第05話 花の都
「ええっと……。本当にここが?」
「間違い有りません。あそこにもそう書いてあります」
目的地に着いたが、桃が茫然とした表情をこちらに振り向ける。
信君も目的地の名前が書かれた看板に指を差して、ここが目的地だと説明しているが、その表情は信じられないと言わんばかり。
幾つもの野を歩き、山を越え、川を渡り、遂にやって来た花の都。
これほどの距離を自分の足で歩いたのは人生初であり、それだけに達成感が半端ない。
旅の道中にあった苦も、楽も今となっては全てが懐かしくも輝かしい。
特に思い出深い出来事と言ったら、やはり織田信長との出会いだろう。清洲城の城下街にて、向こうから商人を装って接触してきたが、それが信長だと一目で解った。
何故ならば、信長の隣に豊臣秀吉が付き従っていたからだ。
信長が最初にそう呼んだとされ、豊臣秀吉が力を持ってからは揶揄の意味で呼ばれた『猿』の愛称通り、その愛嬌がある猿顔はこれ以上ない目印だった。
なにせ、人臣を極めた豊臣秀吉が仕えた主君はたった二人。
信長と今川家の陪々臣である松下之綱だけであり、出会った場所が清洲城の城下街なのだから消去法で前者で間違いない。
さて、肝心の信長について。
現代における様々な考察どおり、固定概念に囚われない考えの持ち主で頭の回転が早い早い。
但し、頭の回転が早いと言っても『一を聞いて、十を知る』タイプに非ず、『一を聞いて、マイナスを見つけ出す』タイプ。
悪く評するなら、捻くれ者で世の中を斜めから見ており、それでせっかちな性格なのだから家督を継ぐ前は『うつけ』と呼ばれたのは当然と言えるだろう。
俺は未来の知識を持つが故に信長の革新的な、先進的な考えに付いて行けたが、あれでは周囲の者達が織田信長の考えに理解が及ばずに付いて行くのが難しい。
その証拠に俺は信長に随分と気に入られた様だ。
信長が楽市楽座を得意気に語るものだから、つい旅の高揚感から楽市楽座に関する欠点を未来の知識で『SEKKYOU』したところ、最初は歯軋りまでして悔しがっていたが、その後は酒を夜まで酌み交わすほどに上機嫌となり、俺が尾張をもっと案内してやると俺達の旅立ちを二週間も引き延ばして、俺達が借りていた宿に居座った挙げ句、尾張を離れる時は国境まで見送りに来てくれ、京都からの帰りは清洲城へ必ず立ち寄れと言ってきた。
それにしても、未来の知識でかます『SEKKYOU』がああも爽快なものだとは思ってもみなかった。
信繁さんにかましたら調子に乗るなとゲンコツを喰らいそうだが、癖になりそうな快感だった。一時、読み漁っていたネット小説の異世界転移や異世界転生の主人公達が『SEKKYOU』にハマるのも無理は無いと納得してしまった。
ところが、そんな思い出の数々が京へ着いた途端、一気に色褪せた。
山科へ入った時はそうでもなかったが、山科の北西にある山間の道を進んで行く内、ここが千年の都とはとても思えないくらい何処も荒れ果てており、遠路遥々訪れた目的地がこれではがっかり感が半端無い。
事実、桃も、信君も口数が京へ入ってからめっきりと減った。
昨夜は宿で『明日はいよいよ花の都だ』と大はしゃぎしていたのが嘘の様である。
「皆さんがそう思うのも致し方が無い事です。
しかし、ここは嘗ては西楼門と呼ばれ、それはもう見事な朱が塗られた桧皮葺の門があったのです。
ほら、あちらをご覧下さい。僧達が建ち並んでいる向こう側に有るのが、その名残でして……。
今、義輝様が天下に名高い祇園神社の西楼門をあのままにしてはおけないと再建の為の寄進を募っているのですが……。」
一方、二人とは反対にこれでもかと饒舌になったのが藤孝殿だ。
自分が上洛を要請した本人だけに落胆しまくる俺達に気まずくて盛り上げようと懸命なのだろう。
京までの道中はこちらが求めない限りはひけらかそうとしなかった知識をペラペラと喋りまくっていた。
だが、藤孝殿がどんなに薀蓄を重ねようが、耳の前に目が心を萎えさせる。
帝が住まう御所へ近づくに伴い、その割合を徐々に減らしてはいるが建っている家は粗末な掘っ立て小屋ばかり。
辛うじて、ここが京と認知する事が出来るものと言ったら、この地を日本の都にすると決めた時から計画的に造られ、現代に至るまで残された碁盤の目状の町並みくらいか。
そして、何と言っても人の多さである。
無論、良い意味での多さでは無い。明らかに街が持つ許容量を超えきった悪い意味での多さだ。
戦乱や圧政、その理由は様々だろうが、誰もがここなら何とかなると淡い夢を見て集った結果、商業力や生産力、供給力などのあらゆる面が駄目の悪循環に陥っているのが一目で見て取れる。
粗末な汚れきった肌着を身に纏い、腹は餓鬼腹。
京へ入ってからの道中で見た者達の大半がこれであり、死体と思しき物体までもが平然と放置されている。
だから、街全体が臭い。特に点在する林の近くは鼻が曲がるほどに酷い。
藤孝殿の話によると、穴を掘る必要も無ければ、わざわざ都の外へ運ぶ必要も無い。そこへ放り込んでしまえば、それだけで目隠しとなる林は亡骸を捨てる恰好の場所な為、それがいつからか風習になってしまったらしい。
もっとも、戦国時代の発端となった応仁の乱から約百年である。
日本の中心たるこの地を巡り、覇権を握る為の戦いが幾度も繰り返されてきたのだから荒廃が進むのは当然の理と言える。
それでも、最後の最後の一線は超えていないと信じていた。
人が人であるが故の最低限の倫理を持ち、戦乱の中でも立派に在り続けていると信じていた。
「嘆かわしい……。ただ、その一言だな」
しかし、その俺の勝手な期待は裏切られた。
所詮、俺は戦争というモノを知識やテレビの先でしか知らない人間だと目の前の光景が思い知らせてくれていた。
明治の神仏分離令で『八坂神社』と名を変えた祇園神社。
現時点でも千年の歴史が有り、全国に数えきれないくらいの分社を持つ総本山が荒れに荒れ果てていた。
現代において、京都の観光名所の一つに数えられ、夜間でも参拝客を拒まず、常に開いている見事な朱色の楼門。
それが見るも無残に打ち壊されているばかりか、神社前に施しを目当てに集まった数多くの者達の侵入を防ぐ様に防柵が施されている上に数人の番兵が立ち、現代とは逆に参拝客を拒んでいるではないか。
今回の上洛の旅にて、俺は街道沿いや街道近くの神社へ立ち寄るのを旅の娯楽にしていた。
御朱印自体は存在しているらしいが、現代と違って簡単に頂けないモノの為、御朱印を頂く事は出来ないが、現代の神社と今の神社の差異を感じるだけで十分に楽しめた。
特に小さな社だけがある神社でも無い限り、どの神社も大抵は神主さんがきちんと常駐しているところが素晴らしい。
神主さんと長話についつい興じてしまい、桃に早く行こうと、先を急ごうと、日が暮れると急かされたのは一度や二度では無い。
だが、ここは駄目だ。神社特有の人々が敬っている神聖な気配が感じられない。
上洛目的である将軍『足利義輝』が待っている二条城までの道中にあるとは言え、その拝謁を前に立ち寄ろうと考えていたくらい期待が大きかった為、落胆もまた大きい。
それに祇園神社でこの様だ。
京都各所にある何処の神社も似た様な状況にあるのだろうと考えたら気分は完全に沈んてきた。
「京を守る役目の一端を担いながらも誠に……。
しかし、今も言いましたが、この実情を義輝様も常に憂いている事を解ってくだされ」
「ああ、解っているとも……。
だが、興は冷めた。立ち寄るつもりだったが、今日のところは先を急ごう。ここはいつでも来れるからな」
荒い鼻息をフンスと吹き出す。
こうなったら、良い機会だ。京都を守護する役目の将軍『足利義輝』にガツンと言ってやると決意した。




