第02話 武田義信という息子
「ふむ……。」
縁側に胡座をかいて座り、伸ばした左腕の先に日本刀を立てて眺める。
手首を動かす度、刀身が太陽の光をキラリーンと反射して輝き、その眩しさに目を細める。
それを綺麗だなとは思うが、それ以外の感想は出てこない。
俺の前には時代劇で見かける日本刀の手入れに欠かせないあの白いポンポンなどが置かれており、今は日本刀の手入れ中。
意外と面倒臭い作業だが、晴信はこれを平時の日課にして、幾本も有る武田家所蔵の名刀を管理していたらしい。
当然、影武者の俺もそれを真似なければならず、馬で何処かへ遠乗りに出かけない日は昼食の後にこれを暇潰しの日課に行っていた。
「ふむ、じゃありません! 父上、私の話をちゃんと聞いてますか!」
「聞いてる、聞いてる」
そんな俺の右隣、二メートルほど離れた場所から怒鳴り声を飛ばしてきたのは俺の書類上の息子となった義信だ。
俺が影武者となり、義信が武田家当主となり、早いもので半年が過ぎ、季節は冬を迎えたが、やはり晴信の存在はとても大きかった。
どうしても晴信と比べられる義信は色々とストレスが溜まるのだろう。
時々、甲斐からわざわざ出向いてきては家臣団をなかなか纏めきれない愚痴を俺に零していた。
しかし、愚痴を何度も、何度も聞かされる身としては当然の事ながら鬱陶しい。
この半年間は重責をいきなり背負わされた義信に同情を感じるところもあって大人しく愚痴を聞いていたが、今日は強くガツンと言ってやる。
それに信繁さんからも頼まれている。
俺のところへ相談に度々行く行為自体が家臣達から舐められる要因の一つになっているのだとか。
「それでしたら! ……うっ!? な、何をっ!?」
こんな時、晴信ならどうするか。
暫く悩んだ末、手首を捻り、日本刀の反射光で義信の目を焼く。
たまらず義信が右手を顔の前に翳して非難を叫ぼうとするが、日本刀の切っ先を素早く突き付けて黙らせる。
「お、大殿!」
「座れ」
「ぎょ、御意!」
義信の背後に控えている飯富虎昌が血相を変えて腰を浮かす。
だが、一睨みして、その動きを封じると、すぐさま飯富虎昌は腰を落として平伏した。
飯富虎昌は義信が当主となる以前は義信を補佐して導く教育係『傅役』を務めていた武田家の重臣中の重臣である。
それだけに義信がここを訪れる時は必ず付き従っており、きっと甲斐でも義信と家臣達の間を取り持っていたりと今の武田家で一番の苦労人かも知れない。
実際、初めて出会った時は人生最良の時と言わんばかりに元気ハツラツだったが、今では疲労の色が濃い。
五十代半ばにして、白髪が目立ち始めて、少し老け込んだ様にも見える。今夜は温泉にゆっくりと浸かり、日々の疲れを癒やしていって貰いたいものだ。
「義信」
「はっ!」
しかし、その前にお説教である。
日本刀を戻して、鞘にしまうと、すぐさま義信もまた平伏した。
信繁さんの話によると、晴信と義信の親子仲はお世辞にも良いものとは言えない。
現代風に言うなら、軽いネグレイト。義信を産んだ三条の方との仲が芳しくない事も有るが、義信は幼い頃から素っ気なく扱われ、成長してからはいがみ合う事も多々あったらしい。
それでも、こうして頼ってきているところを見ると、義信は父親を嫌いになれないのだろう。
一方、晴信は自分の息子にどう接して良いのかが解らなかったのではなかろうか。父親『信虎』との確執は有名な話であり、虐待は連鎖すると聞く。
その証拠に晴信の子供達と全員に会っているが、娘達は軽口を叩いたりして平然と接してくるのに対して、息子達は緊張しっぱなしで晴信に怖れを抱いている感が見て取れた。
俺としては義信と良好な関係でいたい。
俺が今の生活を送れるのは義信のおかげ。義信が俺を疎んじた結果、変な気を起こして貰っては困る。
「お前、今年でいくつになる?」
「二十を数えました!」
尻を支点に胡座をかいたまま腰を捻り、身体の向きを義信と正対させる。
だが、義信は顔を上げようとしない。良く観察してみれば、肩が微かに震えていた。
たまたま日本刀を持っていた為、それを用いただけだったが、薬が効きすぎたかと反省する。
前述に成長してからはいがみ合う事が多々あったとあるが、晴信は非が自分に有っても言い返せなくなると義信を鉄拳で黙らせる事さえも有ったと聞いている。
そのトラウマを刺激してしまったかも知れない。
飯富虎昌はそう捉えた様だ。伏せていた顔を少しだけ浮かせて、上目遣いで俺の様子を頻りに探っている。
もし、俺が膝を立てて、義信へ詰め寄ろうものなら、すぐさま身を挺して守る腹積もりに違いない。俺の手から既に日本刀は離れたとは言え、熱い忠義心である。
こうなったら、作戦変更だ。
語ろうと考えていた言葉は変えないが、怒気を抜いて優しく諭す。
「なら、同じだ。儂も二十の時に家督を継いだ。
だがな、儂は今のお前の様に誰かに泣きついたりはしなかったぞ?
それをお前は何なのだ。この半年間、儂の元へ何度泣きついてきた? 言ってみろ?」
「うっ……。」
「そもそも、国主がそう簡単に本拠を離れてどうする?
それ、そのものが甘く見られている原因だとどうして解らない?
今年の冬は暖かくて、雪が少ないから良いが……。もし、今夜から大雪が吹雪いたら、どうする?
お前は甲斐へ戻れなくなり、何日も……。下手したら、国主が数週間も不在になる。家臣達が勝手を始めるのは当たり前ではないか」
「お、仰る通りに御座います」
但し、その内容は怒気を抜いても痛烈なもの。
次に義信が来たら言ってやろうと何日も考えに考え抜いた力作だけに義信は何も言い返せない。
「虎昌、お前もだ。信繁が居るとは言え、義信が心から頼りにしているのはお前だ。
国主が不在の時、本拠を守るのは腹心の役目。それを国主と腹心の二人が一緒に離れて、どうする?」
「ま、誠に……。ま、誠に……。」
飯富虎昌にも釘をしっかりと刺しておく。
恐らく、今までも義信がここを訪れようとする度に引き止めていただろうが、その強化を行う。
義信が飯富虎昌と一緒に訪ねてくるのは一人では心細いからだ。
これで今後は飯富虎昌が同行するのは難くなり、それ自体が抑止力になる。
「よって、雪が融ける春になるまでここを訪れるのを禁ずる。良いな?」
「はい……。」
これにて、一件落着。そう言いたいところだが、罪悪感がとても苛む。
義信はすっかりと意気消沈して、返事は弱々しい上に頭を上げようとしない。放っておいたら、ずっとそのままで居てそうだった。
腕を組みながら縁側の天井を見上げる事暫し。
心の中で『もうちょっとサービスをしてやるか』と呟いて頷き、義信に視線を戻す。
「お前は儂の子だ。儂が育てたとは言えぬが、お前の成長はこの目でちゃんと見てきたつもりだ。
だから、お前に家督を譲った。お前なら出来るとな。
今、お前に足りないのは自信だけだ。空元気でも構わん。下らない批判なんて、それがどうしたと笑い飛ばしてやれ」
「ち、父上……。」
義信が伏せていた顔を勢い良く跳ね上がらせる。
その目はこれでもかと見開き、その瞼はわなわなと震え、その目は涙が滲んできた。
「もう一度、言う。お前は儂の子だ。
なら、儂が出来た事をお前も出来ぬ筈が無い。頑張れ、お前なら出来る」
「ち、父上ぇぇ~~~っ!」
そして、号泣である。涙ばかりか、鼻水まで垂らして。
義信が片膝を立たせて、俺の胸に飛び込んでくる瞬間、つい避けたくなる心を必死に抑えて踏み止まると共に義信を受け止める。
「馬鹿者。大の大人が泣くな」
「はい……。うっううっ……。」
「ううっ……。お、大殿がその様な御心だったとは……。せ、拙者は、拙者は……。」
飯富虎昌も伏していた顔を上げると目線を右腕で覆ってのもらい泣き。
二人が泣けば、泣くほどに影武者の俺は苦笑するしかなく、義信の背中に両手を回して、幼子をあやす様に右手で優しく何度も叩いた。




