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月の戦士  作者: BUTAPENN
はるかなる故郷よ
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はるかなる故郷よ(5)

「北ブリタニア第七辺境部隊の元司令官の命令だ」

 レノスはおごそかに宣言した。「口を開け」

 しかし、命令を受けた小さな口は、依怙地にもきゅっと結んだままだ。

「上官への不服従は重罪だ。営倉入りではすまんぞ」

 引き割り麦の粥を乗せた木の匙は、ルーンの固く閉じた唇をこじあけられずに右往左往するばかりだ。

「もうわたしの乳は出ないのだ。デヴィンも三人の子を抱えて働いているし、いつまでも世話をかけるわけにはいかんだろう。ひと口でもいいから、食べてくれ」

 レノスの声が哀願の色を帯びてきたころ、外からフラーメンの笑い声が聞こえてきた。入り口に寝そべっていた猟犬のドライグがそわそわし始めたから、ずっと立ち聞きしていたのだろう。果たして、金髪の会計係が垂れ幕を引き上げて現われた。

「あまたの敵を蹴散らしてきた勇猛果敢なカルス司令官どのも、我が子の前では形無しですな」

 麦粥の鉢の中に匙をぽちゃんと落とすと、レノスは睨みつけた。

「おまえも、夏にはこの苦労を味わうのだぞ」

「自慢じゃないけど、司令官どのより、たいていのことはうまくやる自信はありますぜ」

 フラーメンは杖を器用にあやつりながら赤子を片腕で抱き上げ、「はい、営倉入り」と言いながら部屋のすみを三角に仕切った木の柵の中に降ろした。ルーンはお気に入りの毛布の上に下ろされて、端をしゃぶり始めた。

「この柵はまた一段高くなりましたな」

「前のは軽々と乗り越えられたのだ。ひとときもじっとしておらん」

「たいしたやつだ。わずか1歳にして脱走兵の前科がつくとは」

「で、なんの用だ」

 フラーメンは真顔に戻り、レノスの前で敬礼した。「は、セリキウス副官がお呼びです。なんでも緊急の会議を開くそうで」

「セリキウス司令官」とレノスは彼のことばを律儀に訂正した。「どういう会議だ」

「聞いておりません。たぶん雪が溶けて氏族の襲撃が再開する前に、長城の修理を急ごうっていう話かなんかじゃないですか」

「わたしはもう、そういった類の会議には関わらんと宣言したはずだ」

「誰がそんなこと認めますかね」

 フラーメンは肩をすくめた。「俺たち第七辺境部隊の兵士にとって、あなたのおかげで命を救われた北の砦の避難民たちにとって、あなた以外に司令官はいないんですよ」

「だが、わたしは――」

 レノスは立ちあがり、窓のそばに歩み寄った。ドライグは忠実な猟犬の習性で、じっと主人の動きをうかがっている。

 板戸を上げた窓の外には春の陽光があふれ、新しい街並みのそこかしこで、軒先のつららがキラキラしずくを落としていた。

 ハドリアヌスの長城以北のすべてのローマの砦が氏族の一斉襲撃を受け、全軍が住民とともに南へと撤退してから、半年が過ぎた。

 二万弱の避難民たちは、今は長城沿いのいくつかの町に分散して住んでいる。雪に降りこめられるまでのわずかな間に、断続的に続く氏族との戦闘の合間を縫って、町囲みを広げ、二万人が暮らす仮住まいを建てるのは、並大抵の苦労ではなかった。

 だが、レノスの指揮のもと、辺境部隊の兵士たちはそれをやり遂げたのだ。

 戦闘の途絶えた冬のあいだは、急ごしらえの家や道の補修をこつこつと続け、新しい街は広場や公衆浴場まで備えた、すっかり居心地よいものに仕上がっていた。

 レノスも南の要塞の町に一軒の小さな家を建て、ルーンと暮らすようになった。隣には乳母役のデヴィン一家が住み、任務中はルーンの世話を買って出てくれている。通りの真向いにはフラーメンが陣取り、お腹に子を授かったローリアと彼女の父親といっしょに暮らしている。もうひとつ西の通りには、リュクスとユニアが住み、やはり同じ通りにあるスーラ元司令官とフィオネラ夫妻の家を教会として、毎日のように集まっている。

 北の砦で育んできた温かい交流が途絶えることなく続く、住んでいて心からほっとする町だった。

 何も知らない住民は、ときどきルーンを抱いているレノスを見て、ローマ軍の隊長が気まぐれに近所の赤ん坊をあやしていると、ほほえましく思っているだろう。

(この子は、果たしてわたしのことを母親だと思ってくれているのだろうか)

 そんな疑問が頭から離れなくなったとき、レノスは一切の軍務から退くことを決意した。

 この子を自分の手で育てたい。ローマ軍の司令官としてどんなに人々から慕われても、この子をひとりぼっちにしてよいはずはない。この子はセヴァンの忘れ形見――わたしはこの子のたったひとりの母親なのだから。

「司令官どの。それじゃ」

 物思いに耽っているレノスを急かすように、フラーメンがルーンをひょいと抱き上げた。「ルーンはローリアに面倒みさせますんで。先に行っててくださいよ。絶対ですからね」

「待て。おい」

 彼がさっさと出て行ってしまうと、レノスは吐息をついた。「しかたないな」

 トゥニカの上に、剣帯と赤い軍用マントを着け、剣を佩く。

(これを最後にしよう。長城の修復が終われば、今度こそわたしは軍を退く)

 だが、砦の会議室に入ったとき、それが甘い夢であったことを一瞬にして知ることになった。

 十人隊長以上の将校がすでに集まり、壁ぎわに整列していた。机の回りを落ち着かなく歩き回っていたセリキウスは、入ってきたレノスを暗い目で見つめると、手に持っていた書状を突き出した。

「エボラクムからの書状です」

「エボラクムだと?」

 ローマの正規軍、第六軍団が駐屯している大要塞。それがエボラクムだ。辺境部隊も第六軍団に所属している。

 筆頭百人隊長のラールスがすばやく書状を受け取り、レノスに渡した。羊皮紙を広げたレノスは、食い入るように文面を見つめた。握りしめる手の甲に、青筋が浮き出てくる。

「いいがかりもいいとこですよ」

 セリキウスが吐き出すように言った。「あのまま砦にとどまって氏族と戦っていれば、民間人もろとも俺たちは全滅していました。カルス司令官のおかげで大勢のいのちが救われた。なにが臆病風に吹かれての軽率な行動、だ」

「安全な場所にいれば、あの全面撤退はそう見えるのだろう」

 レノスはうっすらと笑みを浮かべた。「まして、わたしはすでに解任されていたのだ。軍を指揮する権限などなかった」

「でも、司令官のことを卑怯者呼ばわりするなんて……ひどすぎます」

「こんな告発をしたのは、あの司令長官に決まってる」

「そうだ。港の司令本部から一歩も動かず、事態の収拾も全部俺たちに押しつけた野郎だ。名前も忘れたけど」

「いっそのこと、部隊全員でエボラクムに抗議に行きましょう」

 部下が憤怒のあまり次々と叫び出したので、将校たちはあわてて鎮めなければならなかった。

「そんなことをすれば、カルス司令官はますます困った立場に立たされるぞ」

 と、騎馬隊長があきれたように言った。

 ラールスがうなずく。「ウォーデンの言うとおりだ。エボラクムにはセリキウスと俺が行く。ふたりできちんと弁明してくる。カルス司令官どの。あなたも行く必要はありません」

 レノスは顔を上げた。「召喚されているのは、わたしだぞ」

「今回の撤退であなたが罰せられる理由はどこにもない。あなたは軍を辞めて、ひっそりと暮らしていると言っておきます」

「わたしが女だから大目に見てほしい、とでも頼むつもりか」

 レノスは羊皮紙の筒を握りつぶした。「行かせてくれ。覚悟のうえだ。わたしのなけなしの誇りを奪わないでくれ」

 男たちは静まり返る。

「公の場に出て、氏族の現状を訴えたいのだ。セヴァンの名をきちんとローマの公文書に刻みたい。彼が試みて成しえなかったことを、このまま歴史の闇に埋もれさせたくないのだ」

 レノスは彼らの前に立ち、拳を胸に当てた。

「これはわたしの使命だ。最後までやり遂げなければ、自分の使命を全うしたことにならない。どうか、行かせてほしい」

 ラールスとセリキウスは、満足げにも見える顔を見合わせ、うなずいた。

「止めても無駄だと思っていました。ならば、俺たちのすることはひとつです」

「三人でいっしょに行きましょう」

「いや、行くのはわたしひとりで十分だ」

「止めても無駄です。この上官にしてこの部下あり、ですよ」

 セリキウスが笑った。「ついて行きます。どんなことになっても、あなたは俺たちが守ります」



 厩舎に入ると、セイグが馬の陰からひょいと頭を出した。

「もう起きていいのか」

「いつまで病人扱いするんですか。もうすっかり元気です」

「無理をするな。わたしのような年寄りになったときに、古傷は痛むものだぞ」

 セイグは大声で笑うと、レノスの袖を引っ張り、一頭の白葦毛の前に連れて行った。馬櫛でたてがみを梳いていたペイグも、手を止めて敬礼した。

「馬をお求めでしょう。こいつはエッラの子どもキグヌスです。どんな騒ぎの中でも臆せず堂々としています。エボラクムまでのどんな悪路でも安心して身を任せられますよ」

 アラウダを失って以来、レノスは自分の馬を持たなかった。そうか。セヴァンの愛馬の子どもなのか。

「用事をすませてさっさと帰って来てくださいよ。ルーンが寂しがりますからね」

「なんなら、俺たち騎馬隊員が交代でお子さんの面倒を見ますよ」

「フラーメンなんかには任せておけません、こないだ自分のサンダルを舐めさせてましたからね」

「ありがとう。よろしく頼む」

 厩を出ると、芯のある冷たさを残した風がハリエニシダの花の香りを運んできた。ふっと膝頭がゆるむ。甘く、なつかしい想い出を掻き立てる香り。春の香りだ。

(わたしはどうなるだろうか)

 最悪の場合、牢に入るか、死刑か。でも、それでも行かねばならない。もし行かなければ、セリキウスやラールスに代わりに厳罰がくだるだろう。第七辺境部隊もばらばらに解体されてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けねばならない。

 彼らはかけがえのない大切な部下たちだ。彼らの人生はレノスにかかっているのだ。

「セヴァン。どうか、わたしとルーンを守っていてくれ」

 口の中でつぶやくと、レノスは足を速めて自分の家へと向かった。

 近くまで来ると、赤子の泣き声が聞こえてきた。柵の中で昼寝をしていたルーンが、突然の騒ぎに驚いたのだろう。家の中には、フラーメンとローリア夫妻、スーラ元司令官とフィオネラ夫妻、リュクスとユニア夫妻が集まって心配そうに話し合っていた。犬のドライグは所在無げにぐるぐると部屋を歩き回っている。

「フラーメンから聞いたよ」

 妻の腕を借りて立つスーラは、まだ息を切らせていた。「どうかわたしも一緒に連れて行ってほしい。第六軍団の軍団長はわたしもよく知っている。ものわかりのよい立派な男だ。北の砦の住民たちがどれほどきみに感謝しているかを、わたしの口から伝えたいのだ」

「スーラどの、お気持ちはありがたいが」

 レノスは、彼の手を取った。「そのお体では、エボラクムまでの道のりは厳しい。どうかここに残ってください」

「しかし……」

「町の住民たちを頼みます。そして、どうか教会でわたしのために祈っていてください」

 目にいっぱいの涙をたたえたフィオネラが、そっと夫の肩を抱いた。スーラはうなずいた。「わかった。祈りが今のわたしのできる最善のことのようだ。軍団長あての手紙をしたためるので、せめてそれを持って行ってくれ」

「ありがとう存じます」

 レノスは足に突然、暖かいものがまとわりついたのを感じた。部屋じゅうの人間が彼らの会話に気を取られている隙に、ルーンが柵を乗り越えて、レノスの足にむしゃぶりついたのだ。

「脱走兵め」

 じわりと喉に熱いものがこみあげる。「もう少しおとなしくできんのか。心配で、留守にできないではないか」

 高々と抱き上げると、ルーンは声を上げて笑い、部屋にいたおとなたちは一様に顔をほころばせた。

 リュクスがすばやく歩み寄ってきて、レノスの背中をぽんと叩いた。

「俺とユニアがいっしょに行く。ルーンをおぶって、エボラクムまであんたについて行く」

「えっ」

「大船に乗った気でまかせときな。あんたの行くところ、どこまでもついていって、毎日ルーンを抱かせてやるよ。母と子は絶対に離れちゃいけない」

「リュクスの言うとおりです」

 ユニアも隣に立つ。「わたしは奴隷になる前、母を亡くした弟を乳離れまで面倒みていました。どうか安心してルーンを預けてください」

「おい、待て」

 フラーメンが息巻いて、リュクスに詰め寄った。「ルーンをまかされているのは、俺だ。それなら俺とローリアがエボラクムへ行く」

「おまえたちは自分の子を授かったんだろう。おまけにその足だ。無理に決まってる」

「てめえの知ったこっちゃない」

「俺は……そうしなきゃならないんだ」

 リュクスの切羽詰まった声に、フラーメンは気勢を削がれて口をつぐんだ。

「俺にはどうしても、そうしなきゃならない理由があるんだ」

「わかった。リュクス」

 レノスは静かに言った。「おまえは、コロセウムでセヴァンに命を助けられた恩義を感じているのだな。その申し出に甘えよう。わずか数日の旅だが、よろしく頼む。ユニアも苦労をかけてすまないな」

「レウナさん……」

「それでは、話は決まった」

 老スーラが、しんみりした雰囲気を振り払うかのように、ぽんと手を叩いた。「そうと決まれば、今夜さっそく盛大に壮行会を開こう。とは言え、きみたちは伝書鳩のようにたちまち戻ってくると信じているがね」

「もちろんですとも」

 レノスはうなずいた。

 だが、ここにいる誰もが、心の片隅に固くて冷たい予感が生まれたのを感じていた。その予感はこう告げていたのだ。

――レノスもルーンも、もう二度とこの家に戻ってくることはないと。



 欠けた石垣は、根雪の中から濡れた背中を覗かせていた。生と死を分かつ古の聖地。ここから一歩出れば、もうクレディン族の土地ではない。

 セヴァンは手綱を引いて、馬を停めた。

 巨大な石はただ黙してセヴァンを見つめ、こう問い正しているようだった。本当におまえは出て行くのか、と。先祖たちから受け継いだ氏族としての生き方を捨てるのか、と。

 セヴァンは目を逸らすことなく、見つめ返した。

 黒い石は、父の顔にも見えた。

 父との約束をおまえは違えるのか。クレディン族の族長となり、一族を守るという父の枕辺での約束を破るのか。

 おまえは何も成しておらぬではないか。すべてを壊し、すべてを失くして、負け犬のまま逃げ出すだけではないか。

 全身をチクチクと刺す非難のことばが遠ざかっていくまで、セヴァンはじっと耐えた。

――もう決めたことだ。

 短い休止に抗議するかのように耳をさかんに動かしているエッラの首を軽く叩くと、セヴァンはふたたび南へと谷底を進んだ。

 もう半年も前のことだというのに、北の砦の周囲には、焼け焦げた匂いが漂っていた。町の門は焼け落ち、塁壁は無残に崩れ落ちていた。

 600人の兵士たちが整然と規律正しい日課に明け暮れていた砦も、大勢の人々がにぎやかに日々の暮らしをつむいでいた町も、今は静まり返り、死の廃墟と化していた。何年か経てば、風化して、平原との境目さえわからなくなるだろう。

 ニ、三人の男たちが、雪に埋もれた焼け跡の中から、鍋や壺、装身具など、まだ使えそうなものを掘り起こしている。

 持ち帰って家で使うか、ガヴォのような行商人に売るつもりだろう。結構な高値で取引されるはずだ。これから長らく、ローマ製の品物は貴重品として氏族の女たちのあこがれの的となるかもしれない。

 世界への窓として開かれていたローマの砦がなくなり、ローマ人が去った今、氏族たちは再び、狭い社会に閉じこもり、古い生き方のみを良しとする生活に戻るのだろうか。

 子どもたちは、広大な世界を知らず、小さな村とその周囲だけが唯一の世界だと信じて育つのだろうか。

「おい、おまえ」

 がれきを掘り起こしていた盗っ人のひとりが、馬上の見知らぬ男を見とがめた。

「じろじろ睨みやがって」

「見かけねえ顔だな。えらく上等なマントを着ていやがる」

「おまえ誰だ。どこから来た」

――半年前までおまえたちの王だった男だ。

「な、なにが可笑しい」

「おい、馬から降りろ!」

 男たちは槍や鎌を振り上げ、突進してきた。セヴァンはそのうちのひとりを足で蹴り飛ばすと、エッラを走らせた。

「何もかも失った王に、ふさわしい旅立ちだ」

 馬上でセヴァンは声に出して言い、そして笑った。

 ふところには、わずかなローマ金貨を入れた小さな布袋と奴隷のときもらった青銅の短剣。そしてローマ皇帝の紫のマントを裏地に縫いつけたアカシカのマント。それだけが今のセヴァンの財産だ。

――俺はもう、何もいらない。

 氏族としての誇りも。ローマと対等になりたいという野心も。強さも。豊かさも明日の保証も。

 奴隷だった頃はあれほど手に入れたかったすべてのものが、王となったとたんセヴァンを縛るものと変わった。

 すべてをなくした今のほうが、真の意味で自由なのかもしれない。

――何もいらない。レウナとルーンさえいれば。

 手綱を握りしめる。ふたりはまだ長城付近にいるはずだ。

 出立するとき、ルエルがこっそり耳打ちしてくれたのだ。

『リュクスにセヴァン兄さんが生きていることをこっそり知らせた。あの男なら、口止めしても、いつかきっとレウナさんに話してくれると思ったんだ。だから、レウナさんはきっとどこかで、兄さんが来るのを待っているよ』と。

 エッラが息を切らせる前に足をゆるめる。長旅で無理はできない。ハドリアヌスの長城まであと5日。

――もうすぐ会える。待っていてくれ。

 雪解けの道をゆっくりと進む馬の背で、思いだけがハイタカのように高く舞い上がっていった。



 エボラクムの軍団本部に赴くと、いくつかの事務的なやりとりを経て、レノス、セリキウス、ラールスの三人は将校用の宿舎に案内された。

 行事がたてこんでいるため、第六軍団の軍団長に面会できるのは三日後だと言い渡された。

「ずっと忙しくて、われわれのことを忘れてくれたらいいのに」

 セリキウスが鳴らした不平を天が聞き届けたのか、三日後は五日後になり、七日後になった。

 遅れて馬車でやって来たリュクスたちは、町中に宿を借りたので、レノスは毎日宿舎を抜け出してルーンに会いに行くことができた。初めての長旅にもかかわらず赤子は元気そのもので、ユニアの作る麦粥も全部平らげている。ドライグも強引について来て、番犬兼子守を務めているらしい。

「この先、きみたち三人が本当の親子と言っても、誰も疑わないだろうな」

 何気なくつぶやいた言葉に、リュクスとユニアははっと身を固くした。そしてレノス自身も、その言葉の裏にこめされた不吉な意味にようやく気づいた。

「今のは冗談だ。忘れてくれ」

「レウナ。あのな」

 リュクスは思いつめた顔で立ち上がった。「実は……」

「どうした?」

 ルーンを抱いたユニアがその隣ではらはらと気を揉みながら、夫を見つめている。

「……なんでもない」

 彼は息を吐いて腰をおろした。「大事の前だ。今はやめておく。この旅が無事に終わって町に戻ったときに、ゆっくり話したい」

「そう言われると、余計に知りたくなるな」

 レノスは笑った。「わかった。きみがそれでいいなら、そうしよう。確かに今は大事の前だ」

「あなたのために主に祈っています。レウナさん」

「ありがとう、ユニア。心強いよ」

 ふたりに見送られて宿屋を出て、レノスは軍団の宿舎に戻った。

 部屋に落ち着くと、ほどなく扉の向こうからラールスの声がした。

「腹がすきませんか? ガリア産の美味い干しブドウがあるんですが」

「ああ、いいな。セリキウスは?」

「有り金全部使い切るって今夜も町にくり出しましたよ。さすがに明日からはおとなしくなるでしょう」

「おまえは行かないのか」

「俺はもう、一生分の酒は飲みましたから」

 黒髪の百人隊長は、小さな卓の真ん中に干しブドウの入った布袋を置いた。

「そうか。禁酒を誓っていたか。では勧めるわけにはいかんな」

 レノスは自分の杯に、少量のワインを注いだ。

 ふたりは斜交いに座ると、かわるがわる袋に手をつっこんでは、むしゃむしゃ食べ始めた。

「なぜ軍団長はわれわれに会おうとしないのでしょう」

 ラールスが手のひらの干しブドウから慎重に枝を取り除きながら、言った。「何かを待っているとか?」

「何か、もしくは誰か?」

 レノスは首を振った。「見当もつかん」

 ラールスは口の中に食べ物を放り込むと、仇のように噛み砕いた。「あなたは、ここに来るべきではなかった。処罰されるかもしれないのに、なぜ来たのです。俺にはあなたが死にたがっているようにしか見えない」

「そんなふうに見えるのか」

 レノスは杯を手に、ゆったりと椅子に背をもたせかけた。「わたしが絶望して、セヴァンの後を追おうとしていると? ひどい誤解だな」

「では、なぜ、いつも危険な道ばかり選ぼうとするんです。危険で、何の得にもならない、自分の命を捨てるような道ばかりを」

「わたしは生きることしか考えていないよ。ルーンを立派な男に育て上げるまで、死ぬつもりなどない」

「でも……」

「ただ、わたしには他にも守りたい存在がいる」

 レノスは琥珀色の瞳をやわらかく細め、ラールスを見つめた。「ルーンに負けず劣らず、やんちゃで、何をしでかすかわからない坊主どもから、わたしは決して手を離すわけにはいかないと気づいたのだよ」

 ラールスはぽかんと口を開けた。「……俺たち?」

「そうだ。ルーンと同じくらい厄介で、手がかかる」

「ひどいな」

 ふたりはひとしきり、声を上げて笑った。

「クレディン族の村の入り口で、おまえに罵倒されたことがあったな。『あなたは、俺たちを捨てた』と」

 レノスは目を閉じた。睫毛にじわりと水滴が宿る。

「あのとき、どれほど、わたしの心は粉々になったことか。おまえたちを忘れたことはなかった。わたしに戻る資格がないことくらい、誰よりも自分が一番良く知っている。だが、セヴァンを喪った今……わたしには、おまえたちしかいないのだ」

 レノスは涙を手の甲で拭い取ると、ワインをもう一杯注ごうと立ち上がった。ラールスも立ち上がる。

「セヴァンが、もう夢の中に出てきてくれない。ときどき声すら思い出せないときがある。そんなふうに、あの人はわたしのそばから少しずついなくなってしまう」

 杯の酒を一息にあおる。「寂しいものだな……まるで魂のかけらを失っていくようだ」

 ラールスの腕が背後から伸びてきて、レノスを包み込んだ。

「俺ではダメですか」

 レノスのうなじを覆い隠す髪に、唇が触れる。「俺では……セヴァンの代わりにはなりませんか」

 長い沈黙があり、こわばったままの身体から、ラールスはゆっくりと離れた。「すみません」

「すまない、ラールス」

「あなたが謝る必要なんかありません」

 彼は足早に戸口に向かい、いきなり立ち止まってサンダルの踵をかつんと鳴らし、レノスに向きなおって敬礼した。

「方針を変えます。これからは第七辺境部隊全員で、あなたを困らせ、悩ませ、目が回るくらい忙しくさせることにします」

「え……」

「覚悟してください。寂しいなんて言う暇は与えませんから」

 笑いを含んだ声が遠ざかり、扉が閉まった。

 こらえきれなくなったレノスは、両手で顔を覆った。

「ありがとう……」



 軍団長の呼び出しがあったのは、その翌日のことだ。

 第六軍団ヴィクトリクスの軍団長クラウディウス・ヒエロミニアヌスは、北の地には似合わぬ浅黒い肌をした男だった。部屋の中は灯火が少ないので、表情はほとんど見えず、白目だけが光って見えた。

「元北ブリタニア辺境部隊司令長官、元第七辺境部隊司令官、レノス・クレリウス・カルス、閣下の召喚の命令を受けて、参上いたしました」

 最上級の儀礼をもって、レノスは彼の前に出た。セリキウスとラールスも同様に名乗って、斜め後ろに立った。

「なぜ呼ばれたのかを理解しているか」

「はい。すでに司令長官を解任されていたわたしが、すべての辺境部隊の撤退およびローマ市民全員の避難を指揮したことが不適当であったという告発がなされたからです」

「弁明を聞こう」

「氏族の総攻撃は迫っており、本部の判断を仰ぐ時間はありませんでした。前任者とは言え、全砦への命令系統を把握し、氏族の戦力についてもよく知っているわたしが現場で指揮を執ることがもっとも適当であり、また人命救出のために必要であると判断いたしました」

 目の前に立つ軍団長は、柱廊の柱の模様を目でなぞって、説明をほとんど聞いていないように見える。

「砦に踏みとどまるよりも、避難するほうが安全であったというのか」

「およそ1万8千人の軍人と民間人のうち、死亡したのは127名。もし踏みとどまって戦えば、氏族連合の戦力から言って、全滅もしくは三分の二以上が殺されただろうと考えております」

「それは、蛮族の力を多く見積もりすぎているのではないか。きさまの誤った判断によって、砦の多くが焼かれ、ローマ市民の土地と財産が永久に失われた。蛮族は戦わずして領土を勝ち取り、さぞきさまに感謝していることだろう」

「おそれながら、どういう意味でしょうか」

「カルス元司令官。きさまは女であり、クレディン族の族長の妻となって子まで成したという。夫が殺されたと言って砦に舞い戻ってきたらしいが、もしやそれは、蛮族の計略ではないのか。ローマ軍を撤退させ、戦わずして土地を取り戻すために、きさまは遣わされたのではないか」

 後ろの部下ふたりが怒りを煮えたぎらせているのを、レノスは背中で感じた。

「わたしが氏族の間者で、氏族の利益のために動いたと、そうおっしゃりたいのでしょうか」

 冷ややかな声でレノスは答えた。「そして長年のあいだ最前線で戦ってきた、陛下に忠実なローマ軍兵士たちが誰ひとりとして、そのことを見抜けなかったと」

「おそらくきさまは、やつらを掌握する術を身に着けておるのだろう」

 ヒエロミニアヌスはあからさまな侮蔑をちらつかせながら言い放った。「残念なことに、やつらは男だ……さぞ、女の色香に迷わされたであろうな」

 怒号を上げて前に飛び出ようとするラールスとセリキウスを、レノスは片腕で制した。

「もう、こんな茶番はおやめになりませんか。軍団長閣下」

 足は震えていたが、声はあくまで冷静沈着だった。「どんな理由があるかは存じませんが、今の乱暴なおことばは、とても本心からおっしゃっているとわたしには思えません」

 しばらくの沈黙があり、「やれやれ」という声が彼の口から漏れた。

「わたくしには荷が重すぎますな。陛下……もうそろそろよろしいでしょうか」

「うん」

 柱廊との仕切りになっている大理石の階段から、誰かが身軽にぴょんと飛び降りた。

 それまで全く気配を感じさせなかった、小柄な人間の輪郭がレノスたちのいる光の中へと近づいてきた。

「はじめてお目にかかります。カルス司令官」

 ヒエロミニアヌスよりも、さらに肌の黒い少年。彼はあけっぴろげな笑みをたたえて、おどけた仕草で挨拶した。

「父からあなたに会いに来るように言われて、ブリタニアまで来ました。僕はローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの長男、ルキウス・セプティミウス・バッシアヌス……みんな僕のことをカラカラと呼びます」



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