第318話
運命の朝。
軽く周囲を見渡してから、静かに部屋を後にする。
時刻はまだ午前6時よりも前。
同室の親友はまだ夢の世界へ旅立っていた。
「……ちょっと、早かったかな」
緊張で眠れない、ということこそなかったが、今度は日課の影響がこんなところで出てしまった。
一言で言えば、早く起き過ぎである。
寝過ぎるわけでもなく、早く起きたのは緊張しているからこそ、普段通りの動きを体がしたからであろう。
世界大会がない時は、この時間は優香と一緒に登校している時間帯だった。
「昔は日記とかも直ぐに書かなくなったのに、魔導に関しては本当に、自分でもびっくりするぐらい真面目だな」
思い返せば、何事も長続きしなかった男がよく半年以上の間、朝練などというものを続けられたというべきだろう。
美少女と一緒に登校できるという報酬があったにしろ、魔導に出会う前の健輔では考えられないくらいの勤勉さだった。
含み笑いしながら歩くという中々に不気味な感じになっているが、彼とすれ違う者たちは特に気にした素振りを見せない。
知り合いがいない、というのがプラスに働いたというべきだろう。
早い時間帯のため、スタッフ以外で動いている人間がいないのだ。
「こんな時間から働いているとは、本当に凄いな。俺には無理だわ」
早い時間とはいえ、宿舎の人間などは既に動き出している。
彼らの迷惑にならぬように、健輔はひっそりと外に出た。
天祥学園と季節は反対であり、夏に近いとはいえこの時間は流石に寒い。
魔導を使えば季節など関係ないため、目覚ましにはちょうど良いとだろう。
己を落ち着けるのには、ピッタリだった。
「あー、でもな。完全に目を覚ますのもな……」
試合までは後5時間以上は時間がある。
かと言って、2度寝はあまりよろしい感じではない。
頭では悩むが、身体は真っ直ぐと外に向かって歩く。
正直な自分の身体に苦笑しつつ、新鮮な空気を肺に取り込む。
天祥学園も良い場所だったが、ここも良い空気だった。
そんな風に健輔には似合わない感慨にふけりながら周囲を見渡した時、
「ん……?」
「あれ……?」
ちょうど、思い浮かべていた人物と出会うことになるのだった。
「優香……? こんな時間に何をしてるんだよ」
「健輔さんこそ、まだ6時前ですよ。しっかりと英気を……」
お互いに口を開くが、何を言ってもお互いに返ってくる状況に陥っている。
こんな時間に何をしていると問われるのは、健輔も同じだったし、英気を養わないといけないのは優香も同じだった。
年頃の男女が、外に出て無言で見つめ合う。
言葉にすれば、中々に素敵な状況だったが、実情は2人とも言葉が見つからないだけという、甘酸っぱさの欠片もないものだった。
「ぷっ、ははは……小学生みたいだな。その、俺たち」
「ふ、ふふっ、そうですね。ちょっと、カッコ悪いですね」
脱力したように笑い、健輔は肩を落とす。
何を言っても、状況は良くはならない。
緊張して早く起きてしまった。
心の中でいろいろと言い訳していたが、つまりはそういうことであった。
諦めて、現実を受け入れる心。
それも時には大事なことだった。
「やっぱり緊張してるのか?」
「そういう健輔さんこそ、緊張してらっしゃいますよね?」
くすくすと楽しそうに笑っている優香に、健輔は返す言葉もなかった。
日課の朝練は出来ないのだから、仮に目が覚めても部屋でまったりとしていればよいのだ。
それをせずに、外の空気を吸いに来た時点で緊張していることは隠せなかった。
「揚げ足を取るなよ、って言ってもそれはこっちもか」
「似た者同士、ですね」
「……だな」
優香の調子がいつもと違う。
明るい、というか何かから解放されたような雰囲気を醸し出している。
気にはなるが、何かを問うようなことはしなかった。
必要ならば、優香の方から話してくれる。
それぐらいの信頼関係はあると思いたい。
「ん? どうかしましたか? 遠くを見ていたみたいですけど」
「あ、ああ、いや、悪い。まだちょっと眠いみたいで」
「ダメですよ。大事な試合の前なんですから」
少しむくれたように優香は健輔に注意する。
誤魔化せたのだろうかと、健輔は内心で優香の様子を窺いつつ弁解した。
「わ、わかってるよ、ただ、俺は出し尽くしたからな。ちょっと、本当にちょっとだけだけど、気が抜けてさ」
「……そうですか、ううん、そうですよね。とっても、よい戦いでしたから」
本当はあなたの横顔に見惚れてただけです。
これを素直に言えたらよかったのだが、健輔も見栄を張りたい年頃である。
それらしい理由を捻り出せるくらいには回転の速い頭がこの時ばかりは逆効果だった。
素直に信じた様子で、瞳を潤ませている優香を見て、罪悪感がモリモリと湧いてきた。
真実を言おうにも、もうそんな空気ではない。
自分で自分の退路を塞ぐ、という一昨日の試合の続きのようなことを1人でやっている。
正面の男のアホな葛藤とは別に、優香は真剣な表情を見せていた。
健輔と違い、今日こそが彼女にとっての正念場である。
緊張の度合いなどもレベルが違う。
長年の想いも込めるとなれば、試合が背負う重みは健輔が感じたこともない領域のものとなる。
「……っ」
「…………」
2人の間に沈黙が漂う。
思えば、パーマネンス戦後にもゆっくりと話していない。
この対峙が久しぶりの2人きりであった。
学園に居た頃は毎朝が2人から始まっていたというのに、進歩なのか退化なのかわからないが不思議な感じである。
「あー、なんだ。その、安心してくれよ」
「健輔さん? 急にどうしたんですか?」
「いや、気が抜けたって言ったけど、今の話だからな。優香は安心して桜香さんにぶつかれば良いよ。結果はどうでもいいさ。仮に負けても、それは残った俺たちの責任だ」
「それは、ダメですよ。私はエースとして、次の試合に責任を」
「押し付けたのは、俺だ。だから、責任は取らせて欲しい。好きにやってくれればいいよ。後の事なんて、考えないでいいんだ」
優香は桜香との戦いを前にしていろいろと溜め込んでいる。
言い方は悪いが、そんな理屈に寄った考えでは絶対に頂点には届かない。
桜香との戦いは、皇帝との戦いとほとんど差がない領域での戦いだろう。
ならば必要なのは心であり、理屈などは後から付いてくるものだった。
能力そのものは十分なのだ。
優香の切り札の存在を考えれば、心さえ負けなければ絶対に負けない。
少なくとも、互角に戦うことは十分に可能なはずだった。
そして、この戦いにおける優香の役割はそれで十分に果たされている。
「最強――まあ、頂点と戦ったから、わかったことがある。あのレベルに、計算なんかしてたら絶対に勝てないぞ」
「……皇帝、クリストファー・ビアス。姉さんよりも、強かった人」
桜香は間違いなくあの領域にいる魔導師だ。
それも、健輔のように誰かの力を借りてではない。
己の実力だけで、世界の頂に手が伸びている。
優香が挑もうとしているのは、そんな規格外の魔導師なのだ。
単体での強さなら、皇帝すらも上回る可能性がある学園最強の魔導師。
能力では圧倒していたが、戦闘者としては健輔でも優っていた皇帝と違い、桜香は戦闘者としても1流である。
優香の狙いぐらい簡単に読まれるだろう。
「前提が間違えてるんだよ。勝利の意思でも、なんでもいいけどさ。譲らない思いがないとどうにもならない」
「思い……。そうですね、私はきっと、姉さんに勝てないと思ってる」
心の何処かで、この戦いの勝敗がわかっている。
優香は寂しそうに微笑む。
この戦いを生み出したのは、健輔である。
優香に最後の戦いを押し付けたような形になってしまったのは、彼も後悔していることだった。
敗北が優香の心の閉ざしてしまうかもしれないと思うと、健輔の鼓動が1段高くなる。
いつだって絶対に勝てるという保証などない。
敗北の可能性は常に全ての人間に付いて回っていた。
桜香という存在には、どれほど警戒しても足りないということはない。
「だったら、どうするんだ?」
「言いたいことはあります。――ただ、それだけを考えれば良い。あなたはそう言ってくれるんですね」
空を見上げる優香の瞳は健輔には見えない。
ここで慰めるのは簡単だった。
優香なら勝てる、絶対に大丈夫だ。
後ろには俺がいる、などと思いつくだけでも言葉は簡単に出てくるのだ。
しかし、ここで軽い言葉にどれほどの意味があるのだろうか。
最終的には優香が自分で決着を付けないといけないことだった。
だからこそ、健輔は何も言わずに彼女を見守る。
勝とうが負けようが、後を引き継ぐのは健輔たちの役割なのだ。
優香には、ただ全霊を賭して貰えばそれでよかった。
「……戻るか」
「はい――」
2人は踵を返して、宿舎に戻る。
健輔は共に1年間を過ごした少女の強さを信じた。
彼女ならば、必ず、最高の才能に勝てるだろう、と。
そして、優香もそれを感じていた。
無言の信頼に瞳を潤ませて、彼女も1つの決意を固める。
爆発しそうな熱量を溜めて、戦いの舞台へ2人は赴く。
世界大会、最後の朝はこうして終わりを迎えるのだった。
虹色を纏った女神が瞑想をしている。
その光景を表すならば、そうとしか言えないだろう。
アマテラスの宿舎、その1室で精神統一を行う彼女――九条桜香の心は不思議なほどに穏やかだった。
特に意識した訳でもないのに、魔力光が絶好調を示す『虹』に変化しているのもその表れだろう。
『パーマネンス』対『クォークオブフェイト』。
あの戦いを見てから、高ぶる身体と魂を抑えるのに苦労している。
自分でも達成困難な戦いに何かを刺激されたのか。
「自分でも、よくわからない。でも……」
1つだけハッキリしていることがあった。
この戦いが――楽しみで仕方がなかったのだ。
優香との激突は不可避なのに、彼女を倒すことに――全力をぶつけ合うことに喜びを感じている。
その果て、どちらかに敗北が齎されると理解しておきながら、溢れ出る歓喜は止まらない。
「……羨ましいのかな」
誰かが、自分の全力に応えてくれるという状況が嬉しい。
国内大会の時は、準備なども不十分であり、心構えさえしっかりとしていなかった。
あの時、真剣に向かって来てくれた健輔に桜香はきちんと戦うことが出来たと言えるだろうか。
少なくとも、桜香はそう思っていない。
自分の戦い方、魂をぶつけるような事は間違いなくやれなかった。
健輔とクリストファーの戦いを見て、自分に欠けていたものがハッキリとわかったのだ。
「絶対に、負けない。その意思と、自分の戦い方への誇り。私にはそれがなかった。何より――」
桜香にはある歪みがあった。
無意識であろうが、確かに存在した桜香の中の傲慢さ。
これ以上ないという形で、健輔によって叩き付けられた。
あの日から、彼女の心は傷を負ったのだ。
付けられた傷痕から、血が流れている。
自覚した痛みは、彼女にとって忘れられないものであり、ある意味では健輔と結んだ約束のようなものだった。
「――ああ、本当に楽しみです」
大会中、只管に考えてきた答えをこの戦いで示す。
桜香が考えていたことは、ただそれだけ。
彼女は優香の姉。
血縁という絆からわかるのは、器用に見えて2人ともとても不器用な生き方をしていることだろう。
息抜きの仕方をしらないのだ。
やり始めたら止まらない。
この辺りは健輔もその気があるが、自覚の有無の差はこの場合はとても大きいと言わざるを得ない。
走り出したら止まらない暴走特急――九条桜香。
走り続けた果ての答えが、この戦いで衆目に晒される。
彼女は天才、皇帝すらも認める魔導の申し子。
「――この戦いで、超えてみせる。私は、必ず……」
心の内に溜め込んだ熱量が、彼女の心を焦がしている。
心の影響を受けて、火照る身体は完全な準備を整えていた。
途上にあったことなど、ほとんど忘却してこの戦いに全てを賭す。
彼女は最初から、この試合以外の光景を視界に入れてすらいないのだから。
健輔どころか、誰1人として気付いていない最大級の爆弾が試合にて解き放たれる。
眠れる才能が、狂わんばかりの情念を伴い覚醒する時がきた。
最強を越えた先で、次代の最強が生まれようとしている。
普段の優しい笑顔からは想像することも出来ない妖しげな笑みを浮かべて、桜香はクォークオブフェイトとの戦いを待つのであった。
活動報告に今後の活動などについて記載しました。
よろしければご覧ください。




