閑話 小鳥は番を見つけたのかしら。
5年ほど前の話になります
「ねえロイ君、理人の食べ物の好き嫌いは知っているかしら?」
目の前の淑女がそう言った。
試されている。そう思って頭を高速で巡らせる。
「そう、ですね。甘いものはあまり得意ではないようですが、それ以外に不得手なものはないように思います。これがすごく好きというものもあまり思いつきませんが……強いて言うなら酒のつまみになるようなもののほうが好んでいるでしょうか。最近だと静岡の土産物屋で買ってきたつまみが、日本酒が進むと楽しんでいました」
無難な返しをしたと思う。
ただ彼女のその瞬間の表情と言葉は、忘れることが少々難しい。
どんな動画でも写真でも完全に制御しきられている表情がわずかにゆるみ、瞳がいつもよりほんの僅か開かれる。
「――――あの子は、甘いものが苦手なの?」
奥様――西生寺真弓様との会食は、殆どを自分の話、そして少しばかり理人の話をして、1時間半ほどで終了した。
付け焼き刃のマナーを必死に反芻しながら味もわからず食事をしたけれど、ひとまず変な会話はなかったと思う。
配信部屋、2週間前から僕の部屋として使わせてもらっている部屋に戻ると、理人は既にリビングに上がって待っていた。
「ただいま」
「おかえり。どうだった?」
「特には…ほとんど僕の状況の再確認だった。本当に心配されていただけのような気がする」
「……なら、いいんだけど」
前日にマナー確認や注意事項の確認に付き合ってくれた親友は、昨日の最後にとにかく何も言質を取られるなと強く念を押してきた。
今日の会話で何か約束をするようなことは、一つだけだった。
「またそのうち食事を、と言われたので、予定が合えばと答えておいた」
「そこは予定通りだな」
「ああ――――あの、聞きたいんだが」
「ん?」
「理人は、家では菓子類は食べるのか?」
「菓子?あー、まあ、もらうからな。味見位はする?何かの拍子にくれた人に感想聞かれることもあって、そん時に毎回食べてないですってのもなんだから」
「ああ、なるほどな」
理人は甘い物が苦手だ。バレンタインに届くチョコレートもほとんど食べないで、僕やギルドメンバーに配っている。
家では食べているのか。
「なんで?」
「…………君の好きなものや嫌いなものを、僕が答えられないのも微妙な気がして」
「あ~~~まー、食べれないってもんは多分ないよ。食べなきゃいけない場面で目の前にあればよっぽどゲテモノでなけりゃ食うし」
「そうか。好きなものとかはあるか?」
「んー、香りのいい酒」
「ああ、味より香りのほうが感想がいつも多いものな」
「そうなー。まあ、酒についてはお前は飲めねーし自分は詳しくないって言っときゃいいんじゃね。ムリに飲まそうとは多分しないよ」
「それもそうか。あと聞いておきたいんだが」
「んー?」
「奥様の好きな菓子などはあるだろうか?」
「……………………なんで?」
「いや、次回会うときには手土産でもと思って。高級路線は僕の手で届く範囲では微妙だろうから、好きなものの小菓子あたりがいいんじゃないかと。あるいは避けたほうがいいものとか」
「……しらん?」
「知らんって…」
「いや、何でも食べるし、嫌がってるとこも見たことない。何食ってもきれいな感想言うし。なんでもいいってか、別にいらないんじゃね?」
「…………そう、か」
「……好きなもの、好きなもの……好きなもの?嫌いなもの?んー…………あー」
「何か」
「うーん…前にほら、お前とスキー行った時」
「えーと、新潟?」
「そうそう。そん時に現地限定の飴買ってったときは、ちょっと嬉しそうだったかも?高級路線よりそういう珍しい系のが喜ぶかもな」
「なるほど、ありがとう」
「まあでも、いらないと思うよ別に。向こうが呼び出してきたわけだから」
「僕は気になるんだよ」
「まあ、そうか」
それでその話は終わり、すぐに起業についての話に移った。
やることがあまりにも多すぎて、時間があっという間に過ぎていく。
いよいよ会社を立ち上げて共同経営者として、パートナー配信者として事業が動き出した矢先、また奥様から招待状が来た。
ちょうど直前に新潟に行く用事があったので、あの時に理人が買っていたキャンディーの、さらに季節限定のものを購入した。
「会社の方に困りごとはないかしら?」
奥様が綺麗な笑顔でこちらを見る。
「今のところは特には。幸い案件も多く頂いておりますので、順調です」
「何よりね。随分地銀から借りたようだけど」
「ご存知でしたか」
「あの子の土地が派手に動きましたからね。さすがに耳にも入るわ」
まあ、それはそうだろう。理人がちょっとめまいのする額を地銀から借り入れて、自分の持っている不動産を会社に売却した。オーナーチェンジという扱いで諸々の手続きを終え、合同会社サザンクロスは一瞬で安定した不動産収入のある企業になった。
僕側は止めたのだが、その言い訳をこの方が許してくれるのかどうかは、正直分からない。
「一応、簡単な事業計画書をお持ちしました。よろしければご確認いただければ」
「あら、いいのかしら?」
「何をしているかわからないとご不安にもなるでしょうから。社外に出せない部分は削っておりますので、おおよそというものになります」
「ありがとう、あの子ったら、何も言わないんだもの」
「理人は、親離れしたいようですから」
「……………………そうね」
奥様は細い指で渡した数枚の用紙をぱらぱらと捲り、それから僕に返してきた。
「お持ちいただいても大丈夫ですが」
「いらないわ。問題のない事業の計画書なんて見ていても面白くないもの」
合格、ということでいいのだろう。内心で息を吐きつつ、もう一つの紙袋を取り出した。
「そう言っていただけると嬉しいです。代わりと言ってはなんですが、こちらは奥様へ」
「あら、手土産なんていらなかったのに」
「流石にいつも食事をごちそうになってなにもないというのも、どうかと思いまして。大したものではありませんが、ご笑納ください」
「気を使わせてしまったかしら、ありがとう。あけてもいいかしら?」
「もちろんです」
「――――可愛らしいキャンディーね」
「理人が、こちらの通常品を喜んでいた、と言っておりましたので。お好きなのかと……奥様?」
奥様の瞳が一瞬だけゆるりと潤んだ。
「……そう、あの子が」
「お嫌いでしたでしょうか」
「いいえ、好きよ。キャンディーのようなものはあまり頂かないから、また持ってきてくれたら嬉しいわ」
「よかったです。理人とどこかに行った際には、また探しておきます」
「……ええ」
奥様が薄く微笑む。見間違いでなければ、その笑みがいつもよりも少しだけ深い。
これは、当たりだろう。
「いつも僕だけ誘っていただいていますが、理人も連れてきましょうか?」
「理人が来たがったのならいつでも連れてきていいわ」
「はい」
「それ以外では不要よ。必要な連絡は取れているわ」
ぴしゃりと言い放たれる。
互いの食事の好みすら分かっていない状況は、果たして必要な連絡が取れていると言えるのか。そう思うのだけれど、続く言葉が出てこない。
「――――家に小鳥がいてね」
「え、あ、はい。小鳥ですか?」
犬を飼っていた話は聞いたことがあるけれど、鳥がいたとは聞いたことがない。
「2羽いてね。先住の1羽はそれはもうじっとしていられない子で。籠から飛び出そうとあんまりに暴れて怪我をしたこともあって」
「それは、大変ですね」
「ええ。少し遅く帰宅したら家中ぐちゃぐちゃだったことも、一度や二度ではなかったわ。落ち着きもないし、歌もヘタで、でもまあ、全ての鳥が歌うのが上手いわけではないから……。手のかかる、それでも可愛い可愛い小鳥だったの」
「は、はあ」
「もう1羽はね、反対にとてもおとなしい子で。懐っこくて、歌も上手くて、好き嫌いもしなくて、褒めるところしかない子でね」
「……はい」
「だからね、知らなかったの」
「何を、でしょうか」
「上手く歌わなければ餌がもらえないと思っていた、なんて」
上手く歌わなければ餌がもらえないと思っていた。
聞こえるはずのない副音声が脳を掠めて、瞳を伏せた。
「先住の子は、大して上手くないことでもたくさん褒めたものだけれど。あとになって思えば、出来のいい子には、上手く出来たときしか褒めてこなかったように思うわ」
「出来の良い子には、ままあることだとは、思います」
「ええ、よくあることよ。けれどね、集団生活でつまずいてしまってね」
大して上手くなくとも褒めてくれる相手というのは、親以外では例えば友人であったり、学校の先生であったりするのだろうけれど。
彼は、学校には。
「貴方にはね、本当に感謝しているのよ」
「え、と……」
「貴方は、あの子が西生寺の小鳥でなくとも、きっと友人になったでしょう?」
「出会いさえすれば、友になれたと思っています」
「ただそれだけのことが、あの子には必要だったのよ」
奥様が薄い笑顔を浮かべる。その顔が少しさみしそうに見えるのは、そうあってほしいと僕が思っているせいだろうか。
「西生寺の小鳥が、飛び出すには少しだけ広い、けれど雁字搦めの苦しい籠から出ると決めたのよ。今更西生寺や錦戸の鎖で縛り付けることは、できるならしたくないの」
「それで、僕ですか」
つまり、僕は代わりの鎖なわけだ。鳥籠を出た小鳥が、遠くに行きすぎないための。
あるいはどこへ飛んでいっても居場所の分かるようにするためのGPSといったところか。
「ロイ君には、これを渡しておくわ」
名刺サイズのカード……名刺だ。以前頂いているけれど、こちらの方が少し質感が柔らかい。
書かれているのは西生寺真弓の名前と、電話番号だけ。
西生寺のロゴも、錦戸のロゴもない。
「直通番号よ」
「それは」
「必要になったら、呼びなさい。あの子はわたくしをうまく使えないから。――貴方なら、使えるわね?」
何も答えず、もらった名刺を懐に仕舞った。
「あの人が、ちょっとうるさくてね」
「……はい」
「止めてはいるのだけれど、わたくしの頭を飛び越えてしまうこともあるのよ。小鳥のことは任せるわ」
「…………承知、しました」
「ありがとう。貴方がいてくれて良かったわ」
名刺を仕舞った内ポケットをそっと撫でる。
「もしも、の話ですが」
「ええ」
「小鳥が籠の外で血統の不明な番を見つけた時には、どうされますか」
「社会的な問題がないのなら、それでいいわ」
「それは、西生寺真弓としての言葉ですか」
「ええ。でもそうね、早めには知りたいわ」
「何のためにでしょうか」
「何をしでかすか分からない爆弾がいるんだもの。本当に……倫理のネジが2本ほど飛んでいるのよ」
「1本ではないのですね」
「1本だったら、まだ制御できたのよ。そもそも、もう血統なんて時代じゃないでしょうに。――――頭の硬い化石共が」
随分と暗い声が耳を突く。
長女の絵理奈さんもそれなりの企業の御曹司に嫁いだらしいけれど、そういう方向で固めたいというわけではないのか。
「言葉が過ぎたわね、忘れて頂戴。余計なことをさせないために情報は大切なのよ。分かるでしょう?」
「ええ、承知しました」
――――
――
…
小鳥は番を見つけたのかしら。
SMSで送られてきたその一行のメッセージに、未だに返事が返せないでいる。




