66.人間種と吸血鬼
「お待たせ致しました。お嬢様、ミチ様」
その声は突然にかかる。忍び寄る気配も感じさせず近くから放たれた声に、しかしミチは敵意ある者でないことを悟る。思考と追憶に耽っていたミチは地に座しながら、ランタンを掲げて浮かび上がる影を視認する。
「―――いや、思ったよりも早かったくらいよ」
地を覆う草や葉より音を立たせず、静々と歩み寄ってくるその人影は、この『大地の割れ目』にて合流すると約束を交わした、カリーナであった。
―――なんと静かに歩くのだろうか、ミチはその身のこなしに舌を巻く。その体裁きは凡庸のそれではない、いち召使いが会得していて良いものではない。ミチは改めて、吸血鬼という種族の規格外さに戦慄を覚える。
「…………」
「…………」
そして、自分たちの関係性を未だ持て余している二者の間に、沈黙が流れる。それは今より十日余りほど前、彼女達が会合を果たした時に流れた沈黙と、同様に気まずいものであった。
―――遡ること十日余り。
「…………」
「…………」
母の死を聞き、ルイナが気を失ってより2人―――ミチとカリーナの間で沈黙が交わされた。
意思疎通が全くなかったわけではない。崩れ落ちたルイナの身をベッドに横たわらせるに際しては会話はあった。安静にさせたルイナを看取り、さて、どうするか―――と、2人は共通の思いでもって互いを見つめあっていたのだった。
ミチはカリーナを見る。栗色の瞳に白い肌、ルイナより若干低いが自分よりは大分高い背丈。その身に白と紺の給仕服を纏わせた彼女は―――銀の髪を持つ、吸血鬼である。
人間種の忌敵である。絶大な力を誇り、人間種を養分とする憎き魔族である。それと対峙してしまったら、人間種と吸血鬼は滅ぼすか滅ぼされるかの敵同士になるしか道はない―――はずであった。
しかし、ミチは吸血鬼を友に持つ。そこに寝かせたルイナは吸血鬼でありながら、友であった。目の前に立つ吸血鬼を、友が必死の思いで助けたのをこの目で見たし、その後の彼女達のやり取りでも、互いを気遣う節も見れた。言うなれば、友の知人である。
であればこそ、目の前の忌敵は、敵ではない―――いや、果たして安易にそう判断して良いのだろうか? ミチはその視線より、懐疑的な色を消しきれなかった。
一方、カリーナもミチを見る。赤茶色の毛を後ろで束ね、勝気に目尻を吊り上げた少女。まだ幼い体躯に黒い外套を纏った彼女は―――人間種の、魔術師であった。
吸血鬼の天敵である。どれだけ絶大な力を誇る者であろうと、吸血鬼は魔術師の放つ『輝ける陽光』の前には無力―――その無力さを、痛みを、彼女は身をもって体験したばかりであった。
本来であれば、すぐさま逃げるか殺すべきその相手に対し、しかしカリーナは動かない。彼女がいったい何者で、どういう経緯で、どういった思惑で吸血鬼と行動を共にしているのか、知らなければならなかった。
町の者やラサ教の奴らに追われていた自分を助けたということは、彼女が少なくとも自分とアリスの種族を知っており、尚且つ敵対していない、むしろ味方してくれている存在であるということだ。
しかし、安易に信じてはならない。自分の過ちは即ち、使命の失敗を意味する。目の前の人間種に騙され、窮地に追い込まれることだけは避けなければならない―――カリーナの視線は、猜疑的な色を濃く映していた。
2人の間を行き交う、沈黙と目線に乗せられた疑念のやり取り―――その応酬の不毛さにため息を吐き、先に音を上げたのはミチであった。
「はぁ~……あのさ、こうしてても始まらないし、とりあえず自己紹介でもしない?」
「―――そうですね。かしこまりました」
そうして2人は互いに名乗り、顛末を語り、種族間の垣根を確かに感じながらも言葉を交わし始めたのであった。
「―――なるほど、凡その経緯は分かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」
互いに名乗りを交わした後、ミチはカリーナへ、ルイナと出会ってから今までの顛末を大まかに説明した―――少なくとも、ルイナを陥れるつもりも、吸血鬼と敵対するつもりもないことを語って聞かせた。
ルイナは友であり、友から聞いた情報でその同胞を破滅へ導くのは道理に反する。その意思を伝え、ミチは語りを終えたのである。
対するカリーナは、表情に感情を映さない。聞いた話も心で受け止めず、あくまで情報として受け取る。騙されるわけにはいかない、陥れられるわけにはいかない。カリーナの警戒心は常に張りつめ、安易な言葉でもってその糸は緩められることはない。
―――まるで銅像にでも話しかけているような錯覚に陥る。ミチは自分の説明が関係構築の何ら役に立たず、徒労に終わったことを悟り、再びため息を吐く。
「はぁ……いや、まあいいんだけど―――それで、あんたはこれからどうするつもりなの?」
「お嬢様をお連れし、街へ戻ります」
「この子が嫌だって言ったら?」
「…………」
ミチの指摘に、カリーナは黙る―――その可能性を、考えないわけでもなかった。
今に至るまで、彼女の中でアリスとは、気高き少女であった。常に憂いを帯びながらも懸命に生き、他者の為に自らを犠牲にすることを厭わない、孤高の姫であった。
しかし、彼女は知った。彼女の知るアリスはもう、いないのである。
過去、闘争の儀において自らの傷を厭わず敵に立ち向かい、またある時は吸血鬼の血を吸う『異端』と誹られても、殺し合いよりも自らの死を選んだ―――自己犠牲と勇気に溢れたお嬢様は、もういないのだ。
今、そこに寝ている者は他者の目に怯え、他者より傷つけられることを恐れる―――母の死の責が自分にあると知り、痛みに耐えかねて意識を手放す。儚くか弱い、心に傷を負った少女なのであった。
そんな彼女が、心傷つけられた地への帰郷を選んでくれるだろうか―――勇ましく、主との会合を果たしてくれるだろうか。カリーナの脳裏に、負の可能性がちらつく。
だが、それでも彼女の出来ることは1つである。よぎる負の可能性を被りを振って捨て、問うてくるミチへ、頑なな意思を瞳に乗せて答える。
「―――お戻り頂けるよう、歎願致します」
「それでも断られたら、あんたはどうするつもり?」
「…………」
なおも、ミチは追及する。その問いはカリーナへ、こう問いかける―――ルイナが拒絶した場合、諦めるのか、力にものを言わせるのか。仲違いで終えるのか、敵対行動を取るのか。そのどちらの選択を取るのか、今この場で迫ったのであった。
「……もし、お嬢様がお断りになられるのでしたら、私は―――」
言外に問われている内容を、カリーナは把握していた。しかし、それに対する答えは瞬時に思い浮かばない。
主を救うという使命を諦める―――そんなつもりなど毛頭ない、論外である。
一方、力づくで連れ帰るという選択―――これも、アリスの強さを思えば不可能である。
―――つまり、アリスに断られた時点でカリーナに出来ることなどないのだ。この問いは板挟みの問題であり、ようは姿勢を問うているだけなのだ。ダメ元であろうとも、自分達と敵対関係になるつもりがあるのか、ないのか―――それを問うているだけなのだ。
そのうちのどちらも、カリーナは選べない。選ぶわけにはいかない。
一方、ミチの思考はそうではない。ミチの中で、吸血鬼という種族の強さは未知数であり、ルイナが吸血鬼の中でどれほどの強さに位置しているかを知らない。陽光の下で動けるという長所は知っているが、それ以外の―――およそ種の中で敵なしと恐れられていることは、知らない。
故に彼女にとってすれば、カリーナが敵対し、力づくで自分とルイナを襲ってくることも視野に入れての問いであった。
あわよくばルイナの意志を汲み、諦めてくれれば良い。諦めてくれなければ、申し訳ないが奥の手たる『輝ける陽光』を出し、力づくで黙らせる。そうした覚悟をもっての問いであった。
―――そんな、互いに認識の齟齬があった為に、カリーナは意を決して答えを発し、ミチはその答えに言葉を失ってしまうのであった。
「……お嬢様にお断りされたならば、私は陽光へと身を投げ出し、この命をもってお嬢様にご再考頂くよう、お願いする所存でございます」
「なっ……」
カリーナの答えに、ミチは目を見開く。
―――そこまでの、覚悟だったのか。いや、そこまで追い込まれているのか? ミチは自分の想定の何かが外れている予感を抱きつつ、それでも相手の決意に舌を巻く。
「どうしてそこまで―――あんたにとって、この子の父親は、他人じゃないの…?」
「―――私にとって主は、自分の命よりも尊いもの。それ以上語る言葉を、私は持ち合わせてはおりません」
「…………」
カリーナの言葉は、固い意思に包まれていた。震えはなく、覚悟に象られた声音でもって、確りと語られた。
その言葉に対し、ミチは苛立たし気に髪を掻きむしり、舌を打つのであった。
なるほど、分かった。こいつは―――苦手な人種の奴だ。
善悪でもない、損得でもない、喜怒哀楽にも依らない。絶対とすべき価値観を胸に抱き、それに反する他の選択を蔑ろにする、使命の下僕。
彼らに語る言葉は意味を持たない。意味を為さない。どれだけ弁舌を尽くしたところで、彼らの道は逸れないのである―――ルイナの父親のことを指すであろう『主』とやらを助ける為に、彼女は言葉通り、その身を犠牲にすることすら厭わないだろう。
ようするに、この件に関してこれ以上話すことは、何ら意味を持たないのであった。ミチが語る言葉によって、彼女の意思が覆ることはないと知ったのである。
そして―――自身の為でなく、他者の為に生を振るう決意、覚悟はミチにとっても好ましく感じるものであった。それが吸血鬼とはいえ、生き方に共感を覚えるものもあった―――故に、ミチは再び舌を鳴らし、カリーナより視線を逸らすのであった。
「―――あー、もうっ! 分かった。分かったわよ! あんたの考えに、これ以上口出ししないわよ―――ただしっ、死のうとしたら全力で止めるわ。あんたが死ぬと、たぶん、この子は悲しむだろうから……それが嫌なら、うまいことこの子を口説き落としなさい、いいわね!?」
「―――かしこまりました。ありがとうございます、ミチ様」
「……ちっ」
警告するつもりが相手の覚悟に圧倒され、情に絆され応援までしてしまった。それに対し、求めていない礼まで言われてしまったミチは、最大限に強く舌を打つのであった。
―――果たしてこれで良かったのだろうか。ルイナの心を思えば、どうなるか分からない帰郷よりも逃避の一手ではないのだろうか。その自問の答えは、およそ十日過ぎたその日ですら出ないことを、この時の彼女は知る由もなかったのである。
「―――あ、そういえばなんだけど」
「……? はい、何かございましたでしょうか」
口説き落とされ、懐疑の目で見ることを止めたミチは、カリーナに向かって告げるのであった。
「もしこの子が故郷に帰る選択をしたとして、お願いしたいことが2つあるの。
1つは、あたしも故郷の手前まで同行させること。それともう1つは―――」
ミチからの申し入れは、受け入れられることとなる。
カリーナはその2つの条件を聞き、ミチがアリスを真に友と思っていることを悟り、猜疑を晴らし、快く頷き返すのであった。




