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月の戦士  作者: BUTAPENN
芽吹く春
53/62

芽吹く春(2)



「おまえたちフリスラン人は高い盛り土をして、その丘の上に家を建てるそうだな」

 心の底まで検分するような鋭い視線が、整列する六人の捕虜の顔の上をゆっくりと舐めていく。捕虜たちはますます、背中をそっくり返す。

 スカートを脱ぎ捨て、トゥニカの上にアカシカのマントを羽織り、縁石に股を広げて座るレノスは、誰が見ても族長の奥方には見えない。

「ガイウス・プリニウス総督が著わした書物を読んだことがある。土地は海面よりも低く、頻繁に海の潮が流れ込み、家々は、まるで海の上に浮かぶ船のようだと」

「そのとおりです」

 代表して答えたのは、メルヴィスだった。「排水のために水路を掘っても、とても間に合いません」

「水路はもっと増やさねばならないだろうな」

 レノスは、指揮棒代わりに持っている太いハリエニシダの枝で、地面に絵図を描いた。

「こんな具合に、細かく縦横に水路を張りめぐらせる。それと同時に、海岸に堤防を築くんだ」

「堤防?」

「潮の流入を防ぐ、高い壁だ」

「ですが、木の柵と漆喰で壁を作っても、固まる前に海に流されてしまいます」

「ローマ人は、ただの漆喰など使わない」

 レノスは誇らしげに口元を緩めた。「ポッツォーリの塵を使うんだ」

「ポッツォーリの塵?」

「火山灰のことだ。これを石灰と水に混ぜれば、漆喰とは比べものにならないほど強い壁ができる。しかもすぐに固まるから、干潮のあいだにすばやく堤防を築くことが可能だ」

「その灰は、どこで手に入るんですか」

「残念ながら、イタリヤでしか産出しない」

 「なんだ」と失望する捕虜たちに、レノスは立ち上がって命じた。「その話はあとだ。今は目の前の工事をさっさと片づけよう」

 弾かれたように走り出し、村の防護柵の修理にとりかかった男たちを、ルエルは少し離れたところに立って、ながめていた。

「大きな口開けて、みっともない」

 メーブが近づいてきて、腰に手を当ててルエルの隣に立った。「あの人ったら、男たちといるほうがよほど生き生きしていて、楽しそう」

「捕虜たちのきびきびとした動作を見てみろよ。あんなに反抗的だった連中が、レウナさんの命令なら喜んで聞く」

 ルエルは、感嘆の吐息を漏らした。「その理由がようやくわかったよ。あの人はいつも、まず希望から語る。今のつらい仕事は、故郷の村に帰ったときに役立つと説いているんだ」

「わたしもひとつ、わかったことがあるわ」

 メーブは平板な声で言った。「結局あなたたち兄弟三人とも、あの女に奪われる運命だってこと」

「どういうこと?」

 ルエルは、けげんな顔で振り返った。

「アイダンはあの人に心を魅かれていた――女だと知らなかったにせよね。セヴァンに至っては魂まで完璧に溶かされた……そして、あなたも多分そう」

「何を言ってるんだ」

 ルエルの大きなハシバミ色の瞳が、短剣の切っ先の形に細められた。「僕は違う。そんなんじゃない」

「さあ、どうかしら」

 兄嫁は、からかうように口の端を歪めた。「あなたは小さいときから、いつも兄さんたちの背中を追いかけて、真似ばかりしている子だったもの」

「いつまでも子ども扱いするな!」

 驚くほど激しいことばを残して走り去ったルエルの後ろ姿を、メーブは見送りながら焦れったげにつぶやいた。

「怒るのは、図星だからでしょうに」



 打ちあがった剣の中から、ひとふりを取り上げたセヴァンは、刀身の鈍い輝きを眇めて確かめると、元通り剣架にかけた。

「良い仕上がりだ」

 職人はうなずくと、鉄床に向きなおった。鍛冶場の中はふたたび、鉄を打つ荒々しい音で満たされた。

 小屋の垂れ幕を上げると、身体にまとわりつく炉の熱気は、たちまち秋の風に吹き払われていった。

 小高い丘陵に囲まれた狭い盆地。あちこちから立ち昇る火炉の煙は、吹き下ろす谷風に阻まれて、トネリコの木の高い梢のあたりにたゆたいながら、消えていく。

 ローマ人もピクト人も、大軍を率いて綿密な捜索でもしない限り、この隠れ里を見つけることはできないだろう。

 近隣の鍛冶職人を呼び集めて、武器や防具を大量に造らせ、各氏族の戦士の数に応じて配分させる。その仕組みを作り上げたのは、セヴァンだった。

 中央の小屋の入り口は、王を迎えるために垂れ幕が巻き上げられた。

 中には、主だった氏族の族長たちが席につき、セヴァンの一挙一動を見守っていた。小屋の壁にはぐるりと彼らの剣が立てかけてある。

 セヴァンは正面に立つと、口を開いた。「みな集まったようだな。族長会議を始める」

「なぜ、ここなのだ?」

 マヤカ族の族長のひとりが、待ちかねたように発言した。

「氏族連合の集会は、カシの森で行うと決まっていたはずではないか」

「一部の氏族から、武器の配分に不満の声が上がっていると聞いた」

 セヴァンは簡潔に答えた。「ならば、武器生産の現場で話し合うのが、一番早い。理由はそれだけだ」

「カシの木の聖者が集会に呼ばれていないのは、なぜだ」

「必要ないからだ。聖者の知恵を借りて決めなければならないような難しい問題ではない」

 族長たちのあいだで、ざわめきが起こった。因習に囚われた老年の族長ほど、セヴァンの口から出た不遜な言葉に衝撃を受けたようだ。

「あなたが、聖者と対立しているというのは、本当か」

「あなたがローマの女と結婚したことで、聖者たちは激怒していると聞いたぞ」

 ざわめきが一段と高くなった。セヴァンは落ち着きはらって沈黙を守り、頃合いをみはからって机の上に自分の剣を置いた。一同は、ぎょっとした表情になった。

「この剣と己の誇りにかけて、俺は聖者と対立などしていない。つい先日も、祭りのいけにえとして、牛を五頭送ったばかりだ。事実無根のうわさ話などに惑わされるな」

「だが、そういう噂が出るのも、無理からぬこと」

 ダエニ族の族長が、やや声の調子を落として発言した。「ローマはわれわれにとって宿敵だ。その女戦士を娶ることは、果たして氏族連合の王としてふさわしいことなのか?」

「ふさわしくないと思うなら、いつでも王座から降りよう」

 セヴァンはうっすらと笑った。「では誰が、俺の代わりに王になる? 誰がピクト人や海の向こうの民の攻撃を押し戻す? 誰が武器や小麦を配分し、村々が潤うように川から水路を引く? 誰がローマ人たちの食糧や金を奪い、彼らと対等に交渉して、多額の身代金までぶんどってくる?」

 セヴァンの畳みかけるような返答に、族長たちは勢いをそがれて、口をつぐんだ。セヴァンが王となってから、この土地がかつてない平和と繁栄を享受しているのは確かなことだった。

 伝統か改革か――若い族長ほど、そのいずれを選ぶべきか結論を出すのは早かった。

「いいえ、あなたが王座にいてください」

 セヴァンはうなずき、ほかの族長たちにならって剣を小屋の壁に立てかけると、席についた。

「では、始めよう」



 すべての議題が滞りなく進み、各氏族に分配される武具の数も決まると、夕方には酒宴が始まった。

 炙り立ての肉が切り分けられ、蜜酒や麦酒の壺が回されると、族長たちは今日の会議の不穏な空気などすっかり忘れて、豪放に飲み食いし始めた。

 セヴァンは誰にも気取られることのないように、そっと外に出た。

 空気はキンと冷たく、火照った肌に心地よかった。足の裏が浮き上がりそうなほど夜空は深く黒く冴えわたり、星々が煙るように輝いていた。

「あなたは、まったく飲まないのだな」

 すぐ後ろから声をかけられた。頭頂の薄い、初老の男。垂れ幕から漏れてくるわずかな灯では、かろうじて輪郭がわかる程度だ。

 カタラウニ族の族長ラモント。セヴァンとは、これまで個人的に話をするような間柄ではなかった。

「酒の席は苦手だ。それに」

 セヴァンが視線を向けた方角には、彼の従者が二頭の馬を引いて待っていた。「今夜じゅうに、村へ帰ろうと思っている」

「花嫁が、寝ないであなたの帰りを待っているのだろうな?」

 からかうような問いかけにも、不思議なことに腹は立たなかった。ラモントの声には、温かな親しみがこめられていたからだ。

「奥方の名前は、レウナどのと言ったか」

「ああ」

「昔、会ったことがある。向こうは覚えておらんだろうが」

 あまりにも意外な言葉に、セヴァンは持っていた剣を取り落しそうになった。

「どこで?」

「俺の父の兄の娘が、レウナの乳母だった。よく赤ん坊を連れて、族長の家に来ていた。愛らしい子だったよ。ローマ軍将校だった父親の姿も見かけたことがある」

 ラモントは星空に向かって、ふっと白い息を吐いた。「20年以上経った今でも、俺たちの土地には、焼けただれたローマの町の廃墟が残っている。あのとき、従姉はレウナを守ろうとして町で殺された。レウナはかろうじて生き残ったが、幼いながらに地獄を見ただろうよ」

「ああ」

 セヴァンは押し殺した声で答えた。わかっている。どんな地獄を見たのかを、あの人は決して話そうとはしないが。

「俺の父も、族長だった父の兄も、ローマに尻尾を振った裏切り者とののしられ、同族に首をはねられた」

 ラモントは、悪夢を追いはらうかのように首を振った。「俺も、今の座を得るまでには、それなりの地獄を見たよ。だから、レウナどのは、よくこの土地に戻って来たなと思ってな。いやな思い出しかないだろうに」

「あの人は、ここが自分の故郷だと言っている」

「それを聞いて、肩の荷がひとつ降りたような気がする」

 カタラウニ族の族長の横顔は、星明りの中で傾いだ。「ローマ人は敵だとほかの連中は言っているが、少なくとも、ここにふたり、そう思ってない男がいるわけだ」

「そうだな」

 セヴァンは素っ気なく答えたが、内心は心に泉が満ちるようだった。王と呼ばれてはいるものの、これまで氏族連合の中に、本当の味方と呼べる存在は誰もいなかったのだ。

 ふたりは別れの印に軽く互いの腕を抱き合い、そして離れた。

「気をつけてくれ」

「慣れた道だ。夜でも迷うことはない」

「そういうことではない」

 振り向くと、ラモントはかすかに強ばった背中を向けて立っていた。

「カシの聖者たちのことだ……彼らの力を侮ってはならんぞ」



 まだ暗いうちに、レノスは寝床から起き上がった。

 隣の夫は、まだ深い眠りの中にいる。

 そっと抜け出すと、炉の火を掻き立て、薪をくべた。

 手早く身支度をすませ、貯水槽に行って桶で水を汲む。水甕をいっぱいに満たすと、今度は牛舎で搾りたての牛乳をもらって来て、凝乳を作る。鉄なべでスープの残りを温め、チーズを串に刺して火であぶる。パンを切り分けて、炉端の石の上に置いて温める。

 いつもなら起きてくる時刻なのに、夫はまだ目を覚ます気配がない。真夜中に戻って来たばかりで、話す時間もほとんどなかった。

「セヴァン」

 声をかけても、身じろぎもしない。彼の耳元で大声を出してやろうと、いたずら心を出して屈みこんだとき、あっというまに、彼の腕にからめとられてしまった。

「何のまねだ」

「もう二日以上あなたを抱いていない。我慢の限界だ」

「なんという忍耐力のない男だ。王とは思えぬ」

 毛皮の下の暖かく心やすらぐ場所にもぐりこみ、何度も互いの唇をついばむ。それから、きっぱりと彼の腕をふりほどいた。「早く起きてくれ。さもないとパンが焦げてしまう」

 セヴァンはあきらめて身を起こした。「そうしよう」

「族長会議は、うまく行ったようだな」

「なぜわかる?」

「おまえの顔に、そう書いてある。何かよいことがあったと」

 セヴァンは服を着る手を止めた。「族長のひとりと、少し話をした」

「どんな?」

「……いや、たいしたことではない」

「言いかけておいて、やめるな。気になるではないか」

「パンが焦げるのだろう。早く食おう」

「言え、何の話だ」

 レノスはセヴァンの手をぐいと引き戻し、ふたりは笑い声を上げながら、毛布の下でもつれあった。



 水路から引いた洗い場で洗濯をすませたレノスは、村のパン焼き場に出かけた。今日は週に一度、共同の窯に火が入る日なのだ。アリの巣のような形をした巨大な土窯は、村のすみずみにまで香ばしい匂いを振りまいている。

 前日にカラス麦を挽いて、醸造中の麦酒の上澄みをすくった液体を混ぜ込んでおいた。一晩発酵させてから、小麦とこねて焼けば、甘く香ばしいパンができあがる。

 二日がかりの大仕事だが、手を抜くつもりはない。ローマで食べていた小麦だけの白いパンよりも、今ではすっかり、こちらの味になじんでいる自分に気がつく。

 パンを窯に入れ終えると、レノスは家に戻ってスカートを脱ぎ捨て、トゥニカを着た。

 防護柵の修理を続けるフリスラン人の捕虜のところに行き、いくつかの指示を出すためだ。捕虜たちは、レノスのつきっきりの監督がなくとも、きびきびと働くようになっていた。

 家に帰り、こまごまとした家の用事をすませて、またスカートに着替えると、外の大通りの縁石に腰かけ、ようやく一息ついた。

 村の門が開き、荷台に干し草を積み上げた馬車が入って来る。太陽をいっぱいに浴びた干し草は、冬のあいだの家畜たちの餌となり、村人たちの寝台の暖かい敷き藁となるのだ。

 遠くの丘で、羊たちはこの秋最後の放牧を楽しんでいる。

 レノスはぐいと背をそらして、着古したトゥニカのように褪せた青空を仰いだ。

――なんと、平和なのだろう。

 飛び交う矢を振り払い、泥の中を日夜行軍し、人の脂と血にまみれた剣で多くの命を奪ってきたわたしが、スカートを履き、肩かけを羽織って、パンが焼けるのを待ちながら日向ぼっこをしているとは。

「タイグ……マロー……」

 メシウス、フィルス、ネポス、スピンテル。わたしの指揮下で死んでいった大勢の部下たち。

 おまえたちがもしここにいて、今のわたしを見たら、笑うだろうな。

 それとも怒るか、失望するか。おまえには平和を楽しむ資格などないと、口をきわめてなじるだろうか。

 おまえたちの犠牲のおかげで、わたしひとりがこんなに穏やかな日々を送っているのだから。

 手の甲で涙をぬぐうと、レノスは立ち上がり、パン焼き場に戻った。窯から取り出され、台の上で冷ましてあったパンをかごに入れて、家に戻った。

 ゆうべ糸車でつむいだ糸の束を取って、ふたたび家を出る。カバノキの葉で美しい黄色に染めこんだ、族長のブリーカンには欠かせない糸だ。

 女たちの家に近づいたとき、軒先にセヴァンの後ろ姿を見つけた。

「あなたが不満に思っていることは、うすうすわかる」

 彼の向こうにいるのは、彼の乳母、コリンだった。長身の彼に隠れて、わずかに肩や腰のあたりが見えるだけだ。

「でも、レウナにもう少しやさしくしてくれないか。あの人は俺の大事な人だ。ローマ人の身で、族長の妻としての務めを担うことがどれほど大変か、あなたにもわかっているはずだ」

 コリンの表情の動きも、何と答えたかも、わからなかった。やがて彼女はこちらに気づき、小さな腕をすっと伸ばして、立ちすくんでいるレノスを指し示した。

 セヴァンは振り向くと、わずかに悲しそうな表情をした。それは、自分のしたことが妻の誇りをひどく傷つけてしまったことを、すぐに悟った顔だった。

 セヴァンはコリンから離れると、真っ直ぐに歩いてきた。

「今から、北の砦に行く。帰りは遅くなる」

「そうか」

 素っ気ない会話を交わして、夫妻はすれ違った。

 コリンは二人の様子を小さな黒曜石のような瞳で見つめていたが、きびすを返して立ち去ろうとした。

「コリン」

 レノスは走り寄った。「待ってくれ」

 彼女は立ち止まったが、振り向こうとはしなかった。

「セヴァン、言ったこと、気にしないで。頼む」

 レノスは、声を震わさぬように細心の注意をはらった。「あなたがわたしを憎む、当然」

 コリンは答えない。

「でも、わたしは、セヴァンが大切……自分のいのちよりもっと大切。どうか、信じてほしい」

「信じない」

 女は拒否の背中を向けたままだった。 「あんたはローマ人、わたしたちの敵だ」

 言い残すと、大股で歩み去る。レノスは心が落ち着くのを待って、「女たちの家」に入った。

 持参した黄色の糸を新しく織り機にかけ、しばらくうつろな心を抱えたまま手を動かす。

「それ、違うわ」

 後ろから声がかかる。「それじゃ、模様が崩れる」

 声の主を見上げると、ロウェナだった。メルヴィスが脱走を企てたとき、捕虜にされたところをレノスが救った女だ。

 彼女は、杼を間違ってくぐらせた箇所の糸錘を、次々にすばやく持ち上げた。「はい、これでいいわ」

「助かった。ありがとう」

 ロウェナは、はにかみながらレノスの礼に答えると、自分の機へと戻っていった。

(なにをやってるんだ、わたしは)

 レノスは、両手でぐっと膝をつかみ、呼吸を整えた。(しっかりしろ。うなだれるな。前を向くんだ)

 しばらく座っていると、何も聞こえていなかった耳に、回りの物音が飛び込んできた。

 若い女たちの、天井を突き抜けるような甲高いおしゃべり。年輩の女たちの少ししゃがれた、落ち着いた話し声。レノスが来てからは途絶えてしまっていたはずの笑い声が、この家に満ちていた。

 早く、ゆっくりと、それぞれの声が奏でるさざ波の渦の中に、聞き取れる文章がいくつもある。氏族のことばの肌ざわりを、自分の服のように着馴れたものと感ずることができる。

 心地よいざわめきだった。傷だらけの心を抱え、何か月もずっと肩に力を入れてきたレノスにとって、全身の力がすっとほどけていく心地よさだった。

 昼になり、中央の大卓の回りでは、女たちが長椅子を引き寄せ、からだをくっつけあうようにして弁当包みを広げ始めた。

 レノスも立ち上がったが、いつもの壁際の椅子がなくなっていることに気づいた。

「こっちよ」

 年かさの女のひとりが、ぶらぶらとレノスのパンの包みをかかげてみせた。「あなたが今日焼いたパン、とてもいい匂いがするじゃないの。少し味見させてもらっていい?」

 ぽかんと口を開けて立ち尽くすレノスに、彼女らは屈託ない歓声を浴びせた。

「わあ、わたしも」

「私も。代わりに、ソラ豆の炒ったのをあげる」

「わたしは、ゆで卵よ」

「あ、ああ」

 と答えたレノスは、突然の変化に戸惑いながらも、温かなざわめきの渦の中へ入っていった。



「だから、なんでそんな要求を呑まねばならんのだ」

 フラーメンは癇癪を起こして、足代わりの杖で床をガツガツ叩いた。

「カルス司令官は、もうすでにローマ軍には存在しなかったことになってる。だから、俺たちは人質など取られていない。だから、おまえに脅される謂われは、さらさらない」

「脅しではない。これは交渉だ」

 セヴァンは、欠伸を噛み殺しながら答えた。会合の場に、第七辺境部隊側の代表として臨んだのは、書記係のフラーメンただひとり。無論、彼には何の決定権もない。

 セリキウス司令官は何やら理由をつけて、早々と逃げ出してしまったらしい。そして、逃げ遅れて損な役回りを押しつけられたフラーメンは、冒頭から怒り狂っている。

「ローマ軍の人事に口を出しやがって、さもなければこの砦に攻め込むだなんて、立派な脅しじゃないか」

「そんなことは言っていない。クレディン族とダエニ族の補助軍部隊百人を、一ヶ月以内にこの北の砦に配属しろ。そうすれば、氏族連合はこの砦には攻め込まないと約束する」

「無茶言うな、一ヶ月以内なんて、到底できっこない」

「彼らの小隊が今、南の要塞に配属されていることはわかっている」

 セヴァンは、金髪の元百人隊長の反論を封じた。「三日もあれば交代できる距離だ」

「だが、不可能だ」

 フラーメンは椅子を引いて、杖を頼りにセヴァンの真向いに腰を下ろした。「わが辺境部隊には、氏族をその出身地には配属してはならないという不文律がある。その決まりを変えるわけにはいかん」

 少し、口ごもる。「昔、氏族の兵士がローマを裏切り、将校が暗殺されたという前例があるからな」

 彼らは、顔を見合わせた。それがレノスの父親の話であることは、暗黙の了解だ。

「逆に考えればよいのではないか?」

 セヴァンが身を乗り出した。「俺たち氏族連合がもし不穏な動きをすれば、彼ら百人の命を盾にすればいい。俺たちは、うかつに攻め込むことができなくなる。おまえたちにとって有利だ」

「それじゃ、そっちに何の得がある」

「村には、彼らの親や兄弟がいる。休暇にはいつでも会えるし、村から妻をめとることも、除隊後は故郷の村に戻って暮らすこともできる。そういう条件を飲むならば、氏族連合は毎年決まった数の若者を、ローマ軍に志願させよう。そうすれば、北の砦は、もはやローマ人ではなく、氏族が守る砦となる」

 フラーメンは、あんぐりと口を開けた。「やっぱり、おまえたちがこの砦を乗っ取るってことじゃないか!」

 セヴァンは大きな吐息をついた。「おまえでは、話にならんな。ラールスはどうした」

「町に行って、飲んだくれてるよ」

「こんな昼間からか」

「あいつ、なんかおかしいんだよ。カルス司令官がいなくなってから、この砦の連中はどこかおかしくなっちまった」

 「全部おまえのせいだ」と言いたげな目つきを寄こすと、フラーメンは髪をばりばりかきむしった。「ああ、くそ。おまえなんか、ロンディニウムの川の畔で刺し殺しておけばよかった」

 セヴァンは立ち上がった。「俺たちも町へ行こう」

「え?」

 杖を頼りに後ろからついてくるフラーメンの歩調に合わせて、セヴァンは砦の門をくぐった。

 大通りをしばらく行くと、バシリカのあるにぎやかな大広場に出る。

 セヴァンはあたりをぐるりと見回し、「これがいい」とひとつの石造りの建物に目を留めた。

「俺たちに、この建物を譲ってくれ」

「な、なんだと?」

「ここを氏族連合の本部としてわれわれの代表を常駐させる。家も何軒か建ててほしい」

 フラーメンは目を剥き、セヴァンにつかみかからんばかりに詰め寄った。

「きさま、この町まで氏族の手で支配するつもりか」

「支配ではない。商売をするだけだ」

「商売?」

 セヴァンは、広場の戦勝塔を仰いだ。その先端には、冬の前触れとなる濃い灰色の雲が垂れ込めていた。

「俺たち氏族連合は、ローマに羊毛と毛織物、穀物や錫を売る。ローマが俺たちに売るのは、ワインやオリーブ油、金細工、壺とガラスの器……それに、書物もだ。ポッツォーリの塵も手に入れられるような手だてを考えてほしい」

「……いったいきさま、何を考えてる」

 セヴァンは、はるか遠くを見つめていた目を、フラーメンに据えた。

「氏族はローマの文化を学び、ローマ人は氏族の生き方を学ぶ。ローマとは、支配と隷属の関係ではなく、国と国相互の対等な関係を求めたい。いずれは、ピクト人や海の向こうの民とも、ここで交易することを考えている。俺たち氏族にとっても、おまえたちローマにとっても、この北の砦の町は世界への窓となる」

「ローマは、唯一無二の大帝国だ。蛮族との対等な関係など認めるものか!」

 セヴァンは、冷ややかにほほえんだ。「今のうちに認めなければ、その蛮族に四方八方から攻め込まれて、ローマは滅亡への道をたどることになるぞ……今なら、まだ間に合うが」

 フラーメンは気圧されて何も言えなくなり、目を泳がせる。広場の向こうで大柄の男が手を振っているのが見えた。

「おーい、セヴァン」

 元剣闘士リュクスが走りこんできて、うれしそうに親友の背中をぽんぽん叩いた。「久しぶりだな。奥方も元気にしてるか」

「ああ」

「それと、フラーメン、ちょうどよかった。ラールスが酒場で酔いつぶれてたから、かついで俺んちに運んどいたぜ。うちのやつが介抱してる」

「ええ、なんだ。またかよ」

「うちのやつ?」

 セヴァンが聞きとがめると、リュクスはよくぞ聞いてくれたという満面の笑みになった。

「ユニアのことだよ。なんだ、俺たちが結婚したこと知らなかったのか」

「いつだ」

「もうどれくらいになるかな。一年か」

「馬鹿ぬかせ。まだ二ヶ月も経ってない」

 フラーメンが横から口をはさんだ。「悪いな。ラールスは部下に引き取りに行かせるよ」

 と言い残し、ひょこひょこと砦へと引き返していく。

「ラールスは、そんなにひどい状態なのか」

「ああ、今は平和だからいいようなものの、あれじゃ百人隊長は務まらんだろう」

 リュクスは頬を撫でた。「まあ、奴がそうしたくなる気持ちは、俺にはわかるけどな」

 セヴァンは居心地悪そうに視線を逸らせた。「ユニアは、よくおまえとの結婚を承知したな」

「愛の勝利ってやつだ。どれだけ俺が努力したかわかるか。花を摘んでは扉の外に置き、駕籠に山盛りの菓子を買っては贈り、女たちとは縁を切って、禁欲に次ぐ禁欲の毎日を……」

 自慢話を辛抱して聞いていたセヴァンは、ふと思いついたように、リュクスの顔をまじまじと見た。

「な、なんだよ」

「リュクス。ひとつ、折り入って頼みがあるのだが」



 最後の杼をくぐらせると、レノスは織り上がった布を愛おしむように目で追った。

「できたのね」

 さっきからそわそわと落ち着かない様子のメーブが、立ち上がってそばに寄って来た。

「ああ」

 レノスは、布巻に巻き取られた布地に手を触れる。厚みは十分だ。「間に合わないかと思った」

「ちゃんと冬に間に合ったじゃない」

 メーブが茶化すように言った。「とっくに雪が降ってもおかしくない時期なのに、空があなたを待ってくれていたのだわ」

 思わずレノスが顔を上げると、彼女はしかめ面とあまり変わらない不器用な微笑を浮かべていた。

「さあ。経糸を長く切って、布をテーブルに持ってきて。端を始末するやり方を教える。ここで間違えたら、今までの苦労が水の泡よ」

「わかった」

 言われたとおりに、レノスは両端の糸を切り、布巻から布をはずして立ち上がった。

 族長の家にふさわしい、美しい四色織りのブリーカン。このマントはこれから何年、何十年と夫の背中を温めるのだ。

 何か月も織り機の前に座り、寝る間も惜しんで労力を注いできた。その結実が、今こうして、どっしりとした重みをもって手の中にある。

 軍人として壊し、燃やし、殺し、滅ぼすことを生業なりわいにしてきた自分が、初めてこの世に何かを生み出すことができたのだ。

 小さくささやかだが、それはなんという喜びだろう。

「まあ、素晴らしい色」

「みごとな出来上がりだわ」

 女たちのささやきとため息を聞きながら、テーブルの上に布を置いたレノスだったが、体がぐらつき、思わず手をついた。だが、その手もぐにゃりと力を失ってしまった。

 メーブがとっさに横からレノスの腕をつかんで、支えた。「あぶない」

 なんとか体勢を立て直したが、目まいがして、身体が思うように動かない。視線がぼんやりと宙をさまよう中、ほかの女たちも「どうしたの?」と集まってきた。

「その……たぶん、風邪らしい。ずっと熱がある。少しだけ」

「そういえば、顔色が悪いわ」

「家に戻って寝たほうがいい」

「だいじょうぶだ」

「何か、口に入れたほうがいいわ。昼だって何も食べていないでしょう」

「これを仕上げる。早くセヴァンに見せたいのだ」

「いいから、ひとくちだけ食べて」

 ひとりが自分のパンの残りを近くに押しやってくれたが、レノスは力なく首を振った。「すまない。食べたくない……ずっと、食べたくないんだ」

 ガタンと椅子が倒れる音がして、女たちは一斉にそちらの方向を見た。

 コリンが立ち上がり、恐いほどに険しい瞳で、こちらを睨んでいた。

「月のものはあるの?」

 低い問いかけに、部屋にいた女たちは息をのんだ。意味が取れずにいるのは、レノスひとりだった。

「どうなの。あんたの月のものは、いつあった?」

「わ、わたしは……」

 記憶をさぐりながら、のろのろと答える。「わからない。もともと……ないこと、多かった……」

 コリンは近づいてきて、荒々しくレノスの顎をつかみ、じっと間近から覗きこんだ。

「身ごもっているのだね」

 判決を下すように、コリンは厳かに言った。「あんたは、セヴァンの子を宿しているのだね」

「……子を、宿す?」

 おうむ返しに答えることしかできない。「わたしが、セヴァンの子を?」

 コリンはレノスから離れた。両手を拳の形に固め、「おお」という言葉にならない声を挙げた。

「わたしは、神々に祈った。どうか、あんたが村から出て行ってくれるようにと。それが無理なら、どうか、あんたの胎を閉じて、決して子を宿さぬようにと。毎日祈った、祈ったのだよ!」

 両足をふんばり、地団駄を踏む。その激しいしぐさに、部屋の女たちは一様に顔をこわばらせ、絶句している。

「だが、あんたは子を宿してしまった」

 コリンはこちらを振り向き、疲れ切った苦い微笑を浮かべた。「たぶん神々は、あんたをゆるしたのだろう。氏族の女となり、この村に住んで、氏族の子を産み育てることを」

「わたしは……ゆるされた」

 セヴァンの乳母はゆっくりと拳をほどくと、その手をレノスの肩に置いた。

「そうならば、今日からわたしも、あんたをゆるさなければならないだろうよ」

 その暖かい胸に引き寄せられたとき、レノスはぶるりと身ぶるいした。そして、彼女の腕にしがみついて、声を挙げて泣いた。



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