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月の戦士  作者: BUTAPENN
千の月夜
50/62

千の月夜(4)


「元気そうだな。心配するまでもなかったか」

 レノスは上半身を起こして、彼を睨みつけた。「セイグとペイグは……どうした!」

「もうここにはいない。三日ほど前に、二千デナリウスの身代金と引き換えにローマ軍に引き渡した」

「そんな法外な身代金を……」

「やつらは、あなたの身代金として、もう二千デナリウス上積みしてもよいと言ってきた――もちろん、即座に断ったが」

「ローマ軍は絶対に撤退などしない」

「そうだろうな。だから、あなたを返すつもりもない」

「そして、こうして一生、犬小屋に閉じ込めておくわけか」

「俺が捕虜になったとき閉じこめられた、あの見張り塔の地下より、ここはずっと暖かく安全だと思うが」

 セヴァンは皮肉げに唇をゆがめた。「なんなら、村の広場につないでおこうか? 通りすがりの者があなたを蹴飛ばし、唾を吐きかけられるように」

「そのほうが、今よりもずっとましだ!」

「なぜ、そんなに怒っている」

 セヴァンはふたたび、かたわらに片膝をついた。レノスは、無意識のうちに身を引き、藁束に背中を押しつけた。

「堰き止めていた川はどうなった」

「堰は壊した。元通りに水を流している」

 彼の口調が少しずつ、苛立ったものになる。「ひとりも殺すことなく戦いを終えるために、どれだけ周到な準備を重ねたことか……あなたがそう望むと思ったからだ」

「嘘だ。信号塔にいた見張り兵を殺したくせに」

「あの見張り兵はひどく抵抗し、やむをえず殺したと報告を受けている。こちらだって自分の身は守らねばならないんだ」

「そもそも、戦いを仕掛けてきたのは、そっちだ!」

 レノスはうなだれ、髪の毛をかきむしった。「氏族とローマはもう何年も平和を保っていたのに……何の理由があったんだ。なぜわたしを裏切った。なぜ、わたしたちは戦わなければならなかった」

「裏切った?」

 セヴァンの両眼がランプの明かりを受けて、燃えるように光った。「裏切ったのは、あなたのほうじゃないか」

「わたしが?」

「司令長官への出世など、なぜ望んだ。次は第六軍団の軍団長か。その次はゲルマニア防衛線への栄転か」

 彼は大きく、震える息を継いだ。「あなたは結局、ローマの軍人であることを選んだ。いったん皇帝の命令があれば、ローマ帝国のどこへでも喜んで赴くだろう。あなたが軍人である限り……そう、あなたがローマ軍にいる限り、俺のものにはならない」

 力強い手がぐいと顎をつかみ、レノスは無理やりに上を向かされた。

 ひたむきな情熱を宿した碧の瞳に一瞬で捕えられる。全身の力が抜けていくようだ。心までもが、からめとられそうだ。

「だから、俺はあなたをローマ軍から引き離そうと思った。一対一の戦いに勝ってあなたを捕虜にし、ローマが絶対に受け入れられない無理な要求をつきつける。あなたは人質という名目で、ずっとこの村で、俺のもとで暮らすことになる」

 ずっとこの村で? 彼と暮らす?

「……それしか、方法を思いつかなかった。なんとか、あなたを傷つけずに捕えようと努力はしたが――」

 後悔に眉が曇った。「できなかった。あなたは強すぎた」

「冗談では……ない」

 レノスは、甘美な惑乱にあらがいながら、反駁のことばを紡ぎ出す。

「そんなこと、わたしは望んでいなかった……おまえは、ローマと氏族のあいだに起こさなくてもよい争いを起こし、消えることのないくさびを打ち込んでしまった」

「楔など、もうとうの昔に打ちこまれている」

 セヴァンは冷たく答えた。「アイダンが死んだ八年前の戦いのときから、いや、もっと以前から。ローマがこの地を侵略し、土足で踏みにじって以来、氏族がローマとの平和を望んだことなど一度もない」

「それが、おまえの本心からの言葉なのか」

 レノスは、セヴァンの手を振りほどくと、床に突っ伏した。「そうではなかったはずだ。二年前のおまえは、ローマを誰よりも理解し、ローマと氏族との平和を願っていたはずだ」

「それは、俺が奴隷だったからだ」

「そうか。ならば、今のわたしは捕虜だ」

 うつぶせたまま、絶望のあまり、腹の底から笑いがこみあげてくる。「こうやって犬のように繋いでおけば、いつか氏族にしっぽを振るとでも思っているのか。冗談ではない。ローマ人の誇りと名誉を取り去られるくらいなら、死んだほうがましだ!」

 セヴァンは立ち上がった。その顔には石のような硬い怒りが刻みつけられている。「やはりあなたは、俺のことを見ていない」

「……なんだと」

「あなたが欲しがっているのは、ローマに従順な奴隷だったときの俺だ。足元にひざまずき、『主よ、ご命令は』と聞く奴隷だ。今の俺はもう、あなたの求めているゼノではない」

「何を……言っている?」

「俺たちは、最初から対等ではなかった。あなたは俺を鞭で打ち、名前を取り上げ、額に消えない奴隷の印を彫って、支配した。忘れたとは言わせない」

 セヴァンが足首をつなぐ枷の鎖を強くつかんだので、足に痛みが走った。「その立場は逆転して、あなたは俺の足元に奴隷のようにひれ伏している。平和を望むと口ではきれいごとを言いながら、氏族を高みから見下しているあなたにとって、死にたいほどの屈辱だろう」

「やめろ……ゼノ」

「俺を、そんな名で呼ぶな!」

 不穏な空気に、寝そべっていた猟犬たちが首を持ち上げ、耳をぴんと立てた。

 セヴァンは鎖を唐突に離し、レノスに背中を向けた。主の沈黙に、犬たちはまたうずくまって、無垢な眠りに戻った。

「もう、あなたが俺に心を開く日など、いくら望んでもやって来ないのだな」

 やがて、低くうめくような声が聞こえた。「あなたと俺は、いつまでたっても主人と奴隷だ……それは、もう変えることができない」

「……セヴァン。おまえは」

 どうしても聞かなければならないことだった。ペイグが耳打ちしてくれたことの本当の意味を。

「わたしのことを、憎んでいるのか」

「その答えを聞いて、どうする」

 セヴァンはランプをつかんで歩み去った。暗黒に包まれた部屋の中で、春の雨が屋根わらを打つ音を、レノスはひとり、いつまでも聞き続けていた。



「また、残した。食事」

 食器を下げながら、ユッラはうなり声を上げた。「食べない、けが治らない。ダメ」

「動かないから、食欲がわかないのだ」

 いつかどこかで、同じ言い訳をしていたなと、レノスは思い出す。その言葉を聞いて怒ったような目をしてくれた人を思い出す。

 あれからセヴァンは、一度もここには来ていない。

 心が体から離れて、どこかへ行ってしまったようだ。朝起きてから夜寝るまで、ただぼんやりと過ごすことが、レノスの毎日だった。多忙を極めていた砦での司令官としての日々が、どこか遠くの他人の話のように思える。

 族長の家との仕切りになっている垂れ幕がめくれ上がった。一瞬で身構えられたのは、長年鍛えてきた身体が、まだかろうじて衰えてはいなかったのだろう。

「司令長官どの」

 セヴァンの弟、ルエルだった。ひどく強張った顔に笑みはない。「お加減はいかがですか」

「ありがとう。悪くはない」

 ルエルが、後ろ手に何かを隠しているのが見て取れた。

(処刑用の短剣か?)

 不思議なほど静かな気持ちで、そう思った。それならば、それでいい。

「今日は良い天気です。外に散歩に行きませんか」

「え?」

 ルエルはしゃがみこんで、隠し持っていたものを取り出して、木の枷をはずした――鍵だったのだ。

「いいのか」

「かまいません。逃げ出さないと約束してくれれば」

「兄上はこのことを知っているのか」

「知りません」

 若者はそう言って、口元をきっと引き結んだ。

 外に出ると、漆喰壁にもたれてしゃがみこんでいた厩番のユッラが、あわてて立ち上がり、ズボンについた土をはたきながら、照れ笑いを浮かべた。

 レノスが憔悴していることをルエルに訴えたのは、彼女なのだろう。

「司令官さま、歩く、痛い、ない?」

「だいじょうぶだ」

 一ヶ月ぶりの外の空気は暖かく、すがすがしい若草の香りをはらんでいた。そして、久しぶりに見るクレディン族の村の風景は、美しかった。

 前を通る道は、二台の馬車がすれ違えるほど広く、家々は、真新しい藁で屋根を葺かれ、煙をゆったりと空に立ち昇らせている。ワラビの青く茂る丘の斜面は朝の光にまばゆく照り輝き、羊の群れが羊飼いに率いられて、登っていくのが見える――。

「僕たちの村は、少し変わったでしょう」

 ルエルが、ごく控えめな自慢を口にした。

「ああ、見違えたよ」

「ちょっと歩きましょうか」

 ルエルは先導して、広い道をゆっくりと歩き始めた。レノスがそれに従い、少し離れてユッラがついてくる。

 道は砂利で固められて、歩きやすい。ゆるい傾斜がついていて、両側に排水用の溝が掘られている。驚いたことに、それはまさに、ローマ式の道の作り方だ。

「兄さんは帰ってきてから二年間で、村をここまで整えました。村の女たちが苦労して水汲みに行かなくてもよいように、川から水路を引き、家々には漆喰を塗って、屋根を葺き替えました」

「そうか」

「兄は氏族の掟まで作り変えました。畑は女の仕事だと言い張る戦士たちを説得して、村人総出で畑を耕し、小麦を増産しました。羊も増やして羊毛を売り、村は豊かになりました。冬になっても、飢える子どもはもういません」

 レノスは、誇らしさで胸が熱くなった。セヴァンはローマで学んだことを決して忘れてはいないのだ。たとえ、わたしたちローマ人から受けた仕打ちを恨んではいても、ローマの知恵までは否定していない――

「ルエル」

 ひとりの女が通りの向こうから近づいてきて、進路をさえぎるように彼らの前に立った。すらりとした美しい女だった。輝く金髪を細く編みこんで長く垂らし、ゆったりとした長いスカートを履き、濃い緑のタータンを肩に羽織っている。

 レノスは彼女の顔を見て、「あっ」と声を漏らした。アイダンの妻、メーブだ。

「ルエル、戦士長が呼んでいるわ」

 女は氏族のことばで族長の弟に語りかけると、チラリとレノスを眇めた。

「わかった。後で行くよ」

「あなたは、メーブだろう?」

 レノスは声がうわずるのを抑えることができなかった。「久しぶりだ。どうしていた。息子は元気か」

 女は肩掛けを羽織りなおすと、ひとことも答えずに去って行った。

 八年前の戦いの後、村で会ったときとはまるで違っている。村に略奪に訪れたレノスを、メーブは敵ではなく夫の友として扱い、夫の遺した宝箱さえ見せてくれたのに。

 周囲の様子に、ようやく気づいた。

 あちこちの家の戸口に人々が顔をのぞかせ、じっとレノスを見つめている。珍しい見世物を見るような、冷ややかな好奇心と嫌悪。

 動けなくなってしまったレノスを、ルエルはうながした。

「歩きましょうか」

「誰かに呼ばれているのではなかったのか」

「いいんです。どうせ戦士長の言うことは決まっていますから」

「わたしをなぜ早く処刑しないのだという話か?」

 ルエルは足を止めて、悲しげな表情で振り返った。

「やはり、戻りましょう。病み上がりのあなたに、春の風はまだ冷たい」

 彼らは、来た道を逆にたどり始めた。

「犬といっしょに閉じ込められて、ひどく侮辱されたと思いましたか」

 レノスが口ごもっていると、ルエルは続けた。「ローマ人は犬を汚いものだと見下します。けれど、僕たちにとって、オオカミの血を引く彼らは、クレディン族の神聖な象徴です。だから、族長の家に犬小屋があるのです。あそこにいれば、あなたは安全です」

「あれを……安全だというのか」

「鎖でつないだことは、おゆるしください。決して外に出てほしくなかったのです」

 足を進めながら、ルエルはとぎれとぎれに話した。「多くの村人は、村が豊かになったことを喜んでいます。けれど、兄のことをローマかぶれと陰口をたたく者もまだいるのです」

「やはり、いまだにそうなのか」

「八年前の戦いを覚えている者たちも多い。あなたとふたりの騎馬隊員たちが、捕虜となってこの村に来たとき、戦士の集会はとても荒れました。何人かの戦士たちは、捕虜をすぐに殺すべきだと立ち上がって叫びました。カシの聖者のお告げは、いつも決まっているからです――『ローマ人は、クレディン族の村に災いをもたらす』と」

 カシの聖者――ドルイド僧のことだ。彼らの言葉は、今でもケルトの氏族たちにとって絶対なのだ。

「セヴァン兄さんは、その声にひとりで立ち向かい、説き伏せてきました。それがどれだけ大変なことか、あなたにはきっとわからない」

 族長の家の前でルエルは立ち止まり、レノスと向き合った。

「正直言って、僕はあなたがこの村にとどまることが良いことだとは思えません」

 彼は、途方にくれたような目をしていた。「あなたはすばらしい方です。けれど、この村にいても、あなたは決して幸せになれない。兄さんもあなたも、お互いに苦しむだけです」

 ルエルは犬小屋への垂れ幕を巻き上げ、レノスを中へ入るように促した。外の光に慣れた目に、中はひどく暗かった。

「戦士長の話というのは……」

 ルエルは、言おうかどうか決心がつきかねているようだった。「兄の結婚のことです」

「え……?」

「セヴァン兄さんはもうすぐ、メーブと結婚することになっています。それが、クレディン族の習わしだからです。兄が死んで弟に妻がいないときは、兄の妻を娶って名を残さなければなりません。兄さんは断り続けていますが、いつまでもそうもいかないでしょう」

 ルエルは肩を落として出て行った。茫然と立ち尽くすレノスの手首を、ユッラがそっと握って、藁を敷いた牢獄へとみちびいた。



 その夜、レノスは瞼を閉じようともせず、天井の明かり取りから、白い月の光が射しこんでくるのを、ぼんやりと見ていた。

(わたしは、北の砦に帰りたいと願っているのだろうか)

 もちろんだ。当たり前ではないか。それがわたしの人生のすべてだったのだから。軍人として、ローマ人として生きること以外の道がありようはずはない。

(たとえ、それがセヴァンと永遠に訣別することになっても?)

 わたしがこの村に来て、何ができる? クレディン族の民はわたしを受け入れてはくれない。ローマ人は、クレディン族の村に災いをもたらすと信じているのだから。

 彼の族長としての立場は、ますます悪くなるだけだ。彼はメーブと結婚するのが、一番幸せなのだ。

 レノスは苦しさに耐えかねて、跳ね起きた。

(わたしは本当は、いったい何を望んでいる?)

 もちろん、昔のようになることだ。わたしはローマ軍人としての責務を全うし、セヴァンは昼も夜もわたしのそばにいて、わたしに仕えて……。

――あなたは、俺のことを見ていない。あなたが欲しがっているのは、ローマに従順な奴隷だったときの俺だ。

 レノスは唇を噛んだ。「わたしは……」

 藁くずを拳で握りしめては、はらはらと地面に落とす。その無意味な作業を続けているうちに、足が自由に動くことに気づいた。

 ユッラが昼に体を拭いてくれたとき、枷につないでいた鎖をはずしたまま行ってしまったのだ。ユッラの過ちなのか、それとも、ルエルの指示なのか。

 レノスは、ゆっくりと立ち上がった。片足に枷は嵌められたままだったが、歩くのに支障はない。走って逃げることさえできるだろう。

 天頂から差し込む月光は、蜘蛛の糸のように細くやわらかく、寝そべる猟犬たちの上に降り注ぎ、祖先であるハイイロオオカミから連綿と受け継いできた毛を銀色に輝かせている。

 その美しい光景をぼんやりと眺めているとき、どこからか物音がした。壁の向こうで、人が歩く気配がする。

 足音が止まり、鉄の灰掻き棒がきしむ音がした。そして、パキパキと薪の小枝を手折る音。

 家の主が外から帰ってきて、炉端に座り、火種を掻きたてているのだ。

 レノスは、はだしのまま歩き出した。

 垂れ幕をめくり、母屋に入る。アカシカのマントを羽織った男は、背中を丸めて火のそばに座っていた。

「セヴァン」

 男は振り向いて、目を大きく見開いた。

「少し、話をしないか。眠れないのだ」

 セヴァンは、元どおり炉の上にかがみこんだ。「今何時だと思っている。話をする時間ではないな」

「こんな夜更けまで帰って来なかったやつに言われたくはない」

 レノスは長椅子の隣に腰を降ろした。炉の中では小さな炎がちろちろと燃え始め、セヴァンの無精ひげの生えた横顔をぼんやりと照らし出していた。

 だが、その背後は暗く、何も見えなかった。暗闇は暖かく、さながら繭に包まれている心地がした。

「こんな遅くまで、何をしていた」

「氏族連合の集会だ。ローマから得た身代金の分配に、ひどく手間取ったのだ」

 セヴァンは物憂げな声で答えた。「どの氏族も、これでは満足できないと言い張る。もう一度ローマに攻め入ろうと言う者さえ現れる始末だ」

「では、また戦いを起こすつもりか」

「もう戦いの目的は達した。ローマの金などに用はない」

 彼は、薪架に手を伸ばして、薪を何本か火にくべた。ふたりは黙ったまま、燃え上がる真赤な炎にじっと見入った。

「眠れぬまま、つらつらとおまえの言ったことを考えていた」

 レノスが閉ざしていた口を開いた。「おまえは、わたしを迎えに来ると約束した。だが、わたしは、いつかおまえが戻ってきてくれて、元のように暮らせると思っていた。わたしがどこに行こうと、おまえは何も言わずについてきてくれると」

 自嘲するように含み笑う。「わたしは自分がローマ人を捨てることなど、思いつきもしなかった。おまえの言ったとおり、わたしは自分勝手だ。心のどこかで、氏族をローマ人より低く見ていたのだ」

 セヴァンは、手の中の最後の小枝を音を立ててへし折り、火の中に放り込んだ。

「あなたたちは、こちらが従順な奴隷であれば、受け入れる。やさしい言葉をかけてくれさえする。だが、こちらが一度でも噛みつけば、その関係は終わる」

「ローマ人は、自分より強い存在を赦すことができないのだ」

 レノスは、ほほえんだ。「敵とみなして徹底的に踏みつぶし、できなければ、高い壁を築くだけだ。ハドリアヌスの長城や、ゲルマニアの防衛線のように」

「俺たちは、地面に境界があるなど想像したこともなかったのに」

「いつかおまえは言っていたな。ローマ人は暖かいイタリヤだけに閉じこもっていればよかったのにと。あれは正しかったのかもしれない。一度得た領土を失うことの恐怖に、ローマはずっと駆り立てられている」

「それなのに、あなたはまだ軍人でいるというのか?」

 レノスは、背筋をぴんと伸ばした。「そうだ。たとえどんな過ちを犯していようと、わたしはそのローマのために戦ってきた。これからも、そうする」

 新しい薪がくべられた。その重みで、白く燃え尽きた薪が、炎の中で崩れ落ちていく。

「俺は、うしなった部下のために嘆くあなたを、そばで見ていることができなかった」

 セヴァンは、うめくように言った。「俺たち氏族が強く豊かな国を作り上げれば、北からのピクト人の侵入を防げる。氏族がばらばらに争い合うのではなく、ひとりの王のもとにひとつの国となれば、ハドリアヌスの長城よりもはるかに強い防衛線となり、あなたを護る力を持てる……そうすれば、あなたはもう戦う必要はない。苦しまずにすむと……そう思っていたのに」

「そのために、おまえは王となったのか」

 レノスは、深い息を吐いた。「わたしのために、王となる苦しみを背負ったというのか」

「それも全て無駄だった。あなたはイヌワシだ。獲物を求めて、どこにでも飛び去ってしまう」

 セヴァンは立ち上がった。「決して、俺の手の届かないところへ」

 レノスは、明かりと暗闇のはざまに立つ男を見上げた。

「わたしがそばにいれば、おまえをさらなる苦境に陥れるだろう。おまえは自分の民からも憎まれることになる」

「そんなことは、させない」

「おまえは王ではないか。民のことを一番に考えるべきだろう」

 針のような苦痛を飲み込みながら、叱咤のことばを吐き出す。「わたしは、ローマのことを第一に考えてきた……だから、わたしたちの道は決して交わらないのだ」

「……それが、あなたの出した結論なのだな」

「氏族を平和と繁栄に導くのが、おまえの役目だ。そのために余計なことは考えるな。氏族の娘を娶って、穏やかに暮らせばいい」

「それが、あなたの本心なのかと聞いている!」

 鉄の薪架が押し倒され、がらがらと音を立てて割り木が地面に散らばった。

「以前、あなたは『わたしを憎んでいるのか』と問うたな」

 荒れ狂う海の色の瞳で、セヴァンはレノスを睨んだ。「ああ、憎んでいるとも。あなたのために、俺はどれだけ自分をめちゃくちゃにしてきたことか。ばらばらの氏族をまとめあげ、反対の声を無理やり押さえ込むために、剣さえ振るった。侵入してくるピクト人の血にまみれ、幾人もの仲間を失った。それでも……あなたを手に入れるためなら、俺は同胞全部を売り渡してもよいとさえ思った」

 彼は耐えきれずに、顔をそむけた。「俺をこんなに狂わせたあなたを……どうして憎まずにいられる?」

 果てしない沈黙のあと、暗がりにうつろな声が響いた。

「夜が明けたら、あなたを解放する。アラウダに乗って、北の砦だろうとローマだろうと、好きなところに行くがいい。止めはしない。俺はもう……疲れた」






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