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大地に立て 3

「――まもなく営業終了時間となります。皆様、ご退場の準備をよろしくお願い致します」


 女性の無機質なアナウンスが響く。時計は二十一時三〇分を示し、営業終了三〇分前だ。

 結論から言えばその後、最後まで奇跡の一〇メートル以上に泳ぐことができなかった。


 ビート板を使って何とか五メートル沈まずに浮かべる程度で、正直なところ浮き輪で適当にバタ足をした方が速い。これを泳げると呼ぶわけにはいかないだろう。


「――、――――、――――、――」


 俺が泳いでいる間、嘲笑が止むことはついぞなかった。今もそう。ラスト一回ということで挑戦し、あえなく沈没。元々の体力の無さもあるが、だとしても救いようがない。


 その度に情けなくなって、身体が凍えるように震えてしまう。

 けれど毎回、彼女が俺の手を握って震えを止めてくれる。


 すると身体が熱を取り戻し、何故だか勇気が湧いた。

 感謝している……しているからこそ、せめて彼女に示したかった。なのに、


「…………」


 それさえ俺にはできない。ふと――あの日の声が、父と母の言葉が蘇る。

 周辺地域の園児を集め、長期に渡って行われる適性検査。その初日。


 まずは大掛かりな体力測定をすることとなり、はじめは五〇メートル走だった。当然、ダントツでビリ。

 その後も計測距離を変えて何度も走り、何度もゴールで待つ父と母の目を見たのだ。


「こんな……こんなはずはないッ!」

「あ、あれは……私たちの息子なの?」

「私より、君の方が運動神経が鈍いからッ!」

「何よ、大した結果を出してもない癖に偉そうにしてっ!」

「あんなの劣等遺伝子排除法に引っ掛かっているべきだッ、ちゃんと産んだのかッ!?」

「私も私の家系も正常よ! 第一、ああいうのを望んで産みたいわけないじゃないッ!」


 俺なんかそっちのけで二人は言い争っていた。何も言ってはくれなかった。

 そんなふたりを見て何を言うべきか必死に……必死に必死に必死に考えた。


 言葉を殺して、感情を殺して、自分を殺して。殺して殺して殺してッ!

 だから……俺は、ぼくは――


「――いいんだよ」


 それでいい、と彼女が言う。

 けど怖い、怖いんだ……誰にだって、いつだって、何にだってそういうものだろ?

 一歩目を踏み出すために、自分で背中を押すなんていうことは。


「言ったっていいんだよ。あるんでしょう、あったんでしょう? ずっとずっと……」


 言ってしまえ、と彼女は言う。わからないことは怖い……恐ろしいことなんだよ。

 もしあのとき言葉にしても傷つくだけだった。それがわかる奴なんだろ、たぶんおまえも。

 水底に足が着いて、心はゆっくりと彼女から距離を置こうとした。すると、


「もうっ、ここまできて意地っ張りなんだからっ! ほら、おいで?」

「ぇ……」


 強引に腕を引かれ、ぽふっ、と先程と同じように平凡な胸へ抱き寄せられる。

 じたばた逃げ出そうとすれば頭を押さえられて、甘い香りが鼻腔をくすぐる。


 感じたことのない柔らかさと温もりが心を惑わす。

 頬が仄かな熱を帯びるとともに彼女がささやいた。


「んっ、よーしよし。よーしよし。今日までずっと一人で頑張ってきたんだよねぇ、我慢してきたんだよねぇ、えらいなぁ……剣山は。いい子いい子、えらいえらい……」


 つぐみは互いのキャップもゴーグルも取っ払って、俺の頭をそっと撫でた。


「それもぜーんぶっ、剣山がとっても頑張り屋さんで、すっごく負けず嫌いで、誰よりも強くなりたいっ、って思える子だったおかげなんだよ? ねぇ、知ってた?」

「――――……」


 ふるふる、と俺は小さく首を横に振る。


「そっかぁ、でもでも私すぐわかっちゃった。ぬへへへっ。小さい頃からずぅーっと見つけて欲しかったんだよね? 誰かに気づいて、聞いて欲しかったんだよね? でも皆きっとねぇ、剣山のこと強い子なんだーって思っちゃってるから、ちっとも気づけなかったんだよ」

「そう、かな……」


 自信をまるで感じさせない声音。今の自分の顔は、正直言って想像したくもない。


「そうだよ。でも世の中、言わなくちゃ伝わらないことばっかりなんだよ。人間に飾りなんてないんだから。でっ、今日まで一生懸命に生きてきた剣山にはなんとっ! 私からのご褒美がもらえちゃうのです。嬉しい? 嬉しいでしょう? ……ぬへへっ」


 無自覚に懇願するような眼差しで見たのだろう。つぐみが笑みをこぼす。


「というわけで営業時間終了まで、独り言を聞いてあげちゃうタイムが贈呈されまぁす」

「独り言……独りご、と……そ、あ……つぐみ。お、れは――むぐっふぐんっぐ」

「めっ、独り言なんだから……んぁっ、息くすぐったいからもうーっ」


 顔を上げようとすれば、言葉を制される。彼女がどういう表情なのか、もうわからない。

 ただ彼女の体温と鼓動だけが感じられて、ならば今の俺にはそれだけで十分に思えた。


「ご、ごめん……」

「うん、いいよ。でも、ちゃーんと謝れてえらいねぇ……よしよーし」


 拗ねたように言うと、何度も優しく頭を撫でてくれた。母親にもこうされた記憶はない。

 少なくとも何にもならないときの俺を、こんな風に扱ったのは彼女だけ。


 信じてもいいのだろうか。信じたいとは思う。

 でも信じられるほど、俺は彼女の何を知っているというのだろう。

 彼女は俺の何を知っているというのだろう。


 ――いや、ちがう。そうじゃない。そうじゃないんだ……他人に自分が理解されないなんてそんなことは当たり前なんだよ。だから、知ってもらいたいから俺は、ぼくは――……


「おれ……俺さ、幼稚園の適性検査のときからずっと、ずっとさ……ただ、父さんと母さんに頑張ったねって大丈夫だよって、他のことで頑張ればいいんだよって。あのとき、そう言って欲しかった……それだけで良かった。ううん、その言葉だけが……欲しかった。


 俺はいらないんだって、捨てられるんだって、そう思って。だからゲームの適性が高かったときは、ほめてくれて嬉しくて。あぁ、俺にはこれしかないんだなって……これが、俺が生きるために神様がくれた幸運なんだって。だから俺、運動以外は死ぬ気で努力してきたんだよ。


 でもずっと……ずっと引っかかってた。適性検査のとき、俺が勝った子の家族が。だっておかしい、ずるい。名前もう忘れたけど……後で適性結果を見たら運動能力以外、俺が全部上だった! 負けてるとこなんてなかったッ! なのになんでッ、なんであんなに嬉しそうなんだよッ! 楽しそうなんだよッ!?


 ……わかってるんだ、たぶん両親より適性が良かったんだ。ずるいよな……俺だって、俺だってさ。ほめられたいよ……けどそんなこと言っても、なんにもはじまらないことが小学生にもなれば思い知った。それに父さんと母さんも……俺がちゃんとすれば笑ってくれるってわかったから。別にいいんだ。


 はじめて上位に食い込めそうなプロチームから誘いがきたときのこと、よく覚えてる……二人とも泣いて喜んでくれた。褒めてくれた。凄く……凄く嬉しかった、嬉しかったけど……上手く笑えなかった。そしたらさ。その日の夜も、次の夜もいつもと同じ夢を見た。


 消えなかった……消えてくれなかったんだよ……プロになっても結果が残せなかったら、元通りなんじゃないかって。わからないことが怖かった……考えすぎなんだ、とは思ったけど。どうしようもないじゃん。考えちゃうのが俺なんだからさ。


 でさ、そのとき好きだった二人には振られに振られ……理由? 滑舌が悪いからだと。なんだそれ。けど仕方ないんだよ、そういう考えが普通なんだから。同じような能力なら少しでも遺伝子の優れた方がいいんだよ。二人目はしょうがないって思ったなぁ……高望みだもの。俺、ずっと逃げてきたから。


 そう、逃げてきたんだよ。言い訳して、先延ばしして……思い返してみれば〝オバクロ〟も逃げが基本。言われなきゃわかんなかったよ――で、いざサビーヌ杯に勝ってデートしてもらったらさ、見事に痛いとこ衝かれまくって逆ギレ……ほんとクソみたいな性格だよ。笑っちゃうよ。


 それで……俺、思うんだ。もしも遺伝子が全てなら俺なんていないのと同じじゃないかって。どうせ俺なんて誰も見てなんかいやしない。中身を入れ替えても結果があんまり変わらないなら、たぶんそれは須方剣山になれるんだ。能力に名前が付いてるだけ。そんなの……そんなの嫌だっ!


 俺を作ってるのは遺伝子じゃないんだよッ! どうして誰も俺を見てはくれないッ、どうして誰も気付いてくれないんだよッ! ……あぁ、わかってる。わかってるさッ! いつまでも大事に抱えて、独りで不満を垂れ流してるだけじゃ駄目だってわかってたッ! でも言えるものかよッ!


 そんなの言っても気が触れたんだって処分対象になるのがオチじゃねぇかッ! そういうクソみたいな理不尽を生きているんだよッ、生まれてきたんだろ俺たちはッ、皆ッ!! なのに、なんで、どうして……――」


 取り留めもなく言いたいことだけを言葉にして支離滅裂だった。

 何の話かわからない部分も向こうには多いだろう。でもそれで良いのだと思う。


 だって全部、俺の独り言なのだから。

 俺は、気持ちの整理がつかないまま顔を上げる。今度は彼女も止めない。


「……どうして、おまえは、そんなに優しいんだよぉ……っぐ、えぐっ……」


 言葉を吐き出し、ぼくはそれこそ赤ん坊のように泣いた。

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