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11.プレゼント [後]


 アランの住処を後にしたフローティアは、リヴィメラと共に無事、冥府へと帰還した。


 二人が顕れたのは、正面扉を入ってすぐの玄関ホールである。

 足元に広がる淡く輝く転移紋を見下ろし、わずかな浮遊から降り立ったフローティアが視線を上げた先には、慌てた様子で駆けてくるニンアの姿が在った。


 他の使徒たちと比べれば短い足を忙しなく動かし、両腕をまさに羽ばたくような勢いで振りながらやってくる。

 走り出た彼は、フローティアの身に外傷がないと確認すると胸を撫で下ろした。


「ああ、フローティア様! ご無事なようで何よりでございます!」


 広間にはニンアの他にも複数の使徒が待機していた。

 いの一番に駆けてきたニンアの後ろに控えるユラも、その更に後方に見守るようにして立つリーリーも、誰もが多種多様な相貌に心配の色を乗せている。

 王妃は、冥府にとっては希望に等しい存在である。それが脅かされるような事態になれば、彼らが不安になるのは当然の話だろう。


「私の現世での不手際のせいで余計な心労をかけてしまったようで、申し訳ないわ。冥府のご迷惑にはならなかったかしら……」

「何をおっしゃいますか! フローティア様に落ち度などありませぬ! それよりも、お身体に不調はございませんか?」

「精神的にも肉体的にも害はなかったし、リヴィメラもすぐに迎えに来てくれたから、帰還も手間取らなかったの。どうかあまり心配なさらないで」


 安心させるようにして微笑めば、ニンアは心の底から安堵した様子で身体から力を抜いた。

 冥府の王妃が、あまりに不躾で無遠慮な召喚をされてしまったのだ。臣下である彼らにとっては由々しき事態である。


 今回の事態がフローティアの力量でもって防げる害であるのかを、確かめておかねばらならない。フローティアとしても、こんな目に遭うのは一度で十分だ。防げるのであれば防ぎたい。

 まずは使徒たちの不安を取り除くため、何も憂いはないと示すように微笑む。

 身の安全を示したフローティアに安堵の息をついていたニンアは、はっとしたように顔を上げた。


「御身の害とは成らずとも、あのような無礼な真似をされてはひどくお疲れのことでしょう。湯浴みの準備は整っております、どうかゆっくりとお休みください」


 こんな気持ちで次の複製場所を選んでも、いい場所が見つけられるとは思えない。素直に言葉に甘えることにした。

 現世であれば休むことなど考えもしなかったが、此処では何の思惑もなくそれが許されることくらい、今のフローティアにはきちんと理解できている。


 一層安心したかのように臣下の礼を取ったニンアは、後のことはユラへと任せ、ちらほらと物陰から顔を見せている他の使徒たちをそれぞれの持ち場に戻らせようと再び駆けていってしまった。


 複製が始まって以来、ニンアはいつも忙しそうにしている。冥府の者にしか分からない業務が多々あるのだろう。

 この城で最も忙しいであろうニンアに余計な仕事を増やしてしまった、と内心でそっと反省するフローティアに、隣のリヴィメラが口を開く。


「フローティア、召喚のことならば気に病むことはありません。あれは貴方には防ぎようのない事態でした」

「……貴方にも?」

「あの素敵な王子様の眼窩から眼球のみならず脳が噴き出しても構わないのであれば可能ですが、貴方はそれを可能とは呼ばないでしょうね」

「…………そうね」


 強大すぎる力を持つ存在は、時折、適切な解決法には微塵も向いていないことがある。

 リヴィメラという規格外の存在にはそうした事柄は溢れかえっており、フローティアはこれもまた、間違いなくその部類のひとつだろうと予測していた。


「……ありがとう、リヴィメラ」

「いえ、貴方に悲しい顔をさせてしまうのは私としても忍びないですからね」


 リヴィメラにとっては召喚陣を通って後を追うことなどひどく容易いことだっただろう。

 それをしなかったのは、ひとえにその行為によってもたらされるアランへの害を、フローティアが厭うためだ。


 感性と価値観がどうあがいてもかみ合わさることはなくとも、少なくとも己が忌避するものについて配慮しようとはしてくれる。

 リヴィメラのそういった点は、フローティアにとっても素直に好ましく、有難い部分ではあった。


「ニンアの言う通り、ひどく疲れているように見えます。身体を休めるのは私も賛成です。ユラは疲労軽減の術にも長けていますから、身を委ねるのもいいでしょうね」

「そうなの。それは有難いわ」

「私は湯浴みのあとの楽しみとして、ゼリーを用意しておきます。疲れた時には甘いものを摂るのがよいと言いますからね」

「………………………」


 では、と影に溶けるように姿を消したリヴィメラに、フローティアは無言でユラを見やった。

 少々、感情の行き処が見つからなかったためである。視線を受け止めたユラは、恐らくはフローティアの言いたいことを全て的確に読み取ったであろうに、いや、読み取ったからこそ、ただ主を労わるためだけの笑みを浮かべ、そっとフローティアを大浴場へと案内した。


 件のゼリーは味も申し分なく、身体を害すことはなかった、とだけ記しておこう。



     * * *

 


「ところで。嘘を吐きましたね、フローティア」

「嘘? 何かあったかしら」


 その夜。寝室にて。

 精神的な疲れの残る身でベッドに背を預けたフローティアは、傍らに腰掛けるリヴィメラを力無く見上げた。

 心配する城内の者に見せるために浮かべていた笑顔は、その顔からはすっかり抜け落ちている。

 感情を取り繕うことのない表情で寝そべる彼女は、そうしているとまるで美しい人形のように見えた。


「肉体的にはともかく、精神的な害は受けているでしょう」

「……………………」

「彼に何を言われたのですか?」

「別に……大したことではないわ」


 いつも言われていたことと何も変わりはない。フローティアにとっては本当に、大したことはない害意の羅列だ。

 いつだって聞き流してきたし、今回もそう出来る。フローティアにはその自信があった。

 だが、どうやら、リヴィメラからはそうは見えないらしい。彼は緩く曲げた指でフローティアの髪を拾い上げるように掬いながら、ひときわ優しく囁いた。


「言いたくなければ構いませんよ」

「………………」


 全て分かっているとでも言いたげな声音から逃げるように、フローティアは傍らに座るリヴィメラに背を向けた。

 口にするつもりのない言葉の代わりを探して、彼女は一つの問いを口にする。


「あれは、今より先の世界のアラン様なのよね?」

「そうとも言えますし、言えなくもあります」

「……今日の邂逅で未来が変わってしまうから?」

「いえ。そもそも、あれは地続きの未来ではありません」


 予想と違う答えに、フローティアは軽く目を瞬かせた。


「どういうことかしら」

「あれは貴方の召喚を望んだ世界線の彼が、彼の技量で呼び出せる領域の貴方に干渉した結果生じただけの空間です。等速で進む次元の中では、彼が貴方に追いつくことは一生涯あり得ませんからね。

 数十年後の彼とされる存在が、現時点での貴方に干渉する程度ならば、儀式としても現実的に有り得る、という可能性が生じた訳です。

 それも、実時間で婚約破棄からあまり間の空いていない今だからこそ干渉可能だった、というだけです。召喚に関しては、この先はあまり警戒せずとも問題はありませんよ」

「……そう」


 フローティアにとって重要なのは、最後の情報である。

 身体を休めても何処か強ばったままの心が、安堵によってようやく少し緩む。そうすると、横たわっているせいか、意識が眠気に引かれ始めた。

 瞬きの感覚がゆっくりと空き始めると同時に、リヴィメラの呟きが落ちる。


「ただ、せっかくの誕生日を台無しにされるくらいなら、もう少し気を配っておくべきだったかとは思いましたが」

「…………別に、ちょっと時間を取られてしまったくらいだし。構わないわ」

「そうですか? 貴方の楽しい気持ちはすっかり霧散してしまっているようですが」


 労わるように髪を梳いてくる指の感触を感じる。その指から伝わるのが確かにある種の優しさであることを感じ取りながらも、フローティアは更に逃げるようにベッドの端へと身体を寄せた。


 言及されたくはなかった。そんなことはない、と自信を持って言える精神状態でないことは確かだったからだ。

 そして、アランの言葉によって自分がそこまで心乱されてしまったことを認めたくも、知られなくもなかった。

 結果として、フローティアは目を閉じたまま、言葉を返すことを放棄した。きっとこの行為そのものが答えになってしまっているけれど、それでも。


「ところでフローティア、私と性交渉をしたいと思ったことはありますか?」


 目を開く。肩越しに後方を振り返れば、ベッドの端に腰掛けていた筈のリヴィメラは、気づけばフローティアを見下ろす位置にまでその身を寄せていた。


 フローティアは、とりあえず無言でリヴィメラを見上げ続けた。

 そこにはゆったりと、全てを飲み込むような星空のような深淵が広がっているばかりだった。


 揺蕩う闇をじっと見上げながら、フローティアはきっぱりと言い放つ。


「今から引っぱたくから、よけないでちょうだい」

「宣言付きとは、お優しいことで」


 フローティアは振りかぶった左手で、宵闇のようなリヴィメラの頬──にあたる部分、を思い切りしばき倒した。

 この男は全く、レディに対してなんてことを聞くのだ。よりにもよって。そんな風に。


 熱くなった頬を誤魔化すように身を丸めたフローティアは、不満をそのままに、寝具に並べられた複数の枕のうちの一つを投げた。

 ぽす、と何とも軽い調子の音を立てて、避けることもしないリヴィメラにぶつかる。


「貴方が望むのであれば、生まれてくるのは現世での人と変わらぬ赤子です。ご心配なく」

「……そもそも、そんな状況にならないのだから、心配をする必要など一つも無いわ」

「なるほど、接吻も直視できないくらいですものね。貴方にはまだ早いかもしれません」


 フローティアはとりあえず、もう二個ほど枕を投げた。

 受け止めたリヴィメラは、ごく自然な仕草でそれを元の位置へと戻す。

 その、戻されたばかりの枕を再度拾い上げて、フローティアはもう一度彼へと枕を投げた。


「ちなみに、私は興味があります。貴方にとって意味のある愛情表現について、試してみるべきだと常々思っていました」

「それ以上、一言でも喋ったら、今すぐ離縁を望むわよ」


 愉しげな声音で響く囁きに、掴んだ枕を拠り所のように抱え込んだフローティアは絞り出すように反論した。どうしようもなく熱くなった頬を、隠すように枕へと埋める。

 分かっているのだ。これがフローティアの心をアランの一件から逸らすための過ぎた揶揄いであると。


 そもそも、冥府と現世では愛情の表現方法が異なる。リヴィメラは真に性交の意味など理解し得ないに違いない。


 役目も果たせていないフローティアが離縁などしないと知っていながら、リヴィメラは律儀に黙った。

 その後は本当に一言も喋ることはなかったというのに、フローティアは背中側にある彼の気配を感じるだけで、眠るまでに三十分もの時間を要してしまった。なんとも腹立たしいことである。


 だが、眠りについたフローティアの脳裏には、悍ましい形相で怒鳴るアランの姿は一欠片も残っていなかった。





 これ以上の面倒ごとは早々起こらないだろう。

 そう思っていたフローティアの元に、サライダール国第三王子カルトスから『婚姻』の申し込みが届いたのは、それから二週間後のことであった。



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