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影武者信玄 ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~   作者: 浦賀やまみち
火の章

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31/41

~幕間~ 上杉輝虎、毘沙門天に問う




「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子……。」


 厳しい冬が過ぎ去り、待ちに待った雪解けの春。

 外はまだまだ肌寒いが、護摩壇の火が肌を照らすこの毘沙門堂は汗が額に噴くほど暑い。


 しかし、それが良い。

 蒸し風呂の如く暑い中、経典を唱えれば、それだけで俗世の煩わしさを忘れて一心不乱となり、仏に祈りをひたすらに捧げる事が出来る。


 それは何ものにも代えがたい至福の一時。

 とかく、人はこれを苦行と呼ぶが、儂にとっては娯楽に等しかった。許されるなら、いつまでも祈りを捧げていたかった。


『景虎よ……。お前と信玄が北信濃を巡って争っているのは承知している。

 だが、それを承知した上で言わせて欲しい。お前、信玄と和を結ぶ気は無いか?

 実を言ったら、儂も以前は噂に聞く悪評を鵜呑みにしていたが……。

 あの男、信玄は実際に会って話してみると、悪評で言われている様な男とはとても思えぬ。

 こう言ったら、お前は怒るかも知れないが、あの男は勤王精神がとても厚くて、お前に通じるものがある。

 まあ、もっとも……。どうしてか、仏に対する信仰心はさっぱりだがな。

 どうだ? 真剣に考えてはくれないか? お前にその気が有るなら、儂は助力を惜しまない。是非、信玄と和を結んで欲しい』


 そう、一昨年。上洛して、義輝様と数年ぶりに再会するまでは。

 今では何をしていても義輝様の言葉が頭の片隅に有り、それに対する答えを未だに出せないでいて、この件を一旦でも考え始めると落ち着かなくなる。


 義輝様は本気だ。

 当初、天下の趨勢から導き出した策の一つであり、数ある幾つかの中に有る一つに過ぎないと軽く考えたが違う。


 これは提案というよりは懇願である。

 それも政治を抜きにした個人的な感情を多く含んでおり、義輝様は別の時と別の場所で友誼を深く持った儂と信玄の二人が争うのを単純に悲しんでおり、それが解るから明確な返事を出せないでいる。


「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是、舎利子是、諸法空相……。」


 そんな義輝様からの手紙が月に一度、時には二度、三度と届く。

 去年の冬は十年に一度の大雪で見上げるほどの高さの雪が積もったが、それでも届いたのだから義輝様の本気具合が伺える。


 厄介なのは義輝様の使者として藤孝殿がこの春日山へせっつきに訪れる点だ。

 去年は春と秋に二度訪れたし、今年も訪れる様だ。あと数日で訪れる予定の手紙が先ほど届いている。


「不生不滅、不垢不淨、不增不減、是故空中無色無受想行識……。」


 藤孝殿は義輝様に負けず劣らずの信玄信奉者である。

 それだけに藤孝殿が春日山へ訪れると、信玄と戦ってきた過去を持つ家臣団達が荒れに荒れる。


 儂と義輝様の間だけの話なら問題無い。

 征夷大将軍たる義輝様に意見するなど畏れ多い行為で口を挟む者は居ない。


 だが、藤孝殿が持つ官位は従五位下『兵部大輔』だ。

 官位としては儂が持つ『弾正少弼』と同格にあたるが、義輝様と比べたら圧倒的に話し易い。


 ましてや、ああも信玄の良いところやいかに信頼が出来るかを大声で熱弁を振るっては反発が出ない筈が無い。

 それも連日に渡ってであり、家中全体の雰囲気が険悪な一発触発寸前になるまで滞在して、それを見極めて去ってゆくから困る。


 その後、いつも儂がどれだけ苦労をしているか。

 去年は越中の神保家攻めと関東の北条家攻めが上手い具合にあった為、儂自身もそうだったが、家臣達もそこで思う存分に鬱憤を晴らして貰ったが。


「無眼耳鼻舌身意、無色聲香味觸法……。」


 しかし、隠居してからの信玄は評判が良い。

 義輝様や藤孝殿の言葉に頷ける点が有るのは確か。帝から気に入られて、正四位下『刑部卿』の官位を賜ってさえもいる。


 例えば、京都近郊に数多く存在する神社の再建だ。

 儂自身もその荒廃ぶりを憂いてはいたが、ただ憂いているだけで実行はとても出来なかった。

 再建させるだけの資金捻出が出来ず、その資金が有ったら越後をもっと豊かに出来ると考えていたからだ。


 ところが、信玄はどんな妖術を使ったのか。

 自分の懐は痛めず、利益を追求する筈の商人から多額の寄付金を引き出して、それを再建費に充てている。


 それも寄付をした商人は一人、二人の数では無い。

 京都や堺の名だたる大商人達は勿論の事、大中小を問わず、店舗すら持たない行商人ですら寄付を喜んで申し出たと聞く。


 その結果、都は大いに賑わった。

 荒廃する神社を再建する為の人員が必要になり、その日の食事すら覚束なかった流民達が職を得て、彼等が得た金を目当てに商人達が盛んに都を行き来する様になった。


 しかし、この大きな功績を信玄は誇っていない。

 これ等全ては偏に帝の大徳と義輝様の威光によるものと一切の褒美を断り、その功績を帝と義輝様の二人に譲っている。


 なかなかどころか、普通は出来ない行為だ。

 これこそ、儂が常日頃からそうありたいと心掛けている『義』の心そのものではないか。


「無眼界 乃至無意識界、無無明、亦無無明盡、乃至無老死亦無老死盡……。」


 だが、『しかし』だ。

 信玄が隠居をする以前、信玄と名前を変える前の晴信が行った義を軽んじた行為の数々を儂は知っており、それが首を縦に振るのを二年もの長い時を躊躇わせていた。


 そんな儂に義輝様や藤孝殿は言う。

 武田家当主という多くの人々を導かねばならない重責が信玄にそうさせたのだと。

 それが隠居してからの信玄で解る。立場を抜きにした今の姿こそが信玄の本当の姿だと。


 しかし、乱れた世の中だからこそ、義を見失ってはならない。

 確かに当主は時に非情な選択を迫られる時が有るが、最低限の義は守らなければならない。

 広大な信濃を次々と切り取り、武田家の支配下に収めた晴信の手腕は卓越したものだが、その義を軽んじた行為の数々によって多くの恨みを買っている。


 これでは駄目だ。土地を手に入れても、そこに住まう者達の心も手に入れなければ意味が無い。

 何時、誰が、何処で裏切るかが解らず、実際に北信濃の国人衆の中には生き延びる為に頭を武田家に垂れたが、儂が北信濃へ攻め込むその時は反旗を翻して味方するという誓約書を送ってきている者が何人も存在する。


 ちなみに、こちら側の事情ばかりを語ったが、武田家側は和を結ぶ事に関して問題は無いらしい。

 実際に武田家へ赴いた藤孝殿の話によると、基本的に前向きな考えを持っており、こちら側の意思次第。いきなりの同盟が無理なら段階を踏んでも良いとまで言っている。


 だが、これは去年の春。武田家当主が武田義信だった頃の話だ。

 武田義信が急死して、新たな当主に武田勝頼が就き、信玄が相談役として現役復帰した今、その意思はもしかしたら変わっているかも知れない。


 もし、そうなら悩む事は何も無くなるが、今も変わっていない場合はどうするべきか。

 いずれにせよ、その答えは去年の秋に春日山を訪れた後に武田家へ向かった藤孝殿が持っており、それまでに結論を出さねばならない。これ以上、義輝様を待たせる訳にはいかない。


「ふっ……。儂もまだまだという事か」


 いつしか、悩むあまり読経が途切れているのに気づく。

 悩みを鎮める筈が毘沙門堂に籠もる前よりも悩みを重くしている自分が滑稽で堪らず苦笑を漏らしたその時だった。


「むっ!?」


 本丸と繋がる道に敷き詰めた砂利が忙しなく鳴って近づいていた。

 この毘沙門堂は春日山城の最奥に位置しており、訪れる者は限られている。今日の本丸詰めの役目は宇佐美定満だった筈であり、外へ出なくても近づいてくる音の正体が必然的に解る。


 但し、定満は儂の相談役を務める半隠居状態の七十歳を超える老人である。

 その老人が年齢を顧みずに走ってくる。それだけで緊急を要する何かが発生したと解る。


「殿! 一大事に御座る!」

「爺、何事だ!」


 即座に立ち上がるが、爺が毘沙門堂の前で片跪く方が少しだけ早かった。

 観音開きの扉を両手で叩きつける様に勢い良く開くと、激しく肩を上下させる息絶え絶えな爺が目の前に居た。


「信玄が一万の兵を率い、猿ヶ馬場峠を越えて、姥捨に現れました!

 この他にも上田、小諸の軍勢が埴科郡へ続々と集結しつつ有り、その数は二万は超えるとの事です!」

「なっ!?」

「殿! 御下知を!」


 しかし、爺は息切れを無理矢理に抑えると、力強い眼差しと共に本丸から携えてきた風雲急を一息で告げた。

 その予想した以上の大事に息を飲んで目をこれでもかと見開く。今の今まで正反対の悩みを重ねに重ねていただけに衝撃は大きかった。


 やはり信玄は信玄という事か。

 義輝様の熱意を嘲笑う行為は晴信の頃とちっとも変わっていない。信じようとした自分が馬鹿だった。


「陣触れを直ちに出せ! 準備が整った者から直ちに出陣!

 上越の軍勢は牟礼へ! 中越の軍勢は飯山へ! 下越の軍勢は半数を後詰めとして長岡へ集い、東北に備えよ!」

「御意!」


 だが、今は呆けている暇も無ければ、後悔している暇も無い。

 信玄の用兵はその旗に掲げる『風林火山』の文字に籠められた意味通り、風の如く速い。すぐさま我を取り戻して、指示を矢継ぎ早に出す。


「おのれ! 信玄めぇぇぇぇぇええええええっ!」


 己の身を焼き尽くして焦がしそうなほどの怒りの炎が燃え上がってゆく。

 それは鼻息を荒くして怒鳴った程度ではとても治まらず、右手に持っていた護摩札を両手でへし折り、大地に思いっきり叩きつけても治まらなかった。




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