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月の戦士  作者: BUTAPENN
惑乱の都
29/62

惑乱の都(4)

 家の奥に、玄関とは別の扉があり、ごみごみとした路地に向かって開いていた。

 そして、その扉にもたれるようにして、奴隷の少女ユニアがうずくまっていた。

 レノスは外をうかがい、剣をかたわらに置いて、少女を助け起こした。

「だいじょうぶか。何があった」

 かちかちと歯を鳴らしながら、ユニアは説明しようと試みた。

「ワインが足りないので……知り合いで借りてこようと、外に出たら……ふたりの男が大声で……私の腕を」

「怪我はないか」

「……はい。でも、私を助けようと、あの方が」

「ユニア!」

 足の悪いスーラがようやく追いついて、奴隷の少女を抱きしめた。

「どうして、こんな時間に外に出ようとした。危ないから気をつけろと言ってあっただろうに」

「ご主人さま……すみません」

 外の宵闇の中から、セヴァンが戻ってきた。だらりと手に下げた青銅の短剣は血に濡れている。それを見たユニアは、わっと泣き出した。

 セヴァンは、レノスをちらりと見ると、地面の土に汚れをなすりつけ、鞘に入れて平然とふところにしまった。

「殺したのか」

「いえ、でも、ここには二度と近づきたくないと思うくらいには」

 ハシバミ色の目は、静かに冷たく光っている。

「物取りか」

「そうではないようです。そこの女に向かって、『アテオ』と怒鳴っていました」

 主従は顔を見合わせた。「アテオとは、何ですか」



「ユニアは、クリストゥス信奉者の仲間だ」

 蝋燭の光の中で、この家の主は、今回の騒ぎの原因を説明した。

「家の前の持ち主からあの子を買い受けたのだが、しばらく経って、そのことを打ち明けられた。この十四区には信者の大きな集団があって、そこへ集っているのだと」

「聞いたことがあります」

 レノスは、少しばかりの嫌悪をにじませた。「有害な迷信に従っている、危険で偏屈な集団だそうですね」

 ローマ人のあいだでは、クリストゥスは、属州ユダヤでローマに対する反乱を目論んだ主謀者ということになっている。ユダヤ人たちに告発され、属州総督に引き渡されて処刑されたあとも、彼の後継者たちは彼を崇めることをやめず、徒党を組んで行動している。

 公共の祭儀もことごとく忌避し、皇帝を礼拝せず、ローマ帝国を守護する神々、ユピテルもウェヌスもカストルも、サトゥルヌスもミトゥラも、一切を認めない。だから、彼らは『無信仰者アテオ』と呼ばれているのだ。

「しかも、信者たちはクリストゥスが生き返ったと主張していると聞きました。馬鹿げています。ティトゥス帝によってエルサレムが陥落したのも、クリストゥスの呪いだと」

 ユニアは隅に座って、涙を溜めながら、じっと無言の抗議をしている。

「わたしも、今まではそう思っていたのだがね」

 スーラは苦笑いしながら、女奴隷を見た。「この子を見ても、秩序を乱すような人間とはとても思えないのだよ。わしにもよく仕えてくれているしね」

 励ますような視線を受けて、ユニアはおずおずと言った。「教父さまがたは、クリストゥスさまに仕えるように自分の主人に仕えなさいと教えておられます」

 彼女の主人は、うなずいた。「ほらね。彼らの指導者も、上に立つ者に従順であるようにと説いているらしい」

「噂は真実とは違う……ということでしょうか」

「少なくとも、墓場で夜な夜な人肉を食べているとは思えぬし、血を分けた近親と肉欲にふけっているとも思えぬのだ」

「ユニア」

 レノスは、奴隷に向かって居住まいを正した。「さっきは失礼なことを言って、すまなかった。きみは、突然訪ねてきたわたしを精いっぱいもてなしてくれたのに」

「いいえ、そんな……」

 ユニアは、こわばった顔でセヴァンを見た。「私こそ、ゼノさんに危ないところを助けていただきました。……ありがとうございます」

「話がついたところで」

 スーラは、陽気な声を上げて立ち上がった。「今夜は泊っていってくれるのだろう? 夜を徹して飲み明かそう」

「でも、ワインがないからこそ、今回の災難が起きたのでしょう?」

「……」

 目をぱちくりさせている前任司令官に、笑いを抑えそこねる。

「スーラどの。実はワインよりも、もっと良いものを持ってきました」

 レノスはセヴァンに命じて、例の巻物を持って来させた。

「これは……」

 スーラは巻物を見たとたん、驚愕のあまり、寝椅子から転げ落ちそうになった。「フィオネラが?」

「ここにいるゼノが、フィオネラから託されたのです。スーラどのの忘れ物なので、お返しするようにと」

「忘れたわけではない。わざと置いていったのだ」

 狼狽した退役軍人はうろうろと部屋を歩き回り、当惑したようにレノスを見つめた。「どういう意味だ。こんなもの見たくもないということなのか?」

「おや? スーラどのは、女心がわかっておられない」

 レノスは眉根を寄せて、無理に怖い顔を作った。「ブリタニアに忘れていったものが、もうひとつあるのではないですか――フィオネラは、そう言いたいのですよ」

 呆けたような表情で、スーラはすとんと腰を落とした。「あの人が、わしのような年寄りを?」



 その夜、セヴァンは台所で眠ることになった。

 見張りという名目もあったが、一番の理由は、かまどのそばが温かいからだ。

 クレディン族の村は、たいていの家の中央に、石造りの暖炉が設えられている。子どもの頃はアイダンと競って、炉辺を取り合ったものだ。

 熾き火の残る暖炉は夜も温かく、恐ろしい闇を追い出してくれる。そのころはまだ母が生きていて、ルエルをあやしながら、灯をたよりに晴れ着に縫い取りをしていた。兄の寝息が子守唄がわりで、仔犬だったイスカは腕の中で柔らかく、いい匂いがした……。

 ふと気づくと、台所の入り口に、小さな陶器のランプを掲げたレノスが立っている。

「言い忘れていたことを思い出した」

 来たことの弁解をするように主人は言った。「さっきの短剣は、どこで手に入れた?」

「フラーメン隊長とラールス隊長からもらいました」

「あいつらめ」

 暗い灯の中で、レノスの唇が動いて、舌うちする音が聞こえた。

「よこせ。奴隷の持つものではない」

「いやです」

 セヴァンは頑なに答えた。「隊長たちに命令されました。これで主を守れと。もしできなければ、ふたりに殺されることになっています」

「おまえに守ってもらう必要などない」

「剣さえ、ろくに持てないのに?」

 レノスはしばらく沈黙していたが、やがて根負けしたように、ほうっと吐息をついた。「わかった。来年の春までだ。北の砦に帰ったら、即座に取り上げるからな」

「ありがとうございます」

 不服そうに歪められていた主の唇が、ふっと笑みを形作った。めまぐるしく変わるその形を、セヴァンは思わず目でなぞる。

「スーラどのは、どんな答えを出すのだろうな」

「……」

「ふたりには、幸せになってもらいたい」

 ふたりは、どうやって幸せになれるのだろう。ブリタニアとローマ。ケルト人とローマ人。若いフィオネラと白髪のスーラ。何から何まで違っているのに。

「そうか。おまえには、まだわからんだろうな。恋の話は」

 レノスは、訳知り顔に微笑んだ。「そう言えば、あの子――ユニアは可愛い子だな。髪の色もおまえと同じだし、年恰好も似合いだ」

「……」

「少し見取れていたろう?」

「見とれてなど、いません!」

 むかむかと腹が立ち、セヴァンは主に背を向け、オオカミのマントにくるまった。

 レノスはしばらく所在なげに立っていたが、静かに去る気配がした。

(今夜も眠れないのだろうか)

 目を強く閉じても、やわらかな唇が残像となって消えない。



 次の朝、レノスは誰かの大声で目を覚ました。飛び起きて、客間から玄関ホールに出ると、老スーラが杖を手に猛然と歩いてくるところだった。

「決めた、決めたぞ」

「どうしたのです」

「ああ、レノス」

 スーラにがっしりと両腕をつかまれた。

「きみはいつ、ブリタニアに帰る?」

「任務次第ですが、春になると思います」

「そのときに、わしも連れて帰ってはくれぬか」

 期待したとおりの答えに、レノスの顔がほころんだ。「とうとう、決心されたのですね」

「ブリタニアに戻るぞ。そして、フィオネラに求婚する」

 小躍りするスーラの柔らかな白髪が、天窓から射しこむ朝日に光った。

 ふたりは万感の思いと喜びを分かち合いながら、庭に降りて、大理石の縁台に座った。

「ゆうべは一晩じゅう、昔のことを思い出しておった」

 空を見上げる老将の目じりには、涙があふれている。

「お父上の副官として戦ったときのこと。幼いきみを連れて三人で森に狩りにいったときのこと。お父上が亡くなり、きみが行方知れずになったと知らされたときの驚きと怒り……悲しいことのほうが多かった。寒く、危険に取り囲まれ、楽しみも何もない。辞めるときは、やっと文明の中に戻れると正直ほっとしたものだ。それなのに、ローマへ帰ってからというもの、心はからっぽだった。ブリタニアのことが無性になつかしくて、たまらんのだよ」

「わたしも同じです」

 レノスは穏やかに答えた。「あの何もない辺境がローマより好きなのです。わたしの部下は、わたしがあの島に取りつかれていると言っていましたが」

「北の砦は町囲みを広げたと聞いた。まだ家を建てる場所は残っているだろうか」

「もちろんですとも。一番良い場所を用意しておきます」

「こんなに頭も薄くなってしまった。フィオネラががっかりしないでくれるとよいのだが」

 スーラが照れくさげに額をこする仕草に、レノスは思わず笑い出した。「だいじょうぶですとも」

 主たちの大きな笑い声が聞こえたのか、台所からセヴァンとユニアが飛んできて、呆気にとられている。



 スブラの軽食堂に戻ってきたレノスは、「おや、どうなさった」と店主夫婦に訊ねられるほど、機嫌がよかった。

 エウドキアがパンをこねる手を休めて寄ってきたので、さっそく、前任司令官の老いらくの恋の顛末を話して聞かせた。

「そのフィオネラっていう女は、そんなに美人なんですか」

「ああ、ローマでもめったに見られないくらいの絶世の美人だぞ。……なあ、ゼノ」

(なにが、恋だ。可愛いとか似合いだとか、女は、どうしてそんなことで平気で言えるんだ)

 昨夜から、セヴァンの不機嫌はおさまらない。

 ひとりの男が店に入ってきたところで、ようやく話は中断した。

「いらっしゃい……おや?」

「カペル!」

 立ち上がったレノスに、マルキス家の家令は恭しくお辞儀した。

「アウラスさまからの伝言を持ってまいりました」

 レノスは緊張に顔をこわばらせた。とうとう待ちわびた知らせが来たのだ。

「大旦那さまが、お返事を寄越されました。至急、ウィッラに来いとのことです」



 次の日、レノスとセヴァンは、アウラスとともに馬で旅立った。

 アウラスの細君クラウディアは、奴隷たちのかつぐ豪奢な駕輿レクティカに乗って、後からついてくる。義理の父親へご機嫌うかがいというのが建前だが、夫とレノスの仲を勘ぐっての同行に違いなかった。

 狭い馬場つきの厩から久しぶりに引き出されたアラウダとエッラは、駕輿の進みに合わせて、忍耐強くゆっくりと足を運んだ。

 マルキス家のウィッラに着いたのは、その日の午後だ。周囲を取り囲む広大な冬のブドウ園は、葉もすっかりと落ち、幾人もの奴隷が剪定された枝を集めていた。

 ウィッラは、赤い屋根を葺いたいくつもの棟が寄り集まっている。牛舎や干し草置き場、ブドウの圧搾場、ずらりとアンフォラの大壺が並ぶワインの醸造場、オリーブの圧搾場。パン焼き場つきの厨房に、公共浴場に負けぬほど壮麗な風呂。それらの作業場をつなぐ中庭を、奴隷たちがひっきりなしに行き交っている。

 主人一家の住まいは二階にあった。セヴァンは中庭で馬の世話を命じられ、アウラス夫妻とレノスは階段を上がっていった。

 円柱の並ぶ大きな歩廊を進むと、最奥に主の部屋がある。

「父上」

 アウラスが声をかけ、中に入った。クラウディアがすぐ後ろに続き、優雅にお辞儀する。

 レノスは戸口に立ち、父と息子夫婦のなごやかな挨拶が終わるのをぼんやりと待っていた。

「レノスを連れてきました」

 従兄の声に我に返り、部屋に入る。

 アウラスの父であり、レノスの伯父であるガイウス・クレリウス・マルキスは絹張りの椅子に巨体を納めて座っていた。

 秀でた額と、いかめしい顎でできた、どこからどこまで厳格で隙のない風貌。レノスにとって伯父は、肉親というよりは有罪を宣告する裁判官に等しかった。

「伯父上、お久しゅうございます。お元気そうで何よりです」

「元気なものか。おまえがブリタニアに旅立ってまもなく身体を壊し、軍を退いたわ」

「存じております」

「今ではただのブドウ農園主だ。おまえを辺境に追いやったことが、帝国に対する最後のご奉公となったわけだ」

 死んだ母を思い出させる濃い青の瞳には、妹の子への愛情の片鱗すら見えない。

「感謝しております」

 からからに乾いた口から、かろうじて儀礼のことばを紡ぎ出す。「お聞き及びかもしれませんが、ちょうど一年前、属州ブリタニア北部で氏族同士が結託して、大規模な蜂起がありました」

「そうらしいな。おまえはその戦いの中で大手柄を立てたとか」

「反乱の一部を鎮圧したことは、確かです」

「そのおかげで、おまえの父カルスが十年前に招いた不名誉な敗北が引き合いに出されておる。何も忘却の彼方から一族の恥辱を掘り起こすことはなかったのだ。黙って、目立たぬようにしておればよいのに」

 思えば、小さい頃から何をしても、伯父がレノスを褒めるということはなかった。どんな成功の中にも、点のような小さな失敗を見つけて叱られる。

「父上。そのおっしゃりようはあまりです」

 そして、アウラスがレノスをかばうたびに、伯父からの風当りは強くなる。アウラスもそれがわかっていながら、かばうことをやめない。そしてますますレノスを窮地に追い込む。

(なにも変わっていないな。わたしたちの関係は)

 小さく笑むと、レノスは決然と頭を上げた。

「伯父上、今回のことで、わが中隊は皇帝陛下より金の月桂冠を賜りました。そのお礼を述べるために、ブリタニア総督閣下とともに陛下への拝謁を願い出ております」

 加虐の楽しみにゆるんでいたガイウス伯父の顔は、一瞬にしてひきしまった。

「ブリタニア総督、デキムス・クロディウス・アルビヌスか」

「総督は、防衛線リメス上の各軍団を訪問し、ローマに向かっているところです。元老院への働きかけのために伯父上のお力をお借りしたいと望んでいます。その意向を伝えに、わたしは先行してローマに入りました」

 「むう」とうなり声を挙げると、伯父は椅子の腕を支えに、ゆっくりと立ち上がった。

「クラウディア。そなたは自室で旅の疲れをいやすとよい」

「はい。お義父さま」

 息子の嫁が去ったあと、召使奴隷たちにも人払いを命じる。

 居間は、伯父とアウラスとレノスの三人だけになった。

「皇帝陛下に対する不満は、ブリタニアだけではなく防衛線上の各軍団にも、少しずつ膨らんでおります」

 レノスは、伯父の近くに片膝をつき、声を低く落とした。「兵も将校たちも、マルクス・アウレリウス帝の実のご子息であられるコンモドゥス帝を慕う気持ちはまだ根強い。しかし、このままではいずれ、各地のローマ軍がそれぞれの皇帝候補を擁立するという事態になりかねません。そんなことになれば、国境防衛に隙が生まれ、蛮族たちが一斉に攻め込んでくるのは必定」

「わかっておる、そんなことは」

 ガイウスは吐き捨てるように答えた。「おまえたちは辺境にいるから、好き勝手なことが言えるのだ。ローマにいる者は息をひそめるように暮らしておるのだぞ。陛下をいさめようとした臣下のひとりは、裸にされ、水槽に投げ込まれて殺された」

「そこに至るまで、元老院議員たちは、黙って見過ごしておられたのですか」

「少しでも睨まれれば、全財産を没収されたあげく死刑となる。ローマでは、法などはとうに無きに等しいのだ」

「それでよいのですか」

 レノスは、我慢しきれず立ち上がった。

「この国は、『元老院とローマ市民』(セナトゥス・ポプルス・クエ・ロマヌス)が治めているのではなかったのですか。皇帝がそれを無視することを許して、どうなるのです」

 義憤のため、レノスの瞳は剣のように光っている。

「わたしたち辺境の軍人は、氏族の民にローマの法を力ずくで強いてきました。あの苦労は無駄だったというのですか。わたしは氏族たちに、ローマはおまえたちの国より乱れていると言わねばならないのですか!」

 ガイウスは、片手をあげて制止し、ひきつった嘲笑を浮かべた。

「確かにおまえはカルスの『息子』だ。父のたましいが乗り移っておる。女として生きられぬわけだな」

「それは、わたしにとっては、このうえなく光栄なおことばです」

 ふたりは再び、ひたと睨み合う。

 アウラスはかたわらで、静かに両者を見つめていた。

 伯父は、精根尽きたように椅子の背にぐったりともたれた。

「アルビヌス総督は、いつローマに来る?」

「月の変わらぬうちには」

「ひとり、総督に紹介できる方がいる。今その名前は明かせぬが、おまえの話に興味を持つのは間違いない」

 低くうめくように続ける。「われわれ元老院議員とて、何の対策も講じていなかったわけではないのだ」

 伯父はアウラスに向き直ると、片方の口角を力なくゆるませた。「こんな話を持って来おって。わがマルキス家を滅亡に追い込む気か」

 アウラスはほほえんだ。「家名を残すことよりも、その家名が残すに値するものであることのほうが大事です」

「小賢しいことを」

 ガイウスは鼻を鳴らした。「レノス、この危険な企てを進めるために、ひとつだけ条件がある」

「なんでしょう」

「おまえは、今日を持ってマルキス家から絶縁だ。元通り、カルスの家名を名乗るがよい」



 部屋を出たとき、レノスは従兄に言った。「ありがとう。わたしを信頼して黙っていてくれて」

「口をはさむ暇がなかっただけだ」

 アウラスは、円柱のあいだから景色をながめるふりをした。「火の出るような勢いだった。おまえはすごいな。はるか遠くに置いて行かれた気分だ。父があんな顔をするのを初めて見たよ」

 そして、肩をぽんと叩く。「レノス・クレリウス・カルス。どこにいても、きみの幸運を祈っている」

「ありがとう。アウラス」

 晴れやかな心地で、馬をつないでいる中庭に降りた。

 馬の世話をしているセヴァンのそばに、侍女に日傘をさしかけられたクラウディアが立っていた。

 アウラスに気づくと、彼女は「あなた」と近づいて来て、美しくほほえんだ。

 そして、かたわらにいたレノスにすっと視線を流す。

「レノスさま。わたくし、申し訳ないことをいたしましたわ。つい口がすべってしまいましたの」

「え?」

「だって、まさか、ご自分の奴隷に本当のことを隠していらっしゃるとは思いませんでしたもの」

 背筋にすうっと冷たいものが走る。

「クラウディア、おまえ……」

 アウラスも、妻の心の内をようやく悟ったようだ。

「ええ、でも、全く驚く素振りはありませんでしたわ」

 と、彼女は小鳥のように軽やかな声をあげて笑った。「たぶん、もう知っていたのかも。だって、レノスさまは、男にしておくにはお綺麗すぎますもの」

 そのとき、馬のたてがみを梳いていたセヴァンが手を止め、レノスをじっと見つめた。

 その強いまなざしを受けたとき、みぞおちが、じわりと熱をはらんだ。






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