涙と笑顔と眠り姫
レノックス伯爵親子の捕縛から、一ヶ月が経った。
一国の重鎮と言われた貴族が没落しようと、彼らに戦闘用奴隷のように扱われていた少女が自由を取り戻そうと、世界は変わらず動き続けている。
毎日どこかで呪詛が発動しているし、そのために泣く者も、それを破却するために戦う者も、立ち止まっていることは許されない。
ただあの日以来、バルドメロ王国の呪詛対策機関に、水使いは姿を現さなくなった。
養父であった伯爵がさまざまな罪を犯していたことが発覚した際、水使い本人にはなんの罪もないことは証明されていたものの、その名を利用されていたことは間違いない。
そのため謹慎処分という名目で、少しの間世間から離れて休養しているように、というのが国王からの通達だった。
(セシリアがブラッドリーと養子縁組したことと、ブラッドリーの屋敷で暮らしはじめたことは聞いているんだが……。まさか、ベッドを買うのが面倒で、ボロい借家で寝袋生活してたとかな! ブラッドリーがめちゃくちゃ説教したらしいが、オレからもひとこと言ってやりたかったわ!)
長い間まっとうな生活から離れていたあの少女は、公爵家の三男さまの養女となったことで、せいぜいふかふかのベッドで寝ていればいいのだ。
そんなことを考えながら、いつも通り呪詛対策機関本部に入ったレオナルドは、何やら辺りの空気がざわついていることに気が付いた。
(なんだあ……?)
不思議に思いながら待機スペースへ続く二階の通路を進んでいると、途中にある談話スペースで大勢の魔導兵士が窓辺に張り付き、何やら興奮気味に語り合っている。男女問わず、みな見事な筋肉をした者たちばかりなので、見た目が大変暑苦しい。
レオナルドはマッチョな方々に対して心から崇拝の念を抱いているが、マッチョが集団となったときに暑苦しさを感じるのは、ヒトとしてごく普通の反応なのである。
その窓から見えるのは、談話スペースから螺旋階段で直接出ることもできる中庭だ。さまざまな植物が植えられたそこには、休憩用の椅子や丸テーブルがいくつも置いてあり、天気のいい日には食堂からテイクアウトしてきた昼食を摂ることもできるようになっている。
何か珍しい鳥でも来ているのだろうか、と立派な筋肉――もとい、人々の隙間から軽い気持ちで外を窺ったレオナルドは、その直後、びしりと固まった。
(は……?)
美しく整えられた中庭で、クローディアとコンラッドが楽しげに語り合っているのは、よくあることだ。
しかし、彼らと同じテーブルについているのが、黒髪に青い瞳の水使いで――しかも、その顔に刻まれていたはずの呪詛の爪痕がなくなっているというのは、どういうことか。
自分でもわけがわからなくなるほど動揺したレオナルドは、窓辺に鈴なりになっている仲間たちを勢いよく跳び越え、そのまま外に飛び出していた。
風を操り、ふわりと着地するなり、驚いた顔をしている三人にずかずかと近づく。
「ごきげんよう、レオナルド。ご覧になってくださいな。ギルさまの――」
すぐに淑女らしい挨拶をしてきたクローディアを無視し、きょとんと目を丸くしている水使いの顎を掴んで持ち上げる。
間近で確認してみても、やはり呪詛の爪痕は見当たらない。
「おまえ……っ! いつの間に、エサイアスを破却したんだ!?」
いかにも柔らかそうな白い肌は、ただひたすらに滑らかで美しい。
それはとても喜ばしいことであるはずなのに、自分の知らないところで彼女が両親の仇と戦っていたのかと思うと、引き絞られるように胸が痛んだ。
怪我は、していないのか。
またあのおぞましい呪詛に、心を傷つけられてはいないのか。
心配で心配で、そして肝心なときにそばにいてやれなかった自分が、吐き気がするほど情けなくて――。
「いや。まだ、エサイアスは破却していないが」
「………………は?」
聞き慣れた、けれど随分久し振りに感じる『ギル』の声。
再び固まったレオナルドに、この国の水使いは淡々と告げた。
「なるほど、この至近距離で見てもわからないか。いや、ブラッドリーが手配してくれた、超薄型の医療用保護シートとパウダーの性能を、クローディアたちにも見てもらっていたんだ。驚かせてしまったようで、すまない」
(い……医療用保護シートと、パウダー?)
改めて水使いの顔をじっくり見てみても、そんなものの存在はまるでわからない。
それでも、つい意地になって探していると、小さな笑い声が聞こえてきた。
「子どものようなやつだな。そんなに気になるなら、触って確認してみたらどうだ? さすがに、感触はかなり違うぞ」
柔らかく目を細め、穏やかな笑みを浮かべる少女の吐息が、唇に触れる。
――至高の宝玉のような、青い瞳。ふっくらとした薔薇色の愛らしい唇。つくりものめいて美しい、けれど甘いぬくもりを感じさせる小さな顔が、吐息の触れ合う距離にある。
その事実を認識して、三秒後。
「~~~~~~っっっ!?」
声もなく背後に飛び退いたレオナルドは、真っ赤になって水使いの少女から目を逸らした。
不思議そうに小首を傾げた彼女が、クローディアに言う。
「この保護シートとパウダーは、たしかにすごいものなんだろうが……。ここまで驚かれるとは思わなかったな」
「そ……そう、ですわね……っ」
ぷるぷると肩を震わせ、なかなか言葉を返せずにいるクローディアの代わりに、コンラッドが柔らかな声で口を開く。
「ああ。ブラッドリーには、レオナルドの反応も含めて、素晴らしい評価だったと報告するといい。きっと、とても喜んでくれるよ」
「そうか。お父さまが喜んでくれたら、おれも嬉しい」
にこにこ、ふわふわ。
呪詛の爪痕のない、つまりは大変可愛らしい少女にしか見えない姿で、以前の無表情からは想像もできない、穏やかな笑みを浮かべている。
レオナルドは、戦慄した。
(なんっっっだ、この可愛いイキモノ!? こんなもの、人前に出したらダメだろう!? 攫われる誘拐される危なすぎる!!)
動揺のあまり、レオナルドが他人に聞かれたら『ばかなの?』と真顔で問われるに違いないことを考えている間にも、少女はコンラッドと楽しげに語り合っている。
「おれはしばらくの間、前線には出してもらえないそうなんだ。その代わりと言ったらなんだが、おれの魔力を通した水を、ここの装備品とする案が出ているらしい」
「そうなのか。それは、とても助かるな」
顔立ちこそまるで似たところはないけれど、同じ黒髪のふたりがそうしていると、まるで仲のよい兄妹のようだ。
そう思ったのはレオナルドだけではなかったようで、クローディアがほほえましいものを見る目をふたりに向けた。
「ねえ、ギルさま。そうしてコンラッドと並んでいらっしゃると、なんだか彼があなたのお兄さまのように見えて参りましたわ」
「……そう、だろうか?」
困惑した様子で首を傾げた彼女は、それまでより小さな声で言う。
「コンラッドの髪と瞳は、姉さんとよく似ているから……。少し、ほっとするんだ」
そのとき目を丸くしたのは、少女以外の全員だ。
コンラッドとはじめて会ったとき、彼女はひどく怯えていた。
てっきり、幼い頃の彼女を虐待した人間が、コンラッドと似た姿をしていたのかと思ったのだが――。
「あら……そうなんですの? てっきり、ギルさまはコンラッドの姿が苦手なのかと……」
「え? あ、いや。違う。そうじゃない。その……あのときは、レノックス伯爵が、姉さんまでおれと同じように、呪詛と戦わせようとしてるのかと混乱して。……すまなかった」
慌ただしく弁明したあと、しょんぼりと肩を落とした少女の頭を、コンラッドが優しく撫でる。
「謝らなくていい。……しかし、そうか。きみが俺の姿に怯えているわけではないとわかって、安心したよ」
「……うん」
まるで幼い子どものように答えた少女の睫毛が、ふっと落ちた。
そのまま、唐突に意識を失った彼女の体を、コンラッドが慌てて支える。
「ギ、ギル? どうした?」
「ギル!?」
レオナルドも慌てて駆け寄ったが、聞こえてきたのはゆっくりと静かな呼吸音。
どうやら、眠っているだけらしい。
いったいなんなんだ、と男たちが唖然としていると、クローディアが小さく息を吐いた。
「おふたりとも、落ち着いてくださいな。今のギルさまには、よくあることですの。ここでしたら、ブラッドリーさまのお屋敷よりも気を張っているから大丈夫だろうと、ご本人はおっしゃっていたのですけれど……」
苦笑を浮かべ、クローディアは少女の頬を軽くつつく。
「お姉さまに似ているというコンラッドのせいで、気が抜けてしまったのかしら。本当に、お可愛らしいこと」
コンラッドが、へにょりと眉を下げる。
「すまない、クローディア。説明してくれ――って、レオ?」
「……あれ?」
彼の肩にもたれて眠っている少女を抱き上げたのは、無意識だった。
自分でも驚いてコンラッドと顔を見合わせていると、クローディアが声を立てて笑い出す。
「もう! いやですわ、レオナルド! まったく、わかりやすいにもほどがありましてよ!」
「え……え?」
レオナルドが戸惑っている間にも、コンラッドまで「あー……」と生温かい笑みを向けてくる。なんだか、ものすごく居心地が悪い。
「まあ、うん。ギルはおまえが抱えたままでいいから、そこに座れ」
「……おう」
コンラッドに指示されるまま椅子に腰掛けると、クローディアがにこにこと笑いながら、小さな声で口を開く。
「わたくしは今まで何度も、ブラッドリーさまのお屋敷で静養されているギルさまをお訪ねしていたのですけれど。さすがに、女性の寝室までコンラッドに同行してもらうわけには参りませんし、いつも部屋の外で待ってもらっていたのですわ」
「へえ、そうだったのか」
クローディアがセシリアのことをよく見舞っていたのは知っていたが、てっきりコンラッドも同席していたのだとばかり思っていた。
「ええ。はじめの頃は……そうですわね、一週間くらいの間は、ギルさまはしょっちゅう泣いていらっしゃいました」
「はあ!?」
途端に気色ばんだレオナルドに、クローディアが慌てて片手を上げる。
「いえ、ギルさまが泣くほど辛いことがあった、ということではありませんの。ご本人も、とても困っていらして……。ブラッドリーさまは、ずっと抑えこんでいた感情の動きに、体のほうが上手く対応できていないのだろう、とおっしゃっていましたわ」
そう言って、クローディアは首を傾げた。
「そうですわね。その頃のギルさまは、紅茶を美味しいと感じられた、ですとか、私がお見舞いに差し上げた花束がきれいだった、という理由でも泣いていらっしゃいました」
「マジか……?」
「それは、また……」
目を丸くする男たちに、クローディアは頷く。
「こう……なんの前触れもなく、ぽろぽろと涙が溢れていらして。私もはじめはとても驚いてしまったのですけれど、半月も経つ頃にはそんなこともなくなっていましたわね」
そうやって泣くことを繰り返す中で、セシリアの中で何かの整理がついていったのだろうか。
いつしか彼女は、嬉しければ笑う、困ったときには顔を曇らせる、ということを、ごく自然にするようになっていたという。
ブラッドリーにもよく懐き、『お父さま』と呼んで無邪気に笑う彼女は、年相応――否、それよりもずっと小さな子どものようで。
「もしかしたら、なのですけれど……。今のギルさまは、ご両親を亡くされた十一歳の頃から、少しずつやり直していらっしゃるような状態なのかもしれません」
レオナルドは、思わず腕の中で眠る少女を見下ろした。
無防備なその姿は、とても以前の『ギル』と同一人物とは思えない。
それでもきっと、彼女の中から『ギル・レノックス』が消えることはないだろう。
あの冷たい孤独の中で、誰にも頼ることができずにひとり苦しんでいた子どもが、いなかったことにはならないのだ。
「そんな不安定な状態だから、でしょうか。今のギルさまは、泣かれることこそなくなったのですけれど、感情が大きく動かされるようなことがあると、今のように突然眠られてしまうことがございますの」
ずっと、すべての感情を押し殺してこなければ生きていられなかった、小さな子ども。
それが解放されても、正しく成長する機会を奪われ、いまだ幼いままの脆い心は、あまり大きな刺激には耐えられない。
こうして強制的な眠りに落ちるのは、おそらくそんな心を守るための自己防衛反応なのだろう。
レオナルドは、そっと息を吐く。
「まあ……今はコイツの体が、そうしたいって言ってるんだろ。だったら、そうさせてやるしかねェだろう。こっちに来るのは、もう少し先にさせたほうがいいんじゃねェの」
「……ええ。ただ、ブラッドリーさまがお仕事でこちらにいらしている間、ギルさまはお屋敷におひとりになってしまいますでしょう? ギルさまは、それがどうにも落ち着かないのですって。ですから、わたくしとコンラッドがおそばについているのを条件に、こちらへ来る許可をブラッドリーさまから頂いたのですわ」
その瞬間、ものすごくイラッとした。
セシリアの保護者役が、なぜこのふたりでなければならないのか。
自分だって――。
(……イヤ、それは無理だろう! 何考えてんだオレ!)
基本的に実戦投入されることのないクローディアと、いつ最前線に突っこまれるかわからないレオナルドでは、待機任務中の自由度が違い過ぎる。
考えるまでもなく、セシリアの保護者役に相応しいのは、彼女のほうだ。
頭ではそうわかっているのに、やっぱりイライラする。
レオナルドが悶々としていると、クローディアがふふっと笑った。
「それにしても、ブラッドリーさまったら……。先日、ギルさまが眠ってしまわれたときに、真顔で何をおっしゃるかと思いましたらね? ――僕の子が可愛すぎて困る、ですって! きっと今のあの方は、ギルさまのわがままならなんだって聞いてしまいますわね!」
「……マジかよ」
たしかに、今のセシリアは可愛い。問答無用で可愛い。ちょっと目を離したら、誰かに誘拐されそうで不安になるくらいに可愛い。本当に、とてもとても可愛いのだが――なぜだろう。
(ブラッドリーが、コイツを本気で娘として可愛がってるっていうのが……。よくわかんねェけど、ものすごく最悪な厄介ごとのような感じがする……)
ぼんやりとそんなことを考えていたレオナルドは、ふと腕の中ですよすよと眠っている少女を見た。
今は呪詛の爪痕も見えない、ただ愛らしいばかりの小さな顔と、柔らかく華奢な体を改めて認識した途端、ざぁっと青ざめる。
(あああぁああああっっ!! だからなんでこの顔を殴れたんだ、昔のオレー!? いや、今更謝罪したところで、本当に今更だってことはもう充分理解しているんだが!)
キャロラインの教育的指導は、一度受ければそう忘れられるものではない。
しかし叶うことなら、ちょっと時間を巻き戻して過去をなかったことにするか、それがダメならせめてセシリアに、自分をフルスイングで殴るくらいはしてもらえないだろうか。
虚ろな目をしてどこか遠くを見はじめたレオナルドに、コンラッドがどん引きした様子で問うてくる。
「レ……レオ? どうしたんだ?」
「……知ってるか? コンラッド。大陸の東のほうには、謝罪の意を示すために、自分で自分の腹をかっさばく風習があるらしいぞ」
聞きかじりの知識を披露すると、束の間沈黙が落ちた。
クローディアが、やけに平坦な口調で言う。
「迷惑ですわね」
「……ソウデスネ」
レオナルドとて、好んで自分の内臓を人前でぶちまけたいわけではない。
ただあの日以来、自分の脳が隙あらば『誠実な謝罪の方法』を検索してしまうだけである。
(なんだかなぁ……)
セシリアが望んでいない謝罪を、今更押しつけるつもりもないというのに、なぜだろう。
残念ながら、レオナルドがこの無意味な思考の連鎖から逃れられる日は、まだまだ訪れそうにないのであった。




