幕間.召使いと朴念仁
SIDE:カリーナ
「―――アーデルセン様、御食事の用意が整いました。こちらにお持ちすることも出来ますがいかが致しましょう?」
今日も今日とて、返事の望めぬ言葉を繰り出す。その声は扉の向こう、主の耳へ届いているのか分からない。
それでも彼女は首を垂れる。それが吸血王アーデルセンに忠誠を誓った召使い、カリーナの意志である。
「……アーデルセン様。カリーナはいつでも貴方様の御傍におります―――いつでも、何なりと、ご用命下さい」
そして今日も、応じる主の声を聞けず、彼女はその場を去る。
―――妻と娘の死に心を痛めた吸血王アーデルセン。カリーナにとっての主が書斎に籠ってより、ナトラサの街では5カ月の時が経っていた。
「はぁ………あっ」
沈鬱なため息が、屋敷の中に1つ零れる。予想外に大きく漏らしてしまったため息に驚き、カリーナは口を押さえ、周囲を見回す。
―――幸いなことに、仕事仲間の誰に見られることもなく、その息は霧散してくれたらしい。唯でさえ明るい話題がないのである、物憂げにため息を吐いてしまっていては、仲間たちも良い気はしないだろう。
カリーナは、罪を犯したその口を噤み、清掃を再開させるのであった。
―――この屋敷への吸血鬼の出入りが、めっきりなくなってしまった。塵も埃も少ない廊下を掃きながら、カリーナは気鬱に考える。
主が籠ってよりしばらくは、様々な者が主への謁見を願いに訪ねてきたが、その悉くをカリーナは退けてきた。
主は誰とも会わない、会おうとしない、会える状況ではない―――訪問してきた者の全てが、召使いであるカリーナより身分が上であったが、それでも彼女は譲らずにそれらを断った。
彼らが口上に述べるのは、王の身に訪れた、不幸への憐れみであったが、その真意は別にあることをカリーナは知っていた。
王の不在により滞る政―――それにより、民の間に広まる不安感、街に訪れる閉塞感を払拭するべく、彼らは王の迅速な再起を求めているのである。いつ戻るのか、いつ立ち上がるのか、彼らはそれを問い、とにかく安心したいのである。
今のナトラサの街に、主の力が必要なのは、カリーナも理解している。しかし、その考えは、あまりにも主を蔑ろにし過ぎている。
今、主に必要なのは、今しばらくの休息の時なのだ。それは心の痛みを労わる為の時間であり、あるいは心の傷を忘れる為の時間なのである。
粉骨砕身、常に疲労した身体に鞭打ち、疲弊した心を砕き、ナトラサの街に尽くしてきた主なのだ。その主が崩れ落ちた際、無理やり立たせようとする輩の何たる不遜。何たる傲慢―――今こそ、これまでの恩を返すべく、逆に主を支えようという気概はないのか。
―――カリーナは、迫る来客に対して、決して己の意志を曲げなかった。
そうして主目当てに訪問してくる者を退け続けたところ、この屋敷へ訪れる者が途絶えてしまった。リリスフィーがいた頃であれば、ワイン仲間の婦人が訪ねてきたものであったが、今はそれもない。
仕方がないとはいえ、とても寂しい屋敷になってしまった―――カリーナは、迎え入れる者のなくなった家を口惜しく思う。
コンコンッ―――
だが、そんなことを考えていた矢先、玄関先より扉を叩く音が聞こえてくる。
既に大勢の訪問客を門前払いにした後である。今更、主への見舞客が来ることは考えにくく、カリーナは訝しみの表情でもって、しかし招かれざる客への応対をする為、その扉を開けたのである。
「……陛下のご容体は、どうなのだ?」
「―――長く御姿を拝見しておりませんが、奥様とお嬢様の死に御心を痛めておいでです」
「……そう、であるか……」
カリーナが屋敷へ招き入れたのは、リリスフィーとアリスが亡くなってより初の訪問である、ライドン男爵であった。
彼はカリーナの答えに、苦し気に表情を歪ませ、沈黙するのであった。
彼は接客の為に出てきたカリーナに対し、王への謁見ではなく、王の様子如何を問うてきた。そしてそれを、王自らでなく他の者―――カリーナの口より聞きたいと、申し出てきたのだった。
その変わった求めに対し、カリーナは変わらず訝しみの表情を浮かべながらも、それくらいならと応じることを伝えた。しかし、相手は男爵。玄関先の立ち話で済ませてよい身分の者ではない。
その為、ひとまず屋敷の中へ通すことにしたのである。ただ、後になって王への謁見を申し入れられてもそれには応じられないとカリーナは念を押したが、むしろ、自身はそれに能わないとライドン男爵は答えた。その答えの真意をカリーナは掴めなかったが、突き返す道理もなく、彼を屋敷へ招き入れたのであった。
彼女達がいるのは来賓を迎える応接間である。ライドン男爵には椅子の1つに腰掛けてもらい、カリーナは召使い故、彼の斜め向かいに立つ。
「……陛下は、リリスフィー様と姫の死を嘆いていると……そう、おっしゃっているのか?」
「―――閣下が何をおっしゃりたいのか分かりかねますが、アーデルセン様はその件で御心を痛めております。詳しいことは私共にはお話しせず、またそれを聞き出そうという非礼を、私共は決して犯しません」
「……そう、であるか……」
そしてライドン男爵は再び表情を歪める、頭を垂れて沈黙に移る。
彼の問いは不明瞭であった。何を聞きたいのか、何をカリーナの口から語らせたいのか、意図が掴めず、カリーナも彼に倣い黙りながら、心中で苛立ちを募らせる。
今更、本当に今更、主の様子を伺いに来て、『王の様子はどうだ?』、『リリスフィーとアリスの死を嘆いているのか?』とは――― 一体どういう料簡でそのような痴れた発言が出てくるのか。彼女は身分の差ゆえ決して表に出さないが、怒りの熱が胸中に籠るのを感じた。
そしてそんな最中も、ライドン男爵は黙り続ける一方である。様子が聞きたいと言って来たにも関わらず、問われた内容もふざけた質問の2つ。それに対する返事も不明瞭。
最早、カリーナの苛立ちは抑えられず、ついにその口より僅かに出てしまう。
「―――閣下、恐れ入りますが閣下がお知りになりたいことは何なのでしょうか? 不明の身である私にも分かるよう、おっしゃって頂けますと助かります」
その言葉遣いは丁寧であるが、カリーナの目線、声音、態度の端々に苛立たしさと侮蔑の感情が滲み出る。
しかし、項垂れ、考え事をしていたライドン男爵が、それに気づくことはなかった。
それに、無意識下ではあったが、それは彼が望んでいた言葉であった。故に彼はカリーナの問いに対し、面を上げ、苦々しく顔を歪めながら口を開いたのである。
「……陛下が、御心を痛めたのは―――私の軽率な行動のせいなのだ」
そして彼は語る。アリスが吸血鬼の血を吸ってしまった事件も、彼女を処刑するしかないという王の判断も、アリスの後を追った吸血妃リリスフィーの死も―――すべては血呑みの儀の時、自分がアリスへ飲血を強要した為に、彼女を『異端』としてしまったことが発端であったと。
自分の行動は軽率であった、それ故に事態は大きくなりこのような状況になってしまったのではないかと彼は悔やむように語ったのだった。
それを聞いてカリーナは、彼を侮蔑の視線で見下した。何を言う、何を言っている、莫迦なやつが何を莫迦なことを言っている。彼女の心は既に怒りを通り越し、呆れとなっていた。
彼女は理解したのだ。彼が何故今更にこの屋敷へやって来たのか、何故王ではなく自分に応対を求めてきたのかを。
―――誰かに救ってほしいのだ、彼は。
軽率な行動とぬかしているが、彼は自分が間違っていたとは一言も語らない。行動の非は認めるが、自分自身の非を認めない。負い目を感じてはいるが、自分が間違っていたとは思っていない。
誰かに―――王の近くにいる者に、『そんなことはない。お前は正しいことをしたんだ』と認めてもらいたいが為に、ここまで来たのだ―――何たる茶番。
単なる愚痴である。単なる構って欲しがりである。大いなる莫迦である。
民は騙されても、わたしは騙されない―――こいつは、害悪だ。カリーナは、目の前の存在が、生前に処分してきた輩と差のない者であることを理解したのである。
「そうでしたか」
だから、彼女は求めに応じない。決して、救いの言葉を与えない。
ただ返事をする―――それしか、したくない。
「……うむ、そうなのだ……」
そして、どうやら語り終えたらしい彼も、終えた際の満足感を何故か思ったように得られず、曖昧な表情を浮かべていた。
決して、彼が意図してそんな話をしたわけでも、救いを求めていたわけでもないことを、カリーナだけが理解している。彼は―――莫迦なのだ。自分は常に正しいことをしているつもりになっていて、その救いや報いが最後に来ることを漠々と信じているのだ。
彼は、救いを求めて話したつもりはない。彼の中では救いが来て当然なのだ。
そして救いが来なくとも、彼は違和感を抱くが疑問には感じない。何故なら彼自身に救いを求めている意識がないからだ。
ああ、害悪―――カリーナの腕が後ろ手に彷徨う。
しかし、それは許されない。彼女は両手を腰の前で揃えなおし、無表情を貫く。
そして部屋には沈黙が降りる。カリーナは唇を真一文字に締め、救いの言葉も呆れの言葉も出ないように気を引き締める。
ライドン男爵は、それでも何か言いたげに口をもごもごと動かし続けるが、それらは言葉にならない。
―――まさかこのまま、満足するまで帰らずに居座るつもりではないだろうか。カリーナが恐ろしい想像をし始めた時、ようやく彼はその口の動きを止め、言葉を発した。
「―――姫は、生きている」
「……はい?」
彼が発したその言葉の意味を、カリーナは掴めず思わず問い返してしまう。
姫、というのはアリスのことだ。生きている、ということは死んでいないということだ―――この場において、全く笑えない冗談を騙ると、カリーナは憤慨に表情を歪めそうになった。
しかし、語る彼の表情は真面目である。
「姫は陽光に照らされても砂にならず、渓谷を出た―――姫は、処刑されていない。生きて、地上へ出たのだ……」
そしてライドン男爵は先に語らなかった顛末の、続きを語る。
吸血鬼の血を妖艶に吸うアリスの姿が、実は娘を処刑しなければならなかった父を思っての騙りであったこと。それが、陽光に照らされても砂にならなかった途端に涙となって露呈してしまったこと。そして自身を吸血鬼であることを疑い、父の娘であることを疑い、絶望の中旅立っていったこと。そんなアリスを、アーデルセンが引き留められなかったこと。それら全ての顛末を、語ってみせたのである。
ちなみに、彼がこの事実を知っているのは、その処刑に立ち会った者の中に彼の部下がいたからである。アリスの生については緘口令が敷かれていたが、その場に立ち会った者とその上層においては知っている者がいるのである。
もちろん、極度の機微情報であるから、おいそれと話していい内容ではない。化け物が生きているということは、ナトラサの街に住む全ての民に少なくない動揺と不安を与える話である。
「―――そんなっ……、そんな話を私にして、どうなさりたいのですか?」
機微情報であることを、話を聞いただけのカリーナでさえ、理解した。決して口外してはいけない情報であるはずだった。それなのに、何故彼がこのような話をするのか、全く理解が出来なかった。
最早、彼の思考が理解できない―――彼が理解不能なほど莫迦であるのか、それとも街に不安を蔓延らせたい反逆者であるのか、彼女は彼の話の続きを待つ。
「うむ―――」
彼は一度、ごくりと喉を鳴らす。緊張の面持ちでもって胸元より『それ』を取り出し、机の上に置いた。
『それ』は華美な装飾のない、1粒の宝石が嵌め込まれた指輪であった―――
「―――姫を、連れ戻したい」
そして彼の語った言葉にカリーナは息を呑み、彼の顔と指輪を交互に見やったのであった。




