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影武者信玄 ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~   作者: 浦賀やまみち
林の章

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21/41

~幕間~ 足利義輝、二人の友が為に




「九十八! 九十九! ……百っ!」


 二条城の居住区にある庭にて、木刀を一心不乱に振るう。

 剣術の基礎にして、基本である素振り。とかく、人は素振りを退屈なものと評すが、儂は嫌いで無い。

 数えて、五十を超えた辺りから意識が集中し始め、無我へと次第に導かれてゆき、日頃の悩みを忘れさせてくれる。


 しかし、過度の鍛錬は身体を逆に痛めてしまう。

 残念ではあるが、師から素振りは朝昼晩、百回までときつく定められており、もう少し振るっていたい気持ちを抑えて止めると、まだ肌寒さを少し感じる春の陽気に上半身から湯気が立ち上っていた。


「ふぅ~~……。」

「義輝様」

「おう!」


 心地良い疲労感に包まれながら大きく息をゆっくりと吐き出す。

 それを合図に小走りで近づいてきた小姓が足元に片跪き、両手で差し出してきた手ぬぐいを受け取る。


 顔の汗を拭いながら思う。

 この京から信玄が去って、一週間。毎日が退屈な日々に戻った。


 儂を将軍と仰ぎながらも伏した顔の下で舌を出す。

 そんな長慶を筆頭とする佞臣連中と信玄は違った。表向きは長慶と対立しながらも、その実は尻込みをしている六角や畠山などの連中とも大きく違った。


 今、思い出しても岩清水祭での一件は胸が爽快になる。

 あの長慶を殴り飛ばせる者が今の世に居るとは思ってもいなかった。


 それ故、どうしても知りたかった。

 何故、そう強く在れるのか。自分も信玄の様に強くなりたかった。


 だが、信玄はもう居ない。諏訪へ帰ってしまった。

 家督を譲り、隠居をしているのだから、このまま京に居ても良い筈だと何度も引き止めたが駄目だった。


 それこそ、引き止める為、信玄に幕府の『御供衆』の役目を用意したが無駄に終わった。

 いや、終わったどころか、その内示を明かした途端、信玄は茶目っ気を感じさせる普段の態度を豹変。甲斐信濃という大領を統べる支配者に相応しい厳かな態度となり、こう儂を叱った。


『義輝様の御心遣い。誠に嬉しく存じ上げますが、謹んで辞退をさせて頂きます。

 その理由は聡明な義輝様ならお解りになる筈……。

 しかしながら、今週には京を去り、暫くは義輝様と会えぬ身であるが故に敢えて申し上げます。

 己の好き嫌い。それも一つの判断材料に違いはありませんが、それだけに重きを置いてはなりません。

 かの『十六国春秋』の書にこう有ります。一本の矢は容易く折れるが、束ねた二十本の矢は折る事が出来ない、と』


 耳が痛くて、痛くて仕方がなかった。

 長慶を疎ましく感じるあまり耳障りの良い者達を傍に置き過ぎていないかと反省を促される言葉だった。


 ちなみに、御供衆とは征夷大将軍の傍に侍る者を指す。

 その役目も名前の通り、これと言った明確なものは無い。名誉職と言うか、称号と言うか、そういった意味合いが強い。


 それでも、欲する者は多く居る。

 権威を失ったと言えども、征夷大将軍の側近という肩書きは色々な面でまだまだ役立つ。


 しかし、信玄は自身の栄達よりも儂の身を案じて断った。

 つい半年前まで居なかった自分に与えるよりも長らく仕えている者達に与えた方が幕府の力になると諭して。


 そんな信玄だからこそ、儂の傍に居て欲しかった。本当に残念で仕方が無い。

 だが、諏訪に居ても構わない。今は心の底から信玄という腹心を得たいと考えており、一季節ほど間を空けたら信玄と面識が深い藤孝を再び使者に送り、信玄に『御供衆』の役目を贈ろうと計画している。


「んっ!? どうした?」

「只今、長尾景虎様の先触れが参りました。午後にはこちらへ到着するとの事です」

「相解った」


 ふと廊下を急ぎ走る音が聞こえてきて考えを中断する。

 暫くの間の後、小姓が運んできた報告に頷いて、晴れ渡った青空を見上げながら溜息を漏らす。


「ふぅ~~……。世の中とは本当に侭ならぬものよ」


 今年の春、我が友『景虎』が数年ぶりに上洛するのは去年の暮れには解っていた。

 だから、景虎と長く対立している信玄には黙っていたが、その一方で二人を会わせようと画策もしていた。


 今まで幾度か行った征夷大将軍の権威を見せつける為の仲介とは違う。

 我が友と尊敬の出来る相手が争っているのが辛かった。二人の間に立ち、その仲を是が非でも修復させたかった。


 しかし、たった一週間の擦れ違いがその可能性を失わせた。

 それもこれも、一月の末に上洛してきた尾張の信長のせいだ。あいつが上洛してこなかったら二人は出会っていた。


 決して、信長は悪い男では無い。

 気の短さに難は有るが、物事を腹に隠さず、何事もはっきりと言うところは好感が持てる。


 ただ、どうしても気に入らない。

 そもそも、上洛の目的が儂との謁見でない点が癪だ。

 あいつの目的は信玄との再会。儂を前に憚る事なく『帰りが遅いから迎えに来た』と上洛している。


 あまつさえ、信玄の屋敷で勝手に寝泊まりする始末。

 三杯目はそっと出しどころか、儂が信玄の為に用意した伏見の美酒をガブガブと好きなだけ飲んで酔っ払った後は居間で高いびきである。


 その上、大人しかったのは京や堺の見物に興じていた最初の一週間だけ。

 それ以後は儂と信玄の後を求めてもいないのに付いて回り、口をああだ、こうだと五月蝿く挟む。


 挙げ句の果て、一ヶ月も過ぎた頃、今度は信玄に『飽きた。早く帰るぞ』と言い出し始めた。

 あまりの自分勝手さに呆れもしたが、儂もそんな性格だったらと思わざるを得ず、その自由気ままな性格に憧れもした。


 きっと信玄も同様なのだろう。

 いつも信長の駄々に困って苦笑は浮かべるが、腹を本気で立てた事は一度も無かった。


 今頃、二人は何処を歩いているのやら。

 信玄はのんびりとした旅を好むが、せっかちな信長が一緒では到底無理だろう。もしかしたら、既に尾張へ到着しているかも知れない。


「風呂の準備は出来ておるか?」

「抜かりなく」


 思わず失笑が鼻から漏れたのをきっかけに視線を青空から戻して、今は我が友と再会する為の準備を急いだ。




 ******




「景と……。」


 友との数年ぶりの再会に自然と早足になる足取り。

 だが、その懐かしい後ろ姿を見た瞬間、呼びかけた声を慌てて落として立ち止まった。


 いつか、日の本全ての大名がここに集うと信じて造った評定の間。

 残念ながら百人が集っても平気な広さを未だ活かせず、評定の間を四つに仕切る襖が全て開放された事は一度も無い。


 その内、開閉した過去を唯一持ち、今は閉められている上座に最も近い襖の前。

 一人の偉丈夫が腕を組みながら上座に背を向けて立ち、襖に貼られた書を食い入る様に見つめていた。


 正しく、それは半年前の再現だった。

 相違点を挙げるなら、その背中が信玄ではなく、景虎であり、景虎が見つめている書は景虎の書の隣に列べられた信玄の書という二点のみ。


 信玄もそうだったが、景虎も書の中に信玄の気配を感じ取ったのだろう。

 儂以上に武芸の腕前を持つ景虎がここまで接近した他者の存在に気づかない筈が無い。気づけないほど集中している証拠だ。


「人は城……。人は石垣……。 人は堀……。

 情けは味方……。仇は敵なり……。どうだ? 良い書だろ?」


 これが好敵手と言うものかと思わず頬を緩めながら再び歩み出す。

 景虎の背で見えない信玄の書を諳んじてみせると、景虎はこちらを振り返り、その目をギョッと見開くや否や、慌てて平伏しようとするが、それを右掌を突き出して制する。


「はっはっはっ! 良い、良い! 

 公の場はともかく、この場でその様な堅苦しさは無用だ! それより、その書が気になるか?」

「はっ! 日々の精進を戒める素晴らしい金言!

 己の振る舞いを振り返り、かくありたいと猛省していたところです!」


 ここまで反応が信玄と一緒だと笑うしかない。

 こうも惹かれ合っている二人だ。兵を用いて争うから駄目なのであって、本音を真っ向からぶつけ合い、自分自身の拳で殴り合ったら簡単に解り合えるのかも知れない。


 本当は段階を踏んでから信玄との和解を提案する予定だったが、信玄の書を偏見を持たずに感服している今こそが絶好の好機かも知れない。

 それに景虎は武人の気質が強くて、回りくどい言い回しや謀略などの搦め手を嫌う。百の言葉をぐたぐたと重ねるよりは単刀直入に一つの言葉で行くべきだ。


「その書は信玄が書いたものだ」

「な、なんと! し、信玄が……。こ、これを! し、信じられませぬ!」

「事実だ。信玄自身が筆を走らせるのを儂も、藤孝もその場で見ている」

「ば、馬鹿な……。あ、あの信玄が……。」


 そう結論付けて頷き、すっかり感服していた書が信玄のものと知り、泡を喰っている景虎に信玄との和解を一気に切り出した。




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