プロローグ
春休みの朝。 桜のつぼみがほころび始めたのを見て、これから高校二年になろうとしている16歳の私――佐藤蘭香は、準備万端で会場に向かったはずだった。
大丈夫、きっと勝てる。
パティシエであるお父さんの才能を受け継ぎ、小さいころからお菓子作りに励んできた。今では相当な腕前になっていたはずだったのだ。
中高生部門のお菓子作りコンテスト。 華やかな会場、名前を呼ばれた人たちが次々スポットライトに照らされて舞台に立つ。 私の名前はきっと最後に呼ばれると思っていた結果発表。
「自分の名前が全く呼ばれなかった……ああっ!」
私はすべてが終わって誰もいなくなった会場の広間の端で、頭を抱えてめそめそとうずくまって泣いていた。
負けた。なんの賞にも引っかからなかった。 なぜ、どうして。 どうみても自分の作ったケーキの方が誰よりも上手かったのに。
悔しくて今の気持ちが処理できない。 優勝の報告を待っているお父さんに顔向けできないし、家に帰れない。 それでひっそりと隠れるようにここにとどまっている。
静かなホテルの一角の大広間。 誰かに見つかれば追い出されてしまうのはわかっている。でも今は動けない。
こんな時、さやちゃんがいてくれたら。
さやちゃん。幼稚園からの幼馴染。私の親友。 お守り代わりにポケットに入れていたバニラビーンズの鞘の束を取り出し、私はさやちゃんの顔を思い浮かべた。 さやちゃんの笑顔はいつも中学一年の時の顔で思い出される。
***
「ねぇ、このパティシエかっこいいと思わない?」
さやちゃんが持ってきた雑誌。 そこにはミードという名前のカリスマパティシエの写真が、彼の作った芸術的なケーキと一緒に掲載されていた。
私たち二人は一瞬にしてミードとそのケーキに心奪われた。
「この人に認められるケーキを作れば、このパティシエときっとお近づきになれるよね」
さやちゃんは憧れを隠せなくて目をとろんとさせていた。 内気なさやちゃんがそんなこというのも珍しかった。
名前からして外国人。その風貌もどこかの国の王子様を思わせる。 そんな人が作った美しいケーキ。私もすぐに恋心を抱くのに時間はかからなかった。一目ぼれだ。 ケーキですら私のために作られたと錯覚させるものがあった。それほど強烈な印象だった。
「ああ、さやちゃん、いくら親友でも彼は私が頂くからね」
半ば冗談でもあったけど、本音半分混じって言わずにはいられなかった。それほどビビビと運命を感じて彼に心奪われた。
「やだ、蘭香ちゃんには参っちゃうな。うん、それなら私は蘭香ちゃんを応援する。絶対彼を振り向かせるケーキ作ってね」
あの時のさやちゃんの笑顔。いつまでも脳裏に浮かぶ。 さやちゃんとは将来一緒にお菓子屋さんを開こうと約束した仲だった。
私のお父さんもさやちゃんは私と運命の友達だとまで言っていた。 さやちゃんの名前はひらがなだけど、もし漢字で書くなら「莢」がいいと、お父さんは「蘭香」という私の名前の真ん中に、さやちゃんの「莢」を書き足した。
――『蘭莢香』。
これを「バニラ」と読むのだと教えられた時、私たちは一緒に「うわぁ!」と声を上げた。バニラはお菓子作りには欠かせないエッセンスだ。
「ふたりでバニラだ!」
さやちゃんは私の手を取った。
「絶対に二人で最高のお菓子屋さんを作ろうね」
さやちゃんはあの時とても興奮していた。そして思わずむせて咳をしだした。
「やだ、さやちゃん大丈夫?」
「大丈夫だよ」
落ち着きを取り戻したさやちゃんはかわいい笑顔を私に向けてくれた。最高の笑顔だった。 私たちの友情はいつまでも続く。その時はそれが当たり前のように思っていた。
だけど、それからさやちゃんは病気のせいであっけなくこの世を去ってしまった――。 あまりにも儚かった。
私はそれから、失ったさやちゃんの寂しさを紛らわせるために、さやちゃんの分までお菓子作りの研究を怠らなかった。 さやちゃんのためにも絶対に世界一のパティシエになる。
その未来予想図を描いたとき、高校生でコンテストに優勝するという肩書きは絶対必要だった。それなのに……。
――奇しくもこの日、さやちゃんの誕生日でもあった。――
「さやちゃんごめん、私何もできなかった」
しかもこのコンテストの審査員にあのカリスマパティシエのミードがいた。 私が作った最高のケーキでミードを振り向かせるというさやちゃんにも誓った夢。それも遠ざかった。ただ情けなく悲しい。
「このまま消えてなくなりたい」
そんなことを呟いたときだった。
「泣いている暇があれば、新しい作品作りのために頭を働かし、手を動かせ!」
突然、鋭い声が部屋全体に響いた。 顔を上げれば誰かがこっちに向かってゆっくりと近づいてきている。
ピンと伸びた背筋。威風堂々たるその姿はどこかの国の王子様のようにも見えた。 ま、まさか、ミード? えっ、本当にミードなの?
私は涙を拭きとり目を瞬く。 距離が縮まり、顔がはっきりと見えてくると、とても鋭い眼差しのプロフェッショナルな厳しさがそこにあった。
「あ、ああ」
私は、喉から反射する喘ぎだけで、思わず言葉を失ってしまう。
「今日のコンクール参加者だな。確か……ランカだったな」
ミードが私の名前を憶えていてくれたことにもびっくりしたが、今、目の前でうずくまる私を見下ろしている。 その瞳はじっと私をとらえて見つめていた。 どこかそれは怖くもあり、その瞳の奥に私を気遣う思いも含まれているようにも見えた。
憧れのカリスマパティシエが目の前にいる。ずっと会いたかった人。この人に認められたいとさやちゃんと一緒に抱いた夢。 すべてが自分にのしかかり、さらなる涙が込み上げて、なぜこんなにも苦しいのかわからない。
こんな形で会いたくなかった。 優勝して私は笑っているはずだったのに、敗北の中で皮肉にも出会ってしまった好きな人。これほどみじめなことはない。
放っておいてほしかったと思いながらしばらく黙っていると、ミードは何も言わない私に見切りをつけたのか、ため息を吐いて踵を返した。 そのまま彼が黙って去ろうとしたときだった。
私は本当にこれでいいのかと思い直した。 せめて何がよくなかったのか反対に自分が落ちた理由が知りたくなった。例えそれがもっと落ち込む原因になるとしても、知っておかなければならないと気持ちをふるい絞った。
「あのっ」
慌てて引き留めると、ミードは私の声に反応して立ち止まる。その背中越しに私は質問をぶつけた。
「私の名前を知っているということは、私の作品も覚えているということですね。一体何が悪かったのでしょうか?」
腹をくくった質問だった。 自分の作品の批判を聞けば自分は益々落ち込んでしまうだろう。それをわかっていても、聞くべきだと何かに後押しされたように勇気を振り絞っていた。 それはさやちゃんだったのかもしれない。さやちゃんが笑って見守っている姿を私は思い浮かべ固唾をのんだ。
ミードは暫し黙っていたが、ゆっくりと振り返った。
「君の作品は確かに見栄えはよかった。味も悪くはなかった。その技術の高さは認めよう。だが、ケーキは見た目の中にももっと大切なものが必要だ。見た目ばかりがいい作品は却って浅く見えてしまう」
「一体何が足りなかったんですか?」
私のケーキは色、形、バランスと考え、素材もいいものを選んで目を引くように作ったはずだった。味も絶対においしいといわせる自信もあった。 一体それ以上に何が必要というのだろう。
「見えてこなかったんだよ」
「だから何が見えなかったんですか?」
「それを誰に食べさせたいかという『誰かを思う真心』さ」
「真心……」
「君は、優勝したいという気持ちばかりでケーキを作っていた。本来お菓子は誰かに勝つために作るものかい?」
ミードの言葉でハッとした。
「誰かのために作る……」
「誰に食べてほしいと思ってあのケーキを君は作ったんだい?」
その質問に私は答えられなかった。 私は絶対に優勝してやるという気持ちしか持ち合わせてなかった。そこで初めて腑に落ちた。
もしコンテストで勝ちたいよりも、ミードに食べてほしいと思いをぶつけていたら、ミードならわかってくれていたのかもしれない。この人は作り手の気持ちもケーキから読み取れる。
「私、ただ自分の事しか考えていませんでした。もしミードさんに食べてほしいって思いながら作っていたらあの作品も変わったかもしれません」
私の言葉に、ミードの顔が少し和らいだ。
「やっと気が付いたかい。私もかつては自分の腕に自信を持ちすぎて誰かのためにつくるという情熱が伴ってなかった。かなり生意気だったといえよう」
ミードは急に「コホン」と喉を鳴らした。自分の過去を語るのが気恥ずかしいのか、視線をわずかに逸らす。
そのあと、ポケットから何かを取り出し、私にさらに近づいて座り込んでいる私の目線に合わせる様にしゃがみこんだ。
「お菓子は誰かを幸せにするために作るものだ」
そう言うと、ミードが私の首に手を回した。 冷たい細い金属の感触が肌に触れびくりと肩が跳ねる。まるで抱きしめられているような近さ。 後ろでチェーンを留める彼の指先がわずかに私のうなじを掠めた。
ハッとしたのと同時に一瞬の熱さを感じ、私の心臓が早鐘を打つ。 密着しそうな彼の腕。その体温ですら、服越しに伝わってくるようだ。 なかなかうまく合わさらないのか、少しもたもたしている。心臓はこの上なく稼働しときめきで壊れてしまいそうだ。 そこに彼の髪のシャンプーのあまい香り。それに酔いしれて私の顔は真っ赤だった。
ようやく彼の手が離れたとき、首筋に重みを感じた。
「こ、これは?」
500円玉くらいの大きさのクリスタルのような石がついたペンダント。 自分の手のひらに乗せて確認し、信じられないとミードを見た。
「君にはまだ可能性がある。もっと試練を帯びた冒険をしないといけないんだ」
ここでまたミードはコホンと喉を鳴らした。 試練を帯びた冒険?――きっとたくさんの経験のことを意味しているのだろう。私はその時そう捉えた。
ミードはまだ同じ目線で私を見つめている。頑張れと励まされているのが伝わるようだ。 でもその瞳の奥の潤んだまどろみ。それが悲し気で憂いを帯びている。 その彼の瞳に映り込む私。伝えたい何かを必死に隠しているように揺れていた。
この人は私を知っている?
「あの……」
私が言葉に詰まっているとミードは私に笑みを見せた。
「これからお菓子を作るとき、誰かを幸せにするためのお菓子を作ることを忘れないようにするためのお守りさ。僕にも大切なものだ。君のお菓子で誰かを幸せにしたとき、このペンダントの石がこの先の君を導いてくれるだろう。いつか私に食べさせたいと思うお菓子が作れたらまた私に会いに戻っておいで。ペンダントはその時まで君に預けておくよ。私はずっとその時を待っているから」
ミードの言葉は私の胸を熱くする。益々好きになる感情が膨れ上がる。 熱い。まるで胸元に火がついたようだ。 でも本当にペンダントのクリスタルが熱を発していた。
「えっ……?」
疑問符を浮かべた刹那、クリスタルが強烈な閃光を放ち、辺りを真っ白に染め上げた。 眩しさに目を細めながら、私はとっさにミードの姿を探す。
「ミード!」
思わず彼の名前を呼び捨てていた。 ミードが私の前に現れた意味。それが偶然じゃない運命的なものだと本能で感じ取った。 まさに、これは何かある。その時強く心揺さぶられる感情が体全体を支配した。
それに応える様にミードは必死に叫んでいる。
「ランカ! 待っているから」
光の中に溶け込んでいくミード。一瞬だけ見えた泣きそうな切ない表情。 周りの全てが真っ白に染まりあがった時、私の意識も持っていかれ無になっていく。
***
しばらくして意識が戻った時、私は木漏れ日が揺れる森の中で横たわっていた。
「えっ、ちょっとここどこ?」
体をむくりと起こした時、胸のペンダントが弾んだ。 私は何が起こったかわからないまま、ペンダントをしばらく握りしめていた。




