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8.挙式


 半月が経ち、無事に婚礼衣装が仕立て上がった。

 現在、フローティアは用意された部屋で、飾られた真紅のドレスを前に惚けている。


 身体のラインに沿った作りの、細身のドレスである。現世ではあまり見ない、肩を大胆に出した形でも優美な印象が強いのは、生地の品質と、洗練された意匠によるものだろう。

 胸元から膝までは曲線美を強調し、膝下から大きく広がる裾までは、繊細な刺繍による花々が咲き乱れている。


 まるで夢のように美しい衣装だった。

 自分がこれを着るのだと思うと、もはや恐れを覚えるほどの品である。


「こんな素敵なもの……身に纏って許されるのかしら……」


 思わず怖気付いてしまう程の出来に、不安が呟きとなってこぼれ落ちた。

 もしも現世で売り出したのなら、それこそ屋敷の二つや三つは買える値段がつくに違いない。


「まあ! それ程までにお褒めの言葉を頂けるだなんて、仕立て屋冥利に尽きますわ!」


 両手を組み合わせたリーリーは、半ば呆然としているフローティアの頬を、残りの空いている手でするりと撫でた。

 彼女は喜びの表現が距離に出るタイプなのだろう。何かと距離が近いが、彼女の持ち合わせる雰囲気のためだろうか、あまり気にならない。

 最近では、二、三度撫で回されている内にユラがそれとなく止めに入る──という流れが出来てしまった。


 フローティアは気づいている。これは自分を気に入って、というよりは、ユラを揶揄うのが好きでやっているのだろう、と。

 生真面目で仕事熱心なユラは、奔放なリーリーにとっては楽しい遊び相手のようだった。


「衣装に合わせた装飾品を揃えましたの! この中で王妃様のお気に召すものをお選びいただければ、と思いまして」


 用意された装飾品は実に様々だった。首飾りや耳飾りだけでも相当の数が用意されている。

 現在冥府に用意のあるものの中からドレスに合わせたものを用意したので、更に好みに合ったものを此処から選んで欲しいとのことだった。


 ずらりと並んだ煌びやかな装飾品たちへ、フローティアは一つひとつ丁寧に目を向ける。

 どれも卓越した技術で作られた、素晴らしい意匠のものである。目を見張るほどの優れた品々ばかりだ。


 輝かしい首飾りを見比べながら、フローティアは素直に驚いていた。

 それは冥府の装飾品にでもあったが、何よりも、それらを選ぶことを心から楽しんでいる自分に、だ。


 もちろん、フローティアだって華やかで美しいものは好きだ。幼い頃は、無邪気に美しい『お姫様』に憧れていたことすらある。

 けれども身につけるものを一々品定めされる生活では、着飾ることを心から楽しめたことはなかった。

 いくら美しく整えたところで、婚約者であるアランから向けられるのは侮蔑の目だ。

 更には、こんなにも金をかけてやったのに、という父から失望がそこに加わる。


 フローティアにとって、社交の場に出る用意は気の沈む行為だった。

 けれども、此処では違う。フローティアはこの美しい緋色のドレスを身に纏っても誰にも怒られないし、それに似合いの装飾品だって、本当に言葉の通りに『好みに合ったもの』を選んでいいのだ。


 まあ、あまりにも美しいドレスなもので、別の意味で覚悟が必要ではあったけれども。

 自信はない。だが、それに勝る期待と羨望がある。


「あら、これは……メトニアの花?」


 ふと、一つの耳飾りの前でフローティアの指が止まった。

 金細工で出来た花托から水晶の花弁が伸びていて、細かな花が連なりとなって揺れている。


 メトニアの花は、フローティアが気に入っている花の一つである。秋に咲く離弁花で、まるで雪を思わせるように澄んだ白色をしている。


 手に取ったそれは、捩れたように重なる花弁も丁寧に再現されていた。

 見れば見るほど素晴らしい出来の品である。フローティアはリーリーを振り返ると、心からの喜びを伴った笑顔で告げた。


「耳飾りは、此方の物を是非」

「あら、其方をお選びに? あらあらあら……」


 見上げた先で、リーリーの瞳が瞬きもなくフローティアを映している。

 頬にかかる髪を優美な仕草で掻き上げたリーリーは、その美貌にうっとりするような笑みを浮かべてみせた。


「うふふ、どうやら我が君は、現世の男よりはほんのすこぉしマシなようですわね」

「……リヴィメラが、何か?」


 どうして此処で彼の名前が出るのだろう。

 予想が付かず不思議そうに尋ねたフローティアに、リーリーは機嫌よく笑みを深めた。


「王妃様がお好きな花を模ったものを用意して欲しい、と頼まれて急遽用意したものですの。どうやら間違いはなさそうで、安心しましたわ」


 その言葉に、フローティアの目が、手元の耳飾りへと向かう。


 メトニアの花は、リヴィメラが秋になるとよく持ってきてくれる花の一つだった。

 彼は季節ごとに咲く花の中でフローティアが何を好むのか知っているし、四季の中で最も好むものも、当然把握している。


「……そうだったの。とても嬉しいわ」

「ええ、ええ、王妃様の為に、とお願いされまして。けれども、我が君が直々にお願いしたものだなんて知れば、お優しい王妃様はそれだけで選ばれてしまうのではないかと思いまして!

 あたくし、是非とも王妃様にはご希望の品を何一つ気遣いなく選んで欲しかったものですから、候補の中に紛れ込ませておくだけで宜しければ、とお伝えして、了承を得て参りましたの」


 リーリーは楽しげに、その巨体で持って器用に、踊るようにその場で回った。


「お気に召したようで何よりでしたわ。勿論、式の場に選ばれなくともこれら全ては王妃様の為のものですから、贈り物としては何の問題も御座いませんけれど! 冥府の王たるもの、贈り物くらい無数の候補の中から選ばれてみせるくらいの気概がなければ、と思いませんこと?」


 謳うように紡がれる言葉の終わりに、ユラが何かしらの苦言を呈すように口を開きかける。

 リーリーはその言葉を封じるかのようにユラの頬を優しく包むと、同時に衝撃を受けたように固まるフローティアへゆったりとした仕草で目を向けた。


「どうぞ、拒まずに受け取ってくださいまし。ラーゲルときたら──ああ、うちの彫金師ですけれど──この数百年、それしか楽しみを知らぬとばかりに作り続けているのです! 仕立てたドレスに合うものを選んだだけでもこの量ですもの。

 あの子、本当に彫金ばかりが趣味の引きこもりで、碌に誰とも顔を合わせませんの。知らぬ間に水晶になっていやしないかと囁かれる程ですのよ」


 リーリーは笑いながらそう言ったが、それは、笑ってもいいものだろうか。

 迷ったフローティアは曖昧な──つまりは現世で鍛えた、何もかもをひとまず有耶無耶にする笑みだけを浮かべておいた。


 悪い冗談です、と後ろでユラが胡乱げな目をしている。「そもそもラーゲル様はその身を捧げるお相手を選ぼうとしないではないですか」と呟いている辺り、恐らくは『悪い』の部分がフローティアの捉え方とは違うことだけは分かった。


 『水晶と成ること』自体ではなく、『食べられてもいないのに』という点が気になっている訳だ。

 この辺りは、価値観の違いというやつなのだろう。フローティアにすぐ理解できるものでもないので、やはりそっと流しておくのが正解のようだった。


 ところで、曖昧に受け流したせいで、この場の全ての品の方は、断る暇もなくきっちり受け取ることになった。




     *   *   *




 ────冥府の式では、互いの一部を口にする必要がある。

 食することこそが愛情を示すのだから、当然といえば当然の話だ。


 個人間の婚約では互いを調理したものを出すこともあるようだが、『王』の婚姻は契約の意味合いが強いため、血液を交わし合うのが妥当であるそうだ。


 ただ、リヴィメラには厳密に言うと肉体と呼べる存在が無い。

 彼は言わば意思を持った深淵に等しく、肉を持った身体のように見える部分は、全て彼がそう見せているものに過ぎない。

 まあ要するに、リヴィメラの場合は、血液というよりは彼という存在を液状にした物体を飲むこととなる。


 これを聞いた時のフローティアは、同席したニンアとユラが思わず揃って目線を逃すような顔をした。もはや精巧に出来た石像を思わせる程には、生気が飛んでいた。


 もちろん、王妃になることを了承した時点である程度の覚悟はしていた。

 そもそも歴代の王妃がどうして正気を失ったのか考えれば、いずれ通る道であることは容易に予測がつく。


 ただ、頭で理解しているからといって恐怖がない訳ではない。自己の喪失は、自我を持つ生物の持つ最も根源的な恐怖である。

 抗い難い生存本能であり、理屈でどうこうなるものではない。


 その恐怖を乗り越える覚悟が決まったのは、過去の経験を踏まえてのことだった。


 八歳のフローティアが突然の『味見』を経ても生還したのだ。少なくとも式に必要な量を一度くらいなら耐えることは出来る筈だ、と判断した。

 それでも、最悪の場合は胃がひっくり返ることを踏まえておかねばらないだろう、とも思ったが。


 ところで。

 そんな風に腹を括ったフローティアに、リヴィメラは次のように告げた。


『大丈夫ですよ。私が与える分は葡萄酒で希釈しますし、貴方であれば然程問題はありません。

 そもそも八年前で数日寝込む程度で済んだのですから、あの頃より更に成長している今、何も心配する必要はないのでは?』


 フローティアはその時、極めて静かに、抗議を込めてリヴィメラを見上げた。石像の顔である。


 確かに、フローティアはあの時三日三晩吐いて寝込み苦しむ程度で済んだ。それは事実だ。

 冥府の王に突如として味見をされて、死なずに快復したのだから、紛れもなく根拠となる事実だろう。

 しかして。

 それは、苦しむ要因になった存在が口に出していい言葉では無い。


 フローティアが自分を勇気づけるために『あの時無事だったのだから、今回もきっと大丈夫』と思うのはいい。

 リヴィメラが言うのは違う。絶対に違う。断じて違う。

 そもそも『然程問題はない』を『大丈夫』に入れている時点で何も当てにならない。


 よって強い抗議の視線を向けたフローティアに、リヴィメラはゆっくりと、何処か芝居がかった様子で両手をあげてみせた。なんともわざとらしい、降参のアピールであった。


『リヴィメラ、貴方が今するべきは私の不安に寄り添うことであって、私の不安に対して「大したことじゃないから気にしなくていいですよ」などと宣うことではないわ』

『おや、そのような意味合いに聞こえてしまいましたか』

『私の受け取り方の問題にすり替えることでもないわ』

『では、どのように?』


 フローティアは特に答えなかった。

 これは物事が無事に終わるまでには答えなど存在しない問題であり、この物言いに付き合ってくれることこそが答えでもあったからである。


 とりあえず、リヴィメラは三分ほど沈黙を味わってから言葉もなく離席し、何故か梟を持って帰ってきた。眼球が十二と、足が六本あった。


 梟は大変に困っている様子だったが、受け取ったフローティアが黙って膝の上に置くと、ふぁさ……と羽を閉じてしばらく大人しく撫でられていた。

 その後、梟ちゃんと呼ばれることになった彼女は、城内の庭先に建てられた小屋で過ごしている。飼われている訳ではないので、好きに出かけたり、遊びに来たりしている。


 なんなら挙式当日の今も、式場となった城の広間で、窓の外にあるテラスに止まっていた。

 緋色のドレスに身を包んだフローティアと目が合うと、彼女は大きな羽を片方だけゆったりと広げた。


 会場には、調理に携わるもの以外は城内の者が全て出席している。

 ざっと数えても二百人ほど居るようだった。


 彫金師然り、普段は各々好きなように過ごしているものが大半なので、フローティアの前に姿を見せることの方が少ないそうだ。

 フローティアはひとまず、彼らの顔を記憶するだけに留めた。名前と顔は、恐らくすぐには一致しないだろう。


 今回の式の作法は、冥府のものと現世のものを半々に混ぜてある。

 これまでの王妃ともそのようにしていたそうで、やはり生まれた世界のしきたりにある程度合わせた方が安心できるだろう、という城の者の気遣いのようだった。


 地上では情の通じぬ化物のように言い伝えられる彼らだが、基本的には善良な者が集まっているようである。もしかしたら、歴史を知るというこの城の者特有の性質なのかもしれないが。


 ただ、その気遣いに難点があるとすれば、何をどう気遣われようと、互いを食する冥餐の儀によって垂直落下に等しい恐怖を味わうことに変わりはない、という点だろうか。


 並び立つリヴィメラとフローティアの間には、儀式に使う細身の円卓が置かれている。

 豪奢な円卓の脇に立ったフローティアは、一対の小さな杯を見下ろしたまま、司式者の唱える祝詞を聞いていた。


 片方にはフローティアの血が、そしてもう片方にはリヴィメラの血(便宜上の呼称)と葡萄酒が入っている。

 祝詞を聴き終えた二人は進行予定通りに杯を持つと、互いに捧げるように軽く掲げ、一息に飲み干した。

 フローティアの方には若干の躊躇いがあったが、もはや躊躇う方が更に恐ろしかったので、覚悟を持って杯を傾けた。


 瞬間、フローティアは久々に真理の片鱗を味わった。

 瞬く間に広がる混沌とした闇と、星空のように煌めく幾多数多の生命の煌めき、そして耐え難い苦痛と至上の喜び────と、いっぱいの兎。

 白く跳ね回るそれらの数を数えて六十六になった頃、フローティアは長い瞬きを終えて対面に立つリヴィメラを見つめた。


 今日のリヴィメラは、普段とは少しだけ身なりが違う。分厚いローブの作り自体は変わらないが、施された古代魔術式が更に複雑な金色のものへと変わっている。

 聞いたところによると、儀式用の礼装を模っているそうだ。


 目に映る景色を確かめる限り、少なくとも視界が回っている様子はない。明滅もない。

 気分の悪さも、想像していた程ではなかった。


 自分の足でしっかり立っているし、よろめいた様子もない。確かに、八年前に比べれば劇的に耐性がついているようだ。

 嬉しいか、と言われるともなんとも微妙な気分だったが、心底安堵はした。


 ただ、『言った通りでしょう』などとは言われたくなかったので、フローティアはとびきりの笑顔でリヴィメラの言葉を封じた。

 倒れることも狂うこともなく微笑みを見せる王妃に、参列者は堪え切れないように喜びの声をあげる。

 隣に立つリヴィメラは全て分かっているのか、笑い混じりに「美味しかったですよ」と味の感想だけを囁いた。

 明確な揶揄いが混じっていたので、フローティアは迅速に黙殺した。


 その後は、立食形式のパーティとなった。

 フローティアには選別されたものが振る舞われたが、冥府の使徒たちはそれぞれに、フローティアからすると大分見慣れない料理を楽しんでいるようである。詳細を聞く勇気は、今のところ無かった。


 それから更に二時間ほど続き、式はつつがなく終わった。

 正確に言えば嬉し泣きでニンアが倒れかけたのだが、少なくとも、これといった問題はなく終わった。


 記録水晶に残してもらえるそうで、リーリーの勧めでフローティアのドレス姿は写真として残ることになった。

 あとで額に入れて飾りましょう、と言われて少し迷ったが、こんなにも素晴らしいドレスのお披露目が一回切りになってしまうのは心苦しかったので、フローティアは笑顔で了承した。




 どこもかしこも純粋なお祝いのムードで、極めて明るく華やかで素晴らしいものだったが、それでも式典というのは疲労を伴うものである。

 もちろん、少なくともこれまでに味わったことのあるどんなものよりも気分的には軽やかな疲労だと言えたが。


 窓を開けているせいか、城内の遠くの方で、喜びに満ちた声があちこちに溢れているのが聞こえてくる。

 ユラの手によって湯浴みを済ませ、ネグリジェへと着替え終えたフローティアは、力の抜けた様子で自室のベッドに転がっていた。


 広いベッドの端に、リヴィメラがゆったりと腰掛ける。六本指の指先が自身の髪を弄ぶのを見遣りながら、フローティアは細く息を吐いた。


「それにしても、もう少し考えるべきだったわね」

「何をです?」


 式自体を指していると思った上で投げている問いなのは、響きで分かった。


 此処に来て後悔している、と思われているようだ。

 そう判断した上でこの態度な辺り、本当にたちが悪い、と思う。


 フローティアは緩く首を振って裏側の懸念を打ち消すと、眠気に負けかけた声で、笑いを含めて呟いた。


「リヴィメラ。貴方たぶん、もっとすっきりしたお酒との方が合う気がするわ」


 それは極めて素直な、()の感想であった。

 実際にそう思ったのだ。もっと合わせるものを調整すればよかった、と。


 葡萄酒に混じったそれは、癖のある香草のような香りを含んでいた。恐らく、独特の香りを誤魔化すために葡萄酒を選んだのだろう。

 ただ飲み下す為だけならばそれでもよかっただろう。ただ、嫌いな香りではなかったから、少し勿体無いと思った。


 まあ、あの状況で式までに試飲がしたかったかと聞かれれば、『否』以外の答えなど存在しなかったが。


 フローティアの国では、十五歳から飲酒が可能である。

 必要だから知識を入れただけで愉しみに主軸を置いたことはないが、味についてはそれなりに広く覚えておくように、とは言われ、その通りにしていた。

 飲んだことのあるものの中ならどれがいいだろうか、などと、記憶を辿るように目を閉じる。


「ああでも、もしかしたらもっと甘いお酒と合わせても面白いかも……ほら、ちょっとしたアクセントになるんじゃ────リヴィメラ?」


 不意に、ベッドに重みを感じて、フローティアはある種の反射でもって目を開いた。


 天蓋が見えるはずの視界で、夜空に似た宵闇が自身を見下ろしていた。

 すぐにでも眠りについてしまいそうな程だった微睡が、巡る思考に瞬く間に追い出される。


 呑まれるような暗闇の向こうから、ただ一言、ゆったりとした声が呼びかけてくる。


「フローティア」


 それそのものが、酔いを起こしそうな程に深みを帯びた声だった。

 眩暈がする。視界が回っている気がするが、全てが暗闇に等しく、判別はつかなかった。


 思わず、といった様子で身を起こしかけたフローティアは、そっと口元に当てられた指先に、何処か居心地が悪そうにその細い肩を強張らせた。


 小舟でひとり夜の海に放り出されたような、不気味な孤独感に苛まれている。ベッドに沈んだままの背に、嫌な汗が滲んだ。


 長い睫毛に縁取られた瞳が、寄る辺の無い不安を帯びて揺れる。

 窓から差し込む夕暮れの明かりは、覆い隠すように被さる彼のせいで、今や殆ど頼りにならなかった。


 息を吸うことすら躊躇うような、そんな沈黙が落ちる。

 先ほどまで聞こえていたはずの遠い喧騒は、今や一欠片の名残も無かった。


 呼びかければいい。きっと。そうすればいい。

 ただそれだけで十分なはずだ、とフローティアの頭の片隅が言っている。


 けれども、実際に行動に起こせるかどうかは、全くもって別問題だった。

 唇に触れる指先は、ひどく優しい。力など殆ど込められていないし、そもそも、本当に触れているかすらも怪しい。


 瞬きも忘れて見上げるフローティアの耳が、不意に、小さな笑い声を拾った。

 暗がりの向こうから降り注ぐ笑い声は、しばらくの間続いた。唇に添えられていた指先が、ほんの掠めるようにして表面を撫でて去っていく。


 フローティアの白い喉に、薄らと滲んだ汗が一筋の跡を描いた。


「リ、」

「────ああ、そうでした、私たち、お友達ですものね」


 引き攣った音が形になるより早く、愉しげに歪んだ声がそれを押し潰した。

 たった今思い出したかのように呟いたリヴィメラは、フローティアの言葉を待つ様子もなく、瞬きの間に、闇に溶けるように姿を消した。


 天蓋が見える。

 フローティアが最初に思ったのはそれだった。


 次に、カーテンを閉めた方がいい、と思った。

 わざとらしいまでに別のことを考えて、それから額の汗を拭って、フローティアは大きく息を吐いた。


 全く、命がいくつあっても足りる気がしないわ、と。



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[一言] つ…続きを下さい! (*//艸//)ハラハラドキドキ
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