けた計画が既に進行していた為、その申し出を断ったのは言うまでもない。
武田家と上杉家の確執は有名であり、まさか断られるとは思ってもみなかったのだろう。その時の茫然とした使者の顔ときたら、今思い出しても笑える。
すぐさま北条家は上杉輝虎に対しての共闘を願う二人目の使者を諏訪へ送ってきた。
それも北条家の重臣中の重臣、北条家初代『北条早雲』の時代から仕える北条家の長老であり、生き字引たる『北条幻庵』を。
「なるほど、関東に平穏を……。
しかし、上杉殿。果たして、関東は乱れているのかな?」
両手を腰で組みながら右手側、舞台の東へと歩いてゆく。
その方向に意味は無い。前方には上杉輝虎が、左手側には藤孝殿が居り、後ろには自分が座っていた床几があるからに過ぎない。
舞台の縁に立ち、陽の光に反射して輝く犀川の水面を眺めながら投げる。
上杉輝虎が関東管領として、関東へ攻め入る大義名分を根底から否定する問いかけを。
「何を仰る! 武田殿、貴方が知らぬ筈あるまい!
元々は今川の臣でありながら、相模を掠め取ったばかりか、関東に百年の騒乱を招いた北条の大罪! 断じて、許せるものでは有りません!」
たちまち上杉輝虎は激高した。
床几を蹴り飛ばして立ち上がり、その怒鳴り声たるや天地を揺るがすが如し。
そうなると覚悟した上での挑発だったにも関わらず、胸が飛び出そうなくらいドッキーンと跳ねた。
恐怖心から顔を振り向けたくなるのを堪えて、視線だけを左右に忙しなく向けると、犀川の両端に控える両軍が何事かとざわめき湧いているのが見て取れる。
青空を見上げながら震える息を大きく吐き出しての深呼吸を一つ。
駄目元だった筈の提案に芽が有るっぽいのだから是非とも花を咲かせたい。
「確かに……。だが、しかしだ。
そもそも、鎌倉公方と関東管領が争いさえしなければ、北条は今の様な大領を持つどころか、大名にすらなっていなかった。
幾内が乱れている時だからこそ、それを教訓に東国を纏め、宗家を助けなければならない役目を持ちながら私利私欲に走り、同族同士の内紛を重ねた古河足利家と両上杉家。
彼等にこそ、罪過を感じないだろうか? 中央の乱れは関東にまで及び、今では東日本全体へと広がっている。彼等さえ、役目をきちんと果たしていたら、今の戦国の世はとっくに終わっていたかも知れないのだ」
上杉輝虎に背中を向けたまま語る。
その内容は所謂『鶏が先か、卵が先か』的な揚げ足取りだが、真実でもある。
幸いにして、上杉家と北条家の確執は根深いが、上杉輝虎個人と北条家の確執は浅い。
それに上杉家は上杉家でも上杉輝虎が家督を継いだ山内上杉家として見たら、昨年の侵攻で故地『上野』を取り戻している。
つまり、上杉輝虎は山内上杉家の家督を継いだ者としての大義は既に果たしている。
あとは関東管領の立ち場としての大義をいかに納得させるかだが、それについては格好の説得材料が有った。
「そして、北条を語る上で外せないのが、初代から頑なに守られている四公六民の租税。
五公五民が当たり前。戦乱が有れば、六公、七公も有り得る今の世の中、民衆にとってみたら北条の支配下はこの世の極楽だ。
しかし、北条家と接する統治者にとって、これほどの脅威は無い。
下手したら、民衆が北条の支配が良いと言い出して、一揆を起こしかねない。これが軋轢を生み、北条悪しきの風潮を生んでいる」
それにしても、ノッてきたと言うか、俺の舌もなかなか滑らかに動くじゃないか。
実を言うと、今喋っている内容は全て台本に無いアドリブ。台本では上杉輝虎の正義感に訴えるのではなくて、責める予定だった。
去年、上杉輝虎は北条領侵攻の初手に奇襲を選んでおり、その辺りをポイントに責めて、北条家と上杉家を一時的に停戦させる思惑だった。
この会談も本来は稲の刈り入れを終えた秋に行う予定だったのを早めたのも、上杉輝虎が檄文で予告した通りに関東へ出兵する兆しが見えたからである。
無論、タダでは無い。
北条家と上杉家の停戦に成功する、失敗するを問わず、今回の行軍費は北条家持ちであり、成功した場合は上洛費用の援助が更に約束されている。
だが、どうせなら大成功を狙ってみたい。
北条幻庵殿から提案はされたが、義輝様の仲介が有る武田家とは前提条件が違う為、俺も、信繁さんも、勘助さんも、成功以上は絶対に望めないと考えていた大成功を。
それともう遅すぎる言い訳だが、この熱意が現代に生きていた頃に持っていたらと最近は思う。
斜に構えていたと言ったら格好良いかも知れないが、現代で生きていた頃の俺は一日、一日を大事にしていなかった。
子供の頃は勉強に、運動に、大人になってからは仕事に百パーセントの努力を注いだ事が無かった。
いや、注いだつもりになっていたと言うべきか。何をするにしても『これくらいで良いや』と自分の限界を決めていた。
しかし、この戦国時代にタイムスリップしてからは違う。
晴信の影武者として疑われた途端、俺の人生はそこで終わる。こうして、アドリブがポンポン出てくるのは日々の努力の賜物だ。
常に信繁さんや勘助さんが傍に居てくれるとは限らない。常に台本が用意されている訳では無い。
完璧な晴信を演じ切るには筆跡や立ち振舞いの真似事だけでは足りない。戦国時代にタイムスリップした直後の三ヶ月間で学んだソレは最低限の要素に過ぎない。
晴信が持っていただろう知識を、交友関係を一年、二年、三年と少しづつ必死に学んで血肉にしてきた。
その必死さが認められたからこそ、こんな大舞台を信繁さんと勘助さんの二人に任される様になったし、任せてくれた二人の期待に応えたい。こんな気持ち、現代に生きていた頃は一度も持った事が無かった。
それに今だから解る事が有る。
戦国時代にタイムスリップしたばかりの頃、俺は信繁さんと勘助さんの二人に信用はされていたが、信頼はされていなかった。
住む家と贅沢な食事、あとは可愛い女を与えとけば、十分だと思われていたに違いない。信繁さんが忙しい合間を縫って、諏訪の屋敷へ訪れていたのも監視の有ったがあっただろう。
勿論、それをボヤくつもりは無い。
信用して貰っただけ御の字と言うべきであり、いきなり赤の他人を信頼しろと言うのは無理が有る。
二人からの信頼を感じる様になったのは三年目くらいからか。
以前は笑い飛ばされたり、聞く耳を持ってくれなかった未来の知識を改めて尋ねられる様になり、それが武田家の政策などに大きく関わる様になってから。
「では、武田殿は……。北条を許せと?」
「いいや、許すのでは無い。正すのだ」
「正す?」
そして、俺の判断は間違っていなかったと確信する。
上杉輝虎の声に先ほどまでの様な猛りは無い。問いかけてくる行為自体もこちらの説得に耳を積極的に傾けている何よりの証拠だ。
「そう、北条の誤りは帝と幕府を軽んじたところに有る。
今は戦国の世、鎌倉公方や関東管領にその資格無しと判断したのなら、それに挑むのは結構。
しかし、北条は勝ったら勝ちっ放し。勝者としての義務を疎かにして、所持する官位は相模守と左京大夫の二つのみ。
これでは関東が治まる筈が無い。帝と義輝様に謁見して、その大領に相応しい官位を得るべきだったのだ。上杉殿、貴殿が関東管領を継いだ様にな」
「確かに……。信玄様の仰る通りです。
義輝様も、先代様も、そのまた先々代様も上洛を促していますが、梨の礫。北条家は何を考えているのやら」
藤孝殿のアシストが上手い具合に入る。
機は熟した。懐に忍ばせてあった書状を取り出して振り返り、封書の中に折り畳まれたソレを背中から吹いてきた風に翻して広げる。
「よって、儂はここに提案する!
既に結ばれている甲相駿の三国同盟。ここに上杉殿の越後を加えた東国同盟の締結を!」
「と、東国同盟っ!?」
上杉輝虎と藤孝殿が驚愕に異口同音を叫ぶ。
当然だ。これほど巨大な一勢力が東国に存在したのは戦国時代以前にしかない。
それを踏まえて、俺がここまで重ねてきた言葉の意味をちゃんと理解しているなら、これは東国のみならず、日本全体の戦国時代自体そのものを終わらせるチャンスとなる。
但し、それもこれも全ては上杉輝虎次第だ。
北条家に対する蟠りを捨てて、北条家討伐の檄文を関東の諸大名に放った関東管領としての面子が潰れてしまうのを飲み込まなければならない。
しかし、上杉輝虎の弱点は正義感。
上杉輝虎が北条討伐以上に上洛を強く望んでおり、そのチャンスに気づきさえしたら絶対に食いついてくる自信が俺にはあった。
「この書は北条家の重臣、北条幻庵殿と共に纏めた上杉家と北条家の同盟に関する腹案だ」
「み、見せて下され!」
案の定、すぐさま上杉輝虎は俺が手に持つ北条幻庵殿から預けられた書状を確かめようと右手を伸ばしてきた。
それもこちらが歩み寄るまでもなく今にも駆け寄って、俺の手から書状を引ったくり取ってゆきそうな必死の形相で。
余談だが、この東国同盟の素晴らしい点は天下を握ろうとする野心を抱く者が一人も居ないところだ。
上杉輝虎は言うに及ばず、俺も天下なんて面倒事は真っ平御免。北条家も初代より一貫して、その目は西よりも東に向いている。
今川家を継いだ今川氏真は野心を抱いていたとしても、その器量を持っていない。
俺が知る歴史と違い、武田家が甲相駿の三国同盟を破棄しておらず、支援も行っている為、三河の松平家と辛うじて拮抗した勝負を続けているが、それを独力で解決する事が出来ずに武田家を頼ってきた時点でお察しである。
唯一の心配はまだ若い勝頼だが、勝頼も諏訪の方の育て方が良かったのだろう。
義信ほどでないにしろ、正義感が強い。真田幸隆と真田昌幸の二人を傍に置いた事も加えて、生来の性格を変えてしまう様なよっぽどの出来事が起こらない限りは大丈夫だろうと心配はしていない。
「上杉殿、断言しよう。北条の統治は既に四代、貴殿が春日山で関東の平穏を幾ら叫ぼうが無駄だ。
もし、それを本気で成そうと考えるなら、貴殿は居城を関東へ移す必要が有る。
それも北条の影響力が薄れるまで貴殿のみならず、次代、次々代……。最低でも四代、五代に渡ってだ。
なにしろ、先ほども言ったが、民衆にとってみたら、北条の支配下はこの世の極楽と言うべきもの。
貴殿が春日山へ帰る度、民衆は北条の兵を歓迎して引き入れて、城を取っては取り返されてを繰り返すのが目に見えている」
書状に書かれている内容は簡単なもの。
北条家が上杉家と停戦、或いは同盟を結ぶ意思が有り、具体的な旨は何処に互いの境界線を定めるかくらい。
それ以外は当主同士が実際に会って話し合おうとしか書かれておらず、その日時も、場所もまだ決まっていない。
それでも、その一度読んだら十分な書状を渡すと、上杉輝虎は食い入る様に無言で見つめた。
視線を忙しなく何度も、何度も走らせているその隣に立ち、笑みを堪えきれずにニヤリと零しながら駄目押しを加えてゆく。
「それに関東が例え治まったとしてもだ。
中央が乱れていては意味が無い。所詮、関東の平穏なんて、ちょっとしたきっかけで吹き飛ぶ。
だから、選択を誤ってはならない。東国同盟、これこそが百年の長きに渡る戦乱の世を終わらせる絶好の機会だ」
もうすぐ、今すぐ、次の瞬間を以て、歴史が大きく変わる。
それは俺にしか解らない出来事だが、その神の所業とも言える行為を自分が成してしまった強烈な禁忌感と達成感に心がゾクゾクと震えて止まりそうになかった。




