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月の戦士  作者: BUTAPENN
炉端で
37/62

炉端で(1)



 ローマのあるイタリア半島は、アルプスという天然の要害に北面を守られている。

 したがって、ローマを出てブリタニアに向かおうとすれば、いくつかの選択肢はあるが、いずれはアルプスを通らなければならない。

 レノスたちが選んだのは、北部イタリアの都市アウグスタ・プラエトリアを出発、レマヌス湖の湖畔を経て、レヌス(ライン)川沿いに進む街道だった。

 まだ早春の季節。アルプス越えは決して楽な旅とは言えない。けれど、ローマ帝国は道を整備することにかけては屈指の文明を誇っていた。山越えの難所でさえ、道は石で舗装され、排水設備を備えているので、ぬかるむことがない。ところどころに宿駅マンシオネスを置き、馬替え場、食堂、入浴や宿泊の施設まで備えられていたのである。

 スーラ元司令官は、ブリタニアへの移住を決めたとき、ローマ近郊にある先祖伝来の地所を売って財産を整理し、すっかりと身軽になった。その金で幌つきの馬車を仕立てて、奴隷のユニアと元剣闘士のリュクスをお伴に、元部下のレノスとその奴隷セヴァンを護衛に、のどかな旅を楽しもうと決めているようだった。

 スーラとリュクスは馭者席でまるで父子のように仲良くしゃべり続け、レノスとセヴァンは、それぞれ馬上でその会話を黙って聞いている。ローマに来る道は沈黙ばかり続いたのが嘘のように、帰り道はひどくにぎやかだ。

「レノス、ここらあたりで少し休まないか」

 スーラが声をかけてきた。「そろそろ腹も減った」

 リュクスが手綱を引いて、馬車を止めた。今日何度目の休憩だろう。街道のわきには徒歩の旅人のために歩道があり、その外側の糸杉の並木道は、旅人たちに夏は日陰を、冬は風を避ける場所を提供してくれる。

 愛馬アラウダから降りて、セヴァンに手綱を渡す。彼は無言のまま、二頭の馬を引いていった。

 木の幹にもたれながら、レノスは梢ごしに空を見上げて、ほうっとため息をついた。アルプスを越えてガリアに入ると、晴れたのどかな日が続いている。

 行程はあきれるほど遅々として進まないが、まだ剣闘試合の大けがが癒えたばかりのセヴァンにはちょうど良い。皇帝の座をめぐる醜い陰謀に倦み疲れたレノスにとっても。

 何も考えずにいられる騎乗の旅は、正直ありがたかった。コンモドゥス帝が暗殺され、ペルティナクスが新皇帝に即位し、帝位争いは過去のものとなった。もう二度とあんなことに関わりたくない。

 馬車の中でおとなしく横になっていたユニアは、止まったとたん飛び降りて、てきぱきと食事の用意を始めた。

「やれやれ、何にも手伝わせてくれねえや」

 リュクスが両手をあげて大あくびをしながら、近づいてきた。「そばに近寄るだけで、さっと向こうを向かれる。恥じらうのも可愛いが、そんなに遠慮しなくともよいのに」

(それは遠慮ではなくて、避けられていると言うのだ)

 と言いたい気持ちを、レノスはぐっと抑えた。「クリストゥス信者は、男に対してひどく禁欲的だからな」

「でも、あの娘は、あんたには気を許しているように見えるんだがな」

 リュクスは、じろじろとレノスの顔を検分した。「こういう肌がつるりとした優男が、ユニアの好みなのかな」

 実はユニアは、レノスが女であることを知っているのだ。

 こっそりと申し訳なさそうに打ち明けてきた話によれば、コンモドゥス帝の愛妾マルキアをローマからの逃避行に送り出すとき、彼女の言葉の端から知ってしまったのだと言う。だが、それ以来ユニアはレノスに対して見違えるほど打ち解け、道中でも、入浴のときなど何くれとなく配慮してくれている。

 「はあ」とリュクスはため息をつき、木の根元にあぐらをかいた。

「クリストゥス信者って、ほんと変わってるよな」

「ああ、変わっている」

 頑なに唯一神への信仰を守り、ローマの神々の祭儀にも皇帝礼拝にも決して参加しない。信奉者同士で寄り集まって天国を待ち望み、現世の人々と協調しない。女性や奴隷、解放奴隷も神の前に平等だとして、階級や身分を認めない。ローマ人がこよなく愛する公衆浴場や闘技場さえ、神の教えに反すると唱える。要するに、ローマの共同体の根幹をなす精神全てに反対するのが、彼らの生き方だった。

 馬に水を飲ませに行っていたセヴァンが戻ってきて、水の皮袋をユニアの前にストンと置いた。

「川で汲んできた」

「あ、ありがとう。ゼノ」

 屈託ない笑顔をセヴァンに向けるユニアに、リュクスはまた衝撃を受けたようだ。

「なんでユニアは、俺以外の男にはみんな優しいんだ……」

 慰めるようにポンとリュクスの肩を叩くと、レノスは目を閉じた。

 春の陽光が柔らかにふりそそいでいる。ああ、なんと暖かく、穏やかな日々なのだろう。

(皇帝陛下。あなたも、こんな自由を味わいたかっただろうに)

「みなさん。食事ができました」

 まるで小鳥のさえずりのような、ユニアの明るい声が聞こえる。



 レヌス川に沿って北上する旅は、あたかも季節を遡るようだ。真っ青だった空の色は灰色によどみ、風も寒さを含んでくる。地面も森も、岩までもが黒ずんでいる。温暖な地中海沿岸を遠く離れた侘しさのようなものを感じさせる。

 そんな防衛線の町々に活気を与えているのは、ローマ軍だった。町々に駐屯する正規軍団と補助軍。彼らの保護を頼りに、国境を越えて行き来する商人たち。その交易でもたらされた富で、町は豊かに繁栄している。

「平和そのものだな」

 老スーラが馬車の馭者席から、レノスに話しかけた。「皇帝陛下が暗殺されたことは、民衆たちもうすうす知っているだろうに」

 レノスは、皮肉げに口端をゆがめて微笑んだ。「良いことです。それでもローマ帝国は続いていく」

「でも、いずれは蛮族たちにも知れるだろう」と、リュクスが尋ねた。「そのとき、やつらは防衛線を越えて攻め込んできたりしないのかな」

「ローマ軍が秩序を保っている限り、だいじょうぶだ」

 そう、ローマの兵士たちが辺境の片隅で、血のにじむような努力をして帝国の平和と繁栄を支えている限り、ローマは盤石のごとく揺るがない。

 地中海の小さな半島で、どんな血なまぐさい政争があったとしても、ローマ軍さえ機能していれば、人々の生活は平和に保たれる。

 レヌス川を離れ、西を目指す道路をたどっていくと、アウグスタ・トレウェロルムに到着した。後世『トリーア』と呼ばれ、属州ガリアの中心となる町である。

 町の周囲では、切り出した黒い砂岩を高く積み上げ、市壁と壮麗な門を築く工事が盛んに続いている。

 数万人が住む大都市は、円形闘技場、神殿、橋、そしてもちろん公共浴場が完備し、まさに『第二のローマ』と謳われるにふさわしい。

「すごいな。ここの円形闘技場は」

 平和な毎日に退屈しきっていたリュクスは、久々に血がさわぐらしい。「なあ、おまえもそう思うだろう、ゼノ」

「別に」

「ふたりで組んで、飛び入りで参加してみないか。ローマの闘技場で筆頭剣闘士だったと触れ込めば、たんまりとおひねりがもらえるぞ」

「引退の木刀をもらったんじゃないのか」

「俺は生涯、剣闘士でいる定めの男なのだ」

 有頂天になったリュクスは、彼の雇い主のもとに駆け寄る。「親父っさん。この町で一日か二日、時間をもらっていいかな」

 スーラももともと剣闘試合が嫌いではないので、苦笑いしていると、

「だめです!」

 馬車の中から、ユニアの気色ばんだ声が飛んできた。「剣で戦うなんて恐ろしいことはやめてください」

「だいじょうぶだって、めったなことでは殺したりしねえから。ちょいとお互い血を出せばすむんだ」

「ちょっと血を出すって……そんな野蛮な」

 ユニアは馬車の幌の枠をにぎりしめて、叫び返した。「この天地を創られた神は、人間が互いに傷つけ合うことをお赦しになりません!」

 それを聞いて、リュクスはむっとした表情になった。

「暴力が嫌いなどと生っちょろいことを言っても、実際には、襲って来るやつがいるんだ。強い力を持って自分を守らなきゃ、防げないじゃないか」

「武器を持つから、殺し合いになるんです」

「じゃあ、丸腰でただ祈ってたら、あんたの神さまは守ってくれるのかい。あんただって、ローマ人に住む町を焼かれて、奴隷として連れて来られたんだろうが」

 それを聞いたユニアは、蒼白になって唇をふるわせ、うなだれた。

「す、すまん」

 リュクスはようやく我に返ったが、時すでに遅かった。機嫌をそこねて馬車の奥に入ってしまったユニアを呆然と見送り、頭をかかえて座り込んだ。

「ああっ、どうして俺はひとこと多いんだ」

 同情の余地はないな。レノスは咳払いをして、言った。

「悪いが、予定よりも遅れている。闘技場に寄っている暇などない。食糧を補給して、すぐに発つぞ」



 旅も一ヶ月を越えると、いろいろと不具合が出てくる。車軸が折れたり、馬の蹄鉄がすり減ったり。そういう場合に備えて、ローマの街道には数十マイルごとに、鍛冶屋や替え馬が備えられている。

 だが、人間関係のこじれだけは、どうしようもない。

 ユニアがすっかりへそを曲げ、リュクスがしょげて無口になり、気づまりな静けさの中で、道だけはどんどん捗っていた。

 森と川と、淡い緑の芽吹きに彩られた美しい大地が続く。ようやく、ガリア・ベルギガ州内に入ろうとしていた。

「レノス。見てみろ」

 深い谷を左の眼下に見ながら進んでいるとき、馭者席に座っていたスーラが、突然声を張り上げた。

「確かこのあたりが、第14軍団が壊滅した悲劇の古戦場だよ」

「ここが」

 レノスは、後に続いてくるセヴァンを振り返った。

「第五巻ですか?」

 馬上から熱心に問いかける奴隷に、レノスはうなずいた。『ガリア戦記』の第五巻は、下町スブラの公衆浴場の図書室には置いていなかった一巻だ。

「サビヌスとコッタ将軍が率いるローマ軍団の冬営地が、このすぐそばアドゥアトゥカという場所にあったのだ」

 ウェルキンゲトリクスに先立つこと二年、全ガリア連合を夢見ていたエブロネス族の長アンビオリクスが、ローマに偽の情報を流し、それに惑わされて陣営から誘い出されたローマ軍団をこの谷で包囲して、ほぼ壊滅させた。ブリタニアへ遠征して不在だったカエサルにとって、痛恨の打撃となった戦いだ。

「情報戦は、ローマ人の最も得意とするところだ。それまでのガリア人は武勇を頼みとし、知略に頼らなかった。だが、アンビオリクスもウェルキンゲトリクスも、ガリア人でありながら、ローマの戦法を学び取った。情報の大切さをわきまえていたのだ」

「情報の大切さ――」

 セヴァンはつぶやき、ぐっと道の前方を睨みつけた。

 馬車を操っていたリュクスが、訊ねた。「司令官。今のは、いつの話だ」

「そうだな。二百五十年くらい前か」

「二百五十年!」

 リュクスは信じられないように、首をぶるぶる振った。「そんな大昔の話をして何が面白いんだ」

 ゆるやかな勾配を登りながら、隊列が自然に崩れた。尾根の両側の木々がざわりと動き、リュクスは思わず手綱を引きしぼった。二百五十年前の話にもかかわらず、本当にエブロネス族が潜んでいるかと思った瞬間、一群れの男たちが飛び出してきた。

 鬱蒼と垂れ下がる木々の枝葉に邪魔をされて、見通しが悪かったことが禍いした。気づくと、前後を男たちに挟まれていた。

 前に四人、後ろに三人。いずれも大柄で金髪。顔も腕も毛むくじゃらで、薄汚れた身形とよこしまな目の光は、すさんだ生き方を感じさせた。

 レノスとセヴァンは馬から飛び降りた。リュクスは手綱を奪われまいと、馭者台の上で身構えた。スーラは馬車の奥に這って行き、ユニアを守ろうとする。

 だが、一足遅かった。

 馬車の後ろの扉が打ち破られ、ユニアは賊のひとりの腕の中にすっぽりと収まっていたのだ。ぴたりと首元に短剣を当てられている。

「女を殺されたくなければ、武器を捨てるんだな」

 首領らしき男が、前歯の抜けた口で笑った。「ローマ軍の隊長さんよ」

 レノスはトゥニカ姿だったが、剣帯で吊るしていた銀の柄のグラディウスは、ローマ軍のものだ。

「きさまも、ローマ軍にいたことがあるのだな」

 首領が身に着けている錆びた銅色の鎧に目を注ぎながら、レノスは返した。「……脱走兵か」

「うるせえ。早く剣を捨てろ、そっちのガキもだ」

 レノスとセヴァンは持っていた武器を鞘ごと地面に放り投げた。

「両手を頭の後ろで組め。妙な真似はするなよ」

 ユニアを人質にとられている今は、言われたままにするしかない。

「ま、待ってくれ」

 馬車から、よたよたとスーラが降りてきた。「命だけは助けてくれ。ほら、金ならたくさんある。全部おまえたちにやるから」

 杖を片手に巾着袋を掲げながら、盗賊たちに歩み寄る。だが、よろっと体勢を崩し、地面に中身をぶちまけた。

 金貨や銀貨がばらばらと、道の上に飛び散る。

 欲深さのゆえか、それとも、つい落ちたものに注意を奪われるのは人間の本能か。盗賊たちの視線はころがる貨幣のうえに一斉に注がれた。

 よろけたふりをしたスーラは、そのままの体勢でユニアを押さえつけていた男に体当たりした。

 レノスは、地面に捨てたグラディウスを蹴りあげた。セヴァンは空中の剣をつかみ、盗賊の群れの中に突っ込んだ。リュクスは馬車の上からレノスに自分の剣を放り投げ、手綱をぐいと振った。二頭の馬は、前方にいた盗賊に向かって猛然と走り出した。

 数瞬後にすべては終わっていた。

 三人の盗賊たちは、レノスとセヴァンにしたたかに打たれ、うめきながら地面にころがっている。残りの者は馬に蹴散らされて、這う這うの体で姿を消した。

 ユニアはスーラの背後に隠れて、声もなく一部始終を見ていた。

「相手が悪かったな。こっちは筆頭トラキア剣闘士とその仲間たちだ」

 馬車を飛び降りたリュクスは、にやにや笑いながら金貨を拾い集めた。「親父っさんも、やるじゃねえか。あれがローマ軍の知略ってもんか」

 セヴァンは主人にグラディウスを返すと、自分の短剣を拾い、首領格の男の髪をつかんで、ぐいと顔を上げさせた。

「聞きたいことがある」

 レノスは鞘から剣を放って男の前に立ち、険しい声で問いかけた。「おまえたちはゲルマニアの騎馬兵だな。どこの所属だ。なぜ、軍を脱走した」

 男は目を閉じ、歯をくいしばっている。

「答えない、か」

 レノスの諦めまじりのつぶやきを合図にしたかのように、セヴァンは短剣を男の喉に当てた。

「だめ!」

 ユニアの絶叫がひびいた。「殺さないで、ゼノ。お願い。司令官さま」

「ユニア、こいつらは強盗なのだ」

 スーラは辛抱強くさとした。「ここで見逃せば、また別の旅人を襲って殺すだろう。赦すことが、かえって世の中に害を及ぼすのだよ」

「いいえ、違います。違います」

 ユニアは泣きながら、反駁した。「この人たちだって、盗賊になりたくてなったわけじゃありません。誰も助けてあげなかったからです。そうするしか生きられなかったんです」

「ユニア、おまえ」

 リュクスは激昂して、大声で怒鳴った。「おまえを殺そうとしたんだぞ。そんな奴らを放免するだなんて、冗談じゃねえ!」

 ユニアは両目に涙をいっぱいにためて、リュクスを睨み返す。

「赦します。だって、クリストゥスさまは私の罪を赦してくださいましたから」

「罪って、おまえは何にも悪いことなんかしてないだろうが」

「やめろ、ふたりとも」

 レノスは低く命じ、セヴァンに向かって首を横に振った。セヴァンは短剣をふところにしまい、男から手を離した。

 奴隷の少女の必死の叫びが、百戦錬磨の戦士たちの心を動かした。普通ならば考えられないことだ。

「ひとつ、提案がある」

 老スーラは穏やかな声で、場の注目を引いた。「わたしが、きみたち三人を荷物持ちに雇おうじゃないか」

 「えっ」と驚愕したのは、レノスたちのほうだ。

「ゲソリアクムの港までついて来たら、食事と寝床のほかに1日1デナリウスの労賃を払おう。悪くない話だろう。だが、もし断れば、即刻ここで首を刎ねる」

 盗賊どもにとっては、是も非もない話だ。

「親父っさん、いくらなんでも気前が良すぎないか」

 リュクスは、呆れて空いた口がふさがらない。「この調子で雇っていったら、ブリタニアに着く前に荷物持ちの一個軍団ができちまうぜ」



 港町ゲソリアクムまでは、一週間を要した。

 三人の盗賊はすっかり従順になり、水汲みや薪拾いなど力仕事を何でもこなしたので、旅はますます楽になった。ユニアは、馬車の中の彼らの匂いに閉口して、馭者台に座ることが多くなったので、リュクスもご満悦だ。

「なぜ、脱走したんだ」

 最初はだんまりを続けていたものの、重ねて問うレノスに、ついに口火を切ったのは、首領のクロベルトだった。

「砦の司令官が、俺たちの部隊に十分の一刑を命じたんだ」

「十分の一刑?」

 古い記録にはあるが、見たことはない。敵前逃亡や叛乱などの重罪を犯した兵士たちに対して、十人ずつ籤を引かせ、ひとりを残りの九人で殺すという極刑だ。

「いったい、何をしたんだ」

 彼らはコロニア近くの砦に所属していた騎馬隊だった。だがある日、何者かが砦の食糧を横流ししたとわかった。司令官は翌日、彼らに十分の一刑を申し渡した。

「調べて、犯人を突き出せなかったのか」

「見つからなかったんだ。みんな、誰もやっていないと言い張った」

「それで、部隊全員が脱走する道を選んだわけか」

「あたりまえだ。自分の手で自分の仲間を殺すなんて、そんなこと死んだってできるか!」

「そのとおりだ!」

「そのとおりです!」

 馬車の上から異口同音に叫んだのは、リュクスとユニアだった。ふたりはあわてて、顔をそむけた。

「彼らの言うとおりだな」

 レノスは深くうなずく。「いや、脱走はあくまで軍規に違反する重罪だ。だが、おまえたちの気持ちはよくわかる」

「ありがとうよ。司令官」

 クロベルトの髭だらけの頬に涙が光った。「あんたが俺たちの司令官なら、どんだけよかったか」

 その会話をきっかけに、馭者台で揺られているリュクスとユニアも、頑なになった心を次第に溶かされていった。

「なあ、ユニア」

「……なんでしょう」

「俺は馬鹿でがさつだから、正直言って、クリストゥスの教えがよくわからない。マルスやミトラみたいな戦いの神のほうが性に合ってる気がする」

 リュクスは手綱を握ったまま、行く手の雲を見つめた。

「だけど、おまえを見てると、すごいなと思う。弱っちいくせに、ときどき驚くほど強い。自分を傷つけようとした相手を赦すのは、相手を殺すよりも勇敢な生き方だと思う」

「そんな……わたしこそ」

 ユニアは涙ぐんで、顔を伏せた。「ごめんなさい。わたし、ずいぶん偉そうなことを言いました。みなさんが命がけで戦ってくださって、守られてばかりなのに」

「あんたは、それでいいんだよ」

 奴隷の少女を見つめるリュクスの瞳には、驚くほど優しい光が宿っている。

(戦いに明け暮れてきた剣闘士には、このつつましく、平和を愛する少女が女神に見えるのだろうな)

 レノスは彼らを見て、思わずほほえんだ。恋とか愛という感情は、ときとして川底の砂金のように突然見出されて、人の心を輝かせる。

 そんな日は、もうわたしには一生来ないけれど。



 一か月半の旅を経て、ついにゲソリアクムの港にたどりついた。

 灰色の海の向こうには、白亜の崖がかすんで見える。すぐそこにブリタニアがある。

 フラーメンやラールス、ひとりひとりの兵士の顔を思い浮かべる。もうすぐ、あの北の砦に帰れるのだ。

 スーラ元司令官は、馬車から降ろした荷物を宿屋に運ばせると、三人のゲルマニア人たちに約束どおりの給金を払った。

「よく逃げずに最後までついてきたね」

 スーラは、にこにこと言い渡した。「ほうびに、この馬車も譲ってあげよう」

「な、なんですって」

「乗合馬車なり荷の運搬なり何でもよい、これを元手に、商売を始めてごらん」

 どうせ、馬車はブリタニア行きの船には乗せられないのだから、とスーラは言った。実は、最初に彼らを雇ったときから、そのつもりだったのだ。

「きみたちがまっとうな生き方をすれば、それがわたしたちへの恩返しになる」

「親父っさん。ほんとにあんたって人は」

 あまりのお人よしぶりに、リュクスも声をなくした。

「礼なら、ユニアに言いなさい。おまえたちの命を救ったのは、この子なのだから」

 毛むくじゃらの大男三人は、膝を折って老人と奴隷の少女の前にひれ伏した。



 ゲルマニア人たちと別れたあと、一行はゲソリアクムの港に、なお四日とどまった。

 風向きが悪いので、船が出せないのだ。海峡は潮の流れが速く、風の助けを借りなければ、ブリタニアとは違う方向に流されたり、転覆することになる。

 港から少し離れた、丈高い茶色の草むらに立って、セヴァンは海を見ていた。

「こんなところにいたのか、ゼノ」

 レノスは後ろから声をかけて、近づいた。「結局、今日も船は出なかったな」

「いつまで、こんなところで足止めされるのですか」

「良い風を待つしかない。船といっしょに海の底に沈みたくはないだろう」

 セヴァンの悔しそうにすくめられた肩の線を見つめる。砂色の髪は風にもつれ、うなじをなぶっている。

「おまえの髪は、油断するとすぐに伸びるのだな」

 からかいまじりに髪に触れようとした手が、止まった。

 気づけばいつのまにか、彼の背丈は以前よりずっと高くなっている。

 いや、違う。この一ヶ月半の旅の中で、本当はもうとっくに気づいていたのだ。

 レノスの視線はいつもセヴァンを追っていた。巧みに馬をあやつる彼の横顔も。ユニアに話しかけるときの唇のやさしい動きも。剣を持って盗賊に突進していくときの目の荒々しい輝きも。

 命令を求めてレノスに注がれる眼差しに出会うと、ときに身がすくんで息ができなくなるほどだ。

(わたしは、いったい何を考えている)

 痛むほど大きく肺を広げて、冷たい潮風を吸い込む。(頭を冷やせ。わたしは軍人なのだぞ)

 レノスは、潮風に負けぬ大きな声で叫んだ。

「明日は、きっと出航するさ」



 翌日、待望の西南の風を受けて、ついに船は海峡を渡った。ドゥブリス港でスーラとリュクスは馬を手に入れ、人を雇って、荷物を牛の荷車で運ばせる手はずもととのった。

 ユニアはレノスの馬に乗ると言い張ったので、リュクスはまた落ち込んでしまった。

「だって、あの人の身体が、やたらと背中に当たるんですもの」

 憤然と言い張る少女が可愛くてたまらなくなり、レノスは耳元にそっとささやいた。「あれは、なかなかいい男だぞ」

 頬が真っ赤になってしまうところを見ると、まんざら脈がないわけではないのだろう。

 スーラは、かつて慣れ親しんだブリタニアの自然を見て、ますます若やいだ。恋焦がれた女性が、この大地の向こうで待っているのだから、余計だ。

 季節はまだ厳しい冬の寒さの中にあったが、五感を研ぎ澄ませば、ほんのわずかな春の息吹を感じ取ることができる。冬のあいだ地面に張りついていたジギタリスは頭をもたげ、トネリコの枝先は黒紫色に芽吹き、気の早いハリエニシダの黄金の花は、甘い香りを漂わせ始めている。温暖なローマ暮らしが長かったリュクスだけが、寒い寒いを連発していた。

 ハドリアヌスの長城をくぐり抜け、馴染みのある丘陵を見つけたとき、レノスとセヴァンは思わず顔を見合わせ、笑みをこぼした。

「とうとう帰ってきたな」

「はい」

 一行はすっかり何かに取り憑かれたような顔つきで道を急いだ。休憩時間も短くなる一方だ。

 湿地の上に組まれた真新しい木道をがたがたと鳴らして進むと、向こうの丘の上に馬に乗った人影が見えた。

 影はすぐに見えなくなったが、ほどなくたくさんの馬のひづめの音が聞こえてきた。

「マルキス、しれいかーん!」

「ゼノー。元気か」

「スーラ司令官、おひさしぶりでーす」

 スピンテルの濃い髭ともみあげが見える。セイグとペイグが手を振っているのも見える。巡視に出ていた騎馬隊が、彼らを一番先に見つけたのだ。

 騎馬隊長が真っ先に駆け下りてきて、誇らしげに高々と敬礼した。

「北の砦あげて歓迎いたします。みなさん、おかえりなさい」



 まだ、ところどころ雪の残る中央広場に、砦の全兵士が集まっていた。

 身じろぎする者はいない。全員が、真面目くさった顔を装いながら、ぴんと背筋を伸ばして彫像のようにじっと整列していた。

 壇上に上がると、レノスは両手を背中に組み、もったいぶった口調であいさつした。

「今日、着任した司令官だ。名はレノス・クレリウス・カルスと言う」

 兵士たちは、あれという顔になった。

「ああ、つまり」

 詳しい説明は、壇の右側に立っていた百人隊長フラーメンの役目だ。「つまりだ。司令官は、伯父上の家名ではなく、お父上の家名である『カルス』を名乗られることになった」

「新任ゆえ、何もわからぬことだらけだが、よろしく頼む」

 あちこちから、もう我慢できないという笑い声が漏れた。

「カルス司令官!」

「カルス司令官!」

 兵士たちは、一斉に槍で地面を突き鳴らした。レノスの胸が熱くなる。時が三年前に戻ったかのようだ。あの頃は、どの顔もよそよそしく、無関心だった。

 今は、どの顔も満面の笑みにあふれている。

「もうひとり、紹介したい方がいる」

 レノスは、階段を降りた。「若造ではあまりに頼りないからと、心配ではるばる様子を見に来てくださった」

 スーラが壇上に上がると、わあっと歓声が上がった。

 左側に立っていた百人隊長ラールスが、ここぞとばかり声を張り上げた。

「スーラ元司令官は、フィオネラという美しい花嫁を迎えて、この北の砦の町を生涯の住まいと定められる」

 せっかく整えた隊列は、次の瞬間には、甲高い歓声と、宙を舞う兜や盾で台無しになっていた。第七辺境部隊の兵士たちにもみくちゃにされながら、レノスはあふれる涙を抑えることができなかった。

 とうとう帰ってきた。なつかしい我が家に。ここにいる全員が、レノスの家族なのだ。



 レノスたちが無事に北の砦に戻ってきて数週間後、ローマから急報が届いた。

 新皇帝ペルティナクスが、近衛隊に暗殺されたという。193年3月28日。皇帝の座に就いて、わずか87日後の死だった。



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