第189話
机に積み上げられた参考資料の数々。
美咲と香奈、そして早奈恵によって集められた膨大な量の資料たち。
本は勿論、電子媒体のものなども含めれば1ヶ月程は活字に困る事はないだろう。
自ら頼んだ事とはいえ、物理的な多い量はそれなりに迫力があり、若干引きながら健輔は早奈恵へ感想を述べる。
「……自分で頼んでおいてあれですけど。……すごい量ですね」
「お前の指定が広すぎるんだ。魔導はそこまで歴史が長いわけでもないが、紛いなりにも科学なんだ。些かオカルト染みた部分もあるが、そこが逆にこの資料の山になるわけだな」
早奈恵の解説を聞き、試しに一冊の本を手に取ってみる。
『魔素と魔力の関係性』、タイトルだけ見れば魔導における基礎について記してあるように見えるが、1000ページを超える分量がその印象を裏切っていた。
「魔素……。魔力……それだけだったんですけどねー……ははっ」
「乾いた笑いを浮かべるな。まあ、私たちの悪乗りもあるぞ?」
「研究用で借りたんだから便乗したものもあるんでしょう? 一応、術式開発で申請してますもん」
「手際の良いことだな。やろうとしていることの発想も良い。そして、実行できるのはおそらくお前か、後は」
「まあ、龍輝もですよね。万能系ならば至ってしかるべき考え、ですから」
本を机に戻して溜息を吐く。
ここから世界戦まで2ヶ月、正確には1ヶ月でこの資料を物にしないといけなかった。
視界に入る本だけで100冊を超えそうな勢いである。
電子媒体の方は考えたくもなかった。
「健輔の希望に沿ったつもりよ?」
「私たちもお手伝いしますから」
美咲の言い分に涙が出そうになり、優香に慰められる。
後先を考えないのが健輔とはいえ、今回は流石に想定が甘かった。
あまり開拓されていない分野に挑戦するということが何を示すのかわかっていなかったのだ。
前例がないから全てを自分で考えてなんとかしないといけない。
それだけの事ではあったが、それが難しかった。
「……はぁ。まあ、実証出来るのは俺だけですしね」
「言いだしっぺの法則だな。何、先輩としてきちんと協力はする」
「お願いします」
早奈恵の力強い言葉に頷き返す。
先行きは不透明だが、遣り甲斐はあるだろう。
誰も手を付けていない場所をどのように捉えるかは心の問題であった。
失敗よりも成功を夢見て前を向く。
佐藤健輔という男はそういう人間である。
「……葵さんがなー」
とはいえ、まだ高校1年生であることも事実であった。
やる気満々の表情で実験台を志願した葵の笑顔を思い出して激しい胃痛を覚える。
実践で通じるか試してあげる、などと言いながら殴りかかってくる様が簡単に想像出来てしまった。
残念な事に無駄に鋭い健輔の直感はこんな時でも外れてくれないのである。
後輩の悲壮な顔つきを見て早奈恵が珍しく大きな笑い声を上げた。
「くっ、くくっはっはははは! なんだ、その顔はもっと自信を持っていくといいだろうに」
「そ、そんなに笑わなくてもいいでしょう!」
「健輔、言わない方がいいんだろうけど、言うわよ」
「何を?」
「眉が八の字を描くほどに情けない顔になってるわよ。怖がりすぎ」
「……マジ?」
「マジよ」
美咲の言葉に慌てて眉を触るが、自分ではわからない。
少し優香の方に視線をずらすとそれに気づいたのか慈愛に溢れた笑顔を向けてくれた。
何がそんなに嬉しいのかはさっぱりわからないが、とりあえず笑顔を返しておく。
「はは……。こうさ、葵さんの気合の入り方が春レベルで……」
「あー……。うん、わかったから、その捨てられた子犬みたいな表情はやめてよ」
「俺だって苦手なものくらいはある……」
過去を振り返って遠い目をする健輔の3人は呆れたように見つめる。
肉体に刻むのが早いと真由美と葵から熱い指導を受けた春。
あれから既に半年。
今の健輔ならば当時のメニュー程度ならば軽くこなせるだろうし、葵はともかく真由美には近接戦では負けないだろう。
それでも未だに2人と戦うのを恐れるのは刻まれた恐怖のせいか。
葵の腹パンはしっかりと体が覚えているし、真由美の砲撃も夢に見ることがあった。
葵の恐ろしいほどに高いテンションがその頃とそっくりであり、健輔のトラウマを激しく刺激する。
「……ま、まあ、気合を入れていこう」
「前途多難ね」
美咲が溜息と共に吐き出した言葉は、これから歩む道のりの困難さを暗示するかのようであった。
健輔たち3人はそのまま部室に残り、資料の調査を始める。
ただ1人、その場を後にした優香は足を練習フィールドに向けていた。
健輔が自己の強化を必死に模索している傍で自分が安穏としていることなど、この少女には許容することが出来ない。
しかし、未だに資料精査の段階なのだ。
優香が才能溢れる天才美少女であることは間違いないが、その道が専門である早奈恵たちに勝てるようなレベルではない。
彼女の役割はもう少し後、実践の段階になってからなのだ。
よって、いくらか暇な時間が出来る。
そこで利害が一致したのか、優香はある女性と模擬戦の約束していた。
さらなるレベルアップを図るため、己の弱点を超えるためにやらなければならないことがある。
「葵さん」
「ん? ああ、優香ちゃんか。準備はオッケー?」
優香の協力が健輔に必要となるのはもう少し後だが、 同じように葵の協力も今は必要なかった。
2人の役割はテスター、実際に健輔たちが生み出す術式が動くかどうかの確認がメインとなる。
それまでは今まで通り己を高めていけば良い。
都合の良い事にこの2人は今抱えている課題を解消するためのパートナーとして、お互いが最適な存在であった。
「問題ありません。それに無理を言ったのはこちらですから」
「ふふ、弱点を克服したい、よね? 良いわねー、青春してるわよ」
「そうなんですか? 自分ではわからないんですけど」
「私に頼んだ時、クラウに負けたくないって表情してたわよ」
「……それは、その……」
「いいのよ。さ、始めましょうか! まずはゆっくり目で、少し浮きながらいくわよ」
「はいっ!」
優香が抱えている弱点はエースとしての力量が術式頼りの点であること。
エースとしての強さの大半がプリズムモードに集中しているため、そこを突かれると途端に戦力が落ちてしまう。
『暗黒の盟約』戦ではそこを強く露呈してしまった。
また、健輔と2人セットでエースとして1人前である彼女は単体だと未だに準エースとしての扱いになっている。
実力的には優香は十分に術式抜きでも1流であり、エースの名に相応しい物を持っているがそれが健輔の後塵を拝しているのは、何故なのか。
「よっ、と」
「っ!?」
葵が軽く突き出した拳を優香が避ける。
体勢が崩れたところに容赦のない蹴りが脇腹に突き刺さった。
実戦形式の組手。
やることは僅かに浮いた状態で葵の攻撃を避け続けるだけだ。
健輔が春頃に葵と初めてやった練習がこれである。
「はい、1回終わり。次へ」
「は、はい!」
「返事はいいけど、それだけね」
「かっ!?」
今度は膝が腹に入る。
健輔ならば最少の力で攻撃を逸らしただろう。
正確な情報と決断力が必要な受け流しや逸らしだが、そういった技術的・精神的な面での健輔の強さはチーム内でも随一だった。
それもある意味で当然のことだろうか。
今の優香ですら苦戦するような練習を入学段階で無茶ぶりされれば、上達するのも当たり前の話である。
「目はいい。才能も健輔よりはあるわ。でもね、優香ちゃん」
「っあ!? くっ」
連続で叩き込まれる拳。
葵は常に浮かんでいる優しい、快活そうな表情ではなく冷めた顔で宣告する。
優香が格上どころか、同格との戦闘でも活躍が限定されている理由は――、
「あなたは勇気が、ないの」
「――ぁあ、やっぱり、ですか……」
優香の戦い方は常識的である。
危険は大きく避けるし、安全マージンを常に考慮して安定した戦い方を行ってきた。
しかし、それはエースの戦い方ではない。
言うならばベテランの、妃里たちのような戦い方だ。
彼らがそれを行うのは問題ないだろう。
ベテラン魔導師は実力はあるが、爆発力や決定力がないのが特徴だ。
だからこその安定感とも言えるし、チームの足りない部分を補うのには十分な実力だった。
「健輔がいれば活躍できるのは博打のタイミングをあいつが判断してくれるから。何も考えずに済むのは楽よね」
「っ……」
葵の言い方は些か意地が悪い面も強かったが真理ではあった。
エースならば博打をやる必要もある。
勝負に対する嗅覚。
優香にはそれが決定的に欠けている。
むしろ、それが普通だろう。
葵や健輔のようになんとなくで試合や勝負の機微を察することが出来るのは1つの才能だった。
本来ならば、そういった物は経験で補うのが正しい形である。
「今の優香ちゃんはダメージを怖がってる。攻撃を恐怖してるのよ。もしかしたら、1撃でやられるかもしれない。……桜香が健輔に負けたのもそこを突かれたからだもんね」
「……」
「桜香ですら負けた。だったら、自分は……。ま、無意識でしょう? この言葉は私の勝手な想像だし」
「っ」
葵が口を開く度に涙が瞳に溜まっていく姿に苦笑する。
これでは葵が優香をいじめているようだった。
彼女にそのような思いはないのだが、優香が何か事態を深刻に捉えすぎているのだ。
健輔ほど割り切って考えられば楽だろうが、それが出来ないからこそ彼女は九条優香でもあった。
生きる事に不器用な後輩。
葵はそんな後輩が大好きであった。
「ほらほら、泣かないの。安心しなさいな。そんな事、大体みんな思うから」
「……ぇ、え? そ、そうなんですか?」
「当たり前じゃない。人間なんだからすぐ傍に刃が通り抜ければ怖いし、砲撃が直撃すればおもらししそうになるわよ」
「お、おもらし? ですか。想像出来ないです」
魔導師は強いが絶対無敵の存在でもない。
人間に毛が生えた程度の存在でしかないのは、疑いようもない真実である。
高校生でもある彼らが自分を殺せるだけの攻撃が直ぐ傍を通過して怖くないはずがない。
だからこそ、それらを乗り越えた者が前衛として1段階上にいける。
「優香ちゃん、あなたはそういった最初に感じてしかるべき恐怖をほとんど味わってないの」
「はい」
「魔力が暴走する恐怖は知ってるわね? だったら、後は簡単だからそんなに警戒しなくてもいいわ」
魔力という力の危険性を優香は知っていて、それを乗り越えている。
後は最少の動きで攻撃に突撃できる度胸と技術があればよかった。
「これはそのための練習。健輔がああなったベースにある練習だから効果は抜群よ。安心しなさい」
「はい! お願いします」
「勝負勘とかも私の知る限りは全部伝授する。……来年は私も今年程無茶が出来なくなるわ。だから、無茶はあなたがやりなさい」
「葵さん。……はい、任せてください!」
「良い返事」
優香は高い才能で一足飛びに近接魔導師として完成してしまった。
クラウディアも同様なのだが、独学に近い優香と欧州時代から師がいたクラウディアは土台が違うのだ。
敗北、特訓、再起と多くの魔導師が辿るプロセスを経たクラウに勝つには優香も同じ道を辿るしかない。
特訓以外の要素は彼女も持っている。
偉大な姉から受けた敗北感は未だに彼女の心に巣食っていた。
「注意点を軽く言うわ。攻撃の際に体幹をぶらさないこと、空でもそれは基本。後は大振りは避けなさい。私のような火力型でないのなら細かい連撃で問題ないわ」
「はいっ!」
「次に避ける際に魔力は最小限に。後は……相手の動きはしっかりと観察しなさい。私に限らず、上位に来るような近接魔導師の動きは基本形は同じよ」
「それはどういう?」
「無駄を省けば必然として似たような形になるわ。桜香もそうだし、私もそう。その上で自分なりのアレンジを加えるの」
葵は丁寧に理屈を優香へと説明していく。
健輔の時は問答無用での肉体への刻み込みだったが、優香にそれは必要ない。
どこからどう見ても説明書は見ない派の健輔へ懇切丁寧に説明しても表面上ではわかりましたというのが目に見えていたが、頭脳派の優香にはその心配がなかった。
葵としては、健輔のように単純な方がやり易いが、優香のようなタイプも苦手ではない。
どちらも努力という点では共通しているからだ。
必要な事を言えば、後は各々が勝手に判断してくれると信じていた。
「じゃあ、もう1セットやりましょうか。時間は5分。倒れても続けるからしっかりとしなさいよ」
「はいッ! よろしくお願いします!」
「うん、いい返事よ。――ご褒美に顔だけは勘弁してあげるッ!」
葵の拳が発生させる音が開戦の号砲となり、鈍い打撃音が周囲に響く。
真剣な表情の2人の美女はそのまま夕方まで殴り合いに興じる。
世界に向けての強化はまだ始まったばかりであった。




