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サクサク読める短編集

ラルフの日記

作者: 2626
掲載日:2026/02/10

 ――ラルフ・クロード・コストンの日記より。


 ●●年××月△△日


 僕の最後の家族が――祖母が亡くなってからもう一週間。

祖母が生前に言い残した通りに、財産目当ての『自称・親戚』が嫌になるほど湧いてきた。

欲望に目を光らせる彼らの、何と醜いことか。


 孤児院で暮らす孤児達の方が生きるために必死になっている分、そして幼い分、まだ綺麗だとさえ思えて、僕は今朝、有り余る財産の一部を、我が領地の教会付属の孤児院に寄付してきた。


 貴族に生まれて二十年、何もかも自由に気ままにやってきたけれど、僕は独りぼっちになってしまった。

今となっては祖母が振るった『お仕置き棒』の痛みでさえ恋しい。




 来週からは大学に戻って、勉学に励もうと思う。

ああ、祖母が危篤だと電報が来た時、教授がたまたま僕の下宿先に小説を借りに来ていて助かった。

大学を急に長く休まねばならなくなったけれど、教授が送って下さったお手紙によれば、単位に問題は無いそうだから。

日頃から真面目に勉学に励んでいて助かったよ。


 そう言えば……教授も奥様を亡くされていたはずだ。

家族を亡くした時のこのやり場のない感情をどうすれば良いのか、また今度お伺いしてみよう。




 ●●年××月△△日


 僕の大バカ野郎!

家族を亡くした辛さは何年経っても薄れることはないと分かっている癖に、教授に真正面から『この悲しみをどうすれば良いのでしょうか』だなんて聞くヤツがあるか!


 教授がサッと結婚指輪に手をやった時の、あの引きつった苦しそうな顔。

僕はやっと出来たばかりのかさぶたを残酷にも引き剥がしたんだ!


 どうしよう。

謝らなければならない。

いや、謝ることさえ僕の背負う罪悪感を、自責の念を軽くしたいだけの自己満足なのだろうけれど、こんな酷いことは二度としないと――それだけは教授にお伝えするのが最低限の誠意というものだろう。




 ●●年××月△△日


 教授は何て……立派な紳士なのだろうか。


 「ラルフ君は何も悪くないし、一切気にする必要も無い。むしろ君にこうして謝らせてしまって、逆に申し訳無いくらいだ。

お祖母様のことは本当に気の毒だったね。もしも困ったことがあれば何でも力になるから、遠慮無く相談してくれたまえ」


 それから教授は話題を変えて、僕達が今のめり込んでいる、巷で流行の探偵小説の話題を出してくれた。

この前、教授が僕の下宿先に来て下さってまで借りたのは、この小説の最新刊なのだ。


 「本当に今作も興味深い内容だった。助手の目を通して事件のあらましが描かれているから、事実はそこにあるのに真実に気付かないまま、読者も真相と結末まで導かれる。

私が学んでいる古典文学の中にも類似点のある話が無きにしも非ずだから、きっとこの小説もいずれは古典の仲間入りをするだろう」

「教授の目からご覧になっても、そんなにこの探偵小説は凄い話なのですか?」

「時代と観客と書き手が違うだけで、どれ程に優れた古典だって生まれた時は最新の『(ストーリー)』だったのだよ」


 教授はそう言って紅茶のお代わりを注いでくれながら、微笑んだ。

財産に目がくらんだ連中とは違う、知性溢れる上品な微笑みに、僕はやっと安堵する。


 「それは、確かにそうですね……」

「君もこうやって文学を――小説を書いてみたらどうだね?どれ程に苦しく辛い激情だろうと、案外、文字として書き出すことが出来れば美しい文学となるかもしれない」


 ……良い案かも知れない。

決して人には言えない感情を、僕はこれまで日記として書き残して秘密にしてきた。


「でも、僕に出来るのは、精々日記を付けることだけです」

上出来だ、と教授は満足そうに頷く。

「遠い異国では、『日記文学』という存在もあるそうだよ。何だって最初に挑んでみることが大事なのだ」




 ●●年××月△△日


 教授に言われた通り、この日記に――ほんの少しだけ赤裸々な僕の姿を書いてみることにした。




 悪友キースとパブをはしごして……七軒目までは覚えているのだけれど……。


 気付いた時には、僕は留置所にいた!


 呆れた顔の警官が教えてくれたのだが、泥酔して一人倒れていたところを追い剥ぎに遭ったそうで、ほぼ全裸で凍えて泣いていたと。

追い剥ぎを見た者が通報してくれて……それで駆けつけた警官達によって、逮捕では無くて保護……されたそうだ。


 僕は、天国にいる家族と合わせる顔が無くなってしまった……。

しかも僕ときたら、教授の名前を出したらしい。


 つい先日にあれほど酷い事をしたのに、今度は信じられないほどの大迷惑をかけてしまったのだ!


 いっそ見捨ててくれたらと思うほど恥ずかしかったけれど……明け方には教授が駆けつけてくれて、僕は無事に引き取られたのだった……。




 ●●年××月△△日


 教授の家は本で埋め尽くされていることはよく知っていたけれど、まさかベッドさえ本まみれだとは思わなかった。

週に三日、通いでやって来る中年の家政婦が一人。

後は教授だけの気ままな生活だそうだ。




 「若い頃の失敗は貴重な体験で、死なない程度の失敗の累積は最高の勉学だ」


 教授は僕を風呂に入っている間に、温かなミルクティーとバスローブを用意していてくれた。

申し訳なさと羞恥心が眠れぬ夜の不安のように僕をつつくので――貴族として生まれていなかったら、きっと僕は耐えきれずに泣いていただろう。


 「教授、申し訳ありません……」

「何ともないさ。私が若い頃はもっと愚かだったものだ。君達はお利口すぎるくらいだよ?」


 ……冗談で励まそうとして下さっている教授の顔を見ることさえ出来ない。


 考えてもみろ。

夜中にいきなり警察に呼び出されたと思ったら、バカな教え子の尻拭いだぞ?

いっそ体罰を振るわれても恨み言一つ言えないくらいの愚かなことを僕はしたのだ。


 「……すぐに帰りますので、服だけ貸して頂いても……?」

「おや、もう帰るのかい」

教授は残念そうだったけれど、教授の服を貸してくれた。


 教授は痩せているように見えていたけれど、いざ服を着てみれば僕の体の貧相さが如実に浮かび上がって、余計に恥ずかしくなった。




 ●●年××月△△日


 しつこい!


 借金まみれの『自称・親戚』がどうやったのか知らないけれど、僕の下宿先を突き止めた。

それから毎日毎晩のように、僕にハエのように付きまとう。

大学までは押しかけてこないから逮捕する決定打には欠ける上、連中は警察が来ると僕がさも悪人であるかのようにわめき立てるので、警察も対応にはとても苦慮しているようだ。




 ……講義中に、僕が疲れ果てて眠ってしまった姿が目に付いたのだろう。

「ラルフ君、何かあったのかね?」


 講義の後。

教授が僕に話し掛けて下さった。

「……すみません、教授。少し疲れているだけで、何でもありません」

「君は今まで私の講義を真面目に聞いていた。君のお祖母様に不幸があった後もだ。――何があったのか、私に教えてはくれないかね?多少なり、君の力になれるかも知れない」


 ――留置所の一件が無ければ、僕は教授が差し伸べて下さった手に反射的にすがりついていたかもしれない。

けれど、もう教授に迷惑はかけられない。

これは僕が自力で解決しなければならないことだ。


 「いえ、何でもありません」

……僕は、とても教授の顔を見られなかった。

だから、この嘘は割れてしまったのだろう。

「ラルフ君、自分自身に嘘をつくことは止めなさい。それは勇気の欠如であって誠実の証明では無いのだよ」

「……でも」

「分かった、こうしよう。君は『私に』では無くて『私の家の暖炉に』悩みを打ち明けた。それを誰かが聞いていたとしても、君の所為では無いだろう?」


 そう言うなり教授は僕の肩を押して、歩き出した。




 ……。

「……なるほど、警察も対応に困る瀬戸際の行動を取って、彼らは君を苦しめていたのか……」

教授は難しい顔をしてしばらく考えていたが、ややあって、閃いたように椅子から立ち上がった。

「ラルフ君、下宿先を引っ越すまでこの家で暮らすのはどうだね?」


 ――それこそ、僕の恐れていた最大の言葉だった。


 「そこまでご迷惑をおかけすることはできません!」

咄嗟に辞退しようとした僕を、茶目っ気たっぷりに教授は笑う。

「私としては落第生が増える方が困るのだが?」

「でも!」

「何、私に良い下宿先の伝手がある。それまでほんの一週間ばかりだ。代わりに君は今期の試験に無事に及第点を取って貰うが……どうだね?」




 ●●年××月△△日


 結局、僕は教授に甘える形で、今、教授の家で寝起きしている。


 教授は、夜中過ぎまで帰らない時もあれば、徹夜で古典文学の論文集に目を通していることもある。

財政界の要人からの手紙が届く日もあるし、またある日には僕と差し向かいでチェスを楽しまれる。

紅茶を淹れることだけは得意だが、整理整頓は不得意。

ただ、何処に何が置かれているかは完全に記憶しているみたいだった。


 色々と変わっていて、不思議な御方だけれど、教授は不用意に僕の精神的な領域に踏み込んでくるような無遠慮さは持っていなかった。

これぞ正真正銘の紳士なのかも知れない。




 「本当にすまないね……」

「いえ、お気になさらず。それより、この左から三冊目の本で間違いありませんか?」

「ああ、それが改訂版の古典の注釈書なんだ」

図書館のはしごを登って高い本棚の中から僕が本を抜き取ると、教授の仰った通りの本だった。

本を大事に抱きかかえながらはしごを降りて、はしごを押さえていた教授に渡すと、安堵した顔で教授は受け取って下さった。

「これで今書いている論文に脚注を付けることができる。助かったよ」


 僕達は図書館から出て、そのまま大学から出て、夕暮れの街を歩いていた。

すると、悪友キースが前方から歩いてきて、声をかけてきたのだった。

「アレ?ラルフ、ここにいたのか」

僕より先に険しい顔で振り返ったのは教授だった。

「……キース君、君はこのままだと放校処分が下りかねないのだぞ」

焦った顔で悪友キースは弁明する。

大地主のお坊ちゃまなのに、酒と女と賭博以外には全くやる気がない男なのだ。

「すみませんね、ハワード先生。俺もちょっと忙しくて……」

「学生の本分は勉学だ。遊興ではない」

「ちっ!」

キースは小さく舌打ちしてから、僕の方を見つめる。

「なあラルフ、金を貸してくれないか?ちょっと今、懐が寂しくてよお」


 いつもの僕だったら、仕方ないと言いつつも銀貨を渡していたかも知れない。

けれど、教授が側にいる時だったからか――僕は、まるで人生最大の恥をかかされたような最悪の気分になった。


 こんなに立派な紳士の前で、それが言う事か。

その態度は何だ。


 恥ずかしさと怒りのまま、僕は冷たくキースを突き放す。

「悪いけれど、僕も今は持ち合わせが無いんだ」

「なあ、そう言わずにさあ?ちょっとだけで良いんだからさ!」

「駄目なものは駄目だ」

何度も断った瞬間、キースは僕を抱きかかえて耳元で囁いたのだった。

「……なあ、ラルフ。オマエさ、今、ハワードの野郎のところで暮らしているんだろう?だったらその正体を知りたくは無いか?」

「いや、別に――」


 まるでユダのようだと僕は嫌悪感を抱く。

ユダもこうやって救世主を裏切った時に甘やかな致死毒の言葉を囁いたのだろうか。




 「良いから聞けよ!実は、ハワードの野郎は――」

 「同性愛者なんだってよ」




 僕を襲ったのは驚きでも、悲しみでも、恐怖でもなく――『やはり』という確証だった。

「……」

「驚いたかラルフ?でも確かな筋の話さ!ハワードの野郎は男が好きで、とりわけ若い男が大好きなんだ。夜な夜な男娼をこっそりと買っているんだ。だから俺はラルフが心配なんだよ。俺の親友のラルフが襲われたらヤバいだろう?」

「――」

僕は教授を見つめた。


 僕達の密談が聞こえていたのだろうか。

教授の顔面は蒼白で、唇が戦慄いていた。


 けれど僕が見つめていることに気付いた瞬間、教授は身を翻し、愛用の杖と本を握りしめて走り去っていった。




 ●●年××月△△日


 ……あれから数年が過ぎた。


 あの出来事の翌日。

教授は僕のためにとても良い下宿先の紹介状を書いてくれて、そして――失踪した。

大学教授の仕事もそのまま辞めて、完全に姿をくらましたのだ。


 通いの家政婦は大量の退職金と紹介状を貰えて大いに喜んでいたが、教授の行方だけは何も知らないと言う。




 この国において同性愛は死罪に匹敵する大罪だ。


 あのキースも縛り首になった。

『自称・親戚』に僕の旧・下宿先を教えた見返りに金を貰ったのにも関わらず、それでも懲りずに賭博で借金を重ねた。

実家からもあまりの放蕩っぷりに縁を切れると言われて、とうとう切羽詰まって男娼の真似事をしていたところに、不運にも警察が踏み込んだのだった。




 ……。

僕は在学中に遠国に旅行をして、その体験を元に書いた紀行文が新聞社に掲載されて大好評だったことがきっかけで、卒業後には流行の作家となった。

演劇のシナリオも書くし、世界各国を旅した体験記も書く。

家族の眠る領地の管理は代理人達に委ねて、気ままな独身貴族の毎日だ。




 ――そうやって世界を巡ること、数年。

ようやくここにたどり着いた。


 完全に、僕も盲点だった。

まさか僕達の国の、辺境にいたなんて。




 日向から僕が姿を見せた時、彼は窓辺で揺り椅子に腰掛けて分厚い本を読んでいたけれど、眼鏡を押し上げて不思議そうな顔をして声をかけた。

「どなたかな?物取りならすまないけれど何も金は無くて――」


 僕は微笑んで声をかける。

今の僕はかつての貴方のように、立派な紳士として微笑むことは出来ているだろうか?


 「教授」


 「――」

目を見開いた教授――いや、もうハワードと呼んだ方が良いのだろう――彼はしばらくして目を伏せると、言った。

「玄関は、開いている……」




 ●●年××月△△日


 ハワードの淹れた紅茶は相変わらず美味しかった。


 この数年の間も、彼は本に囲まれて細々と暮らしていたらしい。

その本棚の中には僕が書いた小説が何冊かあったので、僕は泣きそうなくらいに嬉しくなった。


 「ハワード、貴方を探しました」

記憶にある姿より、やつれて、年老いた彼は、それでもあの頃のように優しかった。

「どうして今更……私を探していたのだね?」

僕の通報一つで彼の人生は終わると言うのに、穏やかで、落ち着いた紳士らしい態度を崩さない。

「確認したいことがあるのです」

「それは……?」


 ――あの頃の記憶を思い出しながら、僕はゆっくりと口を開く。

「僕は、そんなにジル・ドシーに似ていたのですか?」


 ハワードは少し沈黙していたが、

「いつ、その名を知ったのだね?」

苦しそうに、項垂れる。

「家政婦に大量の退職金を渡して黙っていて貰うつもりだったのでしょうけれど、彼女は毎月のように墓地に通っていましたから。彼女の弟のジル・ドシーのために」

ハワードが愛した青年ジル・ドシーは、肺の病気で夭逝していた。

「だが、それだけで私と結びつけることは出来なかったはずだ……」


 僕は、さながらかつて追いかけた探偵小説の主人公になった気分だった。

 と言っても――到底、優越感に浸ったり、快適だと言えたりする気分では無かったけれど。


 「ハワード、貴方は一切の痕跡を残さなかったつもりでしょうけれど、それが逆に不自然だったんです」

「と言うと……?」

おもむろに顔を上げるハワードに、僕は告げる。

「『奥様』の顔写真も、絵姿も、手紙も、衣類も、日用品の全てに至るまで――あそこには『奥様』の存在した証拠は何も無かったじゃありませんか。

貴方が辛くて処分したということも考えられましたが、同じく家族を亡くした僕の立場からすれば『全ての遺品』を処分することだけは絶対に出来ない……」

そうなると、と僕は言葉を続けた。

「貴方の身につけている結婚指輪が偽物だ、と仮定すると――その不自然さが一つに繋がったのですよ」

彼の目が見開かれる。

「待ってくれ。まさか君は――キースが暴露する前に、私が同性愛者だと!?」

もう一切が面倒になって、返事の代わりに僕はハワードの唇に乱暴に唇を押し当てたのだった。


 どうやら僕には探偵なんて、徹底的に向いていないらしい。




 ええ、そうですよ。

 だから僕はあの時、どうやって貴方と幸せになるかについて必死に考えを巡らせていたのですよ。




 ――この数年かけて、やっと僕達の安住の地が見つかりました。

とてもとても遠い、やっと文明が開化したばかりの異国です。

かの国では、同性愛者であることを人目から隠して生きていくならば、公然の秘密としてある程度は赦されるそうです。

更にかの国は、僕達の使う言語や文化を率先して学ぶべく、国家雇用の外国人教師を必死に探しているという確かな情報も掴みました。


 ハワード。

行きましょう、一緒に。




 『君と一緒にいられたことは、あまりにも私にとって贅沢で、異常で、地獄で、大罪だった』


 全く、何を言っているんです?

僕より大人なのに何を諦めているんです?

死なない程度の失敗の累積は最高の勉学だ、そう仰ったのは貴方でしょう?


 早く荷物をまとめてください。

これだけ本があるのだから、時間がかかりますよ。

ああ、そんなに泣かないでください。

僕は優雅に微笑む貴方が何よりも好きなんですから。




**********


 ――ぼちゃん。

音を立てて果てしない大洋の中に放り込まれた日記は、何処までも青い海に白い跡を曳く大きな船を見送ってから、静かに海の底に向かって、とこしえの眠りにつくのだった。

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