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月の戦士  作者: BUTAPENN
はるかなる故郷よ
56/62

はるかなる故郷よ(1)



「死んだ……?」

 言葉の意味がわからなかった。

 これは、どこの国のことばなのだろう。誰の、何についての話なのだろう。

「しばらくは、息があったのです。なんとかたたらの里を逃げ出して、近くの森まで落ちのびて……そこでもう……」

「セヴァンはどこにいる」

 ルエルは驚いて顔を上げ、唇をゆがめた。「まだ、その森です……連れて帰れませんでした。氏族の追手がそこまで迫っていたんです」

「わたしをそこへ連れて行け」

「死体は……ありません。沼に沈めました。カシの聖者たちに首を切って持っていかれないように」

「聞こえないのか! わたしをセヴァンのところへ連れて行け!」

「何を言ってるんだ!」

 ルエルは、レノスの二の腕をつかみ、ぐらぐらと揺すぶった。「あなたは……ここから逃げて、生きてください!  それが兄さんの最後の望みなんです。最後に……最後に、あなたとルーンをローマの砦に逃がせと、兄さんは……言い残して」

 手を離すと、彼は唇を噛みしめてうなだれた。

「ローマへ?」

 レノスは、ゆっくりと視線を巡らした。たった今までルーンのおくるみを織っていた織り機が、まるで見知らぬもののように、そこにあった。仲間の女たちが心配そうに自分を見つめる目は、まるでガラス玉のようだった。

 騒ぎにおびえた我が子は、床で手足をバタバタさせ真っ赤な顔をして泣いていた。屈んで抱き上げようとしたが、腕にまったく力が入らなかった。レノスは意のままにならない手をだらりと下げて、立ち上がった。

「わたしは、ここにいる」

 声を出すだけで、溺れかけた人間のように肺が痛んだ。「わたしはローマを捨ててきた。もうこの村にしか居場所はない。おめおめと逃げ出したりはしない。息がある限り戦って、そして死ぬ。セヴァンの……族長の妻として、ここで誇りを持って死なせてくれ」

 しんと静まり返る中、それまで隅に姿を隠していたコリンが、小走りに前に進み出てきた。

 そして、伸び上がるようにしてレノスの頬を平手で打った。

「何を、世迷言を言ってるんだ!」

 小柄な乳母の恫喝は、さながらオオカミが吠えるように部屋じゅうに響いた。

「あんたは生きなきゃならない。生きられなくとも、ルーンのために生きなきゃならないんだ。この子を死なせてはならない。この子は、セヴァンの血を引いた、たったひとりの子なのだよ」

 レノスは黙って頬を押さえた。冷え切ってしまった全身の中で、そこだけが熱を発しているようだった。

「メーブ」

 コリンは、背中を丸めて震えているメーブに向き直った。「この子を家に連れて帰って、荷物をまとめておやり」

「できるだけ急いでくれ」

 ルエルがいいなずけを助け起こした。「クーランに賛同する戦士たちが、このことを知れば、面倒なことになる。いいね。できるだけ早く」

「は、はい……」

「しっかりしろ。きみがやるんだ。族長の家の中をよく知っているきみしか、やれる人はいないんだ」

 メーブは、血でどす黒く変色した彼の袖を必死につかんだ。

「……父は……父はどこ?」

 ルエルは眉根を寄せて、顔をそむけた。「クーランは、ドルイド僧の命を受け、討伐隊の先頭に立って、ここに向かっているはずだ……このふたりを殺すために」

 それを聞いたメーブは、よろよろと立ち上がった。「わかったわ。父に……レウナとルーンは殺させない。絶対に」

 メーブの金色の髪は、振り向いた瞬間ぱっと鳥の羽のように広がった。

「レウナ、来なさい……ロウェナ。ルーンを抱いて、ついてきて」

 レノスの手をつかみ、無理やり引っ張る。女たちは道を開けると、泣きながらレノスの肩や背中に触れた。

「レウナ」

「レウナ。しっかり」

 手を引かれて、レノスは人形のようにぎくしゃくと歩いた。

 家の中は、今朝あわただしく出たときのままだった。炉端に積み上げた器。今晩食べようと棚に置いてあるパンとチーズ。ゆうべ夜通し回していた糸車。セヴァンのために織ったブリーカンのマントは、いつもと同じ形で壁にかかっている。

 ひとつひとつが当たり前で、愛しく、見慣れたものばかりだった。

(わたしは、悪い夢を見ているのだ)

 ずっと死ぬまでここで暮らすと思っていたのに。ずっとこの幸せが続くと思っていたのに。

「ルーンの服は、この長持の中ね」

 メーブはすでに、てきぱきと荷造りを始めていた。

「あなたのトゥニカも入れておく。金の飾りは全部身に着けて。あとで売れるから。金貨はどこ?」

 返事がないことに業を煮やして、彼女は大声をあげた。

「ぼさっとしないで、レウナ! ぼーっと突っ立ったままで、馬鹿じゃないの!」

 メーブは近づいてきて、レノスの手を取り、痛いほどぐいぐいと握った。その両目いっぱいに涙があふれた。

「ごめんなさい……まさか父が……こんなことをするなんて……」

「メーブ」

「ごめんなさい。ごめんなさい、レウナ」

 レノスが彼女の肩を抱くと、メーブは大きな声をあげて泣いた。

「すまない。今は何も考えられない」

 レノスはうつろな声で言った。

「何もかも信じられないのだ……セヴァンはクーランとの仲を修復しようとしたはずだ。いずれはアイダンを族長にしたいと、クーランに話したはずだ。こんなこと、ありえない」

「ああ……レウナ……私だって、信じられないの」

「クーランのことは恨んでいない。ただ、話をさせてくれ……なぜこんなことをしたのか、知りたいのだ。それさえわかればいい。あとは、ここで死なせてくれ……」

「だめ、それだけはだめ」

 しゃくりあげながら、メーブは間近から真っ赤な目でにらんだ。「ルエルが言ってたでしょう。セヴァンの最後の頼みは、あなたを無事に逃がすことだって。あなたとルーンさえ無事ならば……セヴァンが生きた証しはこの世から消えない」

「生きた……証し」

「戦いに行く前の夜、アイダンが私にそう言ったの」

 メーブは袖でぐいと涙を拭いた。「僕が死んだら、息子に僕の名を継がせてやってくれ、そうすれば、この村に僕が生きた証しが残るんだと」

(この子が?)

 泣き疲れて籠の中で眠っている幼子を、レノスは見おろした。この子が。セヴァンの生きた証し。

「あなたはこれから、この子を守るために生きていくのよ」

「わたしは、これから、この子のために……」

 そのとき、入り口から厩番のユッラが飛び込んできた。

「奥方さま。晴れ着を返してください。おれがあげた、母の晴れ着」

 くりくりした茶色の目が、思いつめたようにきつく吊り上がっていた。

「それから、アラウダをおれに貸してください。おれ、アラウダに乗って、追手を引きつけます」

「なんだと」

「追手がおれを追いかけている隙に、奥方さまはローマの砦まで逃げてください」

「だめだ」

 レノスは必死に首を横に振った。「危険すぎる。おまえをそんな目に会わせるわけにはいかない」

「だいじょうぶ。誰もおれが乗ったアラウダに追いつけっこありません」

 ユッラは誇らしげに胸を反らした。「もし追いつかれたら、助けてと叫びます。厩番のユッラだとわかれば、殺されたりしません」

「だが……」

「お願いです、やらせてください。おれ、うれしいんです。男のおれが母の晴れ着を着て、奥方さまのお役に立てるなんて」

 少年の目を見て、その決意が決して揺るがされるものではないことを、レノスは悟った。

「ありがとう、ユッラ」

 腹の底に力が戻ってきたことを、感じる。「ほんとうに、いつまでも女々しく弱音を吐いているのだ、わたしは」

 レノスは眦を決して、振り向いた。「メーブ。力を貸してくれ」

 手早く荷物をまとめると、袋を背負い、ルーンを寝かせた籠を脇にかかえて、外へ出た。

 庭のりんごの木が、淡く色づいた実をつけている。

 これを植えた人は、もういない。あの実をふたりでかじりながら、木陰で語らうことは、もうないのだ。

 メーブが急かすように背中を小突いた。

「わかっている」

 再び足を踏み出そうとしたそのとき、リュクスとユニアが走り寄ってきた。

「レウナ、大丈夫か」

「大丈夫だ」

「大丈夫なはずないだろう。無理するな」

 いつものリュクスらしい口調に、少し気持ちがほぐれる。

 ユニアは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。「セヴァンさんが……こんなことになるなんて……信じられません」

「きみたちにも、迷惑をかける」

 レノスは、彼らの身をも案じなければならないことを思い出し、無理に気持ちを震い立たせた。ドルイドの命令に焚きつけられた追手たちは、彼らローマからの移住者にも刃を向けるだろう。

「これからどうするつもりだ」

「信者たちといっしょに、ひとまず食糧倉庫の地下の氷室に隠れる」

 リュクスは、緊張と興奮に肩をいからせた。

「村の女たちが、手はずを整えてくれてる。追手の気が逸れたころを見計らって逃げ出し、北の砦に辿り着くつもりだ。いっしょに行きたいのはやまやまだが……すまん」

「あたりまえだ。わたしといっしょでは、余計に危険だ」

「メルヴィスが、女たちの家の裏手で馬車の用意をして待っている。急いでくれ」

「わかった」

「レウナさん、祈っています。どうか、主がともにいてくださいますように」

 ユニアと短く抱き合ってから、レノスとメーブは道を急いだ。

 女たちの家の裏には、藁の束を積んだ馬車が止まっていて、そのかたわらでフリスラン人のメルヴィスが手招きをした。

 猟犬の訓練の途中であわてて駆けつけたのだろう。犬たちは、そばで所在無げにうろうろしている。

「乗ってください。早く」

 レノスが荷台に乗り込むと、さらに藁束が積みこまれた。「アイダン」とメーブの声がし、見ると旧友の忘れ形見の少年がルエルといっしょに走って来るところだった。

「アイダン」

 だが、続きを叫ぶ前に、藁束が視界をふさいでしまった。

「レウナ。これを」

 コリンの声がして、横の細い隙間から、パンを入れた袋が差し入れられた。その手はレノスの手を少しのあいだ強く握りしめると、すぐに離れた。

「おれ、先に出ます」

 ユッラの切羽詰まった声が聞こえ、慌ただしいひづめの音が遠ざかっていく。

 藁束の上に革の覆いがかけられ、荷台は、狭く薄暗い牢獄となった。

「揺れますが、辛抱してください」

 馭者台からメルヴィスの声がしたかと思うと、ガタガタと馬車が動き始めた。

「待ってくれ」

 レノスは、せいいっぱいの声を張り上げて叫んだ。「アイダン、聞こえるか」

 返事はなかった。

「ルエルと、この村を頼む。族長の座を継いでくれ。セヴァンは、そう願って――」

「だめだ、もう出ます」

 メルヴィスが遮った。「何人かの戦士がユッラを追って村の門を出ました。脱出するなら今だ」

「もう少しだけ……!」

 だが、レノスの声は届かず、馬車は無情にも走り出した。

「……待ってくれ」

 まだ、皆にお別れを言っていないのに。やり残したこと、言い残したことがたくさんあるのに。

 わたしは、ここから去りたくないのに。

 レノスは、腕の中にルーンを抱きしめながら、臓腑が引きちぎられるような痛みにじっと耐えた。

(セヴァン。おまえも、クーランに伝えたい言葉をとうとう言えなかったのだな。言えずに行ってしまったのだな)

 馬車は村の門を抜けて、東への道をたどり始めた。

 レノスはやがて、足元に何かがもぞもぞと動く気配がすることに気づいた。

 それはどんどん這い上がり、やがて藁束の中から、にゅっと鼻の長い生き物が顔を出した。

「ドライグ!」

 セヴァンの猟犬だった。藁束が積みこまれるとき、すばやく潜り込んだのだ。

 荷物の中に、セヴァンのブリーカンのマントを入れているから、たぶん、その匂いに魅かれたのだろう。

「それとも……セヴァンがいっしょに行けと言っているのか?」

 その名を口にしただけで、じわりと涙があふれてくる。ぺろぺろと手を舐めるドライグの舌は暖かく、くすぐったかった。

 小さな丘をいくつか越え、尾根に沿って谷合いの道を南下し始めるというころ、突然、馬車が止まった。

「いいですか。絶対に動かないで」

 押し殺したメルヴィスの声が聞こえ、ついで、たくさんのひづめの音がした。

 レノスは、ルーンの体を左腕に抱え、右手に短剣を握りしめた。

「何者だ。どこへ行く」

 誰何の声に、メルヴィスがわざと、ひどい片言で答えた。「おれ、クレディン族、奴隷。ダエニ族の村、わら束、届ける」

「村はこちらの方向ではないぞ」

「馬、かわいた。川、水、たくさん」

「ちぇ、何を言ってるかわからん。もう行け」

 ほっと安堵しかけたとき、眠っていたはずのルーンがひくひくと泣き声をあげた。無意識のうちに強く抱きしめすぎていたのだろうか。

「なんだ、今の声は」

「荷台のほうからだ」

 レノスは、とっさに犬の尻をぐいと足で蹴った。「ドライグ。吠えろ」

 猟犬はひと声大きく鳴き、ごそごそと藁束の中を這い始めた。

「犬です、俺の」

 メルヴィスの声に、近づいていた足音は止まった。「犬か」

 しかし、まだしつこく荷台の回りを歩き回る気配がする。

(うまく誤魔化せるか)

 戦慄の沈黙が続く中、ひとりが藁束の隙間に手をつっこみ、中を覗きこんだ。

「おい、いるぞ!」

 叫び声とともに足音が乱れ、馬車が大きく揺れ、怒号と、鉄が打ち合わさる音が響いた。

「メルヴィス!」

 レノスは短剣を握りしめて、外に飛び出そうとしたが、きっちりと積まれた藁束は押しても引いても崩れない。

 必死になって外に這い出したときは、もうすべてが終わっていた。

 地面には三人の男が横たわり、下草を血に染めていた。その中のひとりのそばに、ドライグがすり寄って、鼻づらを悲しそうにこすりつけていた。

「メル……ヴィス」

「無事でしたか」

 フリスラン人は目を開けると、にっこり笑った。

「ドライグが噛みついて、危ないところを助けてくれました。いい猟犬ですよ、こいつは」

「だいじょうぶなのか……」

「傷はたいしたことありません」

 メルヴィスは、上半身を起こそうともがいた。レノスが落ちていた藁束を拾ってきて背中にあてがうと、しばらく目を閉じてあえいでいた。

「それより、ひとりに逃げられてしまいました。すぐに応援を連れて駆けつけてくるでしょう。この馬車は捨てて、すぐに逃げてください」

「だが、おまえは……」

「しばらくここにいます。やつらが近づいているのを見たら、あなたと別方向に逃げて、やつらを引きつけます」

 メルヴィスは、大きく目を見開いた。

「お願いがあります。もしあなたがフリスランに行くことがあったら、仲間に伝えてくれませんか。もうクレディン族の村に来てはいけない。族長は、もういないのだからと……」

「おまえが……自分で伝えればよいだろう」

「早く行ってください。赤ん坊を忘れずに」

 レノスは立ちあがった。

 馬車の荷台に残していた息子と荷物を取り上げて、再びメルヴィスのところに戻ってくると、彼は目を開けたまま、事切れていた。

「メルヴィス」

 両膝をつき、レノスは男の髪にそっと触れた。

「おまえの魂は今、フリスランに帰り着いた……そうだな?」

 彼のまぶたを閉じ、そっと地面に横たわらせると、藁で彼のからだを覆い隠した。そして、策具をはずして、馬車を引いていた二頭の馬の尻を叩いた。

「ほら、帰れ。帰るんだ。あの村に」

 去っていく馬を見送ると、追手のひとりが乗っていた馬に、ルーンを入れた籠と荷物をくくりつけ、またがった。

 馬上から四方を見渡すと、ワラビの草原はしんと静まりかえり、トンビが空高く旋回していた。

 北の砦へ向かう谷底の道は、真先に追跡の手が伸びるだろう。レノスは目を上げた。尾根のてっぺんに、巨大なハルニレの木がそびえている。

 どこからも丸見えであることがわかっていながら、レノスは焦がれるように、その木に向かって馬を走らせた。

 ふもとのサンザシの藪に馬の手綱をゆわえつけると、ルーンを籠から抱き上げ、斜面を登っていった。

 ハルニレのごつごつした根元に我が子をそっと寝かせて、立ち上がる。

 尾根の頂からは、クレディン族の村が一望できた。刈り入れを終えて土がむき出した麦畑と黄色いエンドウ豆の畑が二色の帯となって並んでいた。褪せた緑色の丘の斜面では、放牧された羊の白い粒がゆっくりと動いていた。

「ここは、わたしの故郷だ……」

 一年半前、このハルニレの木の下で、ローマ人であることを捨てた。族長の妻となること、氏族として生きることを選び取った。なのに、なぜ、今になってここから出て行かなければならないのだ。

 ここは、わたしの故郷だ。父もこの地のどこかで眠っている。母の墓も草の中に埋もれている。終生の友アイダンも。そして、セヴァン、おまえもここにいる。

「セヴァン……」

 あのとき、おまえは顔を青くして追いかけてきてくれたな。ここで私を抱きしめ、約束してくれたな。


――もう、離さない。あなたを決して離さない、レウナ。


「うそつき……さっさとわたしの手を離して、先に死んでしまったくせに」

 レノスの目から、とめどなく涙がしたたり落ちる。

 メルヴィスもわたしを逃がすために死んでしまった。わたしはあとどれだけの人を殺せばいいのだ。ユッラも? リュクスとユニアも? 大勢の部下を死なせてしまった罪だけでは、まだ足りないのか。

「わたしはどうやって生きていけばよい? おまえがいないこの世界で、わたしもルーンも……どうやって」

 ハルニレのごつごつした幹を仰ぎ、拳を打ちつける。

「お願いだ。セヴァン。わたしたちを連れて行ってくれ! どこへも行きたくない! おまえのそばにいたいのだ!」

 巨木の幹にしがみついて、夫の名を何度も大声で呼び、泣いた。

 泣いて、泣いて、声も出なくなると、腰に差していた短剣を抜いた。そして、片膝をついて、赤子を見下ろした。

 ルーンは母親の目をじっと見ると、みるみる唇をゆがめて、泣き始めた。その声を聞いたとたん、レノスの乳房は熱く燃え上がり、はちきれそうに漲った。

「ああ」

 短剣が、ぽとりと指からすべり落ちる。「おまえは……腹が減ったのだな」

 抱き上げ、胸をはだけると、乳頭から乳が勢いよくあふれだし、赤子は生命の糧にむしゃぶりついた。

「ルーン、おまえは……」

 嗚咽だか笑いだかわからぬものが、レノスの唇からほとばしった。「おまえは、生きたいと思っているのだな」

 授乳を終えると、レノスは赤子を寝かせ、短剣の先を地面に突き刺し、両手で土を掘り返した。

 記憶は間違ってはいなかった。そこにはローマ軍の赤いマントに包まれた兜と鎧、将校の印章つきの指輪、そしてグラディウス剣が、埋めたときそのままの姿で現われた。

 スカートを脱ぎ捨て、鎧を身に着け、剣帯に剣を差す。

 ルーンを抱き上げ、馬にまたがると、レノスは尾根の向こう側の、誰も通らぬ沼地の道を選んだ。



 二日後の夕方、北の砦の胸壁に立っていたローマの哨戒兵は、向かってくる騎影を発見し、司令官室に飛び込んだ。

 乗っているのは、ローマの軍服を身に着けた女。長い黒髪は風にもつれ、目には荒々しい光を宿し、血濡れの剣を右手にぶら下げ、手綱をあやつる左手には赤いマントでくるんだ赤子をしっかりと抱いてやって来ると、奇妙な畏怖に捉えられた兵は、震えながら報告した。



 目覚めは、暗黒の海の水際に打ち上げられるのに似ていた。苦痛のさざ波が全身を浸していた。

「気がついたか」

 枝を手折る音とともに、遠くから男の声がした。

「ここは、あの森からそう遠くない小屋だ。ここの木こりと俺は、親しい間柄だ」

 ぱちぱちと火を掻き立てる音がする。

「……ウナ。レ……ウナは」

「ふ、自分の命が尽きるというときに、考えることはそれだけか」

 沈黙のあと、男の口調はいくぶんの暖かみを取り戻した。「レウナどのが捕まったという知らせは届いていない。少なくともカタラウニ族のもとにはな……たぶん、無事にローマの砦についたのだろう」

 安堵が、水際にしがみついていた指を突き放した。ふたたび海の底に引きずり込まれて落ちようとする最後の瞬間、かすかな男の声が届いた。

「だが、無事なのも、もうしばらくだ。カシの聖者は、全氏族に命令を出した。ローマの砦に一斉に攻め入り、ひとり残らず殺せ……とな」



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