第07話 天下人
「何はともあれ、本年も勅祭を無事に終える事が出来て……。乾杯!」
義輝様の音頭で皆が乾杯を唱和。
めいめいが酒を満たした盃を口にしたのを皮切りにそれまであった厳かな雰囲気が一変。賑やかさが広がってゆく。
ここは京都御所の南南西に位置する石清水八幡宮。
今日は帝からの勅使が届く勅祭『石清水祭』であり、その大事な儀式を終えた後の宴である。
今、俺は猛烈に感動していた。
義輝様が招待状を送ってくれたおかげで祭りを最初から最後まで最前列のVIP席で堪能。
一般公開されていない最後の秘儀にすら立ち会えたのだから、これで感動しない奴はどうかしている。
「ぷっはぁぁ~~~っ!」
その高揚感からか、今日は特別に酒が美味い。
あっと言う間に一杯目を飲み干して、お神酒の胸を焼く熱さを堪能していると、笑顔で歩み寄ってきた藤孝殿が徳利を差し出してきた。
「実に良い飲みっぷり。さあさあ、もう一杯」
「やや、これはすまん」
「いえいえ」
拒む理由は無い。
酒が注がれるのを待って、それを一気に呷った後、藤孝殿に盃を返杯に差し出す。
「ならば、藤孝殿も」
「これは、これは……。おっとっと……。」
「今日は誘ってくれて、ありがとう。本当に感謝している」
そして、自分の膳に置かれた徳利を持ち、その注ぎ口を盃に傾けながら頭を軽く下げる。
ここは多くの人目が有り、この程度の感謝しか表せないが、二人っきりで立場を忘れて良いなら平伏したいくらいに今の俺は藤孝殿への感謝の気持ちで一杯だった。
何故ならば、俺はこうも特別待遇を受けるほどの友誼を義輝様と結んではいない。
上洛してから約一ヶ月が経ち、有力者との面談の為に二条城を二日と空けずに通っているが、義輝様と言葉を交わしたのは最初の謁見を合わせてもたったの四度。その内容も当たり障りのない世間話しか交わしていない。
いや、もしかすると招待状自体は用意されていたかも知れない。
だが、確実に今の様な特別待遇では無かった筈だ。本来の席は三管領や四職などの室町幕府の重鎮達が列ぶ席の後ろ、三列目、四列目だったに違いない。
それを改める様に働きかけたとするなら、藤孝殿しかいない。
勿論、俺と義輝様の仲をもっと縮めようという思惑も有るのだろうが、俺が神道に強い関心を持っているのも、この祭りを心から楽しみにしていたのも、桃や信君、護衛の者達を除いたら、藤孝殿くらいしか知らない。
本当に感謝してもしたりない。
今、京で居を構えている屋敷も藤孝殿が都合を付けてくれた。
それと言うのも、これから季節は冬を迎える。
京までの旅では心を和ませてくれた大自然が敵となり、先を進むのに覚悟と決断を必要とする旅になる為、俺達一行は最初から京に半年ほど滞在する予定でいた。
しかし、俺達一行は三十人を数える大所帯で馬も居る。
半年も宿暮らしとなったら金が無駄にかかる為、三十人と馬一頭が暮らせる借家を早急に見つけるのが京都へ着いてからの課題だったが、それを藤孝殿はあっさりと解決してくれたのである。
「いえ、私は少し口添えをしただけ。信玄様をお誘いしたのは義輝様に御座いますれば」
「ふっ……。ならば、そういう事にしておこう」
「ええ、そういう事です」
「だが、この信玄。恩は決して忘れぬ。それを覚えておいてくれ」
「はい、勿論」
ところが、藤孝殿は終始一貫してこれだ。
恩をこれっぽっちも着そうとせず、実にスマートな言い回し。藤孝殿、マジイケメン。
そんな藤孝殿の期待に応え、義輝様との仲を深めようと俺も頑張っているのだが、これがなかなか難しい。
知っての通り、義輝様は景虎から直筆の書を貰い、それを多くの者達が目にする評定の間に飾るほど仲が良いからだ。聞けば、足りないのは誓いだけで義兄弟と呼べるくらいの仲らしい。
一方、晴信と景虎の二人は犬猿の仲。
俺自身は含むところは持っていないが、晴信の影武者である以上、それに倣わなければならない。
この点を義輝様はとても気にしており、甲斐や信濃の風土を聞いてきたり、戦や内政の心得を熱心に尋ねてはくるが、晴信と景虎が三度に渡って争った北信濃に関する話題は禁句。あからさまに避けていた。
これで仲が深まる筈が無い。
胸の内を全て語れとまでは言わないが、腹を割って話し合わなければ仲は深まらない。
しかし、義輝様もこのままで良いとは考えていない筈だ。
征夷大将軍たる義輝様が持つ権威は巨大だが、領土はこの京が在る山城のみ。持っている兵力は少ない。
それを補うのが日本各地を治める大名達に対する上洛要請である。
室町幕府を守る為の計画であり、その目的は三つの段階に分けられる。
第一段階は日本各地を治める大名が京まで出向いて、義輝様との謁見する。
それ自体が義輝様を今代の征夷大将軍と認める行為になり、謁見した大名の力が強ければ、強いほど、謁見した大名の人数が多ければ、多いほどに室町幕府の権威は天下に輝く。
第二段階は上洛した大名との仲を深めて、いざという時は室町幕府の力になってくる味方作り。
簡単に言うと、ある大名がいよいよ室町幕府の邪魔になり、天下に討伐の号令を発した時、室町幕府と共に戦ってくれる同志だ。
第三段階は大軍を率いての上洛を行い、その武威を以って、反室町幕府に対する大きな抑止力となってくれる存在を作る。
ただ、これを実行する為には対象者の領土と山城が接していなければならず、この前提条件がとても厳しい。現時点で該当する者は居ない。
現時点において、武田家はどれかと言ったら第一段階。
だが、義信はとても正義感の強い。俺と義輝様が仲を深めようが、深めまいが、武田家は室町幕府の号令に応じる可能性は高い。
しかし、武田家の全力を挙げた総動員は無理だ。
どうしても景虎に対する備えを残さなければならず、室町幕府が号令を発したとしても武田家は全軍の三割程度しか応じられない。
だが、武田家と長尾家が手を結びさえしたら。
武田家は全軍動員が可能となる上、北と南と東に憂いが無くなる為にその全軍を西に向ける事が可能になり、第三段階の芽も出てくる。
恐らく、藤孝殿はそれを望んでいる。
武田家の当主が晴信だったら絶対に無理だろうが、義信だったら可能性は小さくても確かに有る。
晴信の影武者であり、武田家の最終決済印を押すマシーンである俺は対外的に強く反対してみせるが、生存率がぐんと上がる長尾家との同盟は諸手を挙げての大歓迎。決済印をあっさりと押す。
もっとも、武田家と長尾家が手を結ぶなど有り得ない。
もし、あり得るとしたら、それは征夷大将軍である義輝様が望んだ場合だけだ。
それも義輝様が武田家と長尾家のどちらにも肩入れしたくなり、個人的な友誼から仲裁を熱心に行わなければならない。
征夷大将軍としての義務感だけで同盟を結んでも意味が無い。
義信と景虎はともかく、家臣達の互いに対する敵愾心は燻り続けて残り、何がきっかけで再燃するかが解らない。仮初めの同盟になるのは目に見えている。
そうならない為にも話を戻すが、俺と義輝様の仲を深める必要がまず有る。
だから、酒は仲を深める絶好のツール。この宴は実に良い機会だったのだが、口を酔いで滑らすのを嫌がったのか。
義輝様は乾杯の音頭を取った後、俺と目が合いかけると席をそそくさと離れ、今は対面の公家衆と話に花を咲かせている。武家の棟梁として、自分の席にどっしりと構え、皆からの酌を受けるのが役目にも関わらずだ。
こうなったら、強引に攻めるべきか。
そう考えて、腰を浮かせかけた瞬間、嫌な奴が声をかけてきた。
「やあ、貴殿等はいつも仲が良いな。どれ、私の酌も受けてはくれぬか?」
「無論です。喜んで頂きましょう」
「はい、三好様に酌をして頂けるとは光栄です」
その支配は摂津を中心に丹波、和泉、阿波、淡路、讃岐、播磨の七カ国にも及ぶ現時点での戦国乱世の覇者。
あと足りないのは官位のみ。影ながら『副王』とまで称され、その野心を隠そうともしない男『三好長慶』である。
応仁の乱を発端とする戦国時代。
室町幕府の権威は徐々に衰え、今では風前の灯火と呼べるほどに失墜している。
武家の棟梁たる征夷大将軍は幾度も都落ちしており、当代の義輝様も今は京都へ返り咲いているが、三好長慶によって都落ちを強いられた過去を持っている。
そう、義輝様が全国各地を治める大名に上洛を要請しているのはこの男に原因が有る。
表向きは義輝様を立てているが、義輝様が都落ちした過去で解る通り、気に入らない事はその強大な武力を背景に許さない。万事、三好長慶の了承が得なければならない。
正しく、副王そのものである。
山城近隣の大名達は勿論の事、室町幕府の重臣達ですら三好長慶の機嫌を損ねまいと顔色を伺っている。
ところが、その三好長慶が晴信を畏れていた。
支配下の領土面積を比べたら優劣は付けづらいが、そこに住まう人々の数はおろか、米の石高でも、金の収入でも圧倒的に上の三好長慶が晴信を酷く畏れていた。
どうやら晴信の知名度は俺が想像していた以上らしい。
景虎と晴信の三度に渡る川中島の合戦は特に有名で京の庶民達ですら大抵が知っており、武家階級は勿論の事、公家階級どころか、なんと帝までもが『あの』と呼ぶほどだ。
それが二条城へ通っていると良く解る。
廊下を歩いていると視線を感じる事が多く、周囲を窺ってみれば、数人が何やらヒソヒソと密談中。俺と目が合った途端、井戸端会議を慌てて解散させる。
当初は気にしていない素振りを決め込んでいたが、それが一向に止む気配が無いのだから気分が悪い。
そこで信君に彼等の様子をそれとなく探ってくる様に命じたところ、実に馬鹿馬鹿しくも下らない事実が判明した。
前述で語った通り、俺達一行が京都に居を構えた理由は旅の都合上でしかない。
しかし、彼等はそう捉えていなかった。近い将来、俺が大軍を率いての再上洛を行う時の為、その土台作りに長期滞在するのだと勝手に警戒していたのである。
その筆頭が目の前の男、三好長慶だ。
俺が京都に到着した日は讃岐の城に居たらしいが、慌てて駆けつけたのだろう。翌日の夕方には二条城に居た。
初対面の時から口を開けば、嫌味をねちねち、ちくちくと吐いてばかり。
自分に取って代わろうとしているに違いないと勝手に疑い、勝手に敵愾心を強めてゆくのだから堪ったものではない。
だが、俺は我慢した。どんな嫌味を言われても笑顔で聞き流した。
時に鼻息が荒くなるくらいむかっ腹が立つ事もあったが、懸命に『所謂、これが権力者が患ってしまう難病か』と耐え忍んだ。
事実、俺以外の相手にも疑心暗鬼に陥って気が休まらないのだろう。
副王と称されてはいるが、俺が三好長慶に抱いた第一印象は病人。頬がこけるほどに痩せ細り、目の下にクマが濃く刻まれて顔色も悪い。
そうになるまで権力に固執して、毎日が楽しいのかと疑問を感じずにはいられない。
その点、たまに面倒や難問が立ち塞がっても基本的に気楽な影武者はやっぱり最高だと言わざるを得ない。
「ところで、武田殿は先ほどまで女を連れていたが、あれは奥か?
甲斐は京から遠く離れ、山の中に在ると聞くがなかなかの美人。京の女に負けておらんな」
「あれは側仕え。北信濃の更級郡の出に御座います」
今日も聞き流していれば問題は無い。
顎先を微かに頷かせて、不安そうな眼差しを向けている藤孝殿に安心しろと合図を送る。
せっかくの祭りを最後の最後で台無しにするのは俺も御免だ。
気のせいか、賑やかさは変わらないが、皆の視線が集っている様な感覚を覚えながら心の中で何度も『平常心、平常心』と唱える。
「ほう、側仕えか……。なら、どうであろう?
今も言ったが、あれほどの美人は京にもなかなか居らん。儂にくれぬか?」
「えっ!?」
「み、三好様! う、宴の席とは言えども冗談が過ぎますぞ!」
しかし、三好長慶が頬をニンマリと吊り上げた下卑た笑みを浮かべた次の瞬間。
俺の頭は真っ白に染まり、藤孝殿が息を飲むと共に賑やかだった場が一瞬にして静まり返った。
「冗談などでは無い。側仕えなら問題は無かろう。
まあ、どうしても惜しいと言うのなら、一夜だけでも構わんぞ?」
「み、三好様っ!?」
やがて、獣の雄叫びがすぐ近くで轟いた。
ありったけの怒りが込められたソレは不思議と慟哭にも聞こえ、ふと俺は家族を目の前で喪ったあの日の自分を思い出した。




