～幕間～ 上杉輝虎、答えを得る
「夏草や、兵どもが、夢の跡……。」
芸事に造詣をさほど持たない武辺者の儂ですら、この一句の素晴らしさが解る。
既に幾度も詠んでいるが、詠む度に心が感動に打ち震える。初めて聞いた時など涙が知らず知らずの内に零れ落ちていたほどだ。
どんなに胸を野望の炎で焼き焦がそうが、大自然の前では小さな灯火でしかない。
人間が一生を費やして、大自然を燃やそうとしたところで狭い範囲に過ぎず、その暴挙の跡も年月が経ってしまったら元に戻る。
そんな事を行うくらいなら、御仏が仰っている様に皆で手と手を取り合い、今の荒みきった戦国の世を少しでも良くしようではないか。
正しく、この一句こそが義を持たぬ世の愚か者に言ってやりたかった儂の言葉だった。
長尾の家督を継いで以来、義の旗を掲げて探し続けてきた言葉だった。暗中模索が過ぎて、半ば探すのを諦めかけていた言葉だった。
だからこそ、この一句の作者が信玄だと藤孝殿の口から明かされた時、素直に認められなかった。
認めてしまったが最後、信玄は儂と同じ理想を実は掲げて戦っていた事になる。それは詰まるところ、この十年の長きに渡る信玄との戦いが無意味なモノだったと繋がってしまう。
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり……。」
しかし、信じてみたい心も確かに存在した。
その一助となっているのが、義輝様の居城である二条城の襖に書かれた信玄の言葉だ。
これもまた本当の財産とは城や土地、金に非ず、人との縁こそが最大の財産だと説き、皆で手と手を取り合う大切さを訴えている。
信玄が信玄と名乗る以前、晴信だった頃に行ってきた非道の数々。
それを悔いて、信玄が心を改める事を望み、実際に舌戦で信玄に向かって叫んでいたのは儂自身である。
だが、信玄が改心の様子をいざ見せたら信じる事が出来ない。
儂はそんな小さな男だったと言うのか。自身の情けなさが恥ずかしくて堪らない。
上越軍勢の集結地点である牟礼の先、中越軍勢を待つのを口実に三登山の中腹に本陣を構え、善光寺平を眼下に望みながら既に五日間。小さな神社の本殿に籠もって悩んでいるが答えは見つからず、完全に思考の迷路に嵌っていた。
「殿、宇佐美定満に御座います」
「おお、爺！ 来たか！」
しかし、背後から聞こえてきた声に険しかった表情も、固く結ばれていた口も瞬時に綻んだ。
すぐさま立ち上がって振り返り、社の戸を両手で左右に勢い良く開け放つと待ちに待った姿がそこにあった。
こんな事を言ったら怒られるが、爺は七十を数える老人である。
戦働きは困難であるばかりか、危険でしかない為、春日山城の留守役を任せて、本来は戦場に呼び寄せる予定は無かった。
だが、爺は我が上杉家随一の知恵者。
軍略、政略を問わずに卓越した知識を持っており、その年齡故に儂の倍以上の経験を持つ爺なら、儂の悩みをきっとたちどころに晴らしてくれるに違いないと老体をここまで運んで貰った。
「聞きましたぞ。細川様が武田と事を構えるのを猛烈に反発しているとか？」
「うむ、そうなのだ。ここに籠もっている間は良いのだが、それ以外は何処へ行くにも付き纏ってな」
爺が掛け声を『どっこいしょ』と漏らして、本殿に上る階段の一段目に腰をかける。
大抵、神社は見晴らしの良い場所に在る為、鳥居から本殿へ至るまでに急勾配な石階段が付きものだ。
その例外に漏れず、この神社も小さな社の割に立派な石階段が作られており、そこを登ってくるのが一苦労だったのだろう。
「ふぉっふぉっ！ 今、儂もここへ来る時、殿を説得してくれと頼まれました」
「儂とて、義輝様の期待に答えたい気持ちは有るのだ。しかし……。」
他の者なら『神に背を向けて座るとは罰当たり者め！』と怒鳴るところだが、爺なら仕方がない。
神社に祀られている酒解神の大山津見神も酒を奉納しておけば許してくれるに違いないと苦笑を漏らして、爺の隣に腕を組んで立つ。
そう、全ての始まりは上越の軍勢が牟礼に集結しつつある時だった。
あと三日、藤孝殿が儂の元に現れなかったら、儂はこの地に陣を構えず、武田軍を迎撃する為に軍勢を善光寺平へとっくに進めていただろう。
しかし、藤孝殿は今度こそは我等と武田家の間に和を結ばせようとする義輝様の不屈さを携えて現れた。
信玄が北信濃から越後へ攻め入ろうとしているのは何かの間違いだと強く訴えて、その真意を問い質してくると言い残すと、腰を落ち着かせる間もなく馬を疾風の様に走らせて去って行った。
この時、その行為を重臣達の誰もが笑った。
儂自身、人の熱意を笑うでないと嗜めはしたが、正直に胸の内を明かすと同じ気持ちだった。
なにせ、信玄が武田家の総力を集めた軍勢を北信濃へ進めてきた事実は揺るがない。
百や二百程度の兵力ならまだしも、一万や二万を数える兵力となったら、それを動かすだけで兵糧の量は膨大なものとなる。
膨大な兵糧を消費してまで大軍を動かすのだから、それに見合う目的が有るに決まっており、その目的が何かと言ったら答えはたった一つしかないからだ。
だが、上越の軍勢が集結を終えて、牟礼を南下。
山間の道を通り、明日には善光寺平へ進出しようとしたその日の夜。藤孝殿が信玄の一句を、これこそが信玄の真意だと持ち帰った。
その後は先ほど説明した通りだ。
儂は後押しが欲しかった。その後押しが爺の言葉なら素直に受け入れられると考えた。
「ならば、断言しましょう。
夏草や、兵どもが、夢の跡……。儂は信玄が作ったというこの句を聞いて確信しました。
嘗てはどうあれ、今の信玄は信用が出来ます。故に……。私は信玄と手を結ぶべきだと具申します」
「なっ！？」
しかし、爺の選択が信玄との同盟に有ると知って愕然とした。
爺の選択にもだが、儂は知らず知らずの内に爺の選択は信玄との戦いに有ると思い込み、儂の本音はそこに有ったのだと知って。
それを自覚した途端、あとは堰を切った様に本音が次から次へと露わになり、己の醜さと対面せざるを得なくなった。
そう、儂の武人としての心は信玄との戦いを切望していた。信玄ほど儂の血を滾らせてくれる者は居らず、儂の闘争心を満足させてくれるのは信玄一人のみ。
昨年は関東の雄たる北条家と遂に刃を交えたが、北条家当主『北条氏康』は信玄と比べたら小物であり、血の滾りは感じなかった。こんなものかと落胆を覚えたほど。
だが、それは我欲だ。
儂が掲げる義とは相反した愚かさである。
「殿は憶えておられますか？
先の戦いの直後、信玄が家督を息子に譲った時、それが謀略の可能性が有ると儂が進言したのを」
日頃から自身を毘沙門天の化身と名乗りながら、その実は我欲に塗れていたとは羞恥のあまり爺の顔をまともに見れない。
たまらず視線を落とすが、爺には全てお見通しらしい。声は出さずに肩で笑い、前置きに『やれやれ』と置いて問いかけてきた。
「ああ、憶えている」
それはまるで駄々をこねている幼子を諭すかの様な優しい口調であり、思わず苦笑を漏らしながら頷く。
儂は今年で三十を数えるが、爺から見たら毘沙門天の化身どころか、林泉寺の小坊主でしかなかった頃の虎千代という事か。いつもながら爺には敵わない。
「なにせ、正室の三条の方との不仲は調べるまでもなく越後まで噂で届くほどでした。
片や、今は亡き諏訪の御料人に対する情愛の深さも。信玄が信濃攻略に熱心なのは諏訪の御料人に会いたいが為とまで言われたほどです。
でしたら、正室が産んだ本来の嫡男を廃して、本当に愛する側室、或いは愛妾の子供を自身の跡継ぎにしようと企む。
歴史をちょっと紐解いたら、この様な例は幾らでも有ります。
しかし、三条の方は先の左大臣『三条公頼』の次女。いかに信玄とて、確かな理由も無しに義信を廃嫡する事は出来ません。
だったら、家督を継がせてた後、何らかの失態を演じるのを待って、それを理由に廃位を迫るのが無難と言えます。
そして、それこそが信玄の狙いだと儂は考えました。少なくとも、隠居表明文に書かれてあった取って付けた様な理由よりは妥当だと判断しました」
おかげで、心が随分と軽くなった。
この上は自覚した我欲を抑える為に修行を今以上に積まなければならない。そう爺の話に耳を傾けながら決意する。
余談だが、武田家との先の戦いが終わった直後、信玄から隠居表明文が届いた時、誰もがその真意を計りかねた。
当時、信玄は四十手前。若いとは決して言えない年齡だが、爺や越前の朝倉宗滴殿、上野の長野業正殿の例を考えたら隠居するには早すぎた。
しかも、その隠居理由が『三度に渡り、北信濃を巡る当家との戦いで多大な犠牲を強いた為』ときた。
信玄を知る者なら失笑を覚えるしかない理由であり、爺の取って付けた様なという表現は正に的を得ていた。
「しかし、その予想は外れました。
忍びを甲斐と諏訪へ放ったところ、得られた情報は完全に逆のもの。
家督を譲る以前の信玄と義信は確かに不仲だった様ですが……。
信玄は義信を強く信じて見守り、義信は偉大な父に少しでも近付こうと日々を熱心に励む。
正しく、これこそが理想の父と子の姿。我等としては面白く有りませんが、次代の武田家が安泰なのは間違い有りませんでした」
「……だな。惜しい男を亡くしたものだ。
文を何度か交わしたが、儂と似た信念を持っている様だった」
信玄の跡を継いだが、たった数年で急死してしまった義信を空を見上げて悼む。
お互いに立ち場を持つ身であるが故に無理だが、同じ旗を仰ぐ者同士なら、或いは十年後なら酒を美味く酌み交わせる友となっていたに違いない。
そう確信を抱かせるほどの好感が持てる若者だった。
儂ですらこうなのだから、自慢の息子を亡くした信玄の哀しみは海よりも深い筈だ。
「では、殿はこう考えているのではありませんか？
信玄は大事な息子を急に亡くして、その哀しみのあまり野心に再び取り憑かれたと」
「うむ、その通りだ」
「やはり……。そこが間違っていますぞ」
「何？」
ところが、それを爺は違うと言う。
いや、信玄の哀しみは否定しなかったが、儂の予想は否定した。
「その程度の軽い男に……。
夏草や、兵どもが、夢の跡。この様な一句は決して詠めませぬ。
そもそも、野心に再び取り憑かれたのなら、家督も再び取り戻す筈。違いますか？」
だったら、此度の大軍を率いての進軍は何なのか。
それが解らなくなるが、爺の言葉は説得力に富んでおり、押し黙るしか無かった。
「もう一度、ここで話を戻しましょう。何故、信玄は家督を譲ったのか？
私の予想は間違っていましたが……。ここにこそ、答えが有ります。
先の戦いの後、暫くの間、殿は事ある毎に零しておられましたな。信玄は自分が討ち取った筈だと」
その反動では無いが、爺から更なる問いかけを尋ねられた次の瞬間。
武田との先の戦いで受けた屈辱がまざまざと蘇り、その怒りが言葉となって次から次へと溢れ出てくる。
「そうだ！ 儂は信玄を討ち取った！
首は取れなかったが、儂の太刀が信玄の首を深々と斬り裂くのを見た！
深い霧の中だろうと儂が信玄を見間違える筈が無い！ その手応えも確かに感じた！
だから、それ以上の無益な戦いを止めさせる為、儂はその旨を全軍に伝えた！
ところが、勝ちを急ぐ気持ちが有ったとは言え、一夜が明けてみたら信玄は生きており、儂は武田から嘘付き呼ばわりだ！
その時の悔しさが解るか？ この儂が嘘付き呼ばわりだぞ？
たまたま落ち延びた先の生島足島神社に名医が居ただけではないか！ その名医が居なかったら、信玄は間違いなく死んでいたのだ！」
「そう、それです！」
「う、うん？」
思い出せば、思い出すほどに煮え滾る怒り。
まだまだ言い足りなかったが、爺が儂に勢い良くビシッと指を突き付けて大声で遮り、思わず言葉を飲んで息も飲む。
「殿も一人くらいは心当たりが有りませぬか？
嘗ては先陣を切るのが生きがいの様に戦場ではイケイケドンドンだったのが、半死半生の傷を負って九死に一生を得た結果、性格が丸くなって慎重さを覚えた者を」
「ま、まさかっ！？」
そして、ここに至り、爺が言いたかった事をようやく理解する。
爺の言う通り、そういった例は確かに存在するが、信玄もそれだと言うのか。
「ましてや、信玄の場合は九死に一生を得た場が生島足島神社です。
それも殿が言う通り、そこに名医が運良く居たのですから、天の思し召しをさぞや感じた事でしょう。
だから、それまでの行いを悔い改めて、仏門へ入った。
まあ、京での行いから察すると、本当は八百万の神に仕える神職に就きたかったのかも知れません。
しかし、甲斐武田は清和源氏の血筋。
遠く遡れば、帝の血が流れており、神職を許された一族以外が勝手に名乗っては帝に対する反逆と見なされる可能性が有りますからな」
だが、爺の言葉はやはり説得力に富んでいた。
言葉を重ねる毎、信憑性はより増して、否定を叫びたい衝動を封じられる。
先ほども言ったが、儂は信玄が心を改める事を望んでいた筈である。
しかし、信玄が改心の様子をいざ見せて、それを最も信頼する爺が肯定すると、心は千々に乱れ始めて、鼻息が荒くなってくるこの高揚感に似た動揺の正体は何だと言うのか。
「で、では……。あ、ああも大軍を率いてきた理由は何なのだ！」
心が震えているなら、指先も震え、出した声も震えていた。
最後の抵抗に善光寺平の彼方に見える武田家の軍勢を指さして叫ぶ。
「これは異な事を仰る。それは殿ご自身が一番解っている筈です」
「わ、儂が迷っているからか？」
だが、これまた爺の言う通り。
儂は最初からその可能性に気づいていた。気づいていながらも、その可能性をまさか、もしかしたらと心の隅の隅に置き、目を背けてきた。
「左様……。一昨年、上洛して以来、殿は足利様のお誘いをのらり、くらりと躱してきました。
是も、非も答えを出さず、曖昧に誤魔化して……。
正直、何事も即決を旨とする殿らしからぬ姿でしたが、それは詮無き事。
我等が知る信玄と足利様が語る信玄とでは大きな隔たりが有りましたからな。
しかし、今となってはもう無視も出来なければ、誤魔化しも効きません。
そう、信玄は痺れを切らして、殿を話し合いの場に立たせる為、大軍を自ら率いて出向いてきた。
恐らく、今日か、明日には使者を送ってくるでしょう。その使者が誰かで信玄の本気さがはっきりと解る筈です」
暫くして、爺の話を聞きながら興奮が少し収まり、この胸をかき乱す心の正体が解ってきた。
これは達成感だ。血を分けた親兄弟ですら憎しみ戦い合う戦国の世を儚んで義の旗を掲げ、幾多の戦場を駆け抜けてきた自分の行為は間違いで無かった。
「しかし、その使者が木っ端だとしても、今回は話し合いだけは応じて退くべきです。
今、武田と刃を交えたら、必ずや負けます。
八幡原なる地にて、信玄が三日三晩に渡って行った過去三度の戦いで散った者達を追悼する英霊祭。
例え、戦場で死んだとしても英霊と讃えられるのなら、武田の兵達は信玄の為に命を喜んで差し出すでしょう。
死兵となった者ほど厄介なものは有りません。それが万を超すとなったら、敗北は必至。
ですが、それ以上に問題なのがこの英霊祭による影響で我軍の中に動揺が広がっており、兵士達が今の武田と戦う事に疑問を感じ始めている点です」
その確かな証拠が爺が今言った『英霊祭』である。
断言しよう。嘗ての信玄なら、この様な催しを絶対に行わない。
なにしろ、すぐ間近にある善光寺からは勿論、信濃中の寺社から僧、神官を招いての慰霊祭だ。
それも当家と三度に渡る戦いの中で散った者達を英霊と呼んで讃え、それを祀る社と石碑を立て、三日三晩に渡っての大々的な催しである。
忍の報告によると、今は仮設の小さな社に過ぎないが、いずれは全ての武家が武運の神と崇める八幡神の総本社である宇佐神宮から分社様を招いて、大きな神社にする計画が有るらしい。
つまり、これは信玄の野心放棄宣言以外の何ものでもない。
もし、これほどの慰霊祭を催しておきながら、信玄が北信濃における版図拡大を企んで善光寺平を戦場としたら、信濃中の寺社からそっぽを向かれるのは確実。信濃全域の統治に多大な悪影響を及ぼすのは間違いない。
もっとも、それはこちら側にも言える。
爺の言う通り、今の武田家の軍勢に戦いを仕掛けたら敗北は必至。儂の訴えている義は地に落ちて、その旗を二度と掲げられなくなる。
最早、さすがは信玄と賞賛するしかない。
万事、成す事に抜かりが無い。いつしか、心は今日の大空の様に青く澄み渡り、思わず軽快な笑い声が零れた。
「はっはっはっ！ 改心したとは言え、信玄は信玄！ 決して、一筋縄ではいかんな！」
「御意！」
尚、信玄が使者を送ってきたのはこの日の夕方。
それもその使者が信玄の腹心中の腹心であり、実弟の武田信繁だった為、我が陣中が上に、下にの大騒ぎとなったのはまた別の話である。
