後悔と自己嫌悪
血塗れのレノックス伯爵親子が、役人たちの手で貴人牢に収監されていくのを見届けて、レオナルドはようやく張り詰めていた意識が緩むのを感じた。
――セシリアが十五歳の少女だとわかってから、丸一日。
今ここにいる者たちは元より、関係者のほとんどが一睡もせずに走り回っていたのだ。
それでも、いまだ興奮状態が続いているのか、まるで眠気がやってこない。
国王が、やれやれと顎を撫でながら口を開く。
「あやつらの処分は、司法担当の者らに任せるとして……。水使いの少女が十五歳であったとなると、今後は彼女の後見の座を巡って大層な騒ぎに――ん? なんだ、ブラッドリー。まだ何かあったか?」
どうやらブラッドリーから国王に、再び直通回線での通信が入ったようだ。
仲のいいことだな、と感心しつつ、周囲にも聞こえるようにされたブラッドリーの声を聞く。
『ああ、うん。セシリアが僕の娘になることになったから、伝えておこうと思ってね』
(………………はい?)
どこか楽しげに語られた言葉を、咄嗟に理解し損ねる。
国王もひどく驚いた素振りをしたが、少し考えるようにしてからブラッドリーに問う。
「ふむ。彼女の同意は、得ているのであろうな?」
『もちろんだよ。今のセシリアを適当な貴族に預けても、よけいなストレスまみれになるだけだろう。その点、僕はこの子の事情を概ね知っているし、もちろん水使いであることを利用しようなんて気はサラサラない。主治医として、傷跡の治療もしっかり診てやれる』
ブラッドリーの語る言葉だけ聞いていれば、たしかに彼がセシリアの養父となることには、メリットが多いようにも思える。
しかし、なぜだろう。
ものすごく――本当にものすごく、イヤな予感がするのだ。
(えー……。ブラッドリーって、医者としてはそりゃあとんでもなく優秀だが、人格はそこはかとなくただれてるよな? 口は悪いし、自分が優秀なことをしっかり自覚したうえでの上から目線で敵を作りまくるし、『能力とは、常に努力の結果だ。努力をしない無能に、生きる価値はない』とか真顔で言っちゃうし。そんなブラッドリーが、セシリアの養父……?)
考えれば考えるほど、不安しかない。
しかし、ブラッドリーの様子からしてすでにセシリアの同意は得ているようだし、国王もそれを認めているようだ。
呆然とするレオナルドの隣で、ユージィンが楽しげに笑い出す。
「なるほど、そう来たか。よかったなー、レオ。あの子が遠方の――それこそ、辺境伯の養女にでもなってたら、最悪向こうが成人するまで会えなくなってたぞ」
「え? あー……。そうか。そうだな……」
言われてみれば、たしかにその通りだ。
セシリアがいまだ十五歳の少女である以上、彼女が水使いとしてこの国で生きていくうえで、しっかりとした保護者の存在は欠かせない。
だが、もしその保護者が王都から遠く離れた領地を持つ貴族であったなら、セシリアは心身をしっかり休めるためにも、しばらくの間領地から出てくることはなかっただろう。
空気のきれいな穏やかな土地で、誰からも何も強制されることなく、静かな暮らしを営む中で、少しずつ心と体の傷を癒していく――。
そんな未来も、あったかもしれないのだ。
「もしそうなってたら、俺らのことなんてすぐに忘れてたかも知れねーなあ」
「……っ」
ため息交じりに語られた言葉に、咄嗟に「イヤだ」と強く思った。
焦燥と、苛立ち。
自分の手の届かない場所に、あの少女が行ってしまうだなんて。
彼女が、自分のことを忘れてしまうだなんて。
許せない。
そんなことになるくらいなら――。
(……いや、何考えてんだオレ)
軽く頭を振って、意味不明な思考を振り払う。
そこで、ブラッドリーとの通信を切った国王が口を開いた。
「ふむ。ブラッドリーがセシリア嬢の養父となるなら、まず考えなくてはならないのは、彼女の姉君のことだな。エレイン嬢、といったか。姉君に自分のことを知られたくない、という彼女の気持ちを、第一に尊重するとして……。そうなると、レノックス伯爵親子の悪行も、そのまま公表するわけにもいくまいな」
たしかに、事実をそのまま公表してしまえば、セシリアの姉――エレインが『レノックス伯爵家が抱えていた、十五歳の水使いの少女』の素性に気がついてしまうかもしれない。
キャロラインが、小さく苦笑する。
「マスターの血縁、それも唯一の血縁であるとなれば、エレイン嬢にはその事実を利用しようとする者たちが、蜜にたかる蟻のように近づいてくるでしょう。おそらくそれは、セシリア嬢が最も望まないことです」
「そうであろうな。何よりエレイン嬢自身が、『水使いの身内』であるという事実に目がくらんでしまう可能性もある」
国王の言葉に、沈黙が落ちた。
――セシリアの姉のエレインは、妹が彼女のために命がけで戦ってきたことも、実際に命を捨てようとしたことも知らず、愛する夫と子どもをもうけ、幸せな人生を生きている。
夫は妻子のため誠実に勤勉に働いており、いまだ二十代の青年ながら職場でもその能力を認められ、平均よりも遙かに多くの年収を得ている。
充分以上に、恵まれた人生。
セシリアが命をかけて守ろうとしたもの。
それでも、『水使いの身内』であるという事実は、それだけで彼女の夫の年収よりも遙かに巨額の富を、黙っていても運んでくる。
これまでの歴史でも、平民階級の家庭にマスターが生まれた場合、悲惨な結果になることが多かった。
欲に目がくらんだ家族が、マスターを金蔓としか見られなくなり、周囲に唆されるまま無理難題を押しつけようとするだけならば、まだマシなほうだ。中には、マスターの身内であることを詐欺の看板に掲げ、多くの被害者を出した者さえいる。
結局のところ、そういった駆け引きと無縁に生きてきた平民階級の者たちに、マスターという存在は重すぎるのだ。
よくも悪くも、マスターたちには利用価値があり過ぎる。
ひとつ息を吐いた国王が、軽く顎を撫でながら言う。
「いずれにせよ、レノックス伯爵家の抱えていた水使いが、十五歳の少女であったことを公表すれば、エレイン嬢に彼女の素性を気付かれかねん。ひとまずレノックス伯爵親子については、今までに確保してきた不正の証拠をもって糾弾しておくとしよう。彼らに利用されていた水使いは、心労のためしばらくの間休養を取る、ということにでもしておけばよかろう」
レオナルドは、思わず国王を振り返った。
王宮側が、レノックス伯爵家の不正の証拠をすでに固めていたことについて、さほど驚きはない。あれほど派手に、第一王子によけいな手出しをしていたのだ。彼らを排除するため、密かに動いていたのも当然だ。
しかし、この国王の言いようでは――。
「陛下。それは当面の間、セシリア嬢の扱いを十八歳の男性のままにしておく、という意味でございますか?」
キャロラインの問いかけに、国王はあっさりと頷いた。
「うむ。もちろん、私的な場では彼女の好きなように振る舞ってもらって構わんよ。ただ、あまりにも急激に環境が変わるのは、本人にとっても負担になろう。今の彼女にとって、最も近しい人間が揃っているのは、呪詛対策機関であろうからな。これまで通り、自由に出入りしてもらうためには、そうしておいたほうが面倒がなかろう」
国王は、穏やかな口調で続けて言った。
「事実を隠すことの責は、私が負う。いずれ公表することになったとき、彼女に責めがいくようなことには、断じてせぬよ。ただ、何よりも今は時間が必要だ。セシリア嬢が、自身がいまだ十五歳の子どもであり、周囲から守られるべき存在であることを、きちんと自覚するための時間がな」
なるほど、とキャロラインが頷く。
「つまり我々は、セシリア嬢の素性を知る者として、彼女を全力で、心ゆくまで甘やかしまくればよい、ということですね?」
(は?)
レオナルドは思わず目を瞠り、ユージィンは小さく吹き出した。
「なるほど。そりゃあ、クローディアが張り切りそうだな!」
「うむ。少しずつ周囲の状況を理解して、それでもセシリア嬢が姉との交流を拒むのであれば、それはそれでよかろうよ。だが、将来その気持ちが変わることがあったときのために、選択の余地は残しておくべきであろう」
国王の力をもってすれば、レノックス伯爵家が作り上げた『ギル・レノックス』とはまるで違う、完璧な『水使いの少女』の経歴を作り上げることも可能だろう。
それこそ、エレイン・マクニールという女性とは一切関わりのない、まったくの赤の他人としての人生を、国王ならば彼女に与えることができる。
けれど、一度そうしてしまえば、決して後戻りできなくなる。
いつかセシリアが自分の置かれた状況を正しく理解して、そのうえで姉に会いたいと望んだとしても、妹と名乗ることは叶わなくなってしまうのだ。
(時間が必要、か……)
たしかに、その通りなのだろう。
そしてそれはきっと、セシリアだけに当てはまることではない。レオナルド自身、彼女が一つ年下の青年ではなく、四歳も年下の少女であることに慣れるまで、随分時間が掛かりそうなのだから。
しかし、そんなレオナルドとは裏腹に、ユージィンとキャロラインは何やらものすごく楽しそうだ。
「アイツ最近、クローディアが作ったフルーツジュースなら、普通に飲めるようになってるらしいからなー。ブラッドリーにアイツの食生活改善プラン作らせて、全員で共有しておこうぜ」
「そうだな。今後のセシリア嬢の私服については、クローディアと相談しておくか。何しろブラッドリーは、着替えるのが面倒だったという理由で、白衣の下に寝間着を着ていたような男だからな……。そんな男に、年頃の少女の装いを任せてたまるものか」
額に青筋を立てたキャロラインに、ユージィンがマジかよ、と笑う。
「まさか、今もそうなのか?」
「それこそ、まさかな。私に報告が上がった時点で、社会人としての正しいあり方を小一時間かけて説教してやったとも」
……上司とその部下という以前に、キャロラインの立場はブラッドリーよりも遙かに上であったらしい。
ふたりのノリに参加し損ねてしまったレオナルドは、ぼんやりとこれからのことを考えはじめ――そして頭を抱え、勢いよくその場にしゃがみこんだ。
そんな彼に驚いたのだろう国王が、戸惑った声で問いかけてくる。
「……ど、どうしたのだ? レオナルド」
レオナルドは、顔を上げることもできずにぼそぼそと答えた。
「………………スミマセン。今まで目を逸らしていた現実を突然思い出しまして、猛烈な自己嫌悪に襲われているだけです」
「うむ。さっぱりわからん、事情を話せ」
なんということであろうか。
思いきり挙動不審な行動をしたばかりに、国王命令を食らってしまった。
こうなっては拒否することもできず、レオナルドは歯切れ悪く口を開く。
「あの……ですね。セシリアが、男だと思っていた頃のことではあるんですが。思いきり、彼女の顔を殴ったことがありまして」
沈黙が、落ちた。
ユージィンの気配が、動揺に激しく揺らぐ。
「いえ、男だから殴っていいとか、そういう話でもないことは、充分わかっているのですけれど。……その、さすがに……十五歳の女の子だとわかっていれば、絶対に殴ることはなかったわけで。本当に、どう謝罪したものかと……」
どんよりと床に沈み込んでいきそうなレオナルドに、キャロラインが呆れかえった声で言う。
「は? おまえは何をバカなことを言っているんだ。そんな昔のことなど、セシリア嬢もとうに忘れているだろうよ。今更詫びられたところで、意味がわからんと首を傾げられるのがせいぜいだ。おまえの鬱陶しくも後ろ向きな自己満足に、これから未来を見ようとしている彼女を巻きこむな」
「………………ハイ」
すさまじい鋭さの正論パンチに、レオナルドだけでなく国王やユージィンまで素直に頷く。
「年頃の少女を殴ったことに対する後悔と自己嫌悪を解消したいのならば、ひとりでいるときに存分に叫んでのたうちまわれ。そうすれば、誰にも迷惑が掛かることはないからな」
「………………了解デス」
その日レオナルドは、『謝罪というものは、相手が求めていなければただの鬱陶しい自己満足です』という切ない真実を、骨身に染みて理解することになったのだった。




