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大地に立て 4

 つぐみは泣きじゃくりながら震えるだけの背中を優しくさすってくれる。

 ずっと頭を撫でたりしていて、ただ時間だけがゆっくりと過ぎていく。


 やがてプールサイドに腰を下ろし、少し落ち着きを取り戻したときだった。

 水面にちゃぷちゃぷと足で波を起こすつぐみが、物静かな声音で告げてくる。


「……私さ。小さい頃から、お母さんとは違うお母さんになりたかったんだ」

「そう、か……なれるんじゃないか。恐らく、たぶん、きっと」


 〝母親〟がこいつの抱えてきた本音。その一部なのだろう。

 俺も何か言わなくちゃと思って、だけど少し恥ずかしくて。

 同じように水を蹴りながら素っ気ない態度で返してしまった。


「えぇー、それはどこかの大きい赤ん坊の経験が言わせる言葉なのかなー?」

「ぅ、それは……そうかもしれないばぶ」

「ふふっ、何それ。でもほんと? やったったーだよ私。すごいでしょう、ぬへへへっ」

「……あぁ、すごいすごい。えらいえらい」

「あー、またすーぐそういう態度になる。めっ、でしょ!」

「いでっ」


 脇腹を軽く小突かれる。危うく落ちるところだったが、なんとか踏みとどまった。

 彼女は思い出したかのようにあることを切り出す。それは、


「あぁ、あとさ。私の退学がどうとかは気にしなくていいから」

「いや、けどそれは……」


 気にするなという方が無理な相談である。元はと言えば俺のせい……と、そう思えてしまう自分が存在することに苦笑しつつも、それでもたしかに本心からの言葉だった。


「この前さ、競争相手を見下してるんじゃないか、って。あなた言ったじゃない?」

「あぁ、言った」


 その考えは今でも変わらない。言える資格うんぬんはともかくだろうが。


「あれさ……本当に無意識で、全然自覚なんてなかったよ。まぁ、友達もいないからそういうこと言ってくれる人すらいなかったのも、結局は自分が悪いんだけどね」

「…………」

「で、昨日の夜ずっと考えてた。自分のしてきたこと振り返って、それでわかったの」


 一呼吸を置き、彼女はにへらっとした笑みを浮かべて当然のように続ける。


「私……小さい頃から天才だったんだなぁ、って」

「ク、クソみたいな結論だな……」


 素直に呆れる。さすがに俺もここまで清々しい開き直りはしたことがないからだ。


「え? あっ。言ってなかったけどね私、小さい頃は蓋世学園にいたのよ。で、獅子堂学院の編入試験で手を抜きまくって拒否されて、そこらの平凡な学校に通ってたのね」

「超人学級のエリートかよ……あそこ確か、少人数制の総合力主義だよなぁ」


 思うにゲームが未経験だったのは、カリキュラムの優先順位の都合だとかだろうか。


「ふふっ。でね、自称天才にだって出来ることがあるんだよ」


 その言葉に察し悪く疑問符を浮かべれば、得意げなしたり顔で大胆にきっぱりと応える。


「そうやって、あなたに変な負い目を感じさせちゃうくらいなら……私は、勝つよ。勝っても構わない。大体よ? 全種目で専攻の誰より速い私が退学になるわけないでしょ」

「は、はははっ! たしかに天才にしか無理だな、それは。けどできるのか」

「サボり女の自惚れでないことを証明するなんて楽勝よ。提案が通れば、ね」

「……っ」


 向けられた微笑みに鼓動が速くなる。落ち着きを取り戻したはずの身体が、強く激しく熱を帯びていく。

 それは彼女も同様なのか、少し困ったような様子でつい手が出てきた。


「なに、急に照れてんのよっ……あっ」


 先程より僅かに力を込めて小突いてきたのだ。結果、今度は本当に落ちかける。

 驚いた彼女も咄嗟に手を伸ばし、俺もその手に引かれ……互いの距離が縮まった。


「「…………」」


 沈黙。だが、静寂とは形容し難い。なにせ、先程から心音しか聴こえていないのだ。

 何秒そうしていたのかわからないが、やがてつぐみは恐る恐るという風に言った。


「ね、ねぇ……? 私、あなたなら――」

「――ピロピロピロピロ」


 不意に背後から遮るように響く無数の電子音。最早、ちょっとしたホラーのような不気味ささえ感じる。

 振り向けばそれは、清掃担当のポコマルとメロマルの集団だった。


「空気読ムノモ限界ナンダヨー」

「イチャイチャスルナラ、家デシナー」


 ハッとして時計を見ると二十二時を回った頃合い。

 俺たちは彼らに謝りつつ、そそくさ退場することになった。


 手早く着替えを済ませ、近くの乗車ターミナルへ足並みを揃えて向かう。

 帰る方角はどうやら真逆らしい。なので一応はAT車も二台呼び出した。


 言葉の先を問えてはいない。何故なら腕をいくら見ても蕁麻疹はないし、吐き気を催すこともないから。

 どうしても訊ねられず、やがてAT車がやって来てつぐみが言った。


「……じゃあ、また学院でね」

「ん。あ、あぁ……また、な」


 そんな短い言葉だけを交わし、彼女はAT車へ乗り込んだ。ばたんとドアが閉まる。

 俺たちを漠然と繋いでいたもっともらしい言い訳は、もうない。


 これからも教えてくれ、とでも言うべきなんじゃないだろうか? それ以上に会える理由が思いつかない。

 そもそも別々のAT車に乗らず、一緒に乗って帰ればいいんじゃないか?


 会うのはこれで最後かもしれない。もう二度と――人生は交わらないかもしれないのに。

 競泳選手は競泳選手と……ゲーマーはゲーマーと結ばれる。それが、世界の常識だから。

 ゲームの才能も現状、たかが知れている。つまり、だから……論理的に考えて俺は――


「俺は、あいつを追うべきじゃないんだ……きっと誰も祝福なんかしてくやしない」


 AT車の窓に映る自分の間抜け面を見つめながら、もっともらしい理由を口にする。


「……ばかっ、あほっ、須方っ。いくじなし」


 だからなのか。遠ざかるAT車からそんな彼女の声が聞えた気がした。


 *


 大抵の人間が寝静まろうという深夜。とある家のリビングに騒々しい音が響いた。

 それは須方家であり、全ての原因は思い上がってしまった俺の一言にある。


 鈍い衝撃は鍛えられていない腹を強く殴りつけ、虚しく崩れ落ちる以外を許さない。

 痛みを堪えながら舞い上がっていた己を省みる。一体、何をしているんだ……俺は。


「――どうして顔を殴らないか、お前ならわかるよな?」


 静かに佇み、冷たく見下ろす父が問い掛けてくる。

 俺は小さく蹲って、憐れな死に損ないの幼虫みたいに浅く息を調えていく。

 なにせ父は加減というものを知らない。

 

 かく言う俺もそうだが、殴り合いの喧嘩などしたことがないからだ。

 どの程度が適当かなどわかるはずもない。

 それにどうやら俺はありもしないイフを期待するまで幼児退行していたらしい。


「もし……目に何かあったら困るから」

「……それで?」


 少し右手を気にする素振りを見せながら、父はゆっくりと近付いてくる。


「ゲームに支障が出たら、困るから……」

「そうだ。それがなんだッ! 五メートル泳げるようになっただとッ!?」

「ぅぐッ、あぐ……」


 怒涛の剣幕で胸倉を乱暴に掴まれ、えずくように酸素を求めてもがく。


「随分と遅くに帰って来たと思ったらなんだッ!? 冗談じゃないふざけるなッ、泳ぎの練習なんてものに費やす暇があるのなら、お前は……お前はゲームをしろッ!!」


 わずかに芽生えかけた価値観は全て間違いである、と。

 疑う余地もない世界の常識とともに身体へ教え込まれていく。

 理不尽とは決して言えない。こちらに理はないのだ。


「呆れたな。それくらいにしたら? 死んじゃうよな、お兄ちゃん」


 傍でホロビジョンを眺めていた実妹――凛菜が、やや無関心に父を制する。

 一方で母は父の怒りに異論もないので別段と口出しもせず、何も言わず自室へ引っ込んでいった。


「あ、あぁ……」


 妹の言葉を受け、僅かばかりの平静を取り戻す父。伴って掴む力が緩み、俺はむせ返る。


「えほっえほっえほッ!」

「そもそも、お父さんも怒り過ぎだよな? お兄ちゃん、一昨日のデートにちょっと失敗してセンチメンタルになってただけでしょ? 余裕なさ過ぎじゃないかな、色々と。な?」


 凛菜は本心かもわからない言葉を並び立てていく。正直、今はありがたい助け舟だった。


「……そうか、そうなのか? いやそうだな、そうだよな。そうだ! 私の息子がこんなはずないものな! 私の早とちりだったか、すまん……取り乱した。許せよ、剣山」

「あぁ、うん……俺もつまんない冗談言って、悪かったよ。父さん」


 父は再び謝って椅子に腰掛け、酒に手を伸ばす。凛菜もホロビジョンへ視線を戻した。


「俺、もう寝るから。明日も早いしさ。凛菜も早く寝ろよ」

「明日はちゃんと起こしてなー、お兄ちゃん様」

「……明日だけだぞ。つーかいい加減、インプラントの目覚ましで起きろって」

「やですぅ。うっへぇ、やったぁ! なら、もうちょっと起きてちゃうんだな」


 呑気に喜ぶ小学五年生。だがまぁ、今日だけは大目に見てやろう。

 おやすみ、と言って俺は二階の自室へと向かった。


 施錠したことを確認し、明かりもつけずベッドに倒れ込む。

 ただただナデシコちゃんの抱き枕に抱き着いて目を瞑った。


(やっぱりあれが普通の反応だ……父さんは悪くない、あいつがおかしいんだ)


 ふと目頭が熱くなる。いつものような悔しさではなく、悲しみで涙があふれてきた。

 ――甘利つぐみ。帰ってきてからずっと、あいつの顔が浮かんでしょうがない。

 今さらながら本当はもう少し……一時間、いや三〇分でいいから一緒にいればよかった。


(また学院でね、か……)


 ごろんと寝返りを打ち、去り際の言葉を思い出す。

 部屋の壁中に透写されたナデシコちゃんの一体(ひとり)――派手な水着姿で横になる彼女と目が合った。

 どうしたらいいんだろ、俺は。ぼくは。どうしたいんだ……?


(だけどそんなので、満足……なのか? 俺は……)


 たぶんちがう。では何故? 信じると決めてそれに応えてくれたから?

 生きてきて唯一、本当のことを伝えることができたから? 

 ……ちがう。きっともっと単純な理由なんだ。


(やっぱり自信なんか、持てないだろ。こんなの……)


 今まで恋だの愛だの思っていたものは、何だったのか。そう思えてならなかった。

 この気持ちはただの勘違いで、明日には忘れているものなのかもしれない。


 ただ優しくされて嬉しかったということを、脳が錯覚しているだけなのかもしれない。

 けどもしも……明日。朝一番に目が覚めて浮かぶものが〝これ〟ならば。


 きっと少しだけ、信じてみたく――頑張ってみたくなってしまうはずだから……そのときは理性でも本能でもない。ただありのままの心に従おう。そう思って、眠りについたのだ。



 そして――待ち望んだ夜明けが来た。

 もう朝はこないんじゃないか、なんて考えてしまうくらいに続いた暗闇は消えていた。


 目が覚めてまず真っ先にしたのは、洗面所で吐くことで。

 やけに深刻そうな表情をした妹を不思議がりながら、それでも吐き続けて身支度をする。


 自分自身を整えていく。

 ……怖い。けれど今、何もしないでジッとしている方がもっと怖いから。だから、


「視界良好」


 いつものように手ぶらで外に出る。やけに強い陽光は少し眩しい。一歩を踏み出す。

 街ゆく人々の顔がはっきりとわかる。色んな人たちがいて、その中に俺がいる。


「おはようございます!」


 それはきっと当たり前のことで、それは――気持ちのいい、よく晴れた朝のことだった。

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