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殿下、とうぞキスは我慢してくださいまし

「私、キスされると別人格になってしまいますの。殿下、キスは我慢してくださいますか。なお、閨は結婚まで我慢してくださいまし。」


慎み深い聖女のような顔で、公爵家の一人娘セーディアは、恥じらいながらもはっきりと言ってのけた。


5歳からずっと恋焦がれていた愛しい人を戴冠の儀と同時に正式な婚約者とできたことで、有頂天に浮かれていたルーク殿下は突然の告白に冷水を浴びせられたような心地で婚約者を見る。


「な…何を…?男たるものそのようなことが我慢できるとでも?」

どうしてもです、とアメジストの瞳を閉じて首を振るセーディア。


「もう一つの人格ですか。アマンティという名前を持っておりますの。…でもまぁ、1.2時間もすれば元に戻りますわ。」


その言葉を信じて、寝起きに我慢できずうっかりキスしてしまったルーク殿下は、2時間待った。

ちなみに、キスしたとたん

「…きゃあぁ。何すんのよ!あっち行ってよ!」と殺気だった声で怒られ、殴られ、蹴られ、ヒールではたかれた。


ルーク殿下は涙目になりながらも頑張って2時間待った。


…戻らない。愛しいセーディアはどこへ?


凶暴なアマンティは暴れるだけ暴れ、セーディアでは絶対にしない勝ち気な瞳でルークを睨み、眉を潜めて自分を見つめるルークに、「何よ!恐くなんかないから」とのたまって、疲れ果てて夕方に寝てしまった。寝入るのを待って唇に触れるだけのキスをし、次の朝、変わらぬセーディアの寝ぼけ眼に胸を撫で下ろす。


セーディアは一夜でボロボロになってしまった流麗な殿下に、ごめんなさいごめんなさいと顔を青ざめさせて謝り、「…キスしてから1.2時間です…」と消え入りそうな声で言った。


そもそもなぜそんな面倒な二重人格などに?


※※

「…なるほど。それは余のせいだなぁ…。」


セーディアを、背中から抱き込み、愛しい金の巻き毛を指に巻きつけながら、事情を聞いたルーク殿下はため息をつきながら言った。


そう、つまりプレッシャーである。5歳で殿下に見初められ、15年間、この人以外は考えられぬと、言われ続け、王妃になるための教育を一身に受けてきたのだ。そのとてつもない、受け止めきれないプレッシャーが、彼女の人格を真っ二つに割ってしまったのだ。


実は、手は、無いことも無いのです…。

震える声でセーディアが口を開く。


「催眠療法で別人格を消してしまえるのです。ずっと思ってはおりましたが、怖くて考えずにいたのです。しかし、愛しい殿下にこの様な無体を働くようでは、もう放置してはおけませんわね…。」


「セーディア…」


その声色に、不安になり、こちらを向こうとしないセーディアの頬をやさしくつかんでこちらを向かせる。


その寂しさとほんの少しの怒りの混じった瞳に。


どこかで…。


ルークの記憶の扉が開く。


※※


「何をしているのだ?」


大小様々な標本を収めた標本室で、ルークは見慣れぬ少女に、声をかけた。


どうやら迷子のようだ。


「なんだ。どこぞの令嬢か。ここはそなたのようなものの来る所ではないぞ。」

「申し訳ございません。迷ってしまいまして…。」

そう言いながらも蝶の標本から目が離せないようだ。

「それか?綺麗だろう?私も一番の気に入りだ。」


誇らしげに言うルークを見ようともしない。

「これは…。お尋ねします。これは、もう飛べないんですの…。」

その、悲しげな瞳に叱られてしまったような気になってルークはたじろぐ。


「私、先ほど中庭で自由に誇り高く飛び立った蝶を見ましたわ。そう…もう、飛べないんですのね…。」


悲しそうなアメジストの瞳にドギマギしたルークは、狼狽えを隠すため、そうだ意地悪してやろうと、魔が差したのだ、標本に、するために取っていた大きなカミキリムシを手のひらに載せて少女に差し出した。


深層の令嬢など、すぐに泣いてしまうだろう。

しかし少女は眉をひそめただけで、ふいと視線をそらして


「なんですの。恐くなんかないですわ。」といった。


※※


その後婚約者として指名したときは「その慈悲深い瞳と勝ち気な虚勢が同居するのが美しい。余の花嫁になれ。」とはっきり言ったではないか。


※※


「思い出したよ。セーディア。全く…何もかも余のせいだな。」

ルークは亜麻色の瞳を甘く蕩けさせる。


「アマンティを消す必要などない。そなたごと

1人でも2人でも引き受けよう。余が、可愛い暴れ猫一匹飼い慣らせぬような狭量に見えるか?愛しいセーディアとアマンティ。」


セーディアを引き寄せ、唇にキスをする。

セーディアが変わる瞬間すら見つめていたい。

みるみる彼女の瞳に涙が浮かぶ。


「…ありがとう。思い出してくれて。殿下。ずっと、ずっと待っていました。」


勝ち気な瞳が涙に潤むのを、一生忘れまいと瞳に焼き付けて、ルークは今度はまぶたにそっとキスを落とした。

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