18-3.東の空に月が昇って
過剰なほど管理された水槽の中で、初めて自分で手に入れたのは親友で、二番目に手に入れたのは視聴者だった。
初めて手に入れた替えのきかない宝物に、足元が消えるような恐怖を味わったことが二回ある。
一度目はロイが俺の名前を知らなかったと知った時。
彼の態度が変わってしまったら、もう一度誰かと関われる自信がなかった。
タイムマシンがあったらあの時の俺の真後ろに行って背中をバシバシ叩いて死ぬほど馬鹿にして嘲笑ってやるのに。だけど当時の俺には本当に死活の問題だった。
名前の漢字を聞かれた時の全身から嫌な汗が吹き出すあの感覚は、しばらく夢に見た。
二度目は初めての大会で本戦一回戦で敗退した時。
当時は今よりもずっと技工に寄ったプレイ動画を上げていて、扱いは「スーパープレイのリーダー」だった。
というか当時の動画は明らかにやりすぎなんだよな。初めてついたコメントでプレイの技工を褒められて、完全にその麻薬の多幸感に酔っていた時期だった。
PvPはPvPの練習が要る。NPC訓練だけでは勝てない。知識としては知りつつも、それでも俺なら勝てるという根拠のない自信に溢れた、16歳という悪い意味で若い時分だった。
PvP大会はプレイ技術だけでは勝てないというのを嫌と言うほど見せつけられた一試合だった。根本から研究のレベルが違いすぎる。
リスナーに呆れられたら。離れられたら。自分がまた透明人間に戻ってしまうのではないかという恐ろしさがあった。
どちらも、蓋を開ければそんなことはなかった。
ロイは単に名前を聞いただけだったし、リスナーは世界の壁は厚かったなと笑っただけだった――まあチャンネル登録数は一瞬減ったんだけど、コメント数自体はさほど減らなかった。
ただ、あの足元が消えてなくなるような感覚は心の底にこびりついて取れなくて、特別な何かとの関係が急に変わってしまうかもしれないという恐怖は、時々思い出したように足元に絡みついた。
楽しさに振り切ったプレイを上げたら人が減るのではないか、とか。
ロイの生活が成立しなかったらもう一緒に遊べなくなるのではないか、とか。
正式に雇用してしまったら、明確な上下が出来てしまうのではないか、とか。
育てたギルドを捨てて移住したら誰もついてこないのではないか、とか。
特定の女性と出るようになったら今までの書き込みが反転するのではないか、とか。
誰かを特別扱いしたらギルドの空気が崩れるのではないか、とか。
部屋に一人ビールを煽る。ちょうど半分くらいの月が東の空に見えている。
「最近セリスに避けられているだろう、ね」
俺も木石ではないので、思うところがないわけではなかった。
ただあれで離れていったということは、とりあえず勘違いということでいいんだろう。
今は多分、友人としての距離を探しに来ている。懐いた野良猫が離れていってしまったような寂寥を感じつつ、それはまあ、俺の失言のせいなので仕方がない。
キーになった発言を思い返せば、かなり危ういと言うか、まあまあセクハラっぽいなと思う。
なんかちょっとイラッとして、少しくらいやり返してやりたいという気持ちが少なからずあった。やっぱあの日は疲れてたんだろう。完全に離れるのではなく、友達としての距離を探りに来てくれているのは彼女の人柄ゆえだ。ほとぼりが冷めた頃に一度謝りたい。
――――それにしても、焦って何かを聞かなくて本当に良かった。
彼女にとって俺は年齢的にも、ギルドの関係的にも、金銭のやり取り的にも上役なわけで、俺側から迫ったら仮令全くその気がなくとも彼女は頷くだろう。迫るようなことをする気はもちろんないけれど、聞くことすら、おそらくアウトだ。
ギルドから出ていかれるならまだマシで、何か変な忖度をして心を殺して隣に立ち続ける可能性だってある。
それはそれとして、今までの態度が本当に「友達として」の態度のつもりだったのなら、本気で話し合いが必要なんじゃないか。
ちゃんと他のギルメンとの距離は適切を保てているのだろうか。
そこを心配するのって俺なのか?だいたい俺は彼女の、
「はあ、やめよ」
ぐるぐると変な方向に走り出した思考を頭を振って一度散らす。
少しギルドの様子は気にかけようと思いつつ、とりあえず今考えても仕方がない。やめよう。
空になった缶をぐしゃりと握りつぶしてスマホを開いた。
トントン拍子に詳細の決まった誕生日配信は、どちらかというと俺の練習時間のほうが問題だ。他のメンバーはともかく流石に俺はトチれない。ソロ曲は全て歌い慣れた曲にするけれど、決定したデュエット曲の中に慣れていないものがある。
予定表アプリを開いて空き時間を確認する。
3月末に休んだツケはギリギリ解消した。もともと仕事を抑えていたのが効いている。あとロイが大分無理をしているから、誕生日配信の後はあいつの休養期間を入れたい。
ドリアンのオーバーワークは驚くくらい解消している。びっくり箱の仕事量の調整は、本人申告必要ないとのことだけど、ブラック上がりの人って勝手にオーバーワークするから一応気にはかけておきたい。
そして見るところがそこじゃない、今確認するべきは俺の予定だよ。
「誕生日歌枠なんてやるもんじゃねえな」
金に任せて歌の収録環境を作った年、誕生日歌枠をやった。
以来誕生日はずっとこれだ。最初の3年くらいは誕生日企画アンケートを取っていたのだけど、毎年ぶっちぎりで歌枠になるのでもう取らなくなった。集計を出すほうが面倒くさい。
中々に詰まっている予定時間を確認して、とりあえず決定した曲を順に音楽アプリのプレイリストに突っ込んだ。これはもう移動時間も全部これだわ。
イヤホンから、男女のデュエット曲が流れ出した。




