第01話 三ヶ月が経ち
「あれから、三ヶ月か……。
どうなる事かと思ったけど、朝からまったりと温泉……。最高だな」
二十人は余裕で入れる大きな岩風呂を独り占め。
かけ流しの温泉が緩やかに注ぐ音を耳にしながら、オレンジ色に濁る湯で顔を洗う。
ここは諏訪湖の北に位置する毒沢温泉。
義信に家督を譲った俺の隠居地として、信繁さんが選んだ場所である。
隠居地、その響きを聞くと何となく寂しさを感じさせるがとんでもない。
この岩風呂を贅沢に独り占めしている点で解る通り、ここはパラダイスだ。
確かに初めて訪れた時はしょぼかった。こんな何もない場所に住むのかとガッカリもした。
東信濃と繋がる街道沿いにはあるが、諏訪大社というビックネームが目と鼻の先にある為、宿場町一歩手前の寂れた温泉地でしかない上に狭い山間地故に農地面積も狭くて、猟師兼農家の家が数世帯ある程度の集落だった。
だが、俺の隠居地に選ばれた事で様変わり。
山の中腹まで切り拓かれて、その斜面に俺が今住んでいる豪邸が建ち、それを守る丸太を立てた防壁と東西を監視する物見櫓が作られた。
最早、ちょっとした砦。二交代制による二十四時間体勢で屋敷を守る兵士達が約百人。
そんな厳重な警備は必要無いと俺は訴えたが、信繁さんは頑なに譲らず、その兵士達が寝起きする兵舎も屋敷の麓にタケノコが生える様にぽこぽこと建ち並んだ。
こうなってくると利に聡い商人達も動いた。
甲斐と信濃の大小様々な商人が街道沿いに支店を続々とオープン。
これに伴い、人々や荷物の往来もぐんと増えて、それ等を監視する為に関所まで作られ、今では元の寂れた姿は何処にも無い。確実に城下町化しつつあった。
しかも、これがたった三ヶ月間で起こっている。
この間、俺は諏訪大社下社の一室を借りて住んでいたが、一日、一日が経過する毎に姿をあれよあれよと変えてゆくのだから凄いの一言。
ブルトーザーの様な土木作業車も無ければ、トラックの様な資材運搬車も無い。
使用している道具は原始的なもので全てが手作業、力仕事だが、この三ヶ月間で動員された作業員の数が半端無い。この時代の戦国大名家の本気を見た。
哀れなのが、この地に元々住んでいた住人達である。
彼等が住んでいる一角だけが酷く見窄らしくて惨めと言うしかない。
信繁さんが彼等を強制的に何処かへ移住をさせようとしたのは正しかった。
それを彼等は先住者なのだから、此方の都合で地上げするのは良くないと止めた俺が間違っていた。こんな事になるとは思ってもみなかった。
しかし、信繁さんに彼等の移住を今更になって提案するのもおかしな話。
彼等をどうにかしてやれないだろうか。ちょっとした罪悪感から来るソレが最近の俺の悩みだった。
「大殿、賄い方から朝食が少し遅れるとの事です」
「そうか、解った」
「それまでの間。もし、よろしかったら、お身体を流しましょうか?」
「そうだな。頼むとするか」
脱衣所へ繋がる戸がゆっくりと開く音が聞こえた。
それに釣られて振り向くと、湯浴み着を着た少女が頭を下げており、その申し出に頷いて湯から立ち上がる。
ちなみに、この毒沢温泉が隠居地に選ばれた理由は三つ。
一つ目は単純に温泉がこの地に湧いているから。俺は川中島の戦いで落馬してしまいその際に腰を痛めたという設定になっており、川中島からの帰り道に温泉があるこの地を立ち寄り、そのまま隠居地として定めたという設定だ。
つまり、俺は武田家の本拠地である甲斐には戻っておらず、これが二つ目の理由に引っかかってくる。
俺と晴信の二人がどんなに瓜二つだろうが、それは見た目だけ。奥さんを筆頭に晴信と近しい者が傍に長らく居たら、俺の立ち振舞いに違和感を覚えるに違いない。
だから、それを矯正する必要と時間が必要だった。
最初の二週間は何をするにも、何処に行くにも信繁さんが腰を痛めた俺の介護という名目で一緒。言動や立ち振舞いに問題が有る度に注意を受けて、それを少しづつ直していった。
また、それと並行して行ったのが筆跡を晴信のモノに似せる修練。
古文書を見た事がある人なら解ると思うが、この時代の人間の文は達筆で最初は読むのも一苦労なら、使い慣れていない筆の扱いに慣れるのも一苦労。本当に苦労した。
信繁さんが教材に選んだのは晴信が孫子の兵法書を自分なりに解釈して残しておいた走り書きのメモ。
毎日、毎日、何度も、何度もメモを清書する作業を行い、まるで兵法書を編纂している様な気分だった。
怪我の功名と呼ぶべきか、今では晴信流孫子が頭にしっかりと詰め込まれ、諳んじる事さえも出来る様になっている。
もっとも、俺が戦場に立つ必要が有ったとしても俺は影武者だ。
実際の指揮は家督を継いだ義信か、信繁さん、或いは勘助さんが執る。宝の持ち腐れと言うか、隠し芸にしかならない無駄知識である。
最近、教材が変わり、領内の刑罰に関してを清書しているのだが、密かに感じている事が有る。
それは兵法書の編纂が我ながら良く出来たと言える出来栄えだった為、信繁さんに晴信が残したメモの編纂作業を都合が良くやらされているのではなかろうかと。
最後の三つ目の理由はこの場所が武田家の本拠地である甲斐の躑躅ヶ崎館と遠くもなく、近くもない絶妙な位置に有り、甲斐と信濃の中心に位置するからだ。
ここなら甲斐に深く根付いている武田晴信の影響力を薄れさせると共に北信濃の国人衆達に対する睨みも十分に効き、長尾家の調略に対する牽制になるというのが勘助さんの考えである。
「んっしょ……。んっしょ……。んっしょ……。んっしょ……。」
「おお、良いぞ。その辺りだ」
「はい、ここですね! んっしょ……。んっしょ……。」
俺の背中を一心不乱に洗ってくれているのだろう。
掛け声を繰り返しながら鼻息をフンス、フンスと噴き出している様子が微笑ましくて、ついつい苦笑が漏れる。
そんな彼女の名前は『桃』、名目上は俺の側仕えだが、その実は隠居した俺に北信濃のある国人衆が差し出してきた人質である。
さて、信繁さんと勘助さんについて。
現代では人付き合いが下手だった俺だが、年齢差がかなり有りながらもかなり親しくなっている。
それと言うのも戦国時代にタイムスリップして三日目で実感したが、この時代は娯楽というモノがまるで無い。
娯楽と言ったら、将棋や囲碁、和歌や漢詩といった格調高いものばかりで俺の肌に合わず、必要に迫られて習得した乗馬が趣味になったくらい。
そういった理由も相まって、暇を持て余す時間が多い。
影武者としての修練の目的も有るが、他人との会話が最大の娯楽であり、この三ヶ月間は信繁さんと勘助さんの二人と毎日顔を合わせていた結果、必然的に親しくなった。
だが、信繁さんと勘助さんの二人は俺と違って才能に溢れる人である。
一週間ほど前、俺が影武者として十分に通用すると太鼓判を押して、今はそれぞれの場所へ戻っている。
信繁さんは武田家の本拠地である甲斐の躑躅ヶ崎館へ。
今後は一ヶ月に一回か、二回の頻度で甲斐での出来事を届けてくれるらしい。
勘助さんに至っては俺の知る歴史で武田家滅亡の大きな要因となった鉄砲がよっぽど気になったのだろう。
鉄砲を入手して、その性能を学び、甲斐信濃へ来てくれる鉄砲鍛冶師を探す為の旅に出た。多分、数年は帰ってこないに違いない。
それ故、今の俺はちょっぴり寂しかった。
人間、寂しくなると人の温もりが欲しくなる。それが人間というモノだ。
「むっ!? いかん!」
「な、何か、粗相をっ!?」
「これを見よ。桃のせいで褌からマムシが鎌首をもたげたぞ」
「ま、まぁ……。お、大殿ったら、朝っぱらからイケナイ御方。さ、昨夜もあれほど睦み合いましたのに」
以上の理由から俺は無罪。悪くないったら悪くない。
それに隠居の身である為、桃は側仕えという名目上で俺に仕えているが、俺が現役なら側室という名目になる。ソウいう事を行わなければ、桃が困ってしまうのだから仕方が無い。
余談だが、桃は数え年で十五歳。胸だって、まだ膨らみかけ。
片や、俺は武田晴信の影武者である為、対外的には現時点で三十七歳になる。現代では許されない犯罪かも知れないが、戦国時代では合法である。
おかげで、色々な思惑は有れども俺にも彼女が初めて出来た。
今まで世の中を『リア充、死ね』と何度となく呪ってきたが、時代が遅すぎた。俺の時代はここ、戦国時代だ。
「良いな?」
「は、はい……。も、桃をお召し上がり下さい」
最初にも言ったが、大事な事なので今一度言おう。影武者、最高と。




