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月の戦士  作者: BUTAPENN
流転
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流転(4)


「外へ出ろ」

 レノスの視線を痛いほど背中に感じながら、セヴァンは弟を引っ張って、扉の外に連れ出した。

 暁の薄闇の中であらためて、成長したルエルの姿を見つめ、胸が苦しくなる。弟は兄のアイダンと同じ赤みがかった髪をしていた。そして、亡くなった母の面影があった。

「父さんの具合は」

「ずっと良くない。怪我をした肩が黒くただれて、ヤナギの樹の皮を煎じて飲んでも全然効かない」

 ルエルはハシバミ色の目にいっぱい涙をためて、うなだれた。

「だんだんひとりで歩けなくなって、セヴァン兄さんが無事に帰ってきたという噂を聞いて、急に床から離れられなくなった。今まで、気力で持ってたんだと思う。ときどき、寝言で兄さんの名前を呼んでる」

 彼は、兄の袖をぐいと引っ張った。「ねえ、僕といっしょに今すぐ帰ろう。手遅れになる前に、父さんに会ってくれよ。父さんはセヴァン兄さんを次の族長に任命するつもりなんだ」

「次の族長は、おまえだ」

 セヴァンは、弟の手をそっとはずした。「アイダン兄さんが死に、俺がローマの捕虜になったとき、そう決まったはずじゃないのか」

「違う。父さんは本当は、セヴァン兄さんに族長になってほしいと望んでる」

「まさか」

 セヴァンは、嘲り笑った。司令官の使いとして村を訪れたとき、『ローマの犬』と呼ばれたではないか。父は、会ってすらくれなかったではないか。

「違う」

 ルエルは必死で首を振った。

「本心はそうじゃなかったよ。父さんはいつも兄さんのことを気にかけていた。あいつが奴隷になったからこそ村は救われたんだと、よく酒を飲んでは泣いていた」

 全身の血が消え失せたようだった。ずっと幼い頃から父に嫌われていると思っていた。

 愛されているのは、アイダンだけだと……できそこないの弟には、一文の価値もないと。

 そうではなかったのか。父の心を知らなかったのは、自分のほうなのか。

 せめぎ合う言葉を喉に押し戻し、セヴァンはようやく答えた。

「村には戻れない」

「……なぜ?」

「俺は、奴隷だからだ」

「じゃあ、僕が兄さんの代わりに奴隷になる」

 十五歳の少年は袖で涙をぬぐってから、叫んだ。「ラテン語なら、少しはしゃべれる。司令官に頼んでみるよ。一生懸命に働くから、兄さんを代わりに村に帰してほしいって」

「おまえでは、司令官の奴隷は務まらない」

 セヴァンはひどく優しい気持ちになって、微笑んだ。「ありがとう。でも、もう俺のことは忘れてくれ」

「僕じゃダメなんだよ」

 ルエルは、胸の前できゅっと拳を握りしめた。「去年の秋、北の部族が攻めてきたときも恐くて、勇敢に戦えなかった。みんな口には出さないけど、心の中で思ってるに違いないんだ……セヴァン兄さんなら、きっと先頭に立って戦士を率いてくれるのにって」

「ルエル」

 セヴァンは、自分と同じ劣等感にさいなまれている、まだ背の伸びきらない弟の肩に両手を置き、力をこめた。

「しっかりしろ」

「兄さん……」

「アイダンといっしょに俺も死んだと思え。父さんの後を継ぐのは、おまえだ。もう、おまえしかいないんだ」



 ルエルをなんとか宥めて、村に帰すと、セヴァンは何食わぬ顔で司令官室に戻った。

「弟は、どうした」

「帰りました。俺がガリアから戻ったことを聞いて、なつかしくて会いに寄ったと言っていました」

「うそつき」

 レノスは、薄茶色の瞳を皮肉っぽく細めて、彼を見た。「わたしは、カタラウニ族の乳母に育てられたのだぞ。おおよその内容くらい、わかる」

 セヴァンは答えを返せず、うなだれた。

「族長どのの容態がお悪いのだな。すぐに帰ってやれ」

「弟は弱気になっています。今帰れば、次の族長を俺に譲ろうとするでしょう。弟のためにも、俺は帰らないほうがいいんです」

 司令官は、机の上にこぶしを叩きつけた。「このまま父上の死に目に会わずにいれば、おまえはきっと一生後悔するぞ。何をためらっている。おまえをこの世に生み出してくれた人ではないか」

「あなたは、後悔しないのですか」

 セヴァンは顔を伏せたまま、つぶやいた。「あなたは俺と離れて、それで平気なのですか」

 沈黙が、部屋に重く降り積もっていく。

「馬の様子を見てきます」

 セヴァンはいたたまれなくなり、逃げるように部屋を飛び出した。



 厩舎に入ると、セイグとペイグが近づいてきた。ふたりとも、新しい騎馬隊長のもとで立派に補佐役を務めている。

「エッラはこっちだぞ」

 砦に残しておいた白い葦毛馬は、四年のあいだに一人前になり、この春一頭の仔馬を産んだばかりだった。乳離れの時期が来て、厩舎の元の場所に戻ってきたエッラは、アラウダと隣り合うと、なつかしそうに鼻をこすりあわせた。

 愛馬のたてがみを撫でていたとき、明らかにローマ兵士ではない大男がずかずかと入って来た。

「やあ、ゼノ」

 元剣闘士リュクスが、真っ黒に日焼けした顔に、にかっと白い歯を見せて笑った。

「何の用だ」

「用がなきゃ、来ちゃいけねえのか」

「当たり前だ。ここはローマ軍の砦だぞ」

 セヴァンは吐き捨てるように答えた。ピクト人から町を守った功労者が自由に砦に入りびたることを、兵士たちは咎めずに許しているのだ。

「どうした。機嫌が悪いな」

 リュクスは戸惑ったように、鼻の頭をぽりぽり掻く。「そうか、親父さんのことを気にしてるのか」

「親父さん?」

 聞き返すセイグたちに背を向けて、セヴァンは荒々しい足取りで厩を出た。

 リュクスが「ゼノ」と叫びながら、後ろから走って追いかけてきた。

「なんて口の軽い男だ」

「すまん、このことは秘密だったな。悪かった」

 リュクスは彼を追い越し、立ちふさがるように両手を広げた。「けど、気になっているのは本当だろう。帰らなくていいのか」

 セヴァンはしかたなく立ち止まる。

「秋になれば、ピクト人たちがまたやって来る。また襲われるかもしれないんだぞ。いっそのこと、ローマ軍に村を守ってもらったらどうだ」

「そんなことをすれば、クレディン族は回りの氏族から裏切り者だとみなされ、つまはじきにされる」

「ややこしい話だな。俺にはさっぱりわからん」

 巨躯の闘士は、赤銅色の顔をしかめた。

「おまえさ。ガリアに行く前、俺に町を守って戦えるように自警団を作れと頼んだよな。ピクト人が襲って来ることがわかってたのか」

「わかるはずないだろう」

 セヴァンは、じれったげに友を睨みつけた。「だが、俺がピクト人の長なら、そうする。ローマは長い内戦で疲弊している。攻め込むなら今だと誰でも思うだろう」

「ローマ軍団は、この地からいなくなるとも言ってたけど、それも本当なのか」

「いずれは、そうなる」

 セヴァンの凍てついた色の瞳は、あのルグドゥヌムの戦場に横たわる屍の山を見ていた。「醜い皇帝争いの果てに多くの兵が失われ、防衛線は穴だらけだ。ローマには、もう昔の強さはない」

 リュクスは「うう」とうなった。「ローマ軍がいなくなれば、このあたりはどうなる。北からの蛮族の侵入がますます増えるだけなんじゃないのか」

「何も変わらない。昔に戻るだけだ」

 セヴァンはいらだたしげに、道端の藪から木の葉をむしり取った。

 そうだ。昔の暮らしに戻るだけだ。

 氏族は自分の土地を守って戦う。自然が差し出してくれるものだけをもらって生きる。多くは望まない。海の向こうのことなど何も知らずに、壮麗な円形闘技場も凱旋門も裁判所も見たこともなく、文字で記された偉人の叡智の言葉など読むこともなく、人々は生まれて、生きて、戦って、何も書き遺さずに死んでいく。

 木の葉をくしゃりと握りしめる。俺は、氏族の暮らしに戻ることが恐いのかもしれない。

「なあ、ゼノ」

 藪の横の草むらに無造作に座り込むと、リュクスが言った。「ピクト人相手に戦ったとき、俺は恐ろしかった」

「恐い? おまえが?」

「剣闘士だったころは、これほど恐いとは思わなかった。強ければ生きのびる。死んだらそれまで――そうやって割り切っていたはずだった。だけど、今度は違った。もし俺が敗けて殺されたら、この町の人はどうなる。スーラさまやフィオネラさんは、ユニアはどうなる。敵に殺されるのか、首を切り取られるのか――」

 剣闘士の声はささやくように小さくなった。「どんなに無敗を誇った俺でも、たった一本の矢で死んでしまう、たったひとりを守ってやることすらできない存在なんだって……そう思ったとき俺、恐くてたまらなくて、祈った。剣闘試合の前みたいなのじゃなく、生まれて初めて本気で神に祈った――『クリストゥスの神よ。もしあなたに力があるなら、あなたのことを真剣に信じてるユニアを守ってやってくれ。ユニアを守るために俺を守ってくれ。そしたら、あなたが神だと信じてやるから』」

 照れ隠しに、頭をばりばりと掻く。「……ま、洗礼を受けるのは、そのお礼参りみたいなもんだ」

 セヴァンは、思わず声を上げて笑った。「ユニアと結婚したいからだと言ってたのに」

「そういうことにしとくほうが、こっ恥ずかしくないからさ」

 金髪の剣闘士は、笑いを含みながら空を仰いだ。「戦いが迫っているのに、部屋の中で祈ってばかりいるクリストゥス信者たちを、正直、俺はバカにしてたよ。戦わなきゃ平和は守れないじゃないかって。クリストゥスは『平和を作り出す者は幸いだ』と言ったらしいが、そんな簡単に平和が作り出せたら、苦労はしねえって。そんな俺が、変われば変わるもんだ」

 セヴァンはゆっくりと手を開いて、粉々に砕けた木の葉をじっと見つめた。

「俺は、あの人のために何をすればいいんだろう」

「決まってるじゃないか。帰ってやることが、親父さんへのなによりの親孝行だって」

 言葉の意味を取り違えたリュクスは、熱心に言い募った。「豊かで平和な村を作るんだ。カルス司令官も、そのためなら快くおまえを解放してくれる。おまえなら、きっとローマと氏族の橋渡しになれる。それは、おまえにしかできないことだ。及ばずながら、俺も手伝うよ」

 風が、セヴァンの手の中から、はらはらと木の葉の破片を舞い散らした。

――俺にしか、できないこと。

 もう誰も死なせたくないと泣くあの人のために、俺にしかできないこと。

「リュクス」

 セヴァンは、低くつぶやいた。

「今やっとわかったよ。自分のなすべきことが」



 その日、司令官は、いつものように夜明け前に起きた。

 演習場で部下たちの軍事訓練を見守り、帰ってきて、セヴァンの給仕で朝食を取った。

 昼まで事務室で大隊司令官としての雑務を片づけ、昼すぎの誰もいない頃合いを見はからって、将校用の浴場で湯を浴びた。

 いつもと同じ日課。主人と奴隷のあいだに言葉は必要なかった。

「いい天気だな」

 浴場からの帰り、真青な空を見上げながら、レノスは言った。「こんな良い日に、砦でくすぶっている手はないな」

「はい」

「狩りに行こうか」

 セヴァンは奴隷の作法どおり、黙って目を伏せた。

 投げ槍と弓と矢筒を背負った奴隷を引き連れて、厩に来た司令官を、騎馬隊員たちは大笑いして出迎えた。

「ようやく、元気になられましたな」

「ええ、ええ。時間の問題だと思っていましたよ。ノロジカもウサギも、まるで司令官どのを誘うように野山を飛び回っていますからね」

「非番の者を集めて、みなで行きますか」

「いや、今日はゼノとふたりだけでよい」

 そっけなく言うと、レノスは軽やかに愛馬にまたがった。「夜には戻る」

 アラウダとエッラは並んで、草原を駆け抜けた。乾いた草は心地よい音を立てて、二頭の葦毛馬を迎え入れた。

 ヒースは紫の花で大地を染め上げ、ワラビは赤く色づき、石灰岩の割れ目からつりがね型の青いイトシャジンが顔を覗かせている。

 いくつかの丘を越え、狭い渓谷に下りた。

 碧の水をたたえた森の中の小さな湖は、まるで時間が止まったように、あのときと何も変わっていなかった。

 六年前の秋の日、アイダンとともに、この森を訪れたのだ。そのことをなつかしく思い出しながら、ふたりは互いに微笑み合った。

 その日一日、彼らは思う存分、狩りに興じた。

 茂みに隠れては、湖に水を飲みに来たキツネや、羽根を休めに来たマガモやシギを、かわるがわる投げ槍や矢でしとめた。

 逃がした獲物もたくさんいたが、そんなことはどうでも良かった。隣り合って息をひそめ、動物の気配に耳をすまし、同じ皮袋から水を飲み、獲物をしとめたときは笑い、しくじったときは舌打ちをする。ふたりには、それだけで十分だった。

 昼になり、ふたりは木の根に腰をおろし、硬い携帯用パンを皮袋のワインで飲み下した。

 小さなミソサザイたちが甲高い声で鳴きながら梢を飛び回り、森の底に、ちかちかと光の屑を落としていた。

「おまえは以前、わたしがアイダンを愛していたのかと尋ねたな」

 レノスは苔むした地面に仰向けに横たわり、眠たげな調子で話し始めた。「その答えをするために、今日ここに来た」

「はい」

「六年前のあの日、この森でわたしの心はアイダンに結びついた。あの男の、何かにじっと耐えているような顔が、わたしは好きだった。アイダンをこの手で殺してしまったとき……自分自身が殺されたような気がしたものだ」

 セヴァンは、手の中のパンをもてあそんでいた。

「……今でもあなたは、兄さんのことを?」

 レノスはふふっと笑った。「アイダンの前で、わたしは最後まで男だったよ」

 太陽が西に傾き、森の中が冷たく翳り始めたとき、彼らは一頭の雄のアカシカに出会った。

 シカはじっと動かずに、白みがかった瞳でこちらを見つめていた。毛はほとんど地面に触れるまで垂れ下がり、大きな角は黄ばんで、先が折れていた。

「みごとなシカだ」

 レノスは畏怖に打たれて、うなった。「この森のぬし……だろうか」

「はい」

 と、セヴァンは答えた。「ですが、もう年を取っています。この冬はおそらく越せないでしょう」

「そんなものを、狩るわけにはいかん」

「ローマ人ともあろうものが、弱者を憐れむのですか?」

 奴隷は、かすかに笑った。「あのシカはわれわれを見ても逃げようともしない。死に場所をここに定めたからです。憐れむのは、人間のおごりです」

「驕り……か」

「厳しい北の大地では、死ぬことは与えることです。俺たち氏族は、受け取った命を骨一本、皮一枚までおろそかにはしません」

「わかった」

 レノスの手の中で、槍が重みを増した。「ゼノ。おまえが狩るか」

「いえ、今日最後の狩りはあなたの手で。俺がやつを追いつめます」

 セヴァンは目を上げ、まっすぐにレノスの瞳を見つめて、ほほえんだ。「友よ、良い狩りを」

 次の瞬間、彼は空を駆けるイヌワシのように体を翻した。老いたアカシカはびくっと体を震わせると、ひととびに斜面を飛びあがった。

 レノスも、夢中で彼らの後を追う。

 セヴァンは頭を低く屈めて、木々の間を走り抜けながら、呼び子のように鋭い指笛を幾度か鳴らした。それにおびえたアカシカは、どんどん沼の方角へと追いつめられていく。

 前方の視界が開けたとき、レノスは持っていた投げ槍を放った。槍はトネリコの葉を割いて真っ直ぐに飛んで行き、獲物は声もなく、水しぶきを上げて沼地に倒れた。

 ゆっくりと近づくと、あれほど大きく見えたアカシカは、ひどく小さかった。腹が小刻みに痙攣し、その灰色に濁った目は開いて、レノスをひたと見上げていた。

「すまぬ。おまえの命、もらうぞ」

 止めを刺したアカシカは、すぐに動かなくなった。

 セヴァンは折れた角に手を置いて、小さく祈りのことばを呟いた。どこか遠くに向けられた目は、死の床にある父親を思い出しているのだろうか。

 ネコヤナギの枝ががさりと揺れ、振り向くと、一頭のアカシカがこちらをじっと見ていた。立派な角を持った若いオスだ。

 だが、レノスたちの視線を受けると、すぐに姿を消した。彼が新しい森のぬしになるのだろうと、レノスは思った。知らず知らずのうちに背筋を伸ばして、敬意を表する。

 命はつながっていく。死ぬことは与えること。

 ふたりがかりで、獲物を乾いた場所に引き上げ、手ごろな木の枝に綱を結んで、つるし上げた。こうしておけば、あとで馬の背中に載せるのが楽になる。

 昇ったばかりの月の光が木々の隙間から射しこみ、森の中を藍色に染めあげた。

 しばらくのあいだ沼のほとりに立ち、レノスはちかちかと煌めく水面に見入っていた。

「ここからなら、クレディン族の村はすぐそこだな」

 振り向いてセヴァンに向きなおる。ふたりはしばらく無言のまま、森の木々のように黒々と立つ互いの姿を見つめ合った。

「村に帰れ、ゼノ」  静かに、レノスは命じた。「そして、サフィラどのの後を継ぎ、新しい族長になれ」

 セヴァンは答えなかった。

「わたしはおまえをローマの叡智で導いてこようとしてきた。だが、それは間違いだった。内戦に明け暮れ、打算と狡猾にまみれたローマが、おまえたち氏族に教えることなどあるはずがない」

 声がつまり、苦労して唾を飲み込む。

「本当は、もうとっくに心を決めているのだろう。おまえの顔にそう書いてあるから、すぐにわかる。なぜなら、わたしは――」

 どこかの茂みで、ヨタカが哀しげに鳴いている。

「わたしは、大丈夫だ。奴隷ひとりいなくても、十分にやっていける。わたしには、たくさんの部下がいる。スーラご夫妻やリュクスたちもいてくれる。おまえが……いなくとも」

 ことばが嗚咽に取って替わろうとした刹那、レノスの視界から沼の煌めきが消えた。

 力強い温もりに包まれた体は平衡感覚をなくし、ひやりとした草むらに押しつけられた。

「ゼ……ノ」

 彼の名を呼んだとき、熱い吐息が耳たぶに触れた。

「あなたを、きっといつか迎えに来ます」

 かすかに上ずった声が、レノスの耳に約束のことばを吹きこむ。「待っていてください。きっといつか、あなたを俺のものにします」

 セヴァンは頭をもたげた。金色に輝く髪が輪郭をきらきらと月の光で縁どっていた。灰緑色の瞳は逃げようがないほどまっすぐにレノスを捉え、全身の力を奪い、打ちのめした。

「待っている」

 レノスは、震える指で彼の額の焼き印にそっと触れ、そして頬に触れた。「おまえのすべてを心に刻み込んで、ひとときも忘れはしない」

「呼吸するたびに、あなたを想います」

 セヴァンは、ふたたび覆いかぶさった。「息を吸うたびに、あなたを……吐くたびに、あなたを」



 気がつくと、レノスは沼のほとりに取り残されていた。

 セヴァンの姿は掻き消えていた――はじめから、存在しなかったかのように。月は中天高く昇り、白い光が滝の水のように森にこぼれ落ちていた。

 ぽつりと一頭だけ繋がれていたアラウダを見つけ、獲物を背に乗せて、砦への道をひた走った。

 哨戒兵や砦の門番は、明け方近くになって帰ってきた司令官の姿に驚いた。

「みんな心配していたんですよ。まあ、ゼノがいるから大丈夫だとは思ったんですが……あれ、ゼノは?」

 いぶかしげな顔の部下に、馬と狩りの獲物を託すと、レノスは自室に戻った。

 のろのろとマントを脱ぎ、装備をはずし、不器用に火鉢の火を熾す。

「寒いな」

 レノスは、ちろちろと燃え上がる小さな火を見つめながら、ぼんやりとつぶやいた。「もっと炭を取ってきてくれないか、ゼノ」

 顔を上げる。本当はわかっているのだ。彼がもういないことぐらい。

「ゼノ……」

 それまで、ずっと堪えていたものが目の縁にあふれ出た。

 彼は、行ってしまった。

 どんなに呼んでも、答えが返ってくることはない。『主よ、ご命令は』と、硬く尖った声で呼びかけられることもない。

 背中に注がれる熱いまなざしを感じて立ちすくむことも、もうない。

 なぜ、自分はこんなに弱いのだろう。なぜ、自分はこんなに女なのだろう。

 わたしの全身が、まだおまえの温もりを覚えている。目の奥には、おまえの姿が刻み込まれている。

 今も、耳の中に響くおまえの声を聞いている。


――何があっても、俺が、あなたを守ります。


――俺はもう、あなたを憎むことができません。


――呼吸するたびに、あなたを想います。息を吸うたびに、あなたを……吐くたびに、あなたを。


「……ゼノ……ゼノ」

 おまえがいなくて、明日からわたしはどうやって生きていけばいいのだ。



 まんじりともせぬ夜が明けてから、ほんのわずかなあいだ、寝台でうとうとと微睡んだだろうか。

 兵士たちの尋常ではない叫び声に、レノスは跳ね起きた。

「どうした?」

 剣を手にあわてて宿舎を飛び出ると、大勢の兵士たちの群れの中心に、ゆっくりとこちらへ馬を進めて来た者がいる。

 広場に到着すると、乗り手は馬から降りるのに、かなり手間取っていた。その理由はすぐにわかった。体を紐でしっかりと馬にくくりつけていたのだ。

 男には、片脚がなかった。

「司令官どのーっ!」

 杖をついて歩きながら、彼は大声でわめいた。「カルス司令官どの」

「フラーメン!」

 レノスは、ころげるように駆け寄った。「いったい、どうしたんだ」

「お願いです……俺を、俺をこの砦で雇ってください!」

 麦わら色の髪をした元百人隊長は、切れ切れに訴えた。「故郷のウィッラには、俺の居場所はありませんでした……俺は、この砦でしか生きられないんです。根っからのローマ軍人なんです」

「……おまえ」

 不安定な体勢で歩いてくるフラーメンの両肩を、あわててつかむ。

「その体で、ひとりでここまで来たのか。なんて無茶なことを」

「お願いします。剣磨きでも何でもしますから……ここに置いてください。この砦で働かせてください」

 顔をくしゃくしゃに歪めて泣く部下をしっかりと支えながら、レノスの頬にも涙が伝った。

「会計係の席ならひとつ空いている。ネポスがいなくなって、ずっと困っていたんだ」

「また、よりによって俺の一番苦手な仕事ですか……ひでえな」

 泣き笑いする大勢の兵士たちに囲まれて、レノスは天を仰ぐ。

――ゼノ。フラーメンが帰ってきたぞ。

 この空の向こうに、彼はいる。たとえ、そばにはいなくとも。

――ゼノ。見ていてくれ。

 ふたりの進む道がどれほど分かれようとも。

 おまえがわたしを想ってくれるように、わたしもおまえを想おう。寝ているときも、覚めているときも、いのちが続く限り、おまえを想おう。

 ゼノ。わたしはここで、こいつらと一緒に生きていく。だから、おまえも懸命に生きろ。

 いつかまた会える、その日まで。






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