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影武者信玄 ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~   作者: 浦賀やまみち
林の章

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第04話 上洛の旅




「大殿! ほら、あれ! あれ、あれ! あれが美濃ですか?」


 諏訪湖の西と繋がる天竜川を船でのんびりと南に川下り。

 天竜峡からは陸路を西に進み、狭い山間の道と幾つかの峠を越えて辿り着いた美濃平野。

 先ほどまで険しい上り道に息を切らしていたのは何処へやら。桃が眼下に広がる巨大な平野を指さしながらはしゃぐ。


「ああ、そうだ。あれが美濃だ」


 その可愛らしさに頬が緩む。

 桃が興奮するのは当然だ。甲斐と信濃の平野はどんなに広くても所詮は山間地の平野である。


 山脈という壁が近い、遠いの違いはあっても四方に必ず立ち塞がっているが、眼下の美濃平野は違う。

 小山や大地の起伏は有っても山脈の壁が無い。平野は遥か彼方の伊勢湾まで広がり、この地球が丸い星だと実感が出来るほどに地平線へと続いており、この光景は甲斐と信濃では絶対に見る事が出来ない。


 では、その甲斐と信濃では絶対に見る事が出来ない光景を俺達が今見ているのは何故か。

 その原因は義信に全て有る。俺がのらりくらりと煙に巻いた末に押し付けた藤孝殿の巧みな弁舌に根負けして、上洛の要請に応じてしまったのだ。


 なにしろ、今の武田家には上洛する余裕が幸いにして有る。

 家督を継いだばかりの義信は甲斐を動けないが、気楽な隠居暮らしの俺は自由気ままに動ける余裕が。

 それに義信と晴信の知名度を比べたら、晴信の方がまだまだ圧倒的に上。隠居した俺でも上洛すれば、将軍『足利義輝』の面目は十分に立つ。


 そう泣き落としされて、義信はどうしても断りきれなかったらしい。

 正直なところ、十中八九はそうなるだろうと覚悟はしていたが、その報告が早馬で届いた時、思わず溜息がこれでもかと漏れた。


 現代なら車でも、鉄道でも半日の旅で済む。

 だが、ここは戦国時代。基本的な移動手段は自分の足になる。

 京までの長い、長い道のりを考えたら億劫で、億劫で仕方が無かった。


 しかし、いざ出発してみると、自分の足で行く旅はなかなか良いものだ。

 さすがに最初の数日は疲労と足の筋肉痛で完全なお荷物状態だったが、それに慣れてくると景色を愛でる余裕が出来てきた。ゆっくり、ゆっくりと歩んで行く旅は情緒に溢れていた。


「それにしても、雨が止んで本当に良かった。これ以上、道が泥濘んでは堪らんからな」


 ただ、厄介なのが天候だ。

 こればかりはどうする事も出来ない。


 この時代の道は敵の侵略を防ぎ、遅らせる為に整備を怠った道ばかり。

 雨が降ると到るところが水溜まりを作って泥濘み、場所と雨量によっては小川と化す。


 どうしても足元が濡れて汚れる。

 おまけに、雨合羽代わりのイネ科の植物の茎を編んで作った蓑はとても蒸れる為、お世辞にも着心地は良くない。


 しかも、この時代の者達は現代人の感覚なら雨が振っていたら諦めるものを諦めない。

 強い風が雨と一緒に吹いていたり、よっぽどの大雨でない限り、当然の様に受け止めて動じない。


 例えば、今朝が正にそうだ。

 屋根を叩く雨音に目が醒めて、その音の強さから『この山小屋にもう一泊だな』と二度寝を決め込もうとしたが、桃に『何をもたもたしているんですか! 早く出発の準備をして下さい!』と叩き起こされている。


「同感です。この先に沢が有るそうですから、そこで草鞋の泥を落としましょう。

 このままでは歩き難いですし、いざという時に滑ってしまうかも知れませんからね」


 もっとも、感覚は違っても同じ人間。雨の中を歩くのをしんどいと感じるのは一緒。

 立ち止まった俺の背後から話しかけてきたのは、槍を杖代わりにして歩きながら旅の荷物を背負った馬を牽く『穴山信君』である。


 彼は晴信の次女を娶り、俺が知る歴史では武田二十四将の一人に数えられている武田家重臣だが、今はまだ家督を継ぐ前の十七歳の若武者に過ぎない。

 父『穴山信友』が仏門へ入っての隠居を俺に倣って強く希望しており、そういう事情が有るなら家督を継ぐ前の気楽な身分の内に見聞を広めるのはどうだと俺が今回の旅の同行者に誘った。


 なにしろ、上洛とは京都へただ行くだけでは無い。

 今上天皇と室町幕府将軍、この二人との拝謁を目的にしており、その権威は全盛より薄れたと言えどもこれは大変に名誉な事である。

 無論、実際に拝謁するのは従四位下の官職『大膳大夫』を持っている俺一人のみだが、その同行を担っただけでも末代まで語れるほどの名誉だ。


 それだけに当然と言うべきか、俺の上洛が決定するや否や、誰が俺の護衛として同行するかの一悶着が起きた。

 俺が住む諏訪の屋敷に詰めかけ、用を足している最中でも戸の向こう側で誰かしらが、私が、俺が、儂が、某が、拙者がと喚き立てる始末。いい加減に鬱陶しくなった為、名乗りすら挙げていなかった彼に白羽の矢を立てた。


 また、影武者と言えども、俺が死んだら武田家の一大事。

 常日頃、諏訪の屋敷を守っている者達の中から選抜された約二十人が護衛に同行している。


 但し、護衛をぞろぞろと連れて歩くのは堅苦しいし、自分が重要人物だと対外的に告げている様なもの。

 山賊や盗賊に狙われる危険度を逆に高め、武田家の支配下から離れるここから先の領主達に要らぬ緊張を与える可能性が有る。

 その為、陰ながら護衛を行っており、その日に進む道の安全や今夜の宿の選定する先行組と付かず離れずに俺達を間に挟んで前後を歩いている旅人を装った現場組が居る。


「それもそうですが、この景色は雨が降ってこそですよ?

 こうも景色が遠くまで澄み渡って見えるのは雨が降った後だけですからね」


 もう一人の同行者は上洛を武田家に要請してきた当人の藤孝殿だ。

 その声に振り向くと、さすがは当代一の文化人。俺が着込むと正に蓑虫状態の蓑ですら見事に着こなして、麗しい容貌をちっとも損なわせていない。

 これで武芸、和歌、茶道、蹴鞠、囲碁、料理と何でもござれのリアルチートであり、それを決してひけらかそうとしない好感が持てる性格をしているのだから嫉妬心以前に尊敬の念しか湧かない。


 それに藤孝殿が持つ豊富な知識は旅をする上で大いに役立っていた。

 各地の名所、名物から道の傍らに茂っている雑草まで何でも知っており、ガイドさん要らず。


「おっ!? さすが、藤孝殿。考え方が実に雅だ」

「そうだ! 細川様、ここで一句を是非!」

「えっ!? いや、しかし……。」

「儂からも頼む。桃の願いを聞いてやってはくれないか?」

「勉強になります! うちの父は教養を知れと五月蝿いですから!」

「皆さんがそこまで仰るのでしたら……。」


 おかげで、俺達はご覧の通りに退屈とは無縁の旅を満喫。京都へのんびりと向かっていた。




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