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影武者信玄 ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~   作者: 浦賀やまみち
林の章

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第08話 友と語って思案酒




「それにしても、儂が京へ来ていると良く解ったな」


 御所の東、京の外れに位置する仮住まい。

 屋敷裏にある裏山の紅い葉を付けていた紅葉が散り、枝だけの寂しい姿になった今日、ちょっと懐かしい顔が俺を訪ねてきた。


「ご謙遜を……。今や、大殿の名をこの幾内で知らぬ者は居ませぬよ」


 俺の影武者養成を終えると、諸国見聞の為に武田家を一時的に離れていた勘助さんである。

 忙しい日々を過しているのか、無精髭と呼ぶには長過ぎる顎髭がモミアゲと繋がりかけており、以前よりワイルドさが増している。


 何はともあれ、久々の再会にまずは一献。

 つい先ほど陽が暮れて、酒を酌み交わすには丁度良い時間でもある。


 お互い、これで素顔を晒せたら最高だが、ここは諏訪の屋敷の奥書斎とは違う。

 障子に目あり、壁に耳ありと戒めて、少なからずの寂しさを感じながらも今はお互いに主従の役に徹していた。


「むっ!? ……あの一件か。

 あの一件は……。まあ、そのぉ~~……。つい、カッとなってな。やはり、まずかったか?」


 だが、刹那の瞬間。行灯の淡い明かりが揺らめく中、勘助さんが素顔を覗かせた。

 厳しく鋭い眼差しに射抜かれて思わず身体がビクッと震える。呷りかけていた盃を下ろして視線も伏し、頭を必死に働かせるも上手い言い訳は見つからない。


 勘助さんが岩清水祭での一件を言っているのは明白。

 あの場に居合わせたのが名だたる者達ばかりだった為、俺と三好長慶が揉めた出来事は噂となって瞬く間に広がった。

 あれから一ヶ月以上が過ぎているにも関わらず、未だ人々の話題に上がり、信長から届いた手紙によると尾張まで届いているらしい。


 あの時、三好長慶は軽い気持ちで言った筈だ。

 戦国時代における女性の社会的な地位は現代と比べたら圧倒的に低い。利害の為、女性は自分の意思とは関係なく結婚、離婚を強いられるのが普通である。


 ましてや、桃は愛妾であって、正室では無い。

 それも北信濃ではそれなりに名が知れた国人衆の一族の出だが、副王とまで称される事実上の天下人とは比べものにならない。


 だったら、桃を差し出して、それを奇貨とした方が断然に良い。

 桃の家の者達は俺に文句を言ってくるだろうが最終的に押し黙るしかない。それが戦国時代に生きる者達の足し算、引き算というもの。


 更に付け加えると、三好長慶としては俺がどう応えても問題は無かった。

 俺が申し出を受け入れたら儲けもの。受け入れなくても俺が返答に困ったという評判が三好長慶の株を上げ、その権威は俺を下に置いて保たれ、どっちに転んでも損は無かった。


 一見、その場の思い付きの様な発言だったが、その実は練りに練られた策だったに違いない。

 評判を聞く限り、三好長慶という男は慎重な男であり、何かを思い付きで実行する人間とは違う。


 しかし、現代の感覚を持つ俺は三好長慶が予想していなかった第三の選択肢を選び、見事なくらいにプッチーンと切れてしまった。

 全身ずぶ濡れの水の冷たさに我を取り戻したら、背中を羽交い締めされた上に両手と両足を掴まれて、総勢四名が俺を拘束。目の前に居た筈の三好長慶の姿は何処にも無かった。


 翌日、二条城への登城命令が届き、義輝様は深い溜息混じりに『本当に大変だったんだぞ?』と前置いて、こう語ってくれた。

 いきなり俺が雄叫びをあげたと思ったら、三好長慶を殴り付けた上に馬乗り、その顔を何度も、何度もボコボコに殴りまくったらしい。


 赤く腫れ上がり、痛みを放っている両拳に何となく予想は付いていた。

 だが、生まれてから一度も殴った経験が無かっただけに驚くしかなかった。


 それともう一つ。自分の意思とは関係なく充てがわれ、義務感と女性への興味の二つから始まった桃との関係。

 今や、それが事実上の天下人を殴ってでも奪われたくないモノ、失いたくないモノに変化していると思い知らされた。


 当然、その日の夜は勿論の事、次の日も、そのまた次の日も桃といつも以上にハッスルしまくり。

 五日目の朝、護衛の為に隣の部屋で寝起きをしている信君から声を少し抑えてくれと苦情を訴えられている。


 また、あの場には公家達も居り、騒ぎは武家社会だけで収まらず、公家社会にまで及んだ。

 三日後の朝、畏れ多くも帝から直々の参内命令。勅使が届いた時はもう生きた心地がしなかった。

 御簾を前に帝を平伏して待ち続けている間に至っては念仏の様に『信繁さん、ごめんなさい。勘助さん、ごめんなさい』と何度も、何度も唱えていたくらいだ。


 ところが、意外や意外。お咎めは一切無し。

 勅祭を騒がせた事自体はやんわりと窘められたが、帝の本題は俺本人から一部始終を聞く事で上品な笑い声すら漏らしていた。


 その上、正四位下『刑部卿』の官位を賜ってまでいる。

 刑部とは裁判、刑罰を司る者であり、現代風に言い換えるなら最高裁裁判長の様なもの。

 即ち、司法のトップの地位を俺に与える事によって、帝自ら無罪放免の太鼓判を押してくれたのである。


 そうとなったら怖いものは無い。俺は三好長慶の顔色を気にするのを止めた。

 どの道、半年ほどでオサラバする京都だ。諏訪へ戻ったら、三好長慶と会う事は二度と有るまい。


 それに俺は歴史を知るが故に知っている。

 三好長慶はあと数年で黄泉路に旅立ち、それを機に三好家そのものがあれよ、あれよと衰退の一途を辿ってゆくのを。


 その途端、周囲の態度が明らかに好意的なものに変わった。

 それとはっきり言った者は一人も居ないが、三好長慶の専横を面白く思っていない者はどうやら多い。


 余談だが、俺に殴られた傷が酷かったらしい。

 三好長慶は姿を二週間ほど見せず、傷が癒えた後は俺との接触を明らかに拒み、その姿を暫く見かけないと思ったら俺の知らない内に本拠地の岸和田城へ帰っていた。めでたし、めでたしである。


 だが、今にして思う。もう少し上手くやれなかったのかと。

 それが勘助さんの眼差しに怯んだ理由だった。影武者失格と判断された時は即座に首を差し出すと約束を交わしているだけに。


「いや、逆ですな。改めて諸国を歩いて感じましたが、幾内の者達は東国の者達を田舎者と蔑む傾向が強い。

 ならば、先の一件は武田の存在を天下に強く知らしめ、ひいては東国侮りがたしの印象を与えてもいます。これだけでも大殿が上洛した意味は十分に有るかと」

「そうか」


 しかし、それは杞憂だったらしい。

 先ほどの眼差しに嗜めが含んでいたのは間違いないが、呷った盃を下ろした勘助さんの表情は笑顔。心底愉快そうに頬をニヤリと吊り上げており、思わず安堵の溜息を漏らす。


「ただ、小言を一つだけ言わせて貰いますと、一人の女に情を傾けるのは止した方が宜しいかと存じます」

「うぐっ……。」

「この京で一人。諏訪へ連れて帰る女を作っては如何でしょう?」

「そ、それはっ!? うむむむむ……。」


 だが、それも束の間。

 空になった勘助さんの盃に酒を注ごうとして、酒瓶と盃を動揺にカチンと打ち鳴らす。


 妾を新たに囲うなり、愛人を外に新しく作れ。

 それは以前から何度も信繁さんが苦言していた事であり、勘助さんからも言われると実に耳が痛い。

 思わず泣き言を漏らしそうになるが、それは教えられた晴信のイメージ像に無い。慌てて口を右手で塞いで唸る。


 信繁さんと勘助さんがそう推める理由は単純明快。

 たった一人の女性に情を注ぐのは弱点となり、晴信が抱えていた奥の乱れにも繋がるからだ。


 しかし、一夫一妻制が常識になっている現代の価値観を持つ俺にとって、これが意外と辛い。

 実を言うと、諏訪の屋敷へ一度も訪れていない事実上の正室である三条の方以外、晴信が抱えていた三人の側室とは閨を既に何度か交わしているが、その時の禁忌感たるや半端無い。桃に対する後ろめたさも加わって、いつも事後は賢者タイムを超えた大賢者タイムである。


 ハーレムは男の夢。

 そんな言葉を何処かで聞いた事が有るし、たった一年前までは俺もハーレムに憧れを持っていたが、どうやら俺はハーレムを持てる様な器では無いらしい。


 もっとも、よくよく考えてみると当然だ。

 そんな器と言うか、複数の女性と深い関係になれる器用さを持っていたら、現代で生きていた頃に女性と付き合えていたし、童貞も捨てていたに違いない。


「まあ、無理にとは申しませんが、そう心には留めておいて下さい。

 ところで……。この屋敷、なかなか良いですな。どなたからの紹介で?」


 それだけに首を縦に振れないでいると、勘助さんは溜息を深々と漏らして、話題を唐突に変えてきた。

 この奥座敷をキョロキョロと見渡した後、次に縁側から見える鯉が泳ぐ池付きの庭を暫く眺めると、最後に天井をじっと凝視して。


「ああ、藤孝殿だ。

 名を何と言っていたかな? もう随分と前に潰えてしまった幕臣が使っていた屋敷らしい」


 何かが有るのだろうかと天井を釣られて見上げるが何も無い。見えるのは太い梁と茅葺きの屋根裏だけ。

 この奥座敷は厳密に言うと、寝室と書斎と控室の四部屋でワンセット。襖で仕切られてはいるが、天井が繋がった一部屋で天井裏が無い。


 これは暑い夏と寒い冬を快適に過ごす生活の工夫である。

 襖と雨戸を開けきると風通しが良くなって涼しくなり、一部屋を温めるとその予熱が他の部屋にも伝わって温かくなって炭の節約が出来る。


「……という事は幕府の管理下にあった訳ですな?」

「だろうな。初めて来た時、生活に必要なモノを色々と揃える必要が有ったが、家や庭の手入れはされていた」

「なら、使えますな」

「うん?」


 だが、勘助さんは希代の軍師。きっと俺には見えない何が見えているのだろう。

 それを物語る様に勘助さんは酒をなみなみと手酌で注ぐと、それを一気飲み。鼻息をフンスと吹き出した。


「拙者、一時のお暇を頂いた後、この幾内は勿論の事、西国まで足を伸ばしましたが……。

 前もって、大殿から話を聞いていたにも関わらず、あの鉄砲という代物には驚かされました。

 扱いが難しく、狙っても当たらなければ、射程は弓より短い。

 その上、常に高価なのもあって、物珍しいだけの酔狂品と扱われていますが……。違う。

 刀や槍がそうだった様にいずれは性能が良くなり、その有用性に誰かが気づき、数を揃えて、大殿が仰った戦法を用いれば、戦の在り方が根底から覆されます」

「おお! 解ってくれたか!」


 身をやや乗り出して、口早に捲し立てる様な熱弁。

 その熱気に感化され、俺の目は自然と輝き、気づいたら両親指を立てたダブルサムズアップを勘助さんに突き出していた。


 なにせ、武田家滅亡の大きな原因。織田家の台頭と鉄砲の脅威はなかなか解って貰えなかった。

 勘助さんは軍師としての勘か、半信半疑くらいは納得してくれたが、信繁さんは半信半疑にも至っていない。勘助さんが納得したから自分も納得した感が大きい。


 しかし、勘助さんがこうも変われば、信繁さんの俺を見る目も変わる。

 そうなったら、俺の『戦国美食化計画』は今よりもっと加速する。あれも、これも手が出せる様になる。


 今、挑戦しているのはラーメンだ。

 小麦の入手はそれほど難しくは無い。これまで何度も試行錯誤しているが、どうしてもラーメンの麺が作れない。

 出来上がる麺はうどんばかり。ラーメン独特のあの黄みさと食感を出す為の何かが決定的に欠けているとしか思えない。


「今、南蛮人の渡来は年に一度か、二度程度と聞きます。

 ですが、この日の本が交易に値する国と知れば、その数を次第に増してゆき、新たなモノがこの日の本へ続々と押し寄せてくるでしょう。

 戦に役立つ鉄砲の様な武器だけでは無く、日々の生活に根差した身近なものまで。そう、ありとあらゆる面で……。

 その時、日の本は変わります。当然、その変化はこの都から始まるでしょうが、我々の甲斐信濃は都から遠すぎる。どう足掻いても変化に乗り遅れてしまいます」

「なるほど……。確かにその通りだ」


 だが、ここは千年の都。勘助さんが言う通り、流行の発信地である。

 ちょっと足を伸ばしたら日本最大の港『堺』も在る。今、ラーメンの本場である中国人が交易の為に訪れていないか、ラーメンを作れる者が居ないかを探している真っ最中。


 但し、タイムリミットは京を離れるその日まで。

 既に滞在二ヶ月が過ぎ、残すはあと四ヶ月ほど。その後、どうするかが最近の悩みだった。


「ですから、そうした変化に乗り遅れない為にも、この都に武田の拠点を作るべきです。

 そして、その拠点を作る上でこの屋敷は申し分ありません。

 大きさも手頃なら、都の東の外れに在るのも良い。万が一の際は裏山へ逃げたら煙に巻く事も容易い。 

 それに過去どうあれ、一時でも幕府の管理下に有ったのが良い。ただ、それだけでここを探ろうとする者の抑止となり得ます」

「うむ、その言や良し! 信繁と相談して、思うがままに進めるが良い!

 早速、この屋敷を譲って貰う為、儂は明日にでも義輝様と藤孝殿の二人に申し込んでこよう!」


 しかし、その悩みは万事解決された。

 胡座をかいている両膝を両手で叩き、勘助さんの提案を喝采する。

 諏訪に戻った後はここの拠点を通じて、今の日本に無い食材やレシピを諏訪に送って貰えば良い。


 将来の期待に胸が膨らむ。

 最早、二度と食べれない数々のメニューを思い出して、涎が口の中に湧いて溢れてきた。




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