第06話 葬儀前夜
「なんと! 勝頼様を? それは真ですか!」
「大殿は復帰なさらぬので?」
「そうです! 大殿はまだ若い! 復帰なさるべきです!」
「いや、儂は大殿の意見に賛成だ」
「……だな。昼間の騒ぎを見ただろ? 甲斐と信濃が割れかねんぞ?」
「しかし、勝頼様はまだ元服も済んでおらんのだぞ!」
「そうだ、そうだ! こう言ったら不敬かも知れんが、勝頼様では不安が有る!」
信繁さんが発言したのを皮切りに意見が続々と飛び交う。
俺と信繁さんと勘助さんの三人は武田家の次の当主に四男の勝頼を選んだが、やはりと言うべきか、反対する声が多い。
だが、それが当然だ。誰かが言った通り、勝頼は元服をまだ済ませていない。
義信急死の報が届く前日、一般的な元服の年齢を来年に控えて、諏訪の方と烏帽子親は誰が良いかと相談していたばかり。
しかし、これも誰かが言っていたが、ここで勝頼が武田の当主にならなかったら、信濃の国人衆の中から離反する者が現れる可能性が有る。
これは晴信が甲斐を豊かにしようと考えるあまり信濃に負担をかけ続けてきた為と義信がその政策を撤廃して甲斐と信濃の関係を五分五分へと徐々に変えた為である。
人間は一度でも得た楽を捨て難い。
昼間、俺が当主に復帰したら一昔前の裕福さに戻れる筈だと夢見た甲斐の者達と諏訪の血も流れている勝頼なら信濃を軽視する筈が無いと信じる信濃の者達の間で揉め事が起こっている。
あわや刃傷沙汰寸前にまで及びかけ、義信の葬儀を前日に控えてのこの騒ぎに堪忍袋の緒が切れた三条の方が一喝を放って事なきを得たが、密かに潜んでいた武田家を割りかねない大きな問題が浮き彫りになった。
ちなみに、次男と三男を抜かして、四男の勝頼が後継となるのには理由が勿論有る。
次男の竜芳は生まれながらの盲目であり、三男の信之に至っては十歳を迎えずに夭折している為だ。
「高坂殿、如何した? 黙り込んだままとは貴殿らしくないではないか?」
頃合いを見計らい、勘助さんが話題を次の段階に進める。
それが台本の筋書きだった筈が突然の変更。飛び交う意見の合間を絶妙に突いて、高坂昌信にパスを放った。
「いや……。その……。」
当然、皆の視線が高坂昌信に集中する。
騒がしさが一変して静まり返る中、高坂昌信は身体をビクッと震わせた後、俺に視線を向けるが、言葉を口の中でもごもごと濁して、その弱々しい眼差しをすぐに伏せた。
勘助さんが指摘する通り、これは確かに変だ。
公の場では決して外さない高坂昌信の仮面が外れかけ、椿の素顔が垣間見えている。
「何を遠慮している? 遠慮は不要、そう儂は言った筈だぞ」
それに勘助さんがこの大事な場面で意味の無い行動を取る筈が無い。
信繁さんに視線を向けると、顎先を微かに頷かせるGOサインが出た。俺自身も腑に落ちない高坂昌信の態度が気になる事もあって、ここは勘助さんの誘いに乗ってみる。
「では、恐れながら申し上げます。
拙者は大殿をずっと見てきました。ずっと、ずっとです。
ですから、ここに居る誰よりも大殿の事を良く知っているという自負が有ります。
特にこの一年は大殿の傍に置いて頂ける機会が多くて……。とても幸せに満ち足りた日々でした」
「お、おい!」
「だからこそ、気付いてしまった。
最初はとても小さな違和感でしたが、それはどんどんと大きくなり……。
今では違和感などではなく、確信を感じています。大殿が……。大殿が以前の大殿とは違うと……。」
ところが、高坂昌信の口から飛び出してきたのは俺とのノロケ話。
高坂昌信が言葉を重ねれば、重ねるほどにニヤニヤとした笑みを俺へ向ける者が一人、また一人と現れ、たまらず高坂昌信の口を閉じさせようと怒鳴りかけるが、続いた言葉に胸をドッキーンと跳ねさせて息を飲む。
まさか、俺が影武者だとバレたのか。
冷や汗が全身にブワッと噴き出して、口の中が瞬時に乾ききり、動揺のあまり話を止めようにも舌が上手く回らなくなって声が出ない。
「鍛錬の様子を何度も拝見していますが……。
刀の振りも、槍の突きも、弓の射も、どれも嘗ての鋭さが無い。
無礼を承知で言わせて頂くなら、今の大殿は剣も、槍も、弓も雑兵よりマシな程度の腕前でしかありません。
馬の扱いもそうです。歩いたり、走らせたりは出来る様ですが、駆けさせた途端に安定感を失う。
これでは戦場で大将は務まらない。だから、大殿は復帰しない。……いいえ、復帰が望めないのではありませんか?」
だが、続いた言葉に早合点だったと知り、強張った全身を弛緩させる。
勘助さんを盗み見れば、固く結んだ口元を微かに震わせて笑いを堪えているのが解った。あとで憶えていろと心の復讐帳に名前を書き記しておく。
その一方で計り知れない恐ろしさとこの上ない頼もしさを感じる。
今、高坂昌信が語った内容は話の入りは違えども俺達三人が予定していた台本内容そのものである。
恐らく、勘助さんはこの件に関する相談を高坂昌信から過去に受けていたのだろう。
その上で高坂昌信の何やら落ち着かない態度を目敏く見つけ、そこを突いたら高坂昌信がこう切り出してくるだろうと確信して利用したのだ。台本以上の効果を上げる為に。
それに引き換え、俺ときたら駄目駄目の間抜け。
今、そう問われて思い返せば、椿は俺とのハッスルの後はいつも何かを言いそうにしていた。
どうしたと尋ねても、椿はすぐに何でもないと言葉を濁していた為、それを本当は気にしながらも気にしてない素振りを繰り返して深く踏み込めずにいたが、この問いかけこそがそうだったに違いない。
「ふっ……。戦場を知らない桃や由布に隠せても、お前にはやはり隠せなかったか。
暫く、と言っても、二年もか……。お前を遠ざけていたのはそういう理由だ。許せ……。」
「その様な苦悩を大殿が抱えていると知らず、拙者は……。拙者は!
では、背中の傷が! 景虎に斬られたというあの傷が原因なのですか!」
「ああ、その通りだ」
「くぅっ!?」
しかし、その臆病さが今は功を奏した。
勘助さんに負けじと小芝居を打ち、天井より少し下の宙空に遠い眼差しを向けながら更なる問いかけに頷くと、高坂昌信は畳を両掌で力一杯に叩いて、そのまま顔を俯かせながら肩を悲しみに震わせ始め、他の者達は息を飲んで絶句。静まり返った場に高坂昌信の微かな嗚咽が響き渡る。
もし、勘助さんが高坂昌信と同じ発言を行ってもこうはなっていなかった。
俺と高坂昌信の様な独壇場の掛け合いにならず、周囲の反発から小さいながらも一悶着があったに違いない。
何故ならば、勘助さんは皆から好かれているとは言い難い。
勘助さんは駿河の生まれで諸国を転々と四十歳になるまで歩き、無実績ながらも高い才能を晴信に認められて、いきなり足軽大将に超大抜擢採用。外様の中の外様でありながら、その後も晴信の右腕として重用されて、武田軍の軍師に至ったのが強い妬みとなっていた。
しかも、勘助さんはこれを甘んじて受けている。
政治も、戦争も、綺麗事だけでは済まない。特に冷酷な判断を下す必要があり、本当なら晴信が浴びる筈だった罵声を自身へと集める為に。
俺が影武者修行を終えた後、諸国見聞の為に武田家を離れたのだって、鉄砲に関する情報収集の為だけでは無い。
晴信の強い影響力を一刻も早く塗り替えて纏まらなくてはならない義信の新体制下に自分が居ては邪魔になるだけと武田家の事を考えてだ。
勘助さんは今年で六十歳を超える。
一つの所に長く留まらない旅暮らしの日々は決して楽では無かった筈だ。
「これは信繁しか知らぬ事実だったが、ここに至っては皆にも話さねばなるまい。
先の長尾との戦いで儂が討ち取られたというデマが流れたは皆も憶えているだろう。
実を言うと、あれは正しくもあり、間違ってもいる。
儂は景虎に斬られ……。信繁が言うには生島足島神社へ着いた時はもう虫の息だったそうだ。
しかし、たまたま生島足島神社に優れた医者が滞在していてな。九死に一生を得る事が出来た。
もっとも……。今、昌信が言った通り、もう刀も、槍も、弓も……。そして、馬も嘗ての様には乗れなくなってしまった」
数拍の間を置いて、ゆるりと立ち上がり、皆に背を向けながら両腕を着物から抜いて上半身をはだける。
現代に生きていた頃と比べたら毎日の鍛錬で逞しさは増したが、戦場を駆け抜けるには並程度の逞しさの背中に右肩から左脇まで走る大きな刀傷に場の静けさが増す。
だが、この場に景虎がもし居たとしたら絶対に首を傾げていた。
晴信が致命傷を負ったのは首。より正確に言うなら喉元であって、背中ではない。
この背中の傷は今日という様な日に備え、影武者の修行を行っていた頃に敢えて負った傷である。
勿論、虫歯になってもギリギリのギリギリまで歯医者へ行こうとしない俺に敢えて斬られる度胸など有る筈が無い。
勘助さんが用意してくれた現代では使用どころか、栽培すらも絶対駄目な葉っぱの煙に燻され、意識が酩酊以上の前後不覚となっている内に斬って貰った傷だ。
その傷跡を合せ鏡で一度だけ見た事があるが、正に匠の技と言うしかない。
俯せを就寝時に強いられるのは辛かったが、さほどの痛みを感じず、完治一週間程度の浅い傷にも関わらず、存在感が凄い。驚きを通り越した『うわぁ~~……。』という声が漏れてしまったくらい。
「立って、歩き、馬にも乗れるなら、それで十分では有りませんか!
大殿が復帰せぬ理由にはなりません!
もし、戦場に不安が有ると言うのなら、我等が大殿をお守り致します! それとも、大殿は我等の力をお疑いなさるのか!」
「それは違う! 違うぞ! 信春!
今日まで武田を共に大きくしてきたお前達をどうして疑えるか!」
「なら、何故です!」
しかし、背中の傷だけでは当主に復帰しない理由としては甘い。
大将とは戦場の奥深くで指揮を執る者であって、刀や槍を実際に振り回して最前線を駆ける者では無い。長尾景虎の様な存在は例外中の例外だ。
それにこの場に居るのはいずれも歴戦の猛者ばかり。
大小は有れども戦場傷を持たない者は居らず、勘助さんに至っては隻眼である。それに比べたら俺の傷など甘すぎる。
それを指摘してきたのが、馬場信春だ。
顔だけを振り向ければ、晴信を慕うあまり忠誠と実力を疑われ、悲しみと怒りの両方が感情を煮えたぎらせているのだろう。目に涙を一杯に溜めながらも鼻息を荒くさせている。
だから、盛る。盛って、盛りまくる。
今はまだ名前を付けられていない概念だが、その心は確かに存在する『武士道』を気高く、美しく、華やかに。
ポイントは両拳を握り締める力を次第に強めてゆく点だ。
これによって、俺の背中の筋肉は引き締まり、斬り傷の痕がより強調される。
「良く考えて欲しい。我々は武士と呼ばれる存在だが……。
そもそも、武士とは何だ? ……血筋か? それとも、生業か?
いいや、違う。儂はどちらも違うと考える。武士とは……。生き様だ!
どんな敵にも刀を持って立ち向かい、刀が折れたら槍を、槍が駄目なら弓で矢を射る!
それで歯が立たぬのなら、再び相見えた時は必ず勝つと誓い、今は屈辱に塗れようとも馬で苦境を脱する!
これこそが武士だ! ……違うか! 違うか! 違うか! ええ、違うか! 信春、儂の言っている事は何か間違っているか!」
数多の戦場で命の煌めきを輝かせてきた猛者揃いの武田家重臣達にこの独白は効果抜群だった。
振り返らなくても解るくらい皆の感動を背中にひしひしと感じ、トドメの一撃に勢い良く振り返り、幾人かを次々と睨み付けてゆき、最後に先ほど反論してきた馬場信春を睨み付ける。
「仰る通りに御座います!」
その瞬間、馬場信春は感情のダムを決壊させての大号泣。
言質は貰った。武田四天王の筆頭が納得したのだから他の者達も納得せざるを得ない。
「ところが……。ところがだ。
黄泉路から帰ってきた直後、儂は立ち上がろうとして膝を付き、その時に直感で理解した。
最早、儂の刃は景虎に届かないどころか、景虎の豪剣を受ける事すら出来ぬとな……。これが隠居を決意した一番の理由だ」
「なんとお労しや!」
熱さが迸る感情を剥き出しにした捲し立てから一転して、天井を見上げながら悟りきった微笑みを穏やかに零す。
完全に決まった。着物を着直して振り返ると、誰もが顔を伏しており、幾つかの嗚咽の声に場は哀愁に満ち溢れていた。
影武者家業三年目。俺の演技もなかなかサマになってきた。
戦国時代にタイムスリップした直後、狼狽えに狼狽えまくって無様な姿を晒したのが嘘の様だ。
「だが、お前達がまだまだ海の物とも、山の物とも付かない若い勝頼を主と仰ぐ不安な心は承知している。
正直に胸の内を明かせば、儂も不安だ。義信の二の舞いは絶対に避けねばならない。
よって、武田の次の当主は勝頼が継ぎ、その常なる傍らに儂が相談役として就く!
これに伴い、本拠地をこの躑躅ヶ崎館から諏訪へと移して、統治方法も北信濃、中信濃、東信濃、南信濃、甲斐の五つに分けた軍団制に変える!」
斯くして、勘助さんのアドリブで多少の混乱はあったが、台本通りに舞台は進行してゆき、武田家の新たな支配体制は決まった。




