第08話 新しい武田家
「ほう! 今夜は海魚の塩焼きか!」
広々とした座敷に三条の方と二人っきり。
ここは躑躅ヶ崎館。奥の主は三条の方なのだから、特別な予定が無い限り、俺の食事相手を務めるのは彼女になるのが当然である。
だが、晴信との冷え切った夫婦関係がそうさせているのだろう。
食事中、三条の方は黙々と食べるだけで喋らない。喋るとしたら、それは食事を終える合図であり、今日や明日の予定などの事務的な会話を二言、三言を交わす程度で甲斐を訪れて以来ずっと居心地の悪い食事が常だった。
それ故、本来は楽しい筈の食事を前に気分を重くしていたが、本日の夕飯を乗せた膳が目の前に運ばれてきた瞬間、それが一気に吹き飛んだ。
今夜のメインディッシュはなんと鯛の塩焼きである。鯛は現代でも高級魚に数えられているが、安定供給が望めない今の時代は超高級魚であり、内陸で海を持たない甲斐で食べるとなったら超々高級魚になる。
言うまでもなく、諏訪に至っては生の海魚は鮮度の問題で運ばれてさえもこない。
それが目の前に運ばれてきて、テンションが上がらない筈が無いし、もう一つの大きな理由があった。
「はい、今日は特別な日ですから……。
それにこういったモノは暫く口に出来ませんから今夜くらいは……。やはり、お気に召しませんでしたか?」
喪に服す。
毎日が忙しない現代社会においてはほぼ廃れてしまった概念だが、今の時代はそれが当たり前の常識として存在している。
例えば、死者が極楽へ行けるか、地獄へ落ちるかの判定が行われる四十九日。
その時に故人が極楽浄土へ行けます様にと願って、親族は故人の罪を少しでも軽くする為、殺生を断つ意味で四十九日が過ぎるまで精進料理のみを口にする。
現代に生きていた俺にとって、これが意外と辛い。
去年の秋から豚の畜産が軌道に乗り始め、日々の食卓に豚肉が登場する様になっていただけに。
既に義信の死から二週間と少し。食事が楽しいと思えなかったのは精進料理ばかりが続いていたせいも有る。
「いや、そんな事は無い。……うん、美味い!」
そんな欲求不満の前に縁起物の鯛を葬儀の夜に食べるなんてという非常識は些細な問題でしかない。
たまらず箸を手に取り、鯛を一口目に迷う事なく選んで口に放り込むと、鯛独特の上品な味わいが口の中に広がった。
もし、この場に三条の方の目が無かったら涙がホロリと零れていたかも知れない。
嘗ては川魚が苦手だった俺も食べ続けている内に今ではすっかりと食べ慣れて、川魚を美味いと感じる様になったが、やはり俺は川魚より海魚の方が美味いと感じる。
最後に海魚を食べたのは上洛の旅の帰り道。信長が豪勢に催してくれた尾張での送別会の時以来だ。
その時、もう二度と食べられないかも知れないと思っただけに嬉し過ぎるサプライズ。続けざまに二口、三口と食べて、その塩が効いた味をより楽しもうとご飯をかきこむ。
「先ほどはありがとう御座いました」
「んっ!?」
「松の件です。あの娘、本当に喜んでいました」
「そうか」
暫くして、三条の方が話しかけてきた。
味噌汁を啜りながら視線を向けると、雰囲気は口元に笑みを微かに零して柔らかい。
ちなみに、松は甲斐に残る事を選んだ。
但し、義信の菩提を弔うのは許しても剃髪して尼になるのは許さなかった。
日本史でも、世界史でも、強大な権力者が亡くなった途端、その正室や外戚が強い権力を握る例は多い。
応仁の乱が正にそれだ。室町幕府八代将軍の正室『日野富子』が無茶を行ったが為に応仁の乱は発生して、その上に無茶を重ねたが為、約百年にも及ぶ戦国時代が始まっている。
そうした教訓がそうさせているのだろう。
今の時代、未亡人は夫の身分が高ければ、高いほどに一周忌が済んだ後は剃髪して尼になる習慣性が強い。
しかし、松はまだ十九歳。
現代で言ったら、大学一年目の女子大生。去年までピチピチの女子高生だった女の子を寺に閉じ込めて、世間と切り離すなんて鬼の所業と言うしかない。
今後は武田家の娘として扱い、好きな男が出来たら厳正なる審査の結果次第で再婚を許すと言ったら泣きながら抱きつかれた。世のお父さん達が娘を嫁に行かせたがらない気持ちがちょっと解った俺である。
ついでに裏事情を明かすと、松が甲斐に残るか、駿河へ帰るか。そのどちらを選んでも問題は無かった。
例によって、信繁さんと勘助さんの三人で相談した結果、どちらを選んでも甲乙が付け難い策が用意されており、俺の判断に一任されていた。
「正直に申しますと、旦那様は松を駿河へ帰すとばかり思っていました」
「その選択肢も有るには有ったが、松自身が嫌なら仕方が有るまい」
「それに今後は武田の娘とまで……。」
「事実だろ。義信は儂の息子で、その嫁が松なのだから」
「そうですね。フフフっ……。」
それがよっぽど嬉しいのだろう。今夜の三条の方はやけに多弁だった。
てっきり途切れると思っていた会話が途切れずに続き、その様子を横目で窺うとさすがは公家出身と言うべきか、とても上品な食べ方をしている。
肉食が厳禁の戦国時代にタイムスリップして、魚を食べる機会が必然的に多くなり、魚の食べ方が現代に生きていた頃と比べたら断然に上手くなった自負を持つが、とても三条の方には勝てない。
自分が一口で食べきれる分しか身を剥かず、身を剥いても鯛は皿の上から動いていない。
箸だって、口を含む部分しか汚れていない。それも俺の様に大口を開けて食べたりしないから、先端の数センチ程度である。
いや、その所作に見惚れていては駄目だ。今こそ、チャンスだった。
この流れなら言い難い事も勢いに乗って言える。信繁さんから三日以内に済ませておけと渡された宿題を思いっきって切り出す。
「それより、お前はどうする?」
「……と言いますと?」
「今日の葬儀で言っただろ?
今後、武田は本拠地を諏訪へ移すと……。お前も付いてくるか?」
「ぅんっ!? ……んんんっ!? ん~~~~~っ!?」
「うおっ!? だ、大丈夫か? み、水! だ、誰か水を持ってこい! は、早くしろ!」
その途端、三条の方は息を飲んだ。
大きく見開いた目をパチパチと瞬きさせて、そのまま茫然と俺の顔を見つめて固まり、俺が次の言葉を発しようとした次の瞬間。
右手に持つ箸と左手に持つご飯茶碗を手の内から零し落としたかと思ったら急に勢い良く蹲り、胸を猛烈に何度も叩き始めたではないか。
晴信と三条の方の関係を考えたら意外な提案ではある。
それだけに俺も言い難かったが、驚きのあまりにご飯を喉に詰まらせるほどとは思ってもみなかった。
慌てて立ち上がって駆け寄り、その蹲って苦しそうな三条の方の背中を右手で懸命に擦りながら助けを呼ぶ。
今後、武田家は当主に勝頼を据えて大きく変わる。
俺が居を構えている諏訪の屋敷から見て、南西の方角にある山間に城を築き、その城を武田家の本拠地として、この武田家先祖伝来の居城たる躑躅ヶ崎館は一地方を治める只の領主の館となる。
武田家の本拠地を諏訪に移転させる理由は簡単だ。
元々、諏訪家を継ぐ為に諏訪で生まれ育った勝頼は甲斐の者達から見ると外様の印象がどうしても強い。
その上、俺が相談役として勝頼の後ろに控える支配体制だけにそのまま躑躅ヶ崎館を本拠地とした場合、皆の意識はいつまで経っても勝頼に向かない。名ばかりの当主になってしまう可能性が非常に高い。
今、諏訪に在る上原城を本拠地としないのも似た理由である。
上原城は諏訪家の城。ここを本拠地としたら、武田家が諏訪家に乗っ取られた印象を強く与え、大きな反発が甲斐の者達から出るのが目に見えているからだ。
それに地図を見たら一目瞭然だが、諏訪が甲斐と信濃の中心地だからである。
本拠地を諏訪に置けば、甲斐一辺倒だった流通のバランスが取れ、甲斐信濃全体の国力向上が期待できる様になる。
また、この本拠地移転に伴い、支配体制も強固な中央集権から地方分権の軍団制に変わる。
武田家が中信濃を、それぞれの軍団長として高坂昌信が北信濃と東信濃を、馬場信春が南信濃を、武田信廉が甲斐を治めて、各地方における施政の即応性を高めるのが狙いだ。
だが、それは表向きの理由。真実の理由は勝頼の相談役となった俺の為だったりする。
現代で暮らしていた頃、俺は生徒会長や級長、部長、キャプテンという様なリーダー的存在に就いた経験が一度も無い。
戦国時代にタイプスリップしてからは隠居の捨扶持に上諏訪の小さな地域を貰い、村長の真似事を行ってはいたが、所詮は真似事で実際の差配は人任せにしていた。
そんな俺が広大な甲斐と信濃を統治するなんて無理が有り過ぎる。
だからと言って、嘗ては名君と讃えられた晴信が勝頼の相談役に収まっておきながら、その統治に口を出さないのは不自然が過ぎ、信繁さんと勘助さんの三人で相談した結果、最大に譲歩した範囲が中信濃だった。
勿論、勝頼の為でもある。
スーパーブラック激務に溺死してしまった義信の二の舞は絶対に避けなければならない。
そして、今回の変更に伴う最大のキモが勝頼の後見人の変更だ。
所詮、四男坊というスペアの悲しさか、今までは定められずに身内の諏訪の方が務めていたが、それを真田幸隆に変更、抜擢した。
これに合わせて、専従が一人も居なかった近習のトップに勝頼の一歳年下で真田幸隆の三男である真田昌幸を据え、甲斐と信濃の者達を半々の割合で親衛隊も創設している。
武力重視と言うよりは武力偏向が強い武田家重臣達の中にあって、真田家は知略にも秀でた家である。
その証拠が俺の知る歴史の中に有る。真田幸隆を祖とする真田家の者達は多くが何かしらの名声を残しており、特に有名なのはやはり徳川家康から『日の本一の兵』と評された真田幸村だろう。
しかし、俺としては武田家滅亡後に一地方どころか、一地区の小大名ながらも巧みな外交術で戦国乱世を最後まで血を繋ぎ、真田家を明治の世まで存続させる大きな原動力になった真田昌幸を推す。
無論、まだ小僧でしかない真田昌幸が俺の知る歴史通りに育つとは限らない。
だが、その才能は確実に持っている筈であり、それを咲かせるのに勝頼の近習という立場は十分な筈だ。もしかしたら、俺が期待している以上の才能を開花させる可能性だってある。
だから、十年だ。勝頼と真田昌幸が立派な武将に成長しているだろう十年後が目標だ。
それまでに舵取りを少しくらい間違えても武田家が滅亡に至らないだけの力を持ち、二人にバトンを無事に渡すのが今の俺の目標だ。
信繁さんはともかく、勘助さんは今ですら六十歳。
人生五十年と言われる今の時代、一線を既に退いててもおかしくない年齢であり、あまり考えたくはないが十年以上はさすがに無理だろうし、俺の影武者統治もその辺りが限界だろう。
これ等の件は義信の葬儀を終えた時点で皆に伝えてある。
早速、明日から新しい武田家が始まる。まずは本拠地の引越し作業が待っており、暫くは忙しい日々が続くだろう。
「そ、そうだ! み、味噌汁! み、味噌汁を飲め!」
それはさておき、どうやら俺もかなり慌てているらしい。
食後用のお茶が入った急須も、こんな時用の水が入った水差しも、三条の方の隣にご飯のお代わりが入ったお櫃と一緒に置いてあるのを知っていながら、それを医者が大慌てで駆け付けてくるまで気づかなかった。




