~幕間~ 織田信長、英雄を知る
「何っ!? あの信玄が城下に居るだと?」
久々に政務が昼前に済み、午後からは遠乗りに出かけようと馬屋へ向かう道中。
遠くから呼び止められて煩わし気に立ち止まったが、駆け寄ってきた猿『木下藤吉郎』が持ってきた情報に眉を跳ねさせる。
「へい! 越後のちりめん問屋を名乗ってはいますが、あの顔は噂に聞くモノとそっくりです」
「信玄が……。何故?」
最早、遠乗りなんて、どうでも良くなった。
信玄と言ったら、この尾張の北東にある山々を隔てた向こう側に在る甲斐と信濃の元国主だが、その名を知らぬ者は居ない。
なにしろ、甲斐と信濃の二国をたった一代で統べるに至った英雄中の英雄だ。
この日の本でここまで勢力を伸ばした例は他に関東の北条家と四国の三好家、西国の大友家と尼子家と毛利家しか居ない。
関東の北条家はその目を開祖以来ずっと東へ向けており、西国の大友家と尼子家と毛利家は京から遠い上に領土が隣り合っていがみ合っている。
つまり、既に京を手中に収めつつある三好家に次ぎ、武田家は天下へ近い位置にある。
その武田家が越後の長尾家といがみあいを始めた時は喝采したものだ。特に今は亡き義理の親父殿『斎藤道三』はそうだったに違いない。
風林火山の旗を掲げる武田の騎馬隊は精強揃いで名高く、特に『赤備え』と呼ばれる集団は天下に並ぶ者無しとまで言われている。
それに対して、この尾張も、親父殿の美濃も、守護と守護代が数代に渡って長らく争っていた為に家臣と国人衆の双方が纏まっておらず、その影響は足軽達にも及んで弱い。
もし、信玄の目が西へ向けられていたら、信濃から京までの道中にあるこの尾張と親父殿の美濃は武田の蹄に為す術も無く蹂躙されていただろう。ある意味、長尾家が我等を救ったと言える。
ところが、去年の夏の終わり。その英雄が隠居したという噂が流れてきた。
これが年老いてなら理解も及ぶが、信玄はまだ四十の手前。どう考えても早すぎる隠居に誰もが驚き、最初は法螺話だと信じなかった。
戦の勝敗は兵家の常。隠居の理由は長尾家との戦いで自身の不甲斐なさから多くの命を失わせたからとなっているが、とても納得が出来るものではない。
信玄が一代で築いたモノは誰もが羨むモノ。
そう簡単に手放せるのなら、今の戦国の世は起こっていない。
当然、もっと別の理由が有って然るべきだ。
そう考えて、武田家を多方面から探っているが何も未だ掴めておらず、そこへ当の本人がやって来たのだから気にならない筈が無い。
「冬の終わり頃、殿に挨拶を参られた幕臣の細川藤孝様が付き従っているところを考えるに上洛が目的かと」
「面白い!」
「殿、どちらへ?」
「決っている! 会いに行くのだ! 着いてまいれ!」
こんなところでうだうだと考えていても始まらない。
答えを持つ者がすぐ傍に居るのだから会いに行けば良い。単純な話である。
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「あれか?」
「へい! 間違いありません!」
市で賑わいを見せる表通りから一本外れた妓楼が立ち並ぶ裏通り。
路地の曲がり角に身を隠しながら猿が指し示す先を覗き見て、思わず眉を寄せる。
確かに禿頭の四十代前後と思しき男がそこに居た。
慌てて長着は羽織ったが、帯を巻いていないどころか、褌すらも結んだだけで締めておらず、イチモツを丸出しに妓楼を叩き出されたらしき男が居た。
「こんな真っ昼間から……。只のスケベ親父ではないか?
それも側女か? 尻に敷かれているぞ? 他人の空似でないのか?」
しかも、男を妓楼から叩き出したと思しきは年若い娘だ。
背中から羽交い締めされながらも男に飛びかからん勢いで金切り声をギャーギャーと喚き、それを尻餅をついた男が娘に右掌を突き出して狼狽えながらも懸命に宥めている。
誰が何処からどう見ても、只の痴話喧嘩。
男は『桃が最高!』だの、『桃が一番!』だの、『儂には桃だけ! 桃だけだから!』だの、情けない言い訳を繰り返しており、それが道を行く者達の笑いを誘っていた。
一方、正に般若の如く猛っている娘を良く見てみれば、信玄が側女にするだけあって、かなりの器量良し。
しかし、身体付きが細いという以前にまだ幼くて、信玄は俺と好みが逆だなとまで考えたところで首を左右に振る。
あの男が信玄である筈が無い。
俺が密かに尊敬していた甲斐の虎はもっと凛々しくて冷たい目をした男の筈だ。
「それならば……。ほら、あちらを。
間違いなく、あれは細川藤孝様で御座いましょう?」
だが、猿が非情な現実を突きつける。
その指の先には妓楼から着物の襟を正しながら出てくる男が、冬の終わり頃に俺の元に挨拶を訪れていた『細川藤孝』が居た。
「是非も無し……。猿、合わせろ」
「えっ!? 何を?」
青空を見上げながら思う。古来からの諺に『腐っても鯛』とある。
憧れを抱いていた像と大きくかけ離れているが、信玄は信玄。気持ちを切り替えて、痴話喧嘩の最中に進み出てゆく。
「もし、そこの御方」
「だから……。んっ!?」
「貴方が越後のちりめん問屋、光右衛門殿かな?」
「いえ、人違いです。だから、桃が……。
あっ!? それ、儂だった。はい、儂が越後のちりめん問屋、光右衛門だが? お主は?」
だが、痴話喧嘩に夢中な信玄は自分が偽名を用いて、この清洲城下を訪れているのをすっかり忘れているらしい。
話しかけてみれば、こちらを振り返って立てた右手を左右にイヤイヤと振り、すぐさま痴話喧嘩に戻ったと思ったら左掌を右拳で叩き、舌の根も乾かぬ内に前言撤回をしてきた。
「わ、私は尾張木綿で商いを致す上三郎と申す者。
お、同じ反物を扱う者として、光右衛門殿と話が出来ればと茶をお誘いしたいのですが?」
頬がひくひくと引きつり、やる気があるのかと怒鳴りたかったが、怒鳴ったら負けた様な気がして懸命に憤りを堪えた。
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「それにしても、尾張は何処も大変な賑わいですな。
まあ、それも当然か。関所が無いのですから、商人にとっては極楽も同然だ」
場所を表通りに在る信玄達が今夜の宿に借りた一室に変えての会談。
無論、細川藤孝には俺の正体は伏せさせている。せっかく信玄が身分を隠しているのだから堅苦しい事は抜きに語り合いたい。
そんな化かし合いの挨拶を終え、信玄が開け放たれた窓の方を眺めながら微笑み、昼を過ぎても活気に溢れる清洲城下を褒め称えた。
「関所だけでは有りません。座もです。
しかし、こちらは問屋を営む貴殿にとっては面白くないものですかな?」
思わず口元が緩んでしまうのが解った。
関所を廃す『楽市』と商人共の利権を廃す『楽座』は俺自ら肝いりで実施した政策だ。
実施以前は重臣や商人、国人衆から猛烈な反発はあったが、清洲城下を中心に人が賑わい、利が以前以上に生まれると解った今は反対の声など聞こえやしない。
ただ、東の駿河に今川義元という大きな雄が居る為、土岐川から東の関所は防諜の面で廃す事が出来ず、今はまだ尾張半国だが、いずれは尾張全域に『楽市楽座』を行き渡らせたいと考えている。
最近、諏訪が新しい名物『蕎麦切り』で栄え始めていると盛んに聞くが、何ほどのものか。
尾張半国で以前を遥かに上回る賑わいだ。尾張一国となったら、市場の賑わいは日の本一と名高い幾内の堺すら上回ってみせる。
「はっはっはっ! 確かに、確かに……。
ですが、心配には及びません。……と言うのも、この政策には欠点が有る」
「欠点……。ですか?」
だが、信玄は高らかに笑い、清洲城下の賑わいを目の前にしながら『楽市楽座』を否定した。
苛立ちがたちまち湧いてくるが、虚勢には見えないし、あの信玄の言葉だ。聞く価値は有る筈だと自制する。
もし、これで『楽市楽座』を実施する以前に重臣や商人、国人衆が言ってきた様な古い慣習に縛られただけの文句を言ってくる様なら今度はこちらが大笑いしてやる。
「座を廃す。誰もが気軽に商いを行える様になったのは良い。
儂らの様な他国の商人が口利き料を払わなくなったのも関所を廃した事も合わせて大助かりだ。
だから、外の賑わいが有る。今、この尾張には多くの人々が集い、多くの金が落ち、多くの者を潤しているだろう」
「良い事づくめの様に聞こえますが?」
ところが、意外や意外。信玄は『楽市楽座』を褒めて、褒めて、褒めちぎった。
その意図が解らなくて眉を寄せるが、ここまで褒められて悪い気はしない。苛立ちが収まってゆく。
「しかし、それも過渡期までの話。
商売が自由になった分、競争は激しさを増して、やがては大が小を駆逐し尽くして、巨大な一強が出来上がる。
そうなったら、楽市楽座だったか。
独占された市場は競争力を著しく損なわれ、これを行う前以上に商いは凝り固まったものになりかねない。
それ故、ある程度の小が駆逐された段階で大は結託する。結託して、扱う品の相場を取り決め、その決定に小は従う様になる。
では、それを世間では何と言うか。そう、問屋だ。つまり、座は確かに廃されたかも知れないが、最終的に形を変えて残るだろう」
「ぐっ……。」
だが、その直後に痛烈な批判を浴びせてきた。
反論しようにも口籠るしかなかった。まるで見てきた様な未来図は説得力に溢れており、自分自身が確かにそうなるだろうという感想を抱いてしまっただけに。
「それにこの政策は尾張半国と言う小さな範囲だから保っている」
「どういう意味だ!」
「キャっ!?」
その悔しさから来る怒りもあって、俺を小国の主と侮った信玄の一言を堪えきれずに激高した。
勢い良く跳ね立ち上がった瞬間、信玄の右隣に座る先ほど痴話喧嘩を天下の往来で繰り広げていた小娘が悲鳴をあげた。
「い、いけません! だ、旦那様!」
「大旦那様、お下がりを!」
続いて、俺の気性を良く知っているが故にだろう。
俺の背後に控えていた猿がすぐさま俺の脚にしがみつき、信玄の背後に控えていた若造が一瞬遅れて、俺と信玄の間に片膝を立てながら両手を左右に広げて割って入る。
同じく信玄の背後に控えていた細川藤孝はさすがと言うしかない。
肩をビクリと跳ねさせたが、反応はそれだけだ。各地の有力者や大名との交渉事における場馴れ感を感じさせる。
「解らぬか? 信長殿」
「なっ!? 気付いて? いつから?
いや、それよりも今言った意味を教えろ! 信玄!」
だが、やはり褒め称えるべきは細川藤孝より信玄だろう。
信玄だけが全く動じておらず、立ち上がった俺を見上げながら肩を震わせての苦笑を漏らす余裕ぶり。
それも俺の正体に気づいた上で煽っていたのも判明。
ますます猛りの炎は燃え盛る一方、駄目だ、踏み止まれと思いながらも唾を飛ばして怒鳴りきってしまった。
言うまでもなく、この会談は非公式のものだ。
しかし、お互いがお互いの名前を呼んでしまった以上、意味と責任が生まれる。
隠居したと言えども、相手は甲斐と信濃を支配していた大国の元国主だ。
それに比べたら、尾張など小国に過ぎない。美濃と三河を間に挟んで領土は接していない為、すぐに戦とはならないだろうが、これで関係が拗れてしまい、将来的に戦う様な事態となったら確実に負ける。
だが、ここで簡単に退けるほど俺も、尾張も決して安くは無い。
退いてしまったら俺が俺で無くなるし、俺が国主となる為に戦って死んでいった者達に申し訳が立たない。
「こんな思い切った政策を思い付くお前は優秀だ。
周囲の大きな反発が有った筈なのに、それを実現させる実行力も素晴らしい。
そして、儂が信玄と解った上で噛み付いてくる胆力も良い。
うむ……。お前の器量なら、一国はおろか、二国も、三国も治める事が出来るだろう。
だが、人が手を伸ばせる先には限界が有る。
だから、その先は他人に預けるしか無いが、誰もがお前の様に優秀とは限らない。
ましてや、人は誘惑に弱い。大金を目の前に積まれ、商人と結託する者が必ずや現れ……。」
「だ、だったら、どうしろと言うのだ!」
しかし、それは俺の思い違いで早とちりだった。
信玄は俺を侮っていたのではなくて、その正反対に俺を高く評価していた。
しかも、その語る目は慈しみに満ちており、まるで親が子を諭している様で背中がむず痒くなるものだった。
たまらず信玄の言葉を怒鳴って遮るも声が上擦っているのを自覚して、熱くなりかけていた頬が別の意味で熱くなる。
「はっはっはっ! それを考えるのがお前の役目だろ?
それにだ。こんな助言、滅多にしないんだぞ?
おっと……。何故、正体に気づいたかと聞いていたな。その答えもついでに教えてやろう。
商人とは評判を第一にする。それが地元なら尚更だ。
だったら、あんな醜態の最中に話しかけてくるのはおかしい。
商人を装うのなら、せっかく丁稚役まで仕立て上げたのだ。そこの藤吉郎殿に話しかけさせるべきだったな」
もう完敗と言うしかない状況に更なる追い打ちがかかる。
なんと信玄は俺の足に未だしがみついている猿の正体まで知っていたのである。
猿は農民の出自でありながら機転と弁舌が効き、実に世渡りが上手い。
その一度見たら忘れない猿顔に愛嬌もあって、独自の広い人脈を持っている。今日、信玄をいち早く見つけてきたのもその人脈のおかげだろう。
使える者は身分を問わずに出世させるのが俺の方針。
猿はトントン拍子に出世して、今では台所奉行を務める足軽の組頭。重臣の間にもその名が知れ渡り始めてもいる。
だが、それは織田家の中に限った話だ。
猿の名が他国にまで知れ渡っているとはとても思えないが、信玄は知っていた。
その目は何処まで見通して、その耳は何処まで聞き取っているのか。驚く以上に恐怖を覚える。
「お、おらの名前を! し、信玄様が! へへぇーーーっ!」
「ぐぬぬぬぬ……。」
俺は自分の名前を知っている事実に感激して涙ながらに平伏する猿を横目に歯軋りをするしか出来なかった。




