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11.プレゼント [中]


 フローティアを包んだ眩い光が薄れ、視界が正常に戻った室内にて。

 ごく落ち着いた様子で静かに佇むリヴィメラは、ゆったりとした仕草で魔法陣の残滓を視線で追った。

 そうして、呆然と膝をつくユラの隣で、まるで天気の話でもするように呟く。


「型を見るに、ニム世代の召喚魔法陣ですね。なんとも由緒正しく格式ばった、時代遅れの骨董品と言えます。あまりセンスのいい術者とは言えませんね」

「分析などされている場合ではありませんッ!」


 勢いよく立ち上がったユラが、悲鳴にも似た声音で続ける。


「冥府の王妃たるフローティア様をこのような無礼な方法で呼びつけるなど! 一体何処の不届きものですか!」


 憤りを口にした彼女はそのまま、衝動に任せて部屋を飛び出していきそうな勢いだった。

 けれども。

 ユラが向かうよりも先に、開け放たれた扉からニンアが室内へと飛び込んできた。


 ニンアは鳥人であれど飛行を得意とする種族ではない。

 そんな彼だが、まさに数メートルは浮いているような勢いで突っ込んできたのだ。


「我が君! 私の勘違いでなければ、たった今、無作法極まりない召喚陣が発動したと思いますが!?」

「ええ、どうやらそのようです」

「何故同行なされなかったのです! 婚姻契約を結んだ存在であれば召喚陣には同伴が可能でしょうに!!」


 リヴィメラはフードが外れそうな勢いで跳ね上がるニンアを見下ろすと、宥めるかのようにそのフードの端を摘んで整え始めた。

 実際、彼としては宥めているつもりなのだろう。

 残念ながら傍目には、怒りを煽っているようにしか見えないが。


「まあ、まあ、落ち着いてください、ニンア。召喚主の力量によっては、陣を通って私まで出向いてしまえば、四肢を弾け飛ばして絶命してしまうことでしょう」

「そのような些事を気に留める必要が何処にお有りだと!? 王妃様を召喚するなどという無礼を働くような愚か者、四肢のみならず頭蓋も破裂してしまえばよろしい!」


 ニンアは心底憤慨した様子で、落ち着きなく室内を歩き回った。

 そうでもしていなければ、今この場で、呑気に召喚元を逆探知している敬愛すべき王に嘴で突撃をかましてしまいそうだったのだ。


 婚姻関係にある者は、召喚に際して陣の通り道に同行することが可能である。

 冥府の者ならば誰もが知る情報であるし、王であるリヴィメラが知らぬ筈は無い。

 最愛の王妃を攫われておきながら召喚主を気遣うなど、なんと馬鹿馬鹿しいことか。


 苛立たし気に嘴を鳴らすニンアが忙しなく足を動かす様を見下ろしながら、リヴィメラは落ち着き払った物言いで補足を入れた。


「召喚には通常、魂に於ける明確な繋がりを必要とします。フローティアほどの存在を正規の契約で召喚できるような者はそう多くありません。

 実際、今しがた展開された魔法陣も旧式の、しかも個人で扱うような規模のものでした。

 この造りの召喚を実行できる以上、召喚主はまず間違いなく、現世でフローティアとそれなりの縁を持っていた者となります。


 フローティアが現世で繋がりを持つ者はあまり多くはありませんから、特定は容易いですね。

 要するに彼女の血縁者か、あるいは婚約者です。

 もし仮に私が同行した結果、その召喚者の四肢を弾け飛ぶ訳です。

 となれば、フローティアはそれが己にとってどのような意味を持つ相手であろうと、きっと多大な心労を抱いてしまうことでしょう」

「それは! それは、……そう、でしょうけれども!」


 振り返ったニンアは、歯噛みするように言葉を切った。

 リヴィメラの言葉には、一旦怒りを収めて飲み込ませるだけの正当性があった。


 フローティア・バーノッツは、あのような環境でも希望を捨て切れなかった人間である。

 生まれてきたことそのものを疎まれるような場所で、自身の在り方さえ正しければきっと受け入れてもらえると信じて努力を続けた。

 自分がよりよく在れば、最良で完璧な存在であれば、いつか望む愛が得られると信じていたのだ。

 それはあまりにも強く、悲しく、そして恐ろしいほどのエゴだった。


 返されもしない愛情を求めて完璧を目指し続けた彼女は、リヴィメラを傍に置きながらも、ただの一度も報復を望みはしなかったのだと言う。

 冥府の王を召喚しておきながら、八年も『友人』であることを望み続け、そして今もそのように在ろうとしている。

 フローティアは間違いなくニンアが見てきた王妃候補の中で一番に『まとも』だったが、同時に、限りなく何処かがおかしかった。

 そして、リヴィメラは彼女の持つそのおかしさこそを愛しいと思っているのだ。

 そのくらいは、ニンアにも理解できている。


 目を閉じたニンアは、精神を鎮めるように大きく息を吸い、長く吐いた。


「……それで? 特定はお済みなのでしょうな」

「アラン・ユーベルト・ルダインですわ、陛下」


 絞り出すようなニンアの問いに答えたのは、リーリーだった。

 いつの間に訪れたのか、真紅のドレスを揺らしながら現れた彼女は、まるで作り物めいた淑やかな笑みを浮かべている。


 魔法陣からの逆探知に関してならば、城内ではリーリーが最も適任である。

 彼女ほど繊細に魔法を扱う存在は冥府でも珍しい。何かにつけて大雑把で乱暴なリヴィメラに比べて、探知に関してリーリーの方が優れているとしても、なんら不思議なことはなかった。

 ニンアと同じく無作法な召喚陣の気配を感じ取った彼女は、得意の感知能力で真っ先に召喚元を探っていたのだろう。


 リーリーはその美しい相貌に普段と変わらぬ笑みを浮かべている。

 だが、お世辞にも機嫌がいいとは言えないことは、苛立たしげに絨毯を掻く彼女の後ろ足を見れば十分に分かった。

 そんなリーリーの前で、リヴィメラは軽く首を傾けて呟く。


「ああ、其方でしたか。綴りも特定済みで?」

「あら……元よりご存知ありませんの? 王妃様の婚約者様ですのよ」

「興味が無かったもので。どうせ、貴方もすぐに忘れてしまうでしょう?」

「勿論。覚えている価値もありませんものね」


 リーリーは笑顔のまま、その美しく飾られた指先で空中に線を描いた。

 魔力をインク代わりにして宙に記された姓名を、リヴィメラは同じく指でなぞる。

 指先の動きが流れるのと共に、深く沈み込むような声が、ゆったりとその名を復唱した。


 この仕草自体には、呪術的な要素は一切ない。

 単なる名前の確認であり、所在の確定である。

 呪術的な要素も、効力も、特にはない。全く。


 だが、扉から覗いていた使徒の幾人かは、なんだか気絶しそうな顔でその光景を見守っていた。



      *  *  *



 一方、その頃。

 フローティアは自身が召喚された陣の上で、常と変わらぬ、凜とした立ち姿のまま前方を見据えていた。


 突然の召喚だ。動揺が無かった訳ではない。

 フローティアがそれでも平静さを保とうと努めているのは、ただ、目の前にいる存在が彼女にとって、感情の乱れを表に出すことを許すような相手では無かっただけだ。


「やあ、フローティア。お前と顔を合わせるのは何年振りかな。姿形が少しも変わっていないところを見るに、お前はやはり化け物と成り果てたようだ。

 お前のような人の成り損ないと一時でも婚約を結んでいただなんて、悍ましくて堪らないよ」


 彼女の目の前には、短剣を片手にしたアランが立っていた。正確に言えば、アランの面影を残した中年の男である。

 低く這うような声で、吐き捨てるように呟くアランの姿は、フローティアが知る頃よりも二十年は歳を重ねているように見えた。


 どういうことだろう。

 まだ、あの卒業パーティから半年と経っていない筈なのに。


 まさか、冥府と現世では時の流れが異なるのだろうか。

 いや。城に残る文献にもそうした記述は無かったし、ニンアやユラからもそのような説明はなかった。

 リヴィメラが説明不足なのはいつものことだが、まさかあの二人が教えてくれないなどということはない筈だろう。


 だとしたら、この時間の差異には何か別の理由が──などと思考を巡らせたところで、室内にアランの怒鳴り声が響いた。


「おい、僕の話を聞いているのか? ああ、全く、お前はいつもそうだ! 僕の言葉など取るに足らない、くだらない事柄だとでもいうような顔で!! 

 ああ、そう、そうだろうな、どいつもこいつも僕を見下して、嘆かわしい、僕ほどの高みにいる人間を理解できないなんて、いいか、僕が、僕こそが建国の王フレイバルトの再来なんだ、間違いないんだ、僕こそがこの国を救い、導く存在なんだ……!」


 四十を超えたように見える男の顔は、ひどくやつれている。

 かつては理想の王子との声をほしいままにしていた美貌はすっかり衰えて、ひどく病的な風貌と化していた。

 単に、その言動があまりにも常人のものではない、というだけかもしれないが。


 フローティアは実際、彼になんと声をかけて良いものか迷ったために、挨拶すらも口に出来ずにいた。

 だが、アランは特に意に介した様子もなく、大袈裟な身振りを交えて言葉を続けた。


「だが! ようやくこの時が来た! 悪しき魔女を滅ぼし、この僕が真実の愛を手に入れる時が!」


 その声音は、明確な狂気に飲まれている。

 衝動を表したような哄笑を抑えることもなく、アランは短剣の切先をフローティアへと向けた。


 フローティアは、ただ一心に、警戒を込めてアランを見つめていた。

 向けられた短剣はさして恐ろしくはない。その気になればすぐにでも叩き落とすことは出来る。

 けれども、すっかり容貌が変わり果ててしまったアランが目の前で叫ぶように紡ぐ言葉の数々は、どうにも恐ろしくてならなかった。


 恐怖を覚えたのは、ぶつけられる敵意に対して、ではない。

 四十を超え、恐らくは二十年以上もの時を経たアランが、それでも尚、フローティアだけを敵とし、妄執に囚われていると言う事実にだ。


 アランは王太子だった。第一継承権を持つ者であり、建国の王に生き写しの、『聡明で慈悲深い』と評判の理想の王子である。

 男爵令嬢に熱を上げて婚約破棄をしたとして、その相手が冥府の王に選ばれていたとしても、十分な反省を見せれば、王とはなれずとも貴族として十分な生活は許される筈なのだ。

 問題の男爵令嬢とは引き離されてしまっただろうが、新たな出会いを経て、血の繋がりを成すことは許されずとも、家庭を得ることも可能な筈だった。


 けれども今、アランは丁寧に整えられてこそいるものの閉鎖的な部屋で、落ち窪んだ目に歪な敵意だけを燃やしている。

 ろくな食事もとっていないのがよく分かる風貌で。


 彼は己を省みる事なく、フローティアに報復が叶えば自分は幸せになれるのだと信じ続けてきたのだ。

 フローティア・バーノッツという存在はとっくに消えた世界で、現実を直視することを避け続けている。今も。


 胃の腑が妙に重くなるのを感じる。

 フローティアの手は、無意識に胸元を押さえていた。


 興奮するアランは、青白い顔に妙な高揚だけを浮かべながら、引き攣った声で怒鳴り続けていた。


「何が冥府の王妃だ! 異形の化け物が犇めく悍ましい場所で、子でも成すつもりか? ははは、まさか、お前のような存在が女としてまともな幸せを得られるとでも? 馬鹿馬鹿しい!

 精々が、ヘドロのような子供でも産んで可愛がることになるのが関の山だろう! 穢らわしい魔女には相応しい末路だろうがな……!」


 フローティアは何も言葉を返すことはなかった。

 出来なかった、とも言う。何を返そうとも届く気がしなくて、口を開く気力すら湧かなかった。

 それは、食卓で失態をなじられている時の気分によく似ていた。

 抵抗をする意思そのものが決意する側から腐り落ちてしまうような、疲労に似た諦観だった。


 ひどく気味が悪く、恐ろしく、悍ましかったが、フローティアの胸の内にはわずかに安堵も混じっていた。


 この場にリヴィメラがいなくてよかった、と心から思ったのだ。

 リヴィメラがこんな言葉が聞くことがなくてよかった、と。


 この程度の罵倒など、フローティアにとっては慣れたものだ。

 アランの狂気に呑まれそうにもなるが、言葉自体は聞き慣れたものでしかない。

 この場にいるのが己一人であるならば、聞き流すことも、記憶から流して消してしまうことすら出来る。


 フローティアが忘れ去ってしまえれば、そんな言葉は元から無かったことになるのだ。

 リヴィメラは、フローティアがどんな言葉を浴びせられてきたか、フローティアが希釈した伝言でしか聞いたことはない。

 きっと、彼ならば全てを読み取っているだろうけれど、聞かないでほしいと示したものを無理に暴くことは、一度だって無かった。


 だから、きっと今回も無かったことになる。そう出来る。

 向けられた言葉も、それによって真っ当に傷ついてしまっている自分も、全て無かったことにしてしまいたかった。

 だって、せっかく楽しい生活が始まったばかりなのだ。フローティアはあの卒業パーティでアランとは決別をして、全く別の生活を始めたのだ。

 きっかけはどうあれ、少なくとも、フローティアの意思で持って。


 アランはもうフローティアの婚約者ではない。アランを支えるための努力をする必要など、フローティアは今や一欠片も持ち合わせていないのだ。

 わざわざ誕生日にこんな不愉快な思いをさせてくるような人間のために、時間も感情も使ってやりたくなど無かった。


 どうやって冥府に帰ろう。リヴィメラがいないと帰れないことは確かだったけれど、この場に迎えに来て欲しいとは思えなかった。

 そこには、アランの言葉を聞いてほしくはないという思いとは別に、もう一つ理由があった。


 リヴィメラはこの部屋に来るべきではない。

 フローティアは、何処か心の端に不快感を覚えながら、あるべきもののない室内をゆっくりと見回した。


 ほんの微かに、ため息をひとつ。

 とりあえず、この稚拙な魔法陣から抜け出して、前に帰還に使った場所に向かうのが良いかもしれない。


「おい! 何処を見ている! お前はいつもいつも、そうやって僕を馬鹿にして!」

「あっ」


 物思いに耽っていたフローティアが、振り被られた短剣をあっさりと弾き飛ばしてしまったのは、全くもって無意識の仕草だった。

 軽い金属音と共に、短剣が根本からへし折れる。掠った手の端には細く赤い筋が描かれただけで、大した傷にはならなかった。


 握り締めた短剣の柄を呆然と眺めていたアランが、瞬く間に顔を歪めていく。

 これは、アランが癇癪を起こす時によく見る表情だった。

 ハッとしたフローティアはほぼ反射的に、自身を睨みつけるアランへと慌てたように言葉を向けた。


「あの、アラン様。お聞きください、わたくしは、」

「黙れ! 貴様の言葉など耳に入れるだけで脳が腐る! いいか、お前は僕が召喚した、ただの使い魔だ! 主人である僕に逆らおうなどとは考えるなよ!」


 アランを馬鹿にしたつもりなど一度も無い。フローティアにとっては、全ての責は己の未熟さにあると思っていたからだ。

 その在り方こそがアランにとっては馬鹿にされているとしか思えなかったのだが。

 性質の違う二人の感覚が噛み合うことは、おそらく永遠に無かった。


「お前を贄にして、僕はより高次の存在へと生まれ変わるんだ……!」


 唾を飛ばしながら怒鳴るアランの言葉に続く声は、フローティアではなく、闇から這い出るようにして現れた影から発せられた。


「おや、このような稚拙な召喚魔法には、契約は付随していない筈ですが。私の思い違いでしょうか?」

「…………リヴィメラ」

「効果があったとしても、貴方の側から破棄することすら可能に見えます。そうですね、例えばあの辺り、西方波形の粗雑さが狙い目ですよ」


 リヴィメラはなんとも呑気な仕草で陣の端を指し示しながら、フローティアの傍らへと歩み寄ろうとした。

 そうして、踏み入れかけた召喚陣が瞬く間にひしゃげていく様を見て、一旦足を止める。


 いとも容易く捻じ曲がる召喚陣を前にしたリヴィメラは、その脆弱性に困惑しているのがありありと分かる仕草でつま先を引っ込めた。


「これはいけません、召喚陣の破損は術者に多大な悪影響を齎しますからね」


 心の底から、心配だけを声に乗せた──かのように装った口調で呟いたリヴィメラは、慣れた手つきで虚空から魔術筆記具を取り出すと、解けかけてしまった陣に近づき、ほつれて歪んだ部分を丁寧に書き足し始めた。

 ついでに、一部添削じみた直し方までされている。どこまでも嫌味たらしい程に、丁寧かつ親切な添削だった。


「おっと、間違えて補強してしまいました」

「………………」

「ご心配なく、一つの齟齬なく書き直せますので。元の稚拙さを正確に再現しておきましょうね」

「………………」


 言うまでもないが、所作の全てが故意の嘲弄である。

 あれこそが真に『馬鹿にしている』と思うのだが、アランに指摘する勇気はないようだった。

 真っ青な顔で座り込んでいるアランに目をやったフローティアは、なるべく視界から外すようにして、傍らのリヴィメラへと尋ねる。


「……リヴィメラ。此処からすぐに、冥府に帰ることは出来るかしら」

「問題なく可能ですが。ちょうど此処に、かけた相手の皮膚が指の端から裏返っていく魔述式がありまして。おすすめですよ」

「そう。早急にしまってちょうだい。二度と出さないで」

「なんと、勿体無い。またとない機会かと思いますが?」


 笑い混じりに囁くリヴィメラに、フローティアは答えることなく召喚陣から踏み出した。

 瞬く間に綻んだ契約魔法が、パチパチと魔力の残滓を弾けさせて、すぐに消える。


 リヴィメラの言う通り、この程度の召喚陣ではフローティアの魂までを縛ることは出来ない。

 事実を目の当たりにした途端に怯え始めたアランが悲鳴を上げていたが、フローティアは特に気に留めることもなかった。


 何処か拗ねたような仕草でリヴィメラの手を持ち上げたフローティアが、その手を己の腰を支えるように導く。

 リヴィメラが何か言うよりも早く、彼女の口からは随分と素っ気ない声が響いた。


「……気づいているのでしょう。この部屋、精霊結晶が置かれていないわ」


 仮にも王族の住む部屋だ。禍を退けるとされる精霊結晶が置かれていないなどと言うことはあり得ない。

 それが廃嫡され、辺境の地に追放された者の住まう場所だとしても、だ。


 実際、リヴィメラは召喚されずとも、この部屋に問題なく現れることが出来た。

 厳密に言えば、周囲への影響を全く考慮しないで良いのならば、彼はいついかなる場合にも、好きな時に好きな場所に現れることが可能なのだが、その話は置いておくとして。


 重要なのは、アランが住まう部屋に、リヴィメラが好きに顕れることが出来るよう、取り計らわれていたという事実だ。

 それだけであれば、まだ良い。フローティアが不快に思っているのは、この部屋には、黒魔術に触れることのできる環境が整っている、という点だった。


 隔離されたこの一室で、冥府の者に関わることが出来る手段だけは残しておくことが何を意味するか。

 仮にアランには分からずとも、彼を管理しているのだろう上役の人間に分からない筈がないだろうに。

 

 フローティアの眉は、本人も知らぬうちに苛立たしげに歪められていた。


「要するに、貴方がアラン様を始末するのを望まれているのよ。

 建国の王に生き写しと言われたアラン様を処刑するだなんてどんな勢力であろうと避けて通りたいでしょうし、人間には及ばぬ力を持つ存在によって命を摘まれた方が、あらゆる貴族にとって都合が良かったのね。

 だから、こんな風に、まるで餌を置いて誘き寄せるような真似を仕出かしたのだわ。

 いずれはわたくしへの報復を叶えようと、召喚を試みることも含めての行いよ。……酷い侮辱だわ」

「はて。彼の立ち位置を見るに、どちらかと言えば現世人類による、私への許しを乞うための贄と言えるかと思いますが」


 すっとぼけたような物言いを崩さないリヴィメラに、フローティアは珍しく、淑女の笑みすら捨てたままに言葉を紡いだ。


「必要もないものを勝手に支払って許された気になる行為を謝罪と呼ぶのは、何よりも許し難い所業だとは思わなくて?」


 吐き捨てるように紡がれた問いかけに、リヴィメラはただ喉を鳴らして笑うだけだった。

 眉を寄せたまま見上げるフローティアの頬を、六本指が柔らかく撫でる。


「貴方が本当に怒っているのは珍しいですね、フローティア」


 それは、なんとも愛しげで、心の底から慈しむような声音だった。

 フローティアの、不愉快を露わに険しいものへと変わっていた表情から、呆気に取られた様子で力が抜ける。

 何処か幼さすら感じさせるような顔でリヴィメラを見上げたフローティアは、まごつくように唇を幾度か開閉すると、だって、と呟いた。


「……だって、別に、リヴィメラは彼の方の命に興味なんてないでしょう」

「まあ、全くありませんが。彼が全身の関節を逆側に折り曲げられて絶命する様は非常に面白いだろうな、とは思っていますよ」

「……………………」

「言いたいことは分かっています。彼らにそのつもりはなくとも、私を使い勝手の良い道具扱いするのは不躾ですよね、という話ですね」

「…………そうね」

「ついでに言えば、度重なる不始末の結果成された代物が彼なのですから、きちんと其方で責任を持って処分するべきですよね、という話でもありますね」

「………………そこまでは言っていないわ」


 リヴィメラは、人間の命を奪うことに何一つ頓着が無い。

 そもそも奪うつもりがなくとも気を狂わせてしまうような存在であるし、大抵のものはリヴィメラよりもずっと短い命しか持たない。

 彼がわざわざアランやバーノッツ家の人間に敵意を向ける必要も、理由もなかった。


 リヴィメラがやたら熱心に拷問じみた殺傷魔法の『おすすめ』をしてくるのは、あくまでもフローティアの苦しみを取り除くためでしかないのだ。

 あとは単純に、極めて純粋な好奇心である。なんと厄介な。


 ともかく。そのつもりもなく、必要も持ち合わせないリヴィメラに、邪魔になったアランを片付けさせようとしている──という事実そのものが、フローティアにとってはどうにも不快だった。

 リヴィメラは確かに冥府の王で、存在だけで人類の害ともなるが、だからといって不要な人材を処罰する処刑具などにしていい訳ではない。

 それも、これまで散々アランの横暴を放置しておきながら、都合よく使おうなどと。決して許せる扱いでは無かった。


「もう、いいから。早く帰りたいわ」

「そうですね。ゼリーも食べ損ねてしまいましたし」

「………………」


 フローティアは、一瞬で黙り込んだ。

 やっぱり帰らない方がいいかもしれないわ、と思ったのが大いに顔に出てしまったのか、リヴィメラはなんとも軽やかに声を上げて笑う。

 ともすれば無邪気にすら聞こえてくるような明るい笑い声を聞きながら、フローティアはわざとらしく咳払いを響かせ、最後に、とアランへと視線を向けた。


「アラン様。貴方様にわたくしのような下賎な者の身を案じていただけたこと、光栄に思いますわ。ですが、どうかご心配なさらないでくださいまし。

 冥府はアラン様が思うよりも余程素晴らしいところですし、成すべきことも見つかりましたの。とても、そう、とてもやり甲斐のある仕事ですわ。

 アラン様もどうかわたくしの存在などお忘れになって、御自分の為に歩んでくださいな」


 淑やかに、完璧な笑みを浮かべて、フローティアは告げる。

 それは彼女にとって一番に重視すべき矜持だった。

 傷ついたような素振りなど見せたくもないし、実際に傷つきたくもない。

 後者に関しては無理があるとは分かっていても、それでもそのように見せるくらいはしたかった。


 穏やかに告げられた言葉に、アランは幾度か呼吸すらままならない様子で唇を開閉したのち、狂ったように笑い出した。


 それはもはや、正気を保っている人間の声とは思えなかった。泣き声とも笑い声ともつかない、歪な呼吸音が響く。

 顔を覆って呻くアランは、リヴィメラに支えられるようにして立つフローティアを睨みつけると、歪んだ笑みを浮かべた。


「ああ、本当に、お前と言う者はいついかなる時も忌々しい……! だが、そうだな、そうだ、いいことを教えてやろうか、フローティア?

 バーノッツの人間は、言われるまでもなくお前の存在など忘れて幸せにしているぞ! 忌々しい、気味の悪い化け物がいなくなって清々したのだろうさ」


 それが真実であっても、フローティアを苦しめるための虚偽であったとしても、彼女にとっては等しく苦しみを生むものだった。

 ただ、あの状況から幸福を掴み取ったのなら、それはバーノッツ家の人間が努力によって成したものなのだから、フローティアがとやかく言う所ではない。

 逆に、わざわざ不幸になって欲しいとも思ったことはない。没落して困窮している、などと聞いたのなら、それはそれで、気は重くなっていたことだろう。


 フローティアが家族かれらに望むことは、今も昔もただ一つだ。

 『自分を愛してほしい』という、それだけである。

 我ながら、歪んでいると思う。

 それでも、どうしても望みを捨てきれないままで居る。


 フローティアはアランの言葉に答えることもなく、淑女の笑みにほんの少しの自嘲を混ぜると、何処か不穏な手つきで持ち上がったリヴィメラの手(恐らくは何かしら脳を弄ろうとしたと見える)をやんわりと押さえて、冥府への帰還を果たした。



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