6.円環
「王妃の役割について話す前に、まずは冥府という場所について語りましょうか。
冥府は今でこそこのように水晶ばかりの広がる荒廃した土地ですが、昔は、現世と比べても遜色のない豊かな世界でした」
示すように伸ばされた手に、フローティアは窓の向こうへと目を向ける。
視線の先に広がるのは、夕暮れの光に照らされた水晶の森だ。
外れに向かえば向かうほど闇は深くなり、果てには何もないようすら思える。
此処に『現世と比べても遜色のない』景色が広がっていたとは、フローティアにはどうにも信じ難かった。
言葉にせずとも察しているのか、リヴィメラは幾度か頷くような素振りを見せる。
「今から七百年ほど前の話です。この世界には三人の王が居ました。
バグラスと、イールミールと、私です。
私たちは冥府の中で三つの国を作り、好きに過ごし好きに交流をして、時折好きに争いました。
既に聞いているかと思いますが、冥府には肉体的な死が存在しません。
例えば肉体を全て損傷するか、あるいは食された者は、再び何処かで同じように生まれ直し、新たに活動を始めます。
ただ、一つだけ、現世で言う死と同等の現象が起こる場合があります。
複雑な思考回路を有する上級使徒は、肉体が再生成された際に、魂が伴わないことがあるのです。
これは魂の核が悠久の時を前にして摩耗し、根源に呑まれることで消失してしまう為に起こります。
魂を失った者は、やがて全身が徐々に結晶化し、淡く光る水晶になります」
耳を傾けるフローティアの脳裏に、城の外の光景が浮かんだ。
闇の中で無数に淡く光る、薄紅色の水晶たち。
幻想的で、何処か物悲しいそれらを思い浮かべたフローティアは躊躇いがちに尋ねた。
「まさか、あの、外に在るあれは……?」
「ああ、いえ。あれは冥異水晶と言って、冥府を構成する要素の一つです。冥府の兎はあの光が好きで、良くあそこで遊んでいますね」
フローティアは、何処か遠い視線を部屋の隅の方へと向けた。
脳内で、兎が何匹か駆けている顔である。
思考の端でも十分に聞き取れることは分かっているので、リヴィメラは特に構うことなく続けた。
「完全に水晶となった者は、回収できた場合は城の地下に眠っていますよ。
どれも随分と小さくなってしまうので、見合った入れ物に仕舞っています。私以外の二人の王も、臣下と共に並んでいますね。
現世でも、もう存在を継続しない者はそのように扱われるでしょう?」
「……まあ、それを埋葬と呼ぶのだとしたら、そうね」
厳密に言うと違う気がしたが、細かい差異は脇に置いておくことにした。
「これらの流れは冥府ではごく自然なものであり、特に恐怖の対象ではありません。根源に耐え切れなくなったものから消失し、食事という環から外れます。
もしかすれば、水晶を食する種族が現れればまた違った形で続いていくのかもしれませんが、まあ、今のところは仕舞っておくしかありません。
問題は、この円環を冥府の中で完結した状態で永続しようとすると、どういう訳か世界自体が闇に呑まれていくことにあります。
上級使徒が互いを食べ、同族間で愛を回し続けていると、世界が衰退していくのです。
まあ、それでもあと何百年かは保つ予定ではありますが……状況が変わらない限りは、何れ必ず世界そのものが全て闇と化すことになる訳です。
ここで必要となってくるのが、冥府以外の出身で強い魂を持ち、そして意思を持って生を謳歌する者です。
その個体が、冥府によって『王』と定義された存在が外部の存在と契約を結ぶことでこの世界は活性化し、束の間の平穏を取り戻すのです。
つまりは、それが王妃という存在ですね」
リヴィメラの言葉を聞いたフローティアは、語られた言葉の意味をゆっくりと噛み砕いて飲み込むと、彼が『結婚』に拘った理由を察した。
冥府は、フローティアでも感じ取れる程に、現世よりも更に魔法という概念が濃い世界である。
永遠の循環を続けようとする使徒たちが存在するこの世界に、何の契約も無しにやってきた外部の人間が干渉するのは不可能に近いだろう。
『結婚』をその楔にするのは確かに有用だと言えた。
何せ、魂を持って結ぶ約束というのは、『婚約』という精霊契約だけでも冥府の王を退ける程度には強い力だ。
「王妃の役割とは現世で言う、『穢れ』を祓う神官のような役割……ということかしら?」
「似ていなくもないですが、もっと創造的で、規模が大きいですね」
「創造的?」
持ち合わせる知識の中ではピンとくるものが無い。首を傾げたフローティアに、リヴィメラは空中に向けた手をゆったりと横に流した。
撫でられた空中に、城の外の景色を模したものが小さく現れる。
「実際に再現して見せるのが早いでしょう。貴方にとっては不本意とはいえ、我々は今現在も契約状態にありますからね。
これは今ある冥府と同条件の仮想空間です。そして今、貴方は条件的には王妃と定義されています。
さて、フローティア。少しの間、手を握っても?」
差し出された六本指の手を、フローティアは静かに観察するように見やった。
語った言葉に嘘はないだろう。
この言葉が真実であることこそが、きっと彼にとっては有益なことであるから。
フローティアは渋々、といった様子で、そっと赤黒い手のひらに自身の手を重ねた。
「ちょっとでも味見したら怒るわよ」
「おや、怒るだけで済むのですか。そんなつもりは無かったのですが、久しぶりに味が気になってきましたね」
「じゃあ絶交するわ」
「冗談ですよ」
リヴィメラは楽しげに笑いながら、するりと指を絡ませる。
一瞬、フローティアの肩が小さく跳ねたが、特に振り払うような素振りはなかった。
「目を閉じて、貴方が一番好きな場所を思い浮かべてください」
「好きな場所、と言われても……」
フローティアは少しだけ眉を寄せてから、そっと目を閉じた。
好きな場所──と呼べるような場所が、今までの人生の中にあっただろうか。
王太子の婚約者として各地を回った時に訪れた土地はどれも豊かだったが、あまりいい記憶とはいえない。
そもそもが、それこそ生まれ育った領地にさえ、愛着は持てていなかったかもしれない。
ああでも。
一つ挙げるとするならば、祖母の療養地は好きだった。
気候が穏やかで、広い湖があって、木々が瑞々しく色鮮やかで、白いお屋敷は祖母の人柄を表したように、可愛らしかった。
そして屋敷の裏に広がる森林では、梟を見かけることがあった。
梟は、番となったら一生を共にするらしい。
フローティアは梟が好きだった。彼らは美しくて可愛くて、凛々しくもあって、そして一途なのだ。
生まれ変わったら梟になりたいな、というのが、幼いフローティアのちょっとした夢だった。
祖母は既に息子の名前も分からない程になっていて、結局フローティアのことも『妖精さん』と呼んで、孫とは認識しなかった。
父親である公爵は、家族だけで遠出をしたい用事があると、言い訳のようにフローティアを祖母の療養地へと預けた。
フローティアは祖母に懐いているから、そちらの方が嬉しいだろう、と嘯いて。
まあ実際、そちらの方が嬉しかった、と言えなくもない。
わざわざ輪に入れられてから除け者にされるのと、端から輪の中にも入れてもらえないのだったら、孤独に耐えるだけで済む後者の方がまだ許容できた。
ただの、己への慰めでしか無いかもしれないが。
ともかく、フローティアの人生の中でちょっとでも楽しい思い出のある景色が存在するならば、祖母の療養地を置いて他になかった。
思い出に触れるフローティアの耳に、隣に座るリヴィメラの声が届く。
「おや。ラフェル湖の屋敷ですね」
何処か懐かしそうな響きの声に導かれるようにして、ゆっくりと目を開ける。
目の前の小さな空間には、記憶の中と同じ、祖母の屋敷周辺の景色が広がっていた。
先ほどまでは確かに水晶の群生する闇色だった土地に、穏やかな草原と湖と、そして豊かな森林が作られている。
フローティアは幾度か目を瞬かせてから、リヴィメラへと視線を投げた。
目だけで問われたリヴィメラは、ゆったりとした声音で説明を続ける。
「冥府の王妃とは要するに、強い希望と願望を抱き、それらをこの世界に顕現する意思を持つもののことです」
「……顕現?」
「とても簡単に言うと、この世界では貴方の願望が土地の形となるので、素敵だと思った場所を冥府で複製してください、という話です」
手が解かれると同時に、ラフェル湖の景色は溶けるように消えてしまった。
思わず、フローティアは惜しむような声を零してしまう。
もう少しだけ眺めていたかった。
祖母は結局、フローティアの名前も覚えないまま、数年前に亡くなってしまった。
仮に現世にいたとしても、今のフローティアにあの土地に入る権利はない。
バーノッツ公爵は決して許さないだろうし、何より、あの屋敷は祖母が亡くなってすぐに取り壊されてしまった。
あの素敵な思い出の場所は、もう記憶の中でしか訪れることが出来ない。
知らず、細いため息を落としていたフローティアの髪を、リヴィメラの指先が優しく撫でた。
「フローティア。貴方は現世ではその尊厳を貶められ、魂を虐げられ苦しむしかない存在です。
ですが、此処でなら貴方が強く望むもの、そして、貴方の喜びとなるものこそが世界の希望となります。
冥府でならば、貴方は好きなように生き、己の愉しみを追求し、更にはそれを実現することが出来るのです。ですから私は、貴方は冥府でこそ楽しく生きられるのではないか、と考えていました」
楽しいところですよ、とリヴィメラは言った。彼にとって、それは間違いなく本心であろう。
リヴィメラは冥府を楽しいところだと思っているし、フローティアにとっても楽しくなると信じている。
確かに、この世界に望んだものを顕現できるというのであれば、それはまさに理想の世界を生きるに等しい奇跡を与えられたようなものだ。
此処にはフローティアを蔑み嘲笑うようなものは居ないし、現世よりもずっと過ごしやすい。
それを更に素晴らしい生活に変えるのはフローティアの意思の力だと言われるのなら、それはフローティアが望んだものにも合致すると言える。
「でも、それって結局、王妃となることが前提での『楽しさ』よね?」
「ええ、そうですね。ですからずっと、結婚をしましょう、とお伝えしていたかと思いますが」
それは確かにそうだった。
リヴィメラは一貫して、フローティアを王妃にすると決めて行動している。
それはもちろん彼がフローティアを望んでいるというのもあるが、何よりも本当に、『楽しいこと』が出来ると思ったからなのだろう。
「そもそも、そんな事情があるのなら、最初から説明してくれていればよかったのに」
「聞かれなかったので」
あまりにもしれっとした声で言われたので、フローティアは自身の髪を撫でるリヴィメラの手を、言葉もなく抓った。
そうだった。こういう男だった。
これらの説明に嘘はないだろう。そもそもが聞かせることでリヴィメラにとっては都合が良く運ぶことになるのだから、隠す必要などない。
話す前に言われた通り、フローティアは既に冥府の為になるのなら、と考えてしまっている。
リヴィメラを慕う彼らが、放っておけばこのまま闇に呑まれるというのは忍びない。
そもそも、フローティアが王妃になりたくないのは、根源を流し込まれて頭が壊れるのが恐ろしいからである。
現世の貴族社会から逃げ出せたところで、人の形を保てもしないのなら意味はないのだ。
それからもう一つ、リヴィメラを異性として認識できるかどうか、かなり怪しいからである。
それは彼が冥府の王で、規格外の超常の存在で、根源に近いから、というだけの話ではない。
フローティアはこの八年、リヴィメラ相手には随分とみっともない姿を見せてしまっている。
例えば駄々をこねて泣き喚いたりだとか、我儘を言いたい放題言ってみたりだとか、意味もなく拗ねて機嫌を取ってもらったりだとか。
それはフローティアが望む恋愛の形は、少し、いや、大分違った。
別に、夢見る乙女のように、繊細な砂糖細工のような恋を望んでいる訳ではないけれど。
とりあえず、フローティアはその場で姿勢良く立ち上がった。
座ったリヴィメラと並んでも、視線はさほど変わらない。
「リヴィメラ、貴方は此処に居てちょうだい。わたくしは少し、ニンアさんとお話をしてくるわ」
「事実確認をしたいのであれば、此方に呼ぶことも出来ますよ」
「いいの。とにかく、会いにいってくるから、貴方は此処にいて。私の影にも入らないで。聞き耳も立てないで、あと意識に干渉して記憶を覗くのも駄目だし、とにかく、ニンアさんが貴方に聞かれるかも、と思って話せなくなるような状況になるようなことはやめて、此処で大人しくしていて」
想定するすべての方法を封じるために言葉を紡いだフローティアに、リヴィメラは一拍置いてから、何やら楽しそうに笑った。
「いいですよ、大人しくしています」
了承は取れたので、フローティアは迷うことなく扉へと向かう。
部屋を出たフローティアは、外に控えていたユラへと声をかけると、ニンアのいる部屋まで案内してもらった。




