4.食事
湯浴みを終えたフローティアは、初めに通された部屋へと戻ると、食事の際のマナーについてユラへと尋ねた。
リヴィメラとは長い付き合いだが、彼は現世ではあまり冥府のことを話さない。そもそも身分などというものを遥かに超えた存在であるからして、細かいことに興味がないのだ。
彼はいつも、フローティアのことばかり聞いてきた。
親族や婚約者への深刻な不平不満から、日々のちょっとした心惹かれたものまで、リヴィメラの興味は尽きないようだった。
気まぐれにやってくる彼は、勉強の為に机に齧り付くフローティアの隣で、あれこれと尋ねてくるのだ。椅子の傍ら、利き手を避けた左側が、リヴィメラの定位置だった。
リヴィメラはよく、フローティアの好きだと言った花を摘んで持って来てくれた。これは素直に嬉しかった。
が、可愛いと言った子犬を手掴みで持ってきた時には慌てて放させたりもした。
その頃のフローティアは美しい鰭を持つ魚にも興味を示していたのだが、口にする前で良かった、と心底思ったものだ。
「確かフローティアは梟ちゃんがお好きでしたよね」と聞かれた時には、フローティアは間髪入れずに「絶対に捕まえてきちゃダメよ」と告げ、さらに念を押すように「絶対の絶対にダメだからね」と三度繰り返した。
もぞもぞと立ち位置を変えたリヴィメラが影のあたりに何か隠していたような気がするが、よく覚えていない──というより覚えていたくなかったので、フローティアは見なかったことにした。
リヴィメラはフローティアの好きなものをよく知りたがった。
それでいて、フローティアがリヴィメラは何が好きなのかと尋ねると『あなたです』とだけ答えるのだ。そういうことを聞いている訳ではないというのに。
大体、好きな動物や植物や色について答えているのに一貫して答えがフローティアなのはどういう理屈なのだ。さっぱり分からなかった。
そういえば、枯れてしまうのが惜しくなって押し花にした花達は、結局屋敷の自室に置いてきてしまった。
フローティアは脳裏に浮かんだ思い出に、当時抱いた困惑と懐かしさを半々に抱えて口元に苦笑を浮かべながら、緩く振り払うように首を振った。
「冥府では食事の際に何か特別なマナーはあるかしら? 出来れば一通りの流れは把握しておきたいわ」
『美味しい』は『愛しい』と同じだとユラは言った。
それはきっと、冥府のものにとっては大事な感覚なのだろう。
はっきり言ってしまえば、フローティアにはその感覚は今一つ分からない。
これまでのフローティアにとって食事とは栄養を補給する行為か、あるいは『完璧な淑女』である証明としてマナーを披露する場でしかなかったからだ。
フローティアはあまり、自分が食した物の味を覚えていない。
もちろん、味自体の判別はつく。むしろ幼少の頃より些細な違いを感じ取ることを求められてきたので、嗅覚も味覚も優れている方である。
だが、品定めするような目線の中で行う食事が楽しかった試しはない。何か一つでも間違えれば影で嘲笑され、父からは叱責を受けるのだ。彼らの方がフローティアよりも余程品のない所作だったというのに。
フローティアにとっては、いつだって食事というのは孤独で冷たい場所だった。
故に、冥府という異なる世界でも不安はつきまとう。
彼らはフローティアが『王妃』になると思っているからこのように丁寧にしてくれるのだ。
近い内にただの客人となる以上、礼儀には細心の注意を払うべきである。
「使用するカトラリーは現世のものと然程変わりありません。王妃様は現世では公爵家の御令嬢であったと聞いております、作法については何も問題はないかと。
一つ申し上げるとするならば……食事の際は王妃様の御心に従ってくださいませ。味への世辞は不要で御座います。
例えそれが王妃様のお優しい心から発せられるものだとしても我々には不要ですし、何より王妃様に心より満足いただけるものを提供できることこそが冥府の臣下としての喜びです」
真摯な響きを持つユラの言葉を聞きながら、フローティアは静かに頷いた。
「それから、今宵は初めてのお食事になりますから、間違っても城の者がその身を差し出すようなことはありません。
付き合いも浅く信頼関係もないままにその身を捧げるのは、冥府では立派なマナー違反ですので、使徒ではなく『言葉なきもの』……地上で言うなら魔獣をお出しすることになります。ご安心ください」
今ひとつ何処を『ご安心』すれば良いのかは分からなかったが、ひとまず飲み込む。
ここまで念を押されて『大丈夫』だと言われているのに余計な心配をするのも礼を失すると思ったし、何より、一点気にかかることが出来たからである。
「……冥府では、信頼関係もない内に相手を食すのはマナー違反なのね?」
「ええ、その通りでございます」
フローティアは少しだけ迷った。言うべきか、言わざるべきか。
余計なことは口にしないのが正しい判断だと理性は言っていたが、長年誰にも相談することなく溜め込んでいた疑問は、するりと唇から零れ落ちてしまった。
「わたくし、出会ってすぐにリヴィメラに〝味見〟をされたのだけれど……これは一般的ではない、ということなのね?」
ユラからは返答がなかった。そっと見守るフローティアの前で、ひくり、と高く伸びた耳が小さく跳ねる。
愛らしい兎の顔になんとも冷え切った表情を浮かべたユラは、「失礼」と一言断りを入れてから、何やら耳元に手を当てると、小声で何処かへと連絡を取っているようだった。魔法の発動を感じるので、恐らくは一瞬の伝達系魔法を使用しているのだろう。
険しい顔でしばらく密かな会話を続けたユラは、切り上げると同時にそっとフローティアの前へと膝をついた。
「申し訳ありません、王妃様。我が君の振る舞いは今に始まったことではありません。彼の方はこの世に生じた時よりその一切があらゆる種族とはかけ離れた、根源に最も近い存在なのです。
……故に、恒常的に他者への配慮に欠けております、しかし、決して悪しき欲望が先行した訳ではないことは、どうぞ、ご理解いただきたく……」
まさに平身低頭、と言った様子のユラの態度を見るに、やはりあれは大分マナーに欠けた行いだったらしい。
そんなに心配しないで、もう気にしていないから、と告げたフローティアに、ユラは胸を押さえたまま、限りなく深い安堵の息をそっとこぼした。
フローティアとしては被害は受けたものの過去のことなので、確認が取れればそれで良かった。
少なくともこれで、この先リヴィメラが口先で誤魔化して味見をしようとした時には『過去にとんでもない無礼を働いたのではないの』と突っぱねる手が使えるだろう。
その後、夕食まで案内がてら城内を散策していたフローティアは、どうやら戻ってきたらしいリヴィメラが玄関ホールでニンアに叱り飛ばされているのを見た。
どうやら、先ほどユラが連絡を取った相手はニンアだったらしい。リヴィメラが『怒られている』内容は、どう聞いても過去にフローティアを勝手に味見したことが理由だった。
「我が君!!!! 貴方様は悠久の時を生きる高貴なお方なのですよ!! いつまでも幼児のような振る舞いをなさっている場合ではございません!! 王妃様になんと言えばよろしいのか……!!」
「それは勿論、素晴らしい味でした、と伝えましたよ」
「お黙りください!!!! よ、よもや、これまでの王妃にも同じようになさってはいないでしょうな!?」
「まさか。愛しのフローティアだけですよ」
「尚悪い……!!」
恐らく、初めにフローティアから話を聞いた時、ニンアは『思いを遂げた後に触れ合った結果根源を見たのだ』と思っていたのだろう。
まあ、それが普通の捉え方だ。まさか出会って然程経たぬ内にいきなり許可もなく『食べた』だなんて、想像もしないに違いない。あの怒りようも当然である。
それはそれとして、見かけた瞬間、ちょっとどころではなく呆然としてしまった。『王』をあんな風に叱る臣下など、現世では考えられないことだったからだ。
ローブから顔がはみ出るほどの勢いで飛び跳ねながらリヴィメラを叱るニンアは、小さな両手を広げて羽ばたかせながら精一杯の怒りを表明しているようだった。その目には感情の高ぶりからか、薄らと涙が滲んでいるように見える。
「わ、私は、情けのうございます……ようやくまともな王妃様がいらっしゃったというのに……」
「ニンア、泣いてはいけません。せっかくの宴に涙は似合いませんよ」
「我が王は!! 全く!! 分かっていらっしゃらない!」
一瞬、此方に気づいたらしいリヴィメラが助けを求めるようにフローティアを見やった気がした。
ので、フローティアは極めて足早に、ユラを伴ったままその場を立ち去った。逃げるが勝ちである。
────どうなることかと思ったが、夕食の席は問題なく設けられたようだった。
祝いに相応しく、テーブルには豪奢に飾り立てられた食事が並ぶ。何の肉かは分からないことさえ除けば、それらは王都で一流を誇る料理人にも勝る品に見えた。
現世で言う鳩に似たような頭を持つ料理長は、どうやら緊張のあまり身を縮こまらせているようだった。ちなみに、目は五つある。右に三つ、左に二つだ。
腕は三本あり、右が一つ、左が二つ。コックコートから覗く足は、どういう訳か羽毛に包まれた蛸のような足が十本ほど地面を這っているようだった。
当然、フローティアからすれば見た目で驚いてしまうことはある。だが嫌悪を抱く程ではないし、大体にして、誰も彼も、リヴィメラよりは遥かにまともだ。
「フローティア、如何ですか? 口に合えば良いのですが」
「そうね……少し肉質が固いけれど、味付けは好みだわ。慣れれば食感も楽しめるのでしょうね」
「おや、それは何より」
出来る限り誠実に、素直に答えたフローティアにリヴィメラが頷くと、それまで直立不動で緊張していた料理長が、三本の腕を全て集めるようにして手のひらを合わせた。
「王妃様に褒めていただけるとは! 至上の喜びにございます! このバラジー、より良い品を王妃様に提供できるよう、これからも邁進して参ります……!」
感激した様子の料理長が紡ぐ言葉に、フローティアは淑やかな笑みを浮かべつつもそっとリヴィメラへと視線を送る。
この誤解は一体いつ解くつもりなの?という無言の問いに、リヴィメラは特に答えることはなかった。ただただ、興味深そうに、いつもと同じくフローティアを眺めるばかりである。
この場で言及するつもりは一切ないようだった。まあ、確かに、急に言い出したら最後、ニンアはショックで気絶してしまうだろう。
納得がいかないところはあったが、フローティアはしばし料理を楽しむことに決めた。
何より、丁寧に作られた食事の数々は、他所に気をやりながら食べるにはあまりにも勿体無い品だったので。
冥府の空は常に夕暮れの色をしている。
時の流れはあるようだが、空は流れてはいかないらしい。
窓に遮光の覆いを下ろした寝室にて。ネグリジェへと着替えたフローティアは、一見するとひとりの部屋で、広いベッドへと横たわっていた。
「…………リヴィメラ、居るのでしょう」
「おや、どうしました、フローティア。眠れませんか? 子守唄でも?」
「冗談はよしてちょうだい」
特に深く落ちた影の中から溶け出るように姿を現したリヴィメラは、拗ねたように身を起こしたフローティアの隣へと音もなく立った。ローブの奥に包まれた深淵が、ゆったりと夜を呑んだような色合いで揺れている。
「それで? 私はいつ貴方の友人として紹介してもらえるのかしら?」
「外から見た関係が如何であろうと、私たちの間で『友人』と認識していれば良いとは思いませんか?」
「……貴方が考えていることを当ててあげましょうか。何方にせよ契約によって一度は結婚しなければならないのだから、それまでわたくしは『王妃』であるし、その後も丸め込んでしまえさえすれば『王妃』で居させ続けることが出来ると思っているのよ。上手くいけば全てが都合よく収まるのだから、わざわざ否定する必要なんてないものね」
「勿論、私は貴方と未来永劫を共にしたいと思っているのですから、当然それを叶える為に努力はするつもりでいますよ。ですがね、愛しのフローティア。私は貴方が何を望んでいるのか、それなりに理解しているつもりです」
「……どうだか」
フローティアは、力無い仕草でベッドへと寝転んだ。小さく丸くなるように横たわるのは、幼い頃からの癖だ。フローティアはいつも、何かから身を守るように縮こまって眠る。
リヴィメラは小さく笑いながら、緩くひとつに結えられたフローティアの頭を撫でた。
フローティアが失望されることへの恐怖で眠れなくなってしまう夜、リヴィメラはいつも側にいた。
優しく髪を梳いて、ゆったりとした声で子守唄を歌ってくれた。
たまに呪いも勧めてきた。『これを使うと対象は全身の皮膚が泡立って絶命します、おすすめです』と、暗示でもかけるように囁いてきたりもした。
フローティアはそういう時には、リヴィメラの手を軽くつねることにしている。
「望みもしない内に立場を与えられることも、結んだ約束を軽率に破られることも、貴方の最も嫌うところでしょう。ですから、一度はきちんと離縁しますとも。
明日からは挙式の話になってしまいますから、落ち着いた頃にニンアにだけは伝えてしまいましょうね。契約によって婚姻を迫ってしまったので、一度離縁してからチャンスを与えられることになったのです、とでも……まあ……そうですね、とても怒られると思うので、その時には貴方が側に居てくださるといいのですが」
「……いいわよ。本当にそうしてくれるというなら、ニンアさんにも少しくらいは口添えするわ」
幼少期で意味が分かっていなかったとはいえ、正当な魔法契約を一度は了承した身である。約束を守ってくれるというのなら、庇うつもりくらいはあった。
なんたって、リヴィメラはフローティアの唯一の友達なのだ。それが例えフローティアを冥府に連れ去ることが目的だったとしても、辛い時に唯一側にいてくれた存在。
フローティアに、ただの我儘で奔放な少女でいることを許してくれたのは、結局リヴィメラだけだった。
眠気に誘われるように目を閉じながら、フローティアは静かに投げかける。
「ねえ、リヴィメラ。私、別に貴方のこと、嫌いな訳じゃないのよ」
「勿論、存じておりますよ」
「むしろ、友達としてなら、結構、好きよ」
「おや、それはそれは……なんとも、嬉しいですね」
慈しむような笑いを含んだ、柔らかい声音だった。ローブに潜む深淵の奥から、くすぐったそうな笑い声がしばらく響く。
機嫌の良い暖かな響きのそれを聞いている内に、フローティアの意識は溶けるように夜へと沈み込んだ。




