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影武者信玄 ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~   作者: 浦賀やまみち
火の章

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第07話 今川家の憂鬱




「待たせたな」


 準備をしている最中は慌ただしくて、上に、下に大騒ぎだったが、始まってしまったらあっという間の出来事だった。

 義信の葬儀はしめやかに滞りなく済み、数多くの弔問客でごった返していた躑躅ヶ崎館も今は静けさを取り戻していた。

 ここ、義信が暮らしていた区画は皆が気を使っているのだろう。人の気配すらせず、まるで時が止まっているかの様である。


 だからこそ、俺はここに居るぞと敢えて自己主張に廊下をドスドスと音を立てて歩く。

 やがて、目的の部屋の前で立ち止まり、障子戸をやや乱暴に開くと、二人の喪服を着た女性が俺を平伏して待っていた。


 その悲しみを背負った背中に思わず気後れして踵を返したくなるが、我慢我慢。

 嫌な事、面倒な事は先延ばしすれば、するほどに気は重くなるし、ここまで来ていながら帰る事は出来ない。


「さて……。今なら瀬名殿も居るがどうする?

 もし、駿河へ帰るつもりなら娘は諦めろ。あれは武田の姫だ」


 だから、ここは一気に攻める。

 上座に素早く座り、二人が顔を上げるのも待たず、前置きも一切置かず、訪問目的を単刀直入に腕を組んで告げると、二人の女性は揃って身体をビクッと震わせた。


 但し、その直後の行動は完全に正反対。

 一人は女性は顔を上げようとした中途半端な体勢で固まり、もう一人の女性は顔を勢い良く跳ね上げるなり、俺を鋭くキッと睨み付けてきた。


 前者は今川義元の娘にして義信の正室『松』であり、後者は晴信様の継室『三条の方』である。

 応仁の乱以降、松が生まれ育った駿河は都から避難してくる公家を早期から受け入れていた為、京文化が大きく花開いており、京文化に造詣が深い松と京出身の三条の方は出会った当初から相性が良くて、今では嫁と姑の関係と言うよりは歳の離れた姉妹の様な関係らしい。


 それだけに三条の方の怒りは当然と言えよう。

 今の状況下、一切の無駄を削ぎ落とした俺の言葉を補うと次の通りになる。


『さて、義信は無念にも亡くなってしまったが、その妻であるお前はこれからどうする?

 もし、武田家と縁を切って、実家の駿河へ帰りたいと言うのなら止めはしない。

 今、上手い具合に今川一族の瀬名殿が弔問に訪れているから一緒に帰ったらどうだ? 同族が一緒ならお前も安心だろ?

 但し、その場合は心苦しいが娘は置いていって貰うぞ? あれは義信の血を唯一引く大事な武田家の姫だ。今川家へ戻るお前に渡す事は出来ないから諦めろ』


 夫の葬儀が済むや否や、その未亡人に告げる言葉としてはあまりにも容赦が無さ過ぎる。

 俺も辛いが、誰かが言わなくてはならず、その役目は俺以外に居ないのだから仕方がない。


「わ、解りました……。そ、それが乱世の習いと仰るのでしたら致し方有りません」

「待ちなさい! 貴方は先ほど!」

「い、いいえ、義信様のご冥福は何処に居ようと祈れます。わ、私は駿河へ戻り、戻り……。ううっ!」

「くっ!? 幾ら何でも酷すぎます! せめて、四十九日を待てないのですか!」


 案の定、松は伏せた顔を上げないままに泣き崩れた。

 気丈に振る舞おうとするも失敗して、言葉を最後まで言い切れず、嗚咽を懸命に耐えようとするも耐えきれず、身体を小さく丸めた隙間から嗚咽を漏らして。


 その背中に優しく覆い被さる一方、三条の方が俺に唾を飛ばして烈火の如く怒鳴る。

 切れ長の目をした美人が皺を眉間に刻んで怒る様は正に般若そのものであり、思わず腰が引けそうになるのを堪えながら右掌を突き出して反論する。


「待て、待て。その口振りでは儂がまるで命じたかの様ではないか?」

「えっ!? で、ですが、旦那様はさっき……。」

「どうするとは聞いたが、そうしろとは一言も言っていないだろうが」

「で、では?」


 その途端、三条の方は目をパチパチと瞬き。

 般若な表情から茫然とした表情になり、松も嗚咽に震わせていた身体をピタリと止める。


 もっとも、勘違いするのも無理は無い。

 今先ほど松が『乱世の習い』と表現したが、そこに勘違いの原因が有る。


 なにしろ、今現在の今川家はてんやわんやの大混乱中である。

 桶狭間にて、今川義元が討ち死にしたと知れるや、俺の知る歴史では後に『徳川家康』と名を変える松平家の当主『松平元康』が従属関係にあった今川家から独立を宣言。先祖伝来の地である西三河を支配下に置いた。

 これに呼応して、東三河の国人衆達も今川家から続々と離反し始め、まだ矛を交えるまでは至ってないが、三河は松平派と今川派に分かれての一発触発状態に陥っているというのが、義信の葬儀に訪れた今川家の瀬名殿による最新情報だ。


 もし、三河で戦いの火の手が上がれば、今川が支配下に置く駿河と遠江にも戦火の炎は瞬く間に広がってゆくだろう。

 早急な立て直しが必要だが、桶狭間の戦いで討ち死にしたのは今川義元だけでは無い。今川家を支えてきた有能な名だたる今川家重臣達も討ち死にした結果、今川義元の跡を継いだ今川氏真は最悪の選択肢を選んでしまっている。


 なんと家臣や従属している国人衆達に対して、裏切り防止の人質の差し出しを強いた。

 和歌などの芸事に秀でてはいても統治者としては凡愚との評判だったが、ここまで愚かだとは思わなかった。これでは緊張感を無駄に増すばかり。

 事実、甲斐と信濃に近い国人衆から今川家を見限り、武田家に付きたいという申し出どころか、今川家領に攻め込む気が有るなら今川家が本拠地とする駿府城までの道案内を是非したいという申し出すら届いている。


 桶狭間の戦いからまだ十日も経っておらず、誰もが武田家と今川家が婚姻による同盟関係を結んでいると知っていながらだ。

 今川家の状況がここまで悪いと、今川家との同盟を継続するよりも同盟を破棄して、この混乱に乗じて攻め込み、今川家の領土を切り取った方がどう考えても賢い。


 それこそ、武田家のもう一つの同盟相手である相模の北条家と示し合わせて攻め込んだら、今川家領は切り取り放題。

 ついでに三河の領土を保証してやったら、松平元康も喜び勇んで参戦してくるだろう。来年の今頃には地図の上から今川家の名前が消えているのは間違いない。


 だが、その野望の前に義信の奥さんであり、今川義元の娘である『松』の存在がどうしても邪魔になる。

 それが今川氏真も解っているからこそ、元服したばかりの若造とは言えども、大事な一族の瀬名殿を義信の葬儀へ送ってきている。どうか裏切らないで下さいと。


 ついでに離反者を討伐する為の兵力を貸してくれと厚かましい事も言ってきているが、その辺りが凡愚たる所以なのだろう。

 政治を知らない俺でも簡単に解る。自国の反乱を他国の力に頼って収めたら、対等な関係はもう二度と戻れず、最悪の場合は良いように扱き使われる傀儡と落ちぶれてしまうのを。


 当然、松はこれ等の情報を瀬名殿から聞いており、俺に対する口添えを頼まれている筈だ。

 どうして、それが正反対の答えを選んだかと言ったら、俺が気後れするあまり言葉を省いたのも悪かったが、それ以上に晴信が悪いと俺は断言する。


 以前も説明したが、晴信は三条の方とは疎遠の、義信とは険悪の仲にあった。

 なら、晴信が三条の方と義信の二人を介した先にいる松と友好的な関係をどうして結べるだろうか。逆もまた然りである。


 それ等を踏まえて、先ほどの自分の発言を省みる。

 きっと二人には俺が命じている様に聞こえたのではなかろうか。


「もう一度、聞こう。松、お前はどうしたい?

 儂やお前の兄がどう考えているかなど抜きにして、お前自身が今後についてをどう考えているかを聞かせて欲しい」


 だったら、今度は間違えない。

 女性を泣かせてしまった目の前の現実に臆する心はより増したが、それを押し隠して松に改めて問いかけた。




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