表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

10.出逢い [後]


 フローティアは五日ほどかけてイョンの村へとミトシラを連れて行った。

 懸念していた通り、国王は消えたミトシラを血眼になって探しているようである。村へも騎士団の隊が派遣されたらしく、彼らよりも早く村へと辿り着く為に、フローティアはリヴィメラの力を借りた。


 といっても、冥府を経由した移動法はミトシラには危険すぎる。よって、誘引の魔法で呼び出した飛行型の魔獣に、リヴィメラの支えによって騎乗することにした。

 ミトシラのことをフローティアが支え、フローティアのことはリヴィメラが支える形である。

 寒冷地の風はまさしく凍るように寒かったが、防寒の魔法を覚えていたことで身体的な負担は少なく済んだ。


 途中、ミトシラの健康の為に、人目につかぬようにしつつ医者にもよる。

 彼女の案内を元にイョンの村へと向かうも、しかし、説明された場所には村人の姿はなかった。


 イョンの村は、更に奥まった場所へと住処を移していたのだ。

 跡地には、村の出身であるミトシラにのみ分かるように、特異な言語で新たな居住区の場所が示されていた。

 村に戻ったミトシラに、村人たちは口々に喜びと安堵の声を上げ、彼女の無事を喜んだ。


「じい様! ねえ、ミィちゃんが帰ってきたよ!」

「ミト! ああ、ミトよ! これは奇跡だ!」

「天使様が連れてきてくださったんですって」

「天使様が?」

「あの方は天界の御方なのね。確かに、あれは神獣に違いないわ……!」


 村の者は、ミトシラの後ろで見守るように立つフローティアと、その横に控える魔獣を見て、ヒソヒソと言葉を交わした。

 すっかり天界の使者か何かだと思われているようだが、わざわざ訂正している暇などない。

 そもそも、実際は冥府の王妃です、と言ったところで、事態をややこしくするばかりだろう。


 フローティアはただ静かに、喜びあう村人たちを微笑みと共に見守っていた。


 サライダールの国王は暴君ではないが、ハレムを持つ王族の都合上、若く後ろ盾もない少女が王宮で辛く苦しい目に遭うのは誰しもに想像がついていた。

 村人たちは、まさしく神に生け贄を差し出すかの如くという思いで娘を見送ったのだ。

 その娘が無事に帰ってきたのだというから、彼らの喜びようは尋常ではなかった。


 村の中でも一番に歓喜したのは、彼女の幼馴染だというジャナという男だった。


「ミト!!」


 伸ばした黒髪を雑に一括りにした、逞しい体つきの彼は、村の入り口でまごつくミトシラの元まで駆けてくると力強く彼女を抱きしめた。

 どうやら丁度仕事中だったようで、片手に斧を持ったままだったので、慌てて他の村人が彼の手からそれを剥ぎ取っていた。少し後方で村人たちから感謝の言葉を受けていたフローティアも、思わずのけぞってしまうくらいの勢いである。


 二人はそれからいくつかの言葉を交わし合い、やがて、ミトシラはジャナの結婚についておずおずと言及した。

 五年前の別れ際に、ミトシラは彼に『誰か他の素敵な人と幸せになってほしい』と伝えていた。その時のミトシラは、望まぬとはいえ酷い不義理を働く自分に耐えきれず、どうか綺麗な思い出だけを抱えて、自分のことなど気にせず幸せになってくれればと、本気で祈っていたのだ。

 ジャナが素晴らしい男であることは、ミトシラが誰よりも理解している。実際、村の娘のほとんどがジャナに熱い視線を送っていた時期があったくらいだ。

 震える声で妻帯の有無について尋ねたミトシラに、ジャナは何を馬鹿なことを、と呟き、断言した。


「俺はミトが相手でないのなら、一生結婚などするつもりなんてない。俺はこの村しか知らないが、ミト以上に素晴らしい人がこの世にいないことくらいは分かる!」


 彼はそう断言し、すぐにでも結婚式をしよう、と言った。

 イョンの村のしきたりでは婚姻の際にさまざまな捧げ物が必要になるのだが、ジャナはずっと、いつミトシラが帰ってきてもいいように、と捧げ物を集め続けていたそうだ。

 あるいはそれは、来世でミトシラと結ばれるための供物だったのかもしれない。


 小規模な村では貴重な優秀な狩り手であるジャナは、ミトシラを追って村から離れる訳にはいかない。

 そもそもが、王族の命令による婚姻だ。逆らえばミトシラやジャナだけではなく、村全体に被害が及ぶ。ジャナは五年間、厳しい冬に耐えられるように村を支え、ミトシラのことだけを思って過ごした。


 真摯な愛を直向きな言葉と熱意のこもった視線で伝えたジャナに、ミトシラは喜びの笑みを浮かべかけ、そして確かに悲しみを宿した形に顔を歪めた。

 揺れる瞳が恥じ入るように視線を落とし、幾筋も涙を溢す。


「でも、でも私、もう穢れてしまったわ」

「そんなこと、俺は欠片も気にしない。気にする権利すらない。ミトが自分を守るためには、それしか方法がなかったんだから。それに、ミトは天使様に出会ったんだ。もしもミトがどうしても純潔を気にしてしまうのなら、天使様に出会った時点で、ミトは生まれ変わったんだ、と思えばいい」

「けど、子を成さない薬を五年も飲んで、だから、子供だって出来ないかもしれない」

「じゃあ、ミトはもし俺のせいで子供ができないとなったら、俺と結婚する気はなくなるか?」

「そんなこと! ありえないわ!」


 ミトシラは、胸の内に宿る不安の全てを吐き出し、その全てを丁寧に取り除かれたのち、ただ黙ってジャナに口付けた。

 なんとも情熱的な口付けである。一瞬驚いたように目を見開いたジャナも、すぐにそれを受け入れた。


 それまで二人の行く末を見守るようにじっと見つめていたフローティアだが、その瞬間、思わず両手で顔の半分ほどを覆った。

 安堵と感動で潤んでいた瞳も、きゅっと軽く瞑られている。


 フローティアにだって婚約者は居たし、閨の教育ももちろん受けている。愛し合う男女の睦み合いというものに、ちょっとした憧れだってある。

 だが、それはあくまで単なる知識や想像であって、愛する者同士の接吻を目の当たりにするのは初めてなのだ。


「ティア様! 本当に、本当にありがとうございます!」


 振り返ったミトシラが晴れやかな顔で、涙を拭いながらお礼を言った時にも、頬を染めたフローティアはおぼつかない祝いの言葉を返すことしかできなかった。

 影の中でリヴィメラが笑っているような気もしたが、フローティアは強い意志のもと、気のせいだと思い込むことにした。




 さて。数日後。

 一旦は冥府へと戻っていたフローティアは、するりと現れたリヴィメラが「来ましたよ」と告げるのを聞き、再びイョンの村へと向かった。


 王宮から派遣された騎士団が、イョン村の近くへと到達したのだ。

 もぬけの空となっている村の跡地を粗雑に踏み荒らす団員の中には、なんと国王陛下自身が混じっていた。


 初恋の姫君に似ているミトシラを、なんとしても諦めきれなかったのだろう。まさに妄執の如き恋慕である。

 国王も、今回の件が他の妃の手による事態だとは察しているのだろう。悲しみに打ちひしがれる陛下の心の傷は、フローティアから見ても嘘偽りのないもののように思えた。


 だが、それはミトシラ自身を想った結果ではなく、ただ彼女の容姿がかつての想い人を思わせる者だからに過ぎない。

 事実、彼はミトシラ個人の思いには何一つ頓着していない様子だった。単純に、どこまでも自分の想いを満足させるための道具として、ミトシラはあまりにも都合の良い存在というだけなのだ。


 フローティアは、抑えきれない腹立たしさを感じつつ、それでも完璧な淑女の笑みを浮かべ、彼らの前へと現れた。


 辺りに広がる闇の中から、まさしく溶け出したかのようにして現れたフローティアに、騎士団の者はにわかにざわめき、一瞬迎撃の体勢を取った。

 だが、それもすぐに収まってしまう。彼らの目から見ても、フローティアが人ならざるものであることは明らかだったのだ。


 神を名乗るなどという烏滸がましい真似は出来ない。だが、単なる一個人であるフローティアが国の最高権力者を止めるには、超常の者だと思わせるのが最善手だと言える。

 故に、フローティアはあくまでも事実だけを述べた。それだけでも、効果は十分だと言えたからだ。


 景色を楽しむ為に訪れた雪山で、転移させられていたミトシラを見つけたので保護した。

 彼女は故郷の村に帰ることを望んでいたため、希望を叶えるために尽力した。

 貴方の元には戻りたくないと言っているし、私も離れて暮らした方がそれぞれの為になると思っている。


 フローティアはそのように告げ、自分の言葉をゆっくりと受け止めている王の前に立ち続けた。


 他国の王を相手に名乗りもせず、礼も取らずに喋ることは、フローティアに少なからず精神的な負担をかけた。

 ただ、ここでフローティアが上手くミトシラを庇えないのなら、きっとリヴィメラが相手をすることになってしまうだろう。

 いくら恋に狂った王と言えど、それは流石に忍びない。


 素直に聞き入れてくれますように、と祈るフローティアの前で、王は暗く顔を歪めた。


「ですが女神よ、私はいつまでも彼女が忘れられないのです」


 王は苦悩の滲む声で呟いた。

 本当に、途方に暮れたような声音だった。


 フローティアには、彼の生きてきた状況も、彼だけが抱える思いも分からない。

 もしかしたら、彼の人生を一つ一つ紐解いていけば、思わず同情してしまうような事情があるのかもしれない。


 だが、それはミトシラという個人を蔑ろにしていい理由にはならない筈だ。

 そもそも、忘れられない君を思い続けるにしたって、そこにミトシラを付き合わせるにしたって、もう少しやり方というものがあるのではないだろうか。


 フローティアは、靄がかかるように胸に湧く感情のままに、ただ静かに言葉を紡いだ。


「では、ミトシラが好きなものを挙げてください」


 聞くや否や、王は静かに二度、瞬きをした。歳を重ねても魅力的な、端正な顔立ちである。


 きっと彼は愛されることに慣れているのだろう。絶対的な権力者で、優れた容姿を持ち、何人もの妻を娶っているのだから、当然の話だ。

 女性は己に好かれることを望み、己に好かれれば嬉しいものだ、と思っている。フローティアは己の苛立ちを、半ば八つ当たりのようなものだと理解しながら続けた。


「貴方が最愛の姫君を忘れられず、ミトシラにその面影を求めることは構いません。ですが、そこにはミトシラ自身を慈しむ思いが付随するべきではありませんか。


 サライダール国では、全ての人間が神の愛し子とされている筈ですから、当然、ミトシラは尊重されるべき一人の愛し子です。

 もちろん、人間同士ですから、感情や立場で関わり方は変わるでしょう。ただ、ミトシラは貴方にとって愛する方との思い出を慈しむための大切な仲介者である筈です。


 彼女は貴方にとっての希望ではないのですか。でしたら当然、希望の依代とも呼べるべきミトシラの好きなもの(・・・・・)くらいは、答えられるかと思いますが」


 あくまでも淡々と告げられた言葉に、王はしばらくの間じっと足元を見つめ、やがて力無く目を閉じた。

 答えられないのならミトシラを帰すつもりはない、という意図と、自分が四年間、一度もミトシラ個人に対して興味を持たなかったことを突きつけられたことを察したのだろう。


 彼はフローティアのことを女神だと思っているようだった。サライダールにおいて、女神の言葉に何一つ帰す言葉もないのならば、その人間に選べる道など殆どない。


 王は細く息を吐くと、サライダールの古語で神への感謝を紡ぎ、礼を持って踵を返した。


 その背がすっかり雪原の彼方へと見えなくなった頃、フローティアもゆっくりと、安堵と疲弊の混じった吐息をこぼした。




     *   *   *




 結局、フローティアが作り上げたのは、トライスタ山ではなく、イョン村の風景だった。

 美しい雪景色と、切り立った崖の並ぶ雄大で荘厳な自然が、闇に途切れるようにして浮いている。

 一応、バランスを考えて花畑とは真逆の端に置いてみた。広がる光景を、フローティアはひとり王城のテラスから眺めている。


 季節感がおかしいような気もするが、聞いたところによると心配はいらないとのことだった。

 記憶によって複製した土地は、増えるにつれてそれぞれが反応しあい、いずれは一つの調和を描くそうだ。


 雪に覆われた村の管理には、また別の者が向かうこととなった。雪山を好いている者が多いようで、希望者が殺到したとの話だった。

 加えて、冥府の梟が、心惹かれたように水晶の森から雪山の方面へ飛び立つ様が確認されたと言う。どうやら寒い地方が好きなようだ。


「私が好きな景色を作るのもいいけど、やっぱり冥府の方が喜んでくれる景色が作りたいわね。今度、聞いてみようかしら」


 フローティアは室内に戻ると、寝台に寝転びながら呟いた。希望者が出る、ということは冥府の使徒にもそれぞれ景色の好みがあるということだ。

 自分の成したことで誰かが喜んでくれるのは、素直に嬉しい。どうせなら、もっと喜んでくれたらいいとも思う。


 目を閉じたフローティアの瞼の裏に浮かぶ光景には、感謝を伝えるミトシラの顔も含まれていた。


 望まぬ結婚を強いられ、虐げられて命まで落としかけた女性の姿は、事情は異なれど何処か自分とも重なって見えた。

 だが、彼女には、たとえ一生帰れぬと分かっていても想い続けてくれる最愛の人がいた。

 それは苦しみにも繋がったが、同時に彼女の胸の火を絶やさぬ希望ともなったのだろう。


 愛とは切なく、そして輝かしいものだ。

 ミトシラとジャナの間にあるものは、フローティアにとっては一種の理想に近かった。だからこそ、二人の未来を守りたいとも思ったのだ。


 同時に、とても羨ましい、とも思った。

 四年もの間苦しんでいたミトシラを前にしてはとても口には出来ないが、それでも、あんなにも強く愛し、愛される相手がいると言うのは、フローティアにとってはあまりに眩しかった。


 フローティアにはそこまで想ってくれる人などいただろうか。

 いや、言ってしまえばリヴィメラも、八年間ずっとそのようにしてくれてはいたのだけれど。

 あれを単に愛と受け取れないのは、同時に生命の危機が伴っているからだ。


「…………」


 けれども、フローティアがこの八年、最後まで心が折れずに頑張り切れたのは、確かにリヴィメラのおかげだと、言えなくもなかった。


 リヴィメラは、友人としては間違いなく、かけがえのない存在であった。

 与えられた環境を乗り切る決意を固められたのは、確かに彼が側に居た、というのが理由にあったのではないだろうか。

 それがリヴィメラとの結婚を回避するための努力だったとしても。いや、あるいはだからこそ、かもしれないが。


 アランと結婚さえ出来れば、リヴィメラとは結婚しないで済む。そうすれば二人は友人のままで、フローティアはちょっともおかしくなることなく、リヴィメラとは一番大事な友達で居られるのだ。


 その時。

 いや、と思考の端が呟いた。


 フローティアは自身の思い描く情景の違和感に気づいて、反射的に瞼を持ち上げた。


 結婚さえしなければ、リヴィメラとはずっと友達で居られる? おかしな話だ。

 だって、リヴィメラはフローティアを妻とするために、彼なりに愛を示していたのだ。

 想った相手が別の男の妻となったなら、普通はそのまま『友達』を続けようなどとは考えにくいだろう。

 冥府の王である彼が普通(・・)には程遠い、というは一旦さておいて、の話だ。


 これは、フローティアの意識の問題である。


「ねえ、リヴィメラ」


 思わず無意識に呼びかけてから、数分の間、フローティアはただ静かな沈黙に耳を傾けた。

 どうやら他所に行っているようで、リヴィメラが現れる気配は無い。そういえば、ニンアに呼び出されたと言っていたような。


 もし。

 もしもフローティアが本当にアランと結婚出来ていたら、リヴィメラはその先も変わらぬ好意を向けていてくれただろうか。


 自分は誰かと結婚しておいて、そのまま友達として関係を続けようと言うのは、人の道理としては間違っているように思う。

 無論、リヴィメラは根源に最も近い存在であり、人間の感情で予測を立てることなど間違っている。

 けれども、好意の種別を人の範疇に収めることが出来なくとも、彼は確かにフローティアを愛しているのだ。


 自分を異性として愛している存在を前に友情を強いるのは、それこそ不誠実ではないだろうか。


「…………甘えてるんだわ、私」


 思えば、昔からずっとそうだった。

 フローティアが我儘を言えるのは、いつだってリヴィメラだけだった。彼女にとってはいつだって、冥府の絶対の王より、家族の方が余程恐ろしかったのだ。

 リヴィメラだけはずっと変わらず自分の側に居てくれると、何処かで信じ切っていたのかもしれない。


 その関係が『結婚』によって壊れてしまうのが恐ろしくて、リヴィメラとの関係を変えたくないからこそ、アランとの婚姻に拘っていたのかもしれない。

 感情というのは正も負も、全てが複雑に絡み合っていて簡単には紐解けない。特に、リヴィメラのような存在を相手にする時は尚更だ。


 まあ、やっぱり一番の理由は、大変に頭がおかしくなるから、であるのは確かなのだが。

 その理由が取っ払われてしまったなら、自分の胸の内には何が残るのだろう。

 フローティアはぼんやりと、イョンの村の光景を思い浮かべながら、手慰みのように髪の毛先を弄んでいた。




 一時間後。

 フローティアが目を閉じたままでも眠ることも出来ず、思考の波に揺られて居心地の悪さを覚えていた頃。

 滲むような気配を伴って、リヴィメラが傍らに現れた。


「ニンアを大層怒らせてしまいました。お説教の最長記録を更新しましたね」

「……猛吹雪の中でデートするだなんてどうかしてる、って?」


 瞼を下ろしたフローティアは、そのまま目を開くことなく、ほんの少しだけ唇を持ち上げる。

 その笑みには、ほんの少しだけある種の誤魔化しが含まれていた。


「ええ。良い思い出になったのは貴方のおかげであるから、真に感謝を伝えるように、と」

「違うわ。あれはミトシラさんのおかげよ」

「助けよう、と決めたのは貴方です。ですからやはり、良い思い出になったのは貴方の選択によるものでしょうね」


 ベットの縁に腰掛けたリヴィメラは、身を守るようにして丸くなったフローティアの髪をそっと撫でながら、柔らかい声で呟いた。

 薄く目を開いたフローティアの視界の端で、六本指が髪を梳いている。

 なんだか急に微睡が訪れて、フローティアは再びゆったりと目を閉じた。


「……あの二人が幸せになる手伝いが出来たのなら、良かったわ」

「ええ、愛し合う二人が引き裂かれるのはとても悲しいことですからね」


 白々しいまでの慈しみが籠った声音だったので、フローティアは知らず眉を寄せていた。

 リヴィメラは人間の感性について一定の理解を示す素振りは見せる。それでいて、雪山でミトシラを見つけた時のように、本質的には共感を伴うことはないのだ。


「貴方の言う『愛』って、何なのかしら」

「逆に問いましょう。フローティア、貴方は何を持って、そこに存在する情を愛と定義するのですか」


 それは、随分と真摯な響きを持った問いのように思えた。

 暗がりの中に溶け込むように投げられた問いを、フローティアは出来るだけ慎重に拾い上げる。


 返すべき答えを探そうと思考の海を探ることしばらく。フローティアは少しばかり困ったように、そっと息を吐き出した。

 結局のところ、フローティアには上手く説明出来ないのだ。だって愛されたことがないのだから。愛の定義に必要な材料がそもそも足りない。

 

 もしも理想の愛を語るとするなら、フローティアに興味を持ってくれて、存在を尊重してくれて、隣で共に歩むことを許して、信頼をおいてくれること、ではないだろうか。

 それはたとえば、好きなものを覚えていてくれたり、嫌なことや許せないことを把握してくれたり、価値観に理解を示してくれたり、そういうことだ。


 自身に対してそれをしてくれた存在は、フローティアの知る限り、この世にひとりしか居ない。

 逆に言えば、ひとりだけなら、そういう存在を知っている。


「……そうね、きっと与えられたものが失われることを恐ろしいと感じたなら、そのひとを愛しているのだと思うわ。恋慕から来る行為であっても、与えられたものを不要に感じるなら、それを愛だとは思いたくないの」


 サライダールの王がなんと言おうと、彼がミトシラに向けた情念は、フローティアにとっては愛ではないと言えた。無論、ミトシラにとってもそうだろう。

 感情は目に見えない。受け取って初めて形になり、その形ですら、あらゆる他者の間で不確定で、不定形でしかない。


 ただ、喪失を恐れた時点で、そこにはひとつの愛があると言えるだろう。

 愛着だとしても、それもまた情の一つではある。


「喪失を前提とするのは、少し寂しい考え方のように思いますね。対象が失われたとしても、私が愛し続けていればそこには永劫に不滅の愛が存在するとした方が、嬉しくありませんか?」

「…………貴方にとってはそうかもね、リヴィメラ」


 確かに。誰も彼もに置いて行かれて(・・・・・・・)しまうリヴィメラにとっては、自身が思い慕うことこそが愛情の証左であるのかもしれない。

 だって、本来ならば情を返してくれる筈の存在は、いずれ必ず彼を置いて消えてしまうのだから。


「……貴方が私のことばかり聞いてくる理由が、少し分かった気がするわ」

「それは当然、貴方のことが好きだからですが」

「ええ、そうね。その通りなんでしょうね」


 リヴィメラは、どうせ自分のことなど覚えてもらっても仕方がないと考えているのだ。否、思考の端にすら、そのような意識は無いのだろう。

 フローティアの何百倍も生きるこの男は、そんな思考はとうの昔に溶かしているのだ。あるいは、元々持ち合わせてすらいないか。


 そうして、好ましいものの記憶だけを抱えて、永劫の時を存在し続けていくのだ。

 それはフローティアの考えなどよりも余程寂しい(・・・)気がしないだろうか。


 『あの方に、数百年にも渡る孤独を味わっていただきたくはないからです』

 ニンアの言葉がふと、頭の片隅に過ぎった。


 結局、フローティアは先ほどまで思い浮かべていた問いを口にすることは出来なかった。

 タイミングが合わないような気がしたし、何より勇気が出なかったのだ。その遠慮が何に由来するものなのかは、フローティアの中ではまだ確かな形にはなっていないままだった。


 そうして、彼女の意識はやがて微睡へと沈んでいった。




   ❄︎  ❄︎  ❄︎




 その後。

 イョンの村では。


「ミト? 一日中篭って、何を作っているんだい」

「ティア様の像を作っているの。忘れてしまわないように、憶えているうちに作らないといけないと思って」


 ミトシラの手元では、素朴ながらも丁寧な作りの女性の木像が、着々と仕上げられていた。


「私、毎日ティア様にお祈りを捧げるわ。貴方ともう一度会わせてくださってありがとうございますって」

「そうか。そうだな、それがいいよ。俺もそうしよう」


 二人は強く手を合わせると、幸運を与えてくれた天使に向けて、精一杯の祈りを捧げた。

 数年後、村の中心にまでその天使の像が建てられることとなるのだが、フローティアは露ほども知らぬ話である。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ