第01話 籠城戦
「ふぅ……。」
一仕事を終えた達成感と詰まっていたモノを吐き出した爽快感に思わず溜息が漏れる。
額を右腕で拭ってみると結構なぬめりを感じ、自分が思っていた以上に頑張っていたと解る。
何の因果か、戦国時代へタイムスリップして、まる二年が経った。
その内の大半を上洛の旅で過しており、諏訪の屋敷で過した期間は半年程度でしかない。
だが、上洛の旅から戻っての二日目。
こうして、厠で一時を過していると『帰ってきた』感が強い。いつの間にか、この諏訪の屋敷が自宅である認識を持っていた事実にちょっとだけ驚く。
それにこの厠は俺の設計によるもので恐らくは日本初の洋式便座。
戦国時代にタイムスリップする以前、和式便座と洋式便座の二つが有ったら選択の余地を与えずに洋式便座を選んでいた俺にとって、やはり和式便座はしんどい。上洛の旅の間、随分と苦労した。
その上、この厠は水洗便所。臭いが籠もり難い。
屋敷裏にある温泉の排水口から伸びた水路が便器の直下を通り、近くの小川に繋がっている。
当然、その小川は諏訪湖へと流れてゆくが、その辺りを深く考えるのは厳禁である。
俺達の食卓に出てくる魚の殆どは諏訪湖で採れた魚なのだから絶対に深く考えてはいけない。
厠繋がりで話をもう一つ。
今、甲斐と信濃の各地の街や村で公衆便所が続々と建てられている。
これは製作を個人に任せていた肥料を武田家主導で行い、肥料の改善と農作物の収穫量向上を目指した目的としたものだが、それは表向きの目的。
真の目的は大よりも小にあり、地中のバクテリアの働きで化けて出来上がる硝石だ。これと炭と硫黄の三つが混ざり、鉄砲を打つのに必要な黒色火薬が出来上がる。
今の時代、日本での硝石の採取は難しい。
これは硝石の製造に適した高床式住居が日本から廃れたのと天武天皇が牛、馬、犬、サル、鶏の食用を禁止した為に畜産が廃れた為である。。
それ故、今は明と名乗る中国からの輸入に頼らなければならず、これが鉄砲を運用する上で大きなネックになっていた。
商人の理としては当然だろうが、その値段を勘助さんから聞いた時、高いと予想していた値段を遥かに超える桁違いの超ボッタクリ価格に驚くしかなかった。
しかし、何で知ったか、憶えたかは忘れたが、前述で解る様に俺は硝石の製法を知っていた。
これには勘助さんも大喜び。すぐさま信繁さんに手紙が届けられ、甲斐信濃の公衆便所設置計画に至っている。
硝石がどれくらいの年月で出来上がるかまでは解らない。
もしかしたら、出来上がった時には戦国時代がもう終わっているかも知れないが、それはそれで武田家の価値を高める武器になる筈だ。
「んっ!?」
用を足し終えて、褌を締めようと腰を浮かそうとしたその時だった。
間が悪く、便座に座る目の前の戸の向こう側から廊下を小走りする音がこちらへと近づいて聞こえ、それを待つ事にする。
「大殿、よろしいですか?」
「何事だ?」
数拍の間の後、戸を間に挟んだ向こう側から呼びかけられ、返事を厳かに返す。
洋式便座とは言え、着衣が着物と袴、褌の完全和装だと用を足すのに手間がかかり、最終的に全裸が一番手っ取り早いと落ち着いた俺である。
全裸で便座に座って腕を組む。
何を格好つけているんだと傍目には間抜けな姿だが、俺は晴信の影武者。用を足している最中であろうと常に支配者たらねばならない。
「只今、先触れが届きました。間もなく、高坂様がお見えになります」
「なっ!? だ、駄目だ! ちょ、ちょっと待て!
わ、儂はその……。あ、あれだ! あ、あれ! そ、そう、高遠の城へ出かけたという事にしろ!」
だが、告げられた風雲急に影武者の仮面は一瞬にして剥がれた。
慌てて便座から立ち上がり、褌を締めようとするが焦るあまり指が上手く動かない。
武田家で高坂様と言ったら、信濃佐久郡小諸城の城代『高坂昌信』である。
武田領全域に即応が可能な位置を任されているので解る通り、俺が知る歴史においては武田四天王の一人に数えられている重臣中の重臣だ。
そんな高坂昌信には確かな証拠が現代まで残されている有名な逸話が有る。
それは晴信から高坂昌信に宛てられた熱烈なラブレターであり、二人が衆道の関係にあったという事実。
なにしろ、猛者揃いの武田家家臣の中にあって、高坂昌信はスマートなスラリとした体型の爽やか美青年。
着物のセンスも良ければ、着こなしも良くて、立ち振舞いにも色気が有る。街を歩いたら、若い女の子達が黄色い悲鳴をキャーキャーとあげるほど。
俺自身、タイムスリップした二日目。景虎との北信濃を巡る戦いに敗れて動揺する家臣達の最前列に高坂昌信の美青年っぷりを初めて見た時は驚いた。
晴信が熱烈なラブレターを書くくらい執心するのも頷ける。
衆道に忌避感を持たない者なら高坂昌信と深い関係を結んでみたいと一度は考えるに違いない。
しかし、俺は衆道の趣味は持っていない。
断固として、ノーサンキュー。今まで二人っきりになるのを可能の限り避けて、高坂昌信からアプローチを仕掛けられても上手く逃げ切ってきた。
「ほう……。大殿は高遠へ出かけたのですか」
「えっ!?」
「でしたら、ここに居るのはどちら様ですか? 大殿の声に良く似ていらっしゃいますが?」
だが、天は俺を見放した。
一拍の間の後、戸の向こう側から聞こえてきた静かな怒りが込められた声に絶望する。
紛れもなく、それは高坂昌信の声だった。
背筋がブルリと震えると同時に鳥肌が立ち、冷や汗が全身にブワッと噴き出す。
「ど、どうして、ここに居る? い、今、先触れが届いたばかりだろうが!」
「大殿が京より戻ってきたと聞き付けて、馬を急ぎ走らせてきました」
知っていながらも左右と背後に素早く視線を走らせるが、やはり救いの道は何処にも無かった。
背後は壁。左右は便座に座った際の目線の高さに換気用の窓が備え付けられているが、小さい上に目隠しの格子も付けられている。せいぜい、腕一本しか出せない。
残された道は籠城戦のみ。
慌てて戸を開けられない様に両手で力一杯に押さえる。
一応、鍵は備え付けられているが、簡単な木の鍵で頼りない。
普通に開けようとするならまだしも、本気で開けようとしたら容易く壊れるのは確実。
戸がガタリと音を立てて揺れた。
間一髪で危なかったが、一呼吸の間を開けて、まるで直下型の大地震が発生したかの様にガタガタと激しく揺れ始める。
「いやいや、佐久からの距離を考えても早すぎるだろ!
今、まだ朝で! 帰ってきたのは昨日の夕方だぞ! おかしいじゃないか!」
「それもこれも、大殿が拙者と会って下さらないからじゃないですか!
今だって、拙者が来ると知ったら、高遠へ出かけているなどと嘘を付いて! そっちの方がおかしいですよ!」
戸を閉めようとする力と戸を開けようとする力。
指をしっかりと引っ掛けられる分、後者の方が有利に決まっている。
ましてや、数多の戦場を駆け抜けて、戦場での一伝令役から武田家四天王にまで出世した高坂昌信との力比べ。
戦国時代にタイムスリップして以来、いざと言う時は自分の身を少しでも守れる様に鍛錬は欠かしていないが、どう足掻いても勝てる筈が無い。
「違う、違うぞ! 嘘などではない! 儂はこれから本当に高遠へ出かけるんだ!」
「なら、拙者もお供します! 皆には暫く帰らないと言い残してきましたので!」
「馬鹿者! 佐久は武田の要所だぞ! 城代のお前が居なくて、どうする! さっさと帰れ!」
しかし、決して負けられない戦いがここに有る。
奥歯を食いしばり、玉の様な汗を滴らせながら踏ん張った全体重を戸にかける。
「あれは二年前。長尾との戦いに兵を須坂へ進めている時の事です」
「あん?」
すると唐突に戸の激しい揺れが収まった。
戸を開けようとしていた高坂昌信が力を緩めた証拠である。
だが、ここまで追い詰めておきながら諦めた訳ではあるまい。
絶対に騙されない。これは押して駄目なら引いてみろ的な作戦に違いない。
思わぬ休憩タイムに荒くなった息を整える一方、攻防がいつ再開されても良い様に戸を押さえ続ける。
「大殿の寝所からの帰り道。信繁様に呼び止められて、拙者にこう言われました。
戦の時は仕方がないが、諏訪の方が兄上とお前の関係を面白く思っていない。
辛いと思うが平時は控えてくれ。奥の乱れは思わぬ大きな災難を呼びかねないからな、と……。
拙者は何も言い返せませんでした。
大殿を想う気持ちは誰にも負けぬつもりですが、所詮は許されぬ関係。納得するしか有りませんでした。
だから、耐えました。寂しさに心が狂いそうになっても耐えて、耐えて、耐え抜きました。
そして、待ちました。拙者からは駄目でも、大殿が拙者を求めてくれたら話は別です。待って、待って、待ち続けました」
戸の向こう側で切々に語られる高坂昌信の独白。
額を戸に付けているのか、声が近い。言葉を重ねれば、重ねるほど哀しみに濡れて震え、やがては言葉と言葉の合間に鼻すすりとしゃくり上げが混ざる。
映画などの人情話に弱くて、ついつい涙を零してしまう俺である。
戦場では無類の強さを誇りながらも恋には臆病が過ぎるその純情に感動して思わず視線を落とす。
しかし、それはそれ、これはこれ。衆道はノーサンキューだ。
対象が俺以外なら応援をしたが、対象が俺となったら話は別である。何とかして、穏便に済ませられないだろうかと考えた次の瞬間だった。
「そう、もう待ち続けて、二年です! 二年と十三日!
その間、大殿は拙者を求めるどころか、離れてゆくばかり!
今だって、そうです! 高遠へ出かけるなど嘘を付いて! 例を挙げたらキリが有りません!
拙者の事を誰よりも愛していると! お前さえ居たら他はいらないと言ってくれたあの言葉は嘘だったのですか!」
「嘘ではない! 嘘ではないが! ぐぐぐぐぐっ!」
危なかった。猛烈に危なかった。
高坂昌信が口調を一転。哀しみから怒りへと変わり、再び戸を激しくガタガタと揺らし始めた。
しかも、今度の揺れは縦揺れと横揺れに加えて、前後にも揺れている。
その様子に戦慄する。もしや、これは戸を開けようとしているのではなくて、戸を外そうとしているのではなかろうか。
それが正しいとするなら、もう力比べ以前の問題。
戸のこちら側は指を引っ掛ける場所が外枠内側の凹みしかない。前後の動きにはあまりにも無力だった。
だからと言って、諦める事は出来ない。
俺は戸を開けられまいと、外されまいと頑張った。文字通り、必死の思いで頑張った。
「そんなにあの小娘が良いんですか! あんな小娘の何処が良いって言うんですか!
これ見よがしに上洛の旅にまで連れて行き、いちゃいちゃ、いちゃいちゃ……。
ええ! 拙者の耳にも大殿の武勇伝はちゃんと届いていますよ! あの小娘の為に三好家と揉めたそうで! 実に立派ですね! 立派過ぎて、涙が出てきますよ!」
「のわっ!?」
だが、駄目なものは駄目。戸はあっさりと簡単に外れてしまう。
同時に引っ掛けていた指が凹みからすっぽ抜け、つい一瞬前まで引っ張っていた力に身体が仰け反る。
慌てて右足を退くがここは狭い個室。右足を退いた瞬間に膝裏が便座に引っかかり、咄嗟に開いた両手で壁を突いて支えようとするが、勢いを殺せずに便座へそのまま着席する。
戸が乱暴に投げ捨てられる大きな音が響き渡った。
身をビクッと竦めながら慌てて最後の抵抗に両腕を顔の前に交差させる。
「こうなったら、あの小娘を殺して、拙者も! 拙者も……。死に……、ま……、す……。」
「んっ!?」
ところが、ここに至り、高坂昌信の勢いが突如に衰えた。
何事かと交差していた両腕を怖ず怖ずと開くと、高坂昌信は酸欠したかの様に口をパクパクと開閉させながら大きく見開いた目をパチパチと瞬きさせて固まっていた。
但し、その視線はこちらを向いていない。
高坂昌信の視線は下方を向いており、その先を辿ってみれば、なんと俺の大事なアレがこんな最中にありながらも天を雄々しく突いているではないか。
これには俺自身も驚いて、目をパチパチと瞬き。
恐らく、これは生物が命の危機を感じた時に起こす種族保存の本能だろう。俺の恐怖はそれほどだったという証だ。
いずれにせよ、バツが悪すぎる。
取りあえず、褌だけでも着けようと便座から立ち上がった。
「ど、どうして、裸なんですか? そ、それにその……。と、とにかく、前を隠して下さい!」
その途端、高坂昌信が一歩どころか、二歩、三歩と慌てて後ずさった。
それも上半身をやや仰け反らせて、真っ赤に染めた顔を俺から目一杯に背けて。
どうやら熱烈が過ぎるほど迫ってきた割に性根は純情らしい。
今こそ、逃げる絶好のチャンスだが、それでは追いかけっこが始まり、力勝負だったのが体力勝負に変わるだけ。
「ふっ……。それこそ、どうしてだ?
お前が儂の心を疑うから、違うという確かな証拠を見せてやっていると言うのに」
「えっ!?」
だから、ここは逆にゆっくりと前へ進み出る。
両手を大きく開いて、高坂昌信にソレを堂々と見せつける様に。
「ほれ、解らぬか? お前を愛おしく思うあまりはち切れそうになっているこの儂の熱い想いが」
「い、いけませぬ。ま、まだ陽は高いと言うか……。あ、朝に御座います」
案の定、俺が一歩進めば、高坂昌信は一歩退きを繰り返して、完全に攻守は逆転した。
嘗ての俺だったら、逃げを迷わずに選択していただろうが、今の俺はタイムスリップする以前の年齢イコール彼女居ない歴の俺では無い。
上洛の旅の道中、遊郭のお姉さんについつい誘われて、とても楽しい一時を過ごした後、桃から大目玉を喰らい、そのご機嫌取りに幾度も鍛えた舌が有る。
問題を挙げるとするなら、ある手段を用いる事によって、桃の場合はその日の夜に仲直りが出来たが、同様の手段を高坂昌信に用いる事は絶対に出来ない点だ。
「それもそうだな。早速と行きたいところだが、朝からは不健康だ。
まずは旅の土産話をゆるりとして、楽しみは夜まで取っておこうではないか」
だから、半日後の自分に問題を棚上げする。
上洛の旅から昨日帰ったばかり。高坂昌信以外の客が訪れて、宴会でも始まるのを期待して。




