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影武者信玄 ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~   作者: 浦賀やまみち
山の章

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第01話 再び始まりの地へ




「ふぅ……。天気が良いな」


 何処までも澄み渡った青空を馬の背に揺られながら見上げて呟く。

 ぽかぽかとした陽気は心を自然と蕩けさせる力を持っているが、周囲の様子は物々しかった。


 それもその筈。今、俺は総勢二万の兵力と共に千曲川沿いを北上中。

 今朝、出発した時は右手側に見えていた妻女山は今や背中に在り、いよいよ北信濃の平野に差し掛かっていた。


 一応、北信濃は武田家が支配下に置いているが、その心服度はお世辞にも良くない。

 関東の山内上杉家の家督を継ぎ、今は上杉輝虎と名前を変えた長尾景虎の調略が重ねられているのは明らかである。


 実際、北信濃を統治する高坂昌信から聞かされた愚痴によると、北信濃は年貢の徴収量が非常に悪いらしい。

 北になれば、なるほどに、上杉家領に近くなれば、なるほどに年貢の徴収領は悪くなり、北信濃の北半分は最初から年貢高に数えていないのだとか。


 それだけに上杉家の軍勢が何時、何処で現れるか。

 数多の忍者を偵察の為に四方八方へ放ち、安全を確保しているが絶対では無い。

 周囲の様子が物々しくなるのは当然だが、気負い過ぎては心が徐々に疲れてしまい、いざと言う時に力を発揮する事が出来ない。


「なあ、勝頼? ……勝頼!」

「えっ!? あっ!? はい、何ですか?」

「今日は天気が良いな」

「えっ!? あっ!? はい、そうですね」


 だから、指揮官の態度が大事になる。

 指揮官が泰然と構えていれば、それは下に自然と伝播して、リラックスした空気を生む。

 だが、隣を行く勝頼に横目を向ければ、口をむっつりと固く結び、その眼差しは睨み付ける様に鋭くて、明らかに気負い過ぎていた。


 おかげで、俺達の周囲は緊張感が無駄に漂い、誰も喋ろうとしない。

 今朝、出発してからずっとだ。皆が道を蹴る音と甲冑が揺れる音が規則正しいリズムを鳴らして、それはまるで閲兵式を行っているかの様だった。


 もっとも、勝頼が気負ってしまうのも無理は無い。

 当主就任後、手頃な山賊団を選んで初陣を急遽済ませてあるとは言え、今回が実質的な初陣だ。

 それも率いている兵力が武田家の総力を挙げた最大動員となったら尚更である。これで気負わなかったらおかしい。


 しかし、その隣にいる俺は堪ったものではない。

 勿論、他の者達もだ。しばしば、無言ながらも『大殿、何とかして下さいよ』という切なるアイコンタクトが届いていた。


 だが、俺自身も実は初陣である。そんな術を知っている筈が無い。

 こんな時の為に真田幸隆を後見人に、真田昌幸を側仕えに据えたのだが、その二人は残念ながらここには居ない。


 真田家は東信濃の西端に在る上田を領地に持つ家。

 北信濃と東信濃を統括する高坂昌信を一大名として考えたら重臣中の重臣である。

 それに家督を交代したばかりで不安も有るのだろう。真田幸隆は息子達の、真田昌幸を兄達の一助となる為、今は役目から一時的に離れ、俺達が今居る場所よりずっと先に位置する高坂昌信が率いる先鋒隊に所属している。


 その結果、俺はこの場の最上位者でありながら周囲を気遣い、勝頼を接待するという変な構図が出来上がっていた。

 話題を懸命に捻り出して、あれやこれやと試しているが、効果はさっぱり。ほぼ俺一人が空回りして喋っている状態に陥っていた。


「さっきから何度も言っているが、そう気負うな。

 今から肩肘を張っていては本番どころか、本番を迎える前に疲れてしまうぞ?

 それに戦は一日で終わる方が珍しい。時には数ヶ月に及ぶ事だって有るのだから、もっと気を楽にしろ」

「はい、解ってはいるのですが……。」

「だったら、景色を楽しめ。

 お前、甲斐と諏訪しか知らないだろ? 景色を楽しんでいれば、心も自然と緩む」

「なるほど、景色ですね! こうですか!」


 そして、今朝から通算で九度目になるアドバイスもやっぱり失敗に終わった。

 勝頼は景色を精一杯に楽しもうとしたのだろうが、景色を楽しもうとするのにその動きは鋭敏が過ぎた。


 顔を振り向ければ、風を切る様なブォンと。

 そこを見定めれば、射殺さんばかりのギロリと擬音が聞こえてきそうなほどだ。


「違う、違う。そうじゃない、そうじゃない」


 溜息を深々と漏らしながら首を左右に力無く振る。

 勝頼は基本的に真面目で一直線な性格の持ち主。時に感心するほどの粘り強さも持っている。


 だが、それを逆に言ったら、生真面目で融通が効かないという意味になる。

 今回の場合、周囲の者達から見たら後者の印象が強いだろうが、問題は勝頼をあまり知らない更に周囲の者達だ。

 今の姿を戦を前に怯えている、弱腰になっていると勘違いをされ、勝頼武田家当主不適論が下手すると持ち上がりかねない。


 それは困る。非常に困る。

 俺と言うか、晴信の権威の下、勝頼の武田家当主就任と諏訪への武田家本拠地移転は断行されたが、その不満は決してゼロでは無い。


 端的に言うと、過去の栄華を忘れられない甲斐の者達『甲州閥』だ。

 ある程度、予想はしていたが、厄介な事になった。武田家の地力たる甲斐の国人衆が盟主たる武田家に不満を燻らせているのだから。


 ちなみに、俺と勝頼の仲は良好である。

 初対面の頃はぎこちない関係だったが、俺が住む諏訪の屋敷と勝頼が生まれ育った上原城が近くも無ければ、遠くも無い距離である上に多感な第二次性徴期と重なったのが功を奏したのではなかろうか。

 諏訪の方と会う為に上原城へ通っている内に段々と懐き始め、当主となる以前は勝頼の方から週一の頻度で俺を訪ねてくる様になり、お互いに忙しい身となった最近は都合を合わせて、狩りや遠乗りを一緒に楽しむ仲にまでなっている。


 それだけに現状を何とかしたかった。

 信繁さんからもくれぐれ頼むと言われてもいる。


 しかし、下手の考え休むに似たり。

 先程も言った通り、失敗を既に九度も重ねており、成功したと言えるのは考え悩むあまり俺自身の緊張がいつの間にか何処かへ消えてしまった事くらいか。


「では、どの様に?」

「どの様にと考えている時点でおかしいと気づけ。

 ただ、在るが儘に……。そうだな。歌なんて、どうだ? 歌を詠んでみろ?」

「歌……。ですか?」


 そこまで考えて、はたと気づいた。

 俺は勝頼の気を解すか、反らす事ばかりを考えていたが、俺同様に考え悩ませて、視線を自分自身の内側に向ける事こそが正解なのではないだろうか。


 その手段として真っ先に思い付いたのが俳句だ。

 現代において、俳句や短歌は高尚な文学というイメージを持つが、ここでは違う。


 ルールは季語と五七五の韻を踏んだ文字数の二点のみ。

 道具を必要とせず、どんな時でも場所を選ばずに作れる俳句はとても身近な娯楽である。

 勿論、貴人達が集って詠み合う歌会や書道、華道の様な流派が存在して高尚さも存在するが、現代と比べたら生活に溶け込んでおり、例えるなら駄洒落の様なもの。


 思い返すと、上洛の長い旅路もそうだった。

 俳句を持ち回りで一句詠み、それを皆で批評し合う。そうやって、退屈と歩き疲れを紛らわせていた。

 特に往路は藤孝殿という一流の先生が一緒だった為、馴染みを持っていなかった俺も様々なテクニックを教わり、京都へ着く頃にはごくごく当たり前に俳句を楽しめる様になっていた。


 前述にもあるが、勝頼は生真面目だ。

 一句を作るにしても軽々しい適当な一句は読まない。これぞという一句を何度も思い悩んで捻り出してくるに違いない。


 俳句の極意は心を静かな水面の様に落ち着かせる事だ。

 一句を思い悩めば、思い悩むほどに今は尖りきっている勝頼の心も丸みを帯びてくるだろう。


 幸いにして、苦し紛れから出た九度目のアドバイスから提案が上手く繋がっている。

 それと提案を行った以上、俺が先手を取って詠うのが礼儀になるが、この点にも幸運を感じる。


 なにしろ、左手に見える千曲川沿いに生い茂る林に俺は見覚えがあった。

 いや、目に焼き付いて忘れられない光景と言った方が正しいか。ここは戦国時代にタイムスリップしたばかりの俺が言われるがままに晴信の甲冑を身に纏い、俺の首を取ろうと追いかける長尾の軍勢から命からがらに落ち延びた場所だ。


 もう少し進めば、俺がこの戦国時代にタイムスリップした場所がある。

 即ち、その死を隠す為、首を断たれ、身ぐるみを剥がされた褌一丁の姿で野ざらしにされた武田晴信が息絶えた草原がそこにある。


「そう、例えば……。

 夏草や、兵どもが、夢の跡……。と言うのはどうだ?」


 そう、今の季節、この場所にこれ以上なく相応しい一句を俺は知っていた。

 馴染みが薄くなった現代においても大抵の者が知っている有名な俳句。江戸時代の歌人『松尾芭蕉』の俳句集『奥の細道』の中でも一、ニを争う一句を恰も自分が作ったかの様に青空を遠い目で見上げながら詠み上げた次の瞬間だった。


「素晴らすぃぃぃぃぃいいいいいし!」

「うおっ!?」


 勝頼が馬を列べている逆側のすぐ左隣から絶叫が轟いた。

 この突如の出来事に俺は勿論の事、勝頼も、周囲の者達までもがビックリ仰天。乗っている馬すらも驚き嘶いて前足を持ち上げる有り様。


「夏草や、兵どもが、夢の跡……。素晴らしい! 素晴らしい! 実に素晴らしい!

 ここは信玄様と輝虎殿が覇権をかけて戦い、数多の兵士達が武功を夢見て戦った散った場所!

 しかし、今は夏草が青々と生い茂っているだけ。その静けさの前では胸を焦がした嘗ての野望も一炊の夢に思えてならない!

 即ち、人間の考える事や成す事は儚く消えるが、自然はどんな嵐に遭おうがいつも変わらずに逞しく存在しているという意味ですよね!」


 しかし、人騒げさな張本人である藤孝殿は興奮しまくり。

 力強く握った両拳を大空に掲げながら絶叫を更に三連発。鼻息をフンフンと荒くさせて、俺がパクった松尾芭蕉の一句を解説すると、その確認を血走りまくった肉食獣の目で問いてきた。


「い、いや、それよりもだ。な、何故、ここに藤孝殿が居るのだ? ま、まずはそれを……。」

「そんな些細な事、今はどうでも良いでしょ!」

「い、いやいや、些細じゃないだろ? わ、我々は軍事行動中であって……。」

「だから、そんな下らない事よりも早く応えて下さい! 今、私が言った通りですよね!」

「う、うん……。ま、まあ、そうかな?」


 どうして、藤孝殿がここに居るのか。いつから居たのか。

 その疑問を藤孝殿の気迫に圧されて飲み込み、顔を引きつらせながら頷く。


「くぅぅ~~~っ! やはり……。やはり、そうでしたか!

 んっ!? ……ややっ!? もしや、もしやっ!? なるほど、そうですか! 解りましたよ!

 明国の古の詩聖『杜甫』の春望! 国破れて山河在り、城春にして草木深し! これを一節を置き換えたのですね!

 ますます素晴らしい! 詩聖『杜甫』ですら、八節を必要としたのを……。なんと、なんと三節に凝縮するとは!

 それが解ると今まで一字一句を変え様が無い完璧さを感じていた春望の遠き故郷を思った部分が蛇足の様に……。 

 素晴らしい! 素晴らしい! 素晴らし過ぎる!

 特に夢の跡……。夢の跡! ああ、信玄様の嘆き、哀しみがひしひしと伝わってきます! この余韻が実に素晴らしい!!」

「そ、そうか」


 最早、藤孝殿の独壇場だった。

 その身振り手振りを交えた猛烈な勢いを何人も止められずにいた。

 俺が相槌を辛うじて打てたのは藤孝殿から視線をチラリと送られ、それを求められたからに過ぎない。


 この間、俺達の前を行く部隊との距離がどんどんと離れてゆく。

 きっと後続の者達は俺達がいきなり行軍を止めて、何事かと思っているに違いない。


 だが、俺も、勝頼も、周囲の者達も足を自然と止めた。止めざるを得なかった。

 最初に足を止めた藤孝殿の熱弁を真剣に黙って拝聴しなかったら烈火の如く怒られそうで怖かった。


「そして、何と言っても今の世の中を如実に風刺している点が素晴らしい!

 しかも、それを覇者として名を馳せた信玄様が詠っているところに意味が有ります!

 室町を蔑ろにして、三好に尻尾を振る木っ端共に今すぐ聞かせてやりたいくらいです!

 間違いなく、これは歴史的名句の予感! それが道々の暇潰しだけに消えてしまうのは誠に残念でなりません!

 もっと世に知られ……。いや! いや、いや、いや! 後世へと伝えるべき一句!

 信玄様、お願いが御座います! 今の一句、私に預けて頂けませんか? 来春、帝がご主催をなされる歌会初めで是非とも詠み上げたいのです!」

「ええっ!? ……い、いや、駄目だ! そ、それは困る!」


 しかし、これ以上は駄目だ。とても黙ってはいられない。

 大絶賛に継ぐ大絶賛の末、藤孝殿から持ち掛けられた提案に目をギョギョッと見開かせながら慌てて口を挟む。


 ちょっと前の自分に馬鹿、阿呆、止めろと罵りたい。

 勝頼にちょっと良いところを見せようと下らない見栄を張った結果がこれだ。


 只でさえ、影武者の俺は晴信が本来は得る筈だった名声を奪っている身である。

 この上、松尾芭蕉が約百年後に得る予定の名声を先取りして奪うなんて恥知らずな真似はとても出来ない。藤孝殿を何が何でも止めなければならなかった。


「何故です! どうしてです! 理解が出来ません! 

 これほどの名句、帝に献上すれば……。はっ!? そう、そうでした!

 申し訳御座いません! 信玄様の御心を理解する事が出来ず……。

 しかし、ご安心を! 今の一句で私の心は今日の空の様に何処までも青く澄み渡りました!

 この上は信玄様のご期待に一命を賭して必ずや応えてみせます! この細川藤孝に全てお任せを!

 さあ、島風よ! その名の如く、風となって走るんだ! さあ、急げ! はいよ、はいよ! おっそーいー!」


 だが、駄目だった。こちらが提案を拒否した途端、日頃の洗練された雅さは何処に消えたのか。

 藤孝殿は結った髷が解けるほどに顔を左右に振り乱し、血走りきった目で唾を飛ばして怒鳴りまくり。


 挙句の果て、何やら謝罪した上に何やら一人納得しての自己完結。

 意味不明の並ならぬ決意を瞳に輝き宿すと馬に鞭を何度も入れ、その背中をあっという間に小さくさせてゆく。


「何だったんだろうな?」

「何だったんでしょう?」


 置き去りにされた俺は茫然と目が点。救いを求めて、顔を隣に振り向けるが、勝頼もまた茫然とした間抜けな顔を晒していた。




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